電子書籍
アニメと情報量
2015/08/17 16:29
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投稿者:ハナタレ - この投稿者のレビュー一覧を見る
川上氏がスタジオジブリにプロデューサー見習いとして入り、現場で耳にした「情報量」に着目してコンテンツやアニメの情報量(画面の情報)などスタジオジブリで経験したモノをまとめた書籍である。
本書でも登場した庵野秀明氏と川上氏が2015年4月25日にニコニコ超会議の超言論エリアで『アニメの「情報量」とは何か』と題して対談されているので本書と合わせて観ていただきたい。
ニコニコ生放送で放送されたためタイムシフトで視聴可能です。
電子書籍
コンテンツをどう定義するか
2015/07/01 16:14
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投稿者:みるお - この投稿者のレビュー一覧を見る
ジブリの方々のコンテンツへの考え方というより、川上氏がコンテンツというもの自体をどう定義するかという点。定義する上での思考の過程が興味深く垣間見えた。
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常識にとらわれない言動の印象が強い著者であったが、本書は極めてまじめに誠実にクリエイティブ、クリエーター、コンテンツに関しての論考を積み重ねている。
どの考え方も非常に論理的でややもすると直感で説明してしまいがちなクリエイティビティを言語化することに成功している。
コンテンツの客観的情報量と主観的情報量の対象に及ぼす影響という考察がシンプルながらも印象に残った。
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ニコニコ動画を運営する株式会社ドワンゴの社長、川上量生のコンテンツ論。
各章における共通するテーマは、顧客の目にコンテンツはどう映るか? というものだ。例えば、宮崎駿の描く「気持ちのいい絵」、脳が描き出す「最も平均的な美男・美女」の話、ドワンゴの配信した「音割れする人気着信音」などなど。結論から言えば、顧客が注目して見ているものは「現実若しくは写実」とやや乖離しているのだ。写実的な映像とは異なる宮崎駿の描くアニメや、音割れしている劣悪な筈の着信音など、本来「良質」とされそうなものが大衆から最高の評価を得られるとは限らないのだ。逆に言えば、どこまでもリアルであったり、科学的に良質であったりするよりも、人間の脳に歩み寄ったコンテンツこそが最良であると結論づけられる。これが事実だとすれば衝撃的な事実だ。我々が普段評価しているものは、論理的に分析すれば齟齬があったり、粗悪だったりするかも知れないのだ。その齟齬や粗悪こそがポイントであり、人間の脳は受容器官の性能上、それらを「良」と判断してしまう。言わば直接脳内に訴えかけるコンテンツとなるのだ。
大学の講義で、「リアリティとは創り手が意図的に創り出しているものに過ぎない」と習ったことを思い出す。我々が映像作品を見て感じる「リアル」という感覚は意図的に演出されたものが多く、逆に「現実そのもの」の描写は様々な理由で視聴に耐え得るものではないのだと言う。だとすれば、コンテンツに本当に必要なものは、「現実・写実に則った映像」ではなく、「人間の脳内に直接訴えかける映像」なのかも知れない。
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川上さんをフォローしていると本書籍関連のリツイートが多数あり、思惑通り買ってしまった。ジブリの見習いプロデューサーとして2年間働いた経験から見聞きした関係者(主に鈴木さん)の証言を川上さんの目線で考察した内容。ジブリを語った鈴木さんの本をみたこともあるけれど、その鈴木さんを更に客観的に語ったこの本のほうがよくわかった。
非常に気軽に読め、コンテンツに関して色々な視点で考察してあり面白かった。個人的には「コンテンツの多様性を守るためには激しい競争をしてはいけない」など。
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コンテンツの情報量とは何か〜クリエイターは何をアウトプットしてるのか?コンテンツのパターンとは何か、オリジナリティーとは何かなど、結構でかいテーマを扱っているにも関わらず、内容が粗くない。なるほどと思わせる内容の数々。面白かった。
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こんなにロジカルに「コンテンツ」そしてそれを生み出す「クリエーター」という事象についてつっこんだ議論があったのかと、震えるぐらい勉強になる一冊。
大事なところに赤線ひいてたら、本真っ赤になっちまったが、特に注目すべきは、
(1)ヴィジョンとしての情報量がクリエーターのてによって、コンテンツとして表現されることで
(2)客観的情報量に変わる。そしてそれがユーザーにとっての
(3)主観的情報として認識され、同時に摂取可能な情報量だけがユーザーに読み込まれる。
と表現した、コンテンツ生成からそれが摂取されるまでの過程を論理的にあきらかにした点。
スッキリ感とまらない。
感動してばっかじゃなくて、ちゃんと自分のアイデアつくりにいかさねば。
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コンテンツとは、を論理立てて説明した本。
クリエイターのビジョンとは、なるほどと思いました。
各章に結論が書かれており、結論もシンプルにまとまってましたが、全体的に私には読みにくかったです。概念の話のせいというのと、きれいにさらっと書かれている感じがするからでしょうか。
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つまり、宮崎作品が世界で認められているのは、正確に人間の脳と視覚構造が認識しやすい形で描いているから、つまり、描いているものが脳に気持ちいいから。これが鈴木さんの説明です。
この鈴木さんの説を、別の場所で、庵野監督に対して話してみました。そうすると、庵野監督の感想がまたおもしろかったのです。
「じゃあ、なぜ宮さんは脳に気持ちいい形を正確に描けるのか? 宮さんはおそらく目が見たとおりをそのまま描いているだけだと思います。つまり脳が認識して、受け取った情報のまま、紙に写しているので、それが結果的に脳が理解しやすい形になるというのが宮崎駿の秘密だと思います」
つまり脳が認識しやすい絵を描いているわけじゃないというのです。ふつうの人は脳が認識したとおりには絵を描けない。それが無意識にできてしまうのが、宮崎駿の才能だというのです。
庵野監督によると、脳にとっての最高の写実主義をやってのけているのが宮崎駿だということになるのです。
「芸術は誇張である」という、よく聞く表現があります。しかし、「芸術は(現実の)誇張」というのではなく、「芸術は脳のなかのイメージの模倣」であり、脳のなかのイメージとは特徴の組み合わせなので、結果的に誇張になっているだけである。こういう解釈のほうがしっくりくるのではないでしょうか。
人間は現実世界のイメージを脳のなかに持っています。それは現実世界の情報をそのままコピーしているではなく、特徴だけを抽出して組み合わせてイメージをつくっているのです。
コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけだして再現する人なのです。でも、脳のなかからそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。
それこそが創作の苦しみであり、苦しみのなかで脳内から発見した「世界の特徴」こそがコンテンツの真理であり神秘ではないか、芸術を生み出した人間が目指したものではないか。そう思ったのです。
そう、ぼくたちはよく物事の本質とはなにかと問いますが、物事を記号化して少ない情報量で表現したものがその正体でしょう。なぜ本質が必要かというと、脳は単純な情報しか扱えないからだと思います。
それが本質の〝本質〟ではないでしょうか。
脳は本質であるところの単純な情報を組み合わせたイメージで世界を理解しています。
このように単純化して世界を理解しているからこそ、より単純化された似顔絵や略画、縁と定規を使って描いた波に、本物よりも本物らしさ=本質を感じるという性質が人間にはあるのじゃないでしょうか。
この章では「コンテンツの本質とは現実の模倣である」という仮定から始まって、そうではなく「コンテンツの本質とは、現実世界を特徴だけで単純化してコピーした脳のなかのイメージの再現である」という結論に行き着きました。
そして、現実世界のあるものごとを反映した脳のなかのイメージとは、人生における経験のなかで作られるのだろうということを示しました。
その脳のなかのイメージが、美味しい料理や美男美女のような現実には存在しない理���的な概念の正体だろうとぼくは考えています。
ぼくが思うに、クリエイターが創作で苦しむ原因は、生活苦とか世間の無理解とかは別にすると、次の三つだけです。
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
逆に言うと、この三点を回避すればクリエイターは創作の苦しみから解放されると言えるでしょう。
とはいえ、この三点を回避すると、きっと平凡なクリエイターとして競争力を失ってしまうような気もします。
いくら無料だといっても小説の作者も手間をかけて書くのだから、たくさんのユーザーに読んでもらいたい。そうすると、ユーザーの望む小説を書こうとするのです。
でも、一般にユーザーが望むコンテンツのパターンというのは、実は少ないのです。ユーザーの欲望に忠実であろうとすればするほど、できあがるコンテンツは画一化してしまいます。UGCサイトではユーザーが無料でたくさんコンテンツをつくるから、競争の結果質も上がるし、多様性もあるというのは嘘であり、競争をおこなえばおこなうほど多様性は減っていくのです。
コンテンツの多様性を守るためには激しい競争をしてはいけないのです。
激しい競争といえば、お金が儲かるということで、今ものすごい数のコンテンツが作られているソーシャルゲームも、そのほとんどは同じパターンです。ゲームの構造は同じなのですが、キャラクターや舞台設定を変えて、いかにも違った作品のように見せているわけです。いくらコンテンツが増えてもパターンは同じ。コンテンツの世界で競争が起こるとそうなるのです。
人間にとって魅力のあるコンテンツのパターンというのは大方すでに発見されつくしていて、世の中でワンパターンとして蔑まれているものこそ、大昔のクリエイターが探し当てた、人間の心をつかむ本当に正しいコンテンツのパターンなんじゃないか。いまのクリエイターは本当に正しいコンテンツのパターンを使うと真似になってしまうから、それらをあえてズラしたコンテンツを作ろうとしているのではないか。
そういう話を鈴木敏夫さんにしてみたところ、鈴井さんが教えてくれた話があります。
鈴木さん曰く、高畑さんがよく話すことに、ルネサンスとは何だったのかというのがあるのだそうです。
ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例にとると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは単なる女体だったそうです。
以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。これはコンテンツの現状を考え��うえで、示唆に富んでいます。
ちょうど『風立ちぬ』をつくった頃の宮崎さんに、高畑さんはいまの日本のアニメーションはマニエリスムの時代を迎えていると思うと伝えたそうです。宮崎さんは高畑さんの話にいたく感心し、しばらくマニエリスムという言葉を連発していたそうです。
マニエリスムとはマンネリズムの語源となった言葉です。
基本的な表現方法が古典的名作として確立されたあと、それを発展させて、より細部にこだわるのがマニエリスムであり、それはマンネリズムに変化しうる、そう考えると高畑さんの言葉には非常に含蓄があります。
そして『かぐや姫の物語』で高畑さんがやろうとしたことは、マニエリスムからバロックへ移り変わっていく時代のなかで、クラシックの時代へと逆行することで、新しい基本的な表現方法がまだ発見されずに残っていることを示そうとしたとも考えられるでしょう。
高畑さんの示した四つのサイクルは、そのままコンテンツの発展の歴史にも適用できるように思います。
本書の最初のほうで示したコンテンツの定義として、(1)メディア、(2)対象、(3)方法のどれかひとつでも違えば別々のコンテンツである、というものがありました。
(1)のメディアはひとつに固定されているとして、コンテンツとして再現する(2)対象を選らんで、つぎに再現する(3)方法を選ぶわけです。このとき、ひとつの「対象」に対して、コンテンツとして再現する「方法」は複数ありますから、「対象」の数よりも「方法」の数のほうが多いのです。だから、コンテンツのパターンとして最初にやりつくされるのは「対象」になります。
しかし、コンテンツの表現方法がまだ確立していない初期段階においては、再現されていない「対象」もまたたくさんありますので、この時期のコンテンツにとっては「対象」すなわち、なにを表現するかが重要になります。
だんだんと表現方法が確立されていくと、どの「対象」をどういう「方法」でコンテンツとして再現すればいいかのパターンが洗練されていきます。この時期に古典的名作となるコンテンツが誕生します。
次がマニエリスムになりますが、もう、基本的な表現方法はすべて発見されている時代です。そうなると開く率された古典的名作の技法を細部にこだわりながら発展させていくことになります。
マニエリスムのコンテンツはどれも同じじゃないかということになり、最後はごてごてと派手に飾りたてるバロックの時代になります。
そして細部にこだわりごてごてにしていく過程で、最初は意識されていた表現しようとする「対象」はなんだったのかが、いつのまにか忘れ去られてしまう。
高畑さんのいう美術史のサイクルを、この本で説明してきたコンテンツの話として置き換えると、だいたいこんな感じではないでしょうか。
「本当にすごい映画を見たときは、観客はストーリーなんて気にしない」とも言います。よく、ストーリーのつじつまが合ってないことにケチをつける人がいるけど、問題なのはつじつまが合ってないことではなく、映画がおもしろくなかったことなんだそうです。だからこそ、つじつまが合わないことが気になる。そう鈴木さんは断言しました。
「作品を見るときになにを見ればいいか。それはつくった人がなにをやろうとしたのか、それを見ればいい。そして、それが上手くいったのか、上手くいかなかったのか、それだけだ」と鈴木さんはそう言います。
観客の心をいかに動かすか、という観点から考えると、映画は、主人公に感情移入させるようにつくるほうがいいのだそうです。いまの映画のほとんどは、そのようにつくられていると指摘するのは高畑勲監督です。
高畑監督にこういう問いかけをされてことがあります。
「宮さんの『魔女の宅急便』に出てくる女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ飛べるようになったのか。それを、宮崎駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います。
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに疑問は感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです。
作品は作家ひとりではつくれないとするのであれば、プロデューサーなり編集者なりも、作品をつくったひとりと言ってもいいでしょう。
自分の脳の中のヴィジョンをコンテンツとして形にするのがクリエイターということであれば、実際に形にしてるのは監督のヴィジョンではなくプロデューサーのヴィジョンであって、監督はその手伝いをしているというような場合も世の中には多いのです。その場合、プロデユーサーと監督で本当のクリエイターはいったいどちらなのか。その境界はとてもあいまいになります。
高畑勲監督が『かぐや姫の物語』でアカデミー賞にノミネートされ、ロサンジェルスを訪問したときに、現地の取材で、3DCGアニメの利点について語ったことがあります。
ファンタジーのように誰も見たことのない、現いつではない世界を描くとき、観客はこれは現実の世界であるという実感を与える手法として、現実と見まがうごとくリアルな3DCGは有効な手法だったと言える。そのような実に的確な指摘だったのです。
では『かぐや姫の物語』のような、見た目に現実ではないと分かる手描きアニメーションは、どんなことを表現するのに有効なのか。それについて高畑勲監督はこんな説明をしてくれました。現実の世界に存在し、みんなが知っていることを、現いつとは異なって見える手描きアニメーションによって表現することで、それより際立たせることが可能ではないか、そういう仮説のもとにつくっているというのです。
クリエイターの世界とは、傍からはよく分からない感性とセンスでみんなつくっているように見えて、実はすごく論理的な議論が戦わされている場だというのが、ぼくがジブリでの経験で得た結論です���特に優れたクリエイターほど理屈っぽい。理屈でコンテンツをつくっているように見えます。
そんな感想をいろいろなクリエイターの人に話すと、だいたい似たようなことを言われました。
いや、でも、最後は感性だ。そう言うのです。
そもそも、どうもクリエイターは最初はみんな感性でつくるのだそうです。試行錯誤、見よう見まねでつくっているなかで、自分のやっていることに理屈を見つけるのだそうです。
そして感性だけでつくるなは大変なのだそうです。だから、みんな理屈でコンテンツをつくって楽をするのだそうです。
でも、最後はやっぱり感性で判断するしかない、みんな、そう言います。
それは人間の脳のしくみからしてそうなのだと思います。みんないいか悪いかの判断はできても、なぜそうなのかという理由を説明するのはとても難しい。第2章でも説明した、大脳でおこなわれているパターン認識とはそういうものです。
クリエイターには、手が早くてなんでもさっさとつくってしまうタイプの人と、スケジュールも守れず遅いだけじゃなく仕上がりも予測できない人がいます。
手が早いクリエイターとは、パターンを組み合わせることでコンテンツをつくっている人です、パターンを組み合わせるだけだと簡単ですし楽な作業ですから、たくさんの数を一定の作業期間でつくることが可能です。
ヒットする曲のつくり方は分かっているとか、ヒットするゲームの法則を知っているというようなことを発言するクリエイターが時々いますが、そういう人はヒットするコンテンツのパターンをいくつか持っていて、それを組み合わせているのです。
手が早くないクリエイターとはようするに、コンテンツの創作の苦しみに向き合っている人です。第2章の最後で創作の苦しみは次の三つだと書きました。
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
手が早いクリエイターは、ヴィジョンを思い描けないものはつくろうとしませんし、再現するのが難しいと思っているヴィジョンもつくりません。
こういう創作の苦しみに向き合うのはリスクなのです。いくらでも時間を吸い取られる可能性があるのです。そんな努力はしないと割り切れるクリエイターと、努力をせずにはいられないクリエイターがいるのです。
人間の脳は新しいものをつくるのは基本的に苦手ですが、新しいものを見て、良いか悪いかを判断するだけであれば得意です。なので実際には、ランダムに試行錯誤した結果を自分の脳で判断して良いか悪いかを決めているのだと思います。
そうすると、その試行錯誤のプロセスだけを、誰か別の人に委ねるという戦略が生まれます。
最初のアイデアを誰かに考えてもらうのだそうです。自分で試行錯誤するよりも他人に試行錯誤をしてもらったほうが、自分にはつくれないヴィジョンのパーツが手に入りやすい、つまり、インスピレーションが湧いてくるのです。
こういった作品のつくり方は、ぼくが知る限り、かなり一流のクリエイターでも使っている、というよりむしろ、一流のクリエイターほど使っている手法のように思います。��ロからコンテンツを生み出すのは大変なのです。そのきっかけをつくる方法として、他人のアイデアを否定して、使えそうな部分だけを取り込み、自分のヴィジョンを固めていくという作業をおこなっている人はとても多いように見えます。
一見、これは他人のアイデアを利用しているように見える行動です。
しかし、時間軸を広げてクリエイターの人生まで考えると、きっと同じような情報処理を積み重ねるなかで、クリエイターとして成長してきたと考えるべきではないでしょうか。たくさんのコンテンツを消費するなかで、あるものは素晴らしいと思い、あるものは駄作だと思い、ある作品には良い部分も悪い部分もあるというようにして、自分のなかにコンテンツの元になるヴィジョンをつくる能力を成長させてきたのがクリエイターの歴史だと思うのです。
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クリエイターの方たちが『コンテンツ』というものをどう捉えているかが書かれていて、純粋に読みものとして面白いです。
それと同時に、宮崎駿さんがいかにすごいかが伝わる。
宮崎吾朗による「外国の映画製作は天才がいなくても高いクオリティの作品を作るやり方だ」という考察が面白かった。吾郎さんは自分を天才ではないと評していて、その中でがんばっているけれど、それでもやっぱり自分は天才がつくる作品が好きだとこの本を読むと思わされてしまった。
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コンテンツとは現実の模倣=シュミレーションである
映像と音楽の関係に即して見たとおり、主観的情報とは増やせばいいというものでもなく、人間の脳が取り出しやすいようにメリハリをつけることが重要
コンテンツの定義
小さな客観的情報量によって大きな主観的情報を表現したもの
客観的情報量:現実>コンテンツ
主観的情報量:現実<コンテンツ
似顔絵や略画は、現実の人間や動物を模倣しているのではなく、脳のなかにいる人間や動物を模倣している
人間が似顔絵や略画を似ていると思うためには、描かれているもののイメージがあらかじめ脳に植え付けられていることが必要だということを示唆している。だから、見慣れていないものの似顔絵や略画を見せられたとしても、たとえ現実の本物の写真と見比べたとしても、「似ている」とは思えない
コンテンツとは脳のなかのイメージの再現である
コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけ出して再現する人なのです。でも、脳の中からそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。それこそが創作の苦しみであり、苦しみの中で脳内から発見した「世界の特徴」こそがコンテンツの真理であり神秘なのではないか、芸術を生み出した人間が目指したものではないか
北斎は、人間の脳が風景のイメージをつくるとき円や直線や図形の比率が特徴として使われているので、円や直線や図形の比率を使って絵を描くと人間は理解しやすいことを発見したということになるでしょう。そう考えると「世界のひみつ」とはなんのことはない、人間の脳がどれだけはしょって世界を理解しているか、もしくは人間の脳がどれくらいの「ひみつ」だったら理解できるかという能力の限界を示しているとも考えられる
脳のなかで視覚情報は抽象化された少ないデータにどんどん変換されていっている。似顔絵などが成立するのもそれが理由。脳の中では現実の人物と似顔絵は似たデータとして処理されているに違いない
クリエイターとは脳のなかのイメージを再現する人である
クリエイターが創作で悩む原因
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
ビーイングのアーティストがミリオンヒットを連発した理由はいろいろあるが、その秘密のひとつは、曲に比べてボーカルの音量を大きめのバランスに設定したこと
コンテンツとはクリエイターの脳のイメージをユーザーの脳の中に再現するための媒介物である。コンテンツによってユーザーの脳のなかにクリエイターが表現したいことを再現するためには、やはり「分かりやすさ」は決定的に重要になるでしょう。しかも「分かりやすさ」とは、そのユーザーが理解できるコンテンツの特徴の「分かりやすさ」ということになる。より多くのユーザーを対象にしようとすればするほど、コンテンツの基本となる特徴もより単純で「分かりやすいこと」が重要となる。彼らが理解できる範囲の中で、コンテンツのどの��徴を「分かりやすく」強調するかを変えるという視点が必要ではないかと思います
コンテンツのパターンが陳腐化しないための必要条件として、「分かりそうで分からないもの」になっているかどうかというのは、ちょうどいい判断基準になっているのではないか
パターンをいかにずらすか cf. 引っ掛かりがある線を描く(宮﨑駿)、ノイズを入れる(マックス松浦)、悪文(栗本薫)
コンテンツのサイクル
美術の歴史は4つのサイクルの移り変わり(高畑勲)
アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロック
プロップ「昔話の形態学」
昔話の構造31の機能と7つの行動領域
たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高い。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度も繰り返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということにストーリーはなりやすい
作品を見るときにはなにを見ればいいか。それはつくった人がなにをやろうとしたのか、それを見ればいい。そして、それが上手くいったのか、上手くいかなかったのか、それだけだ(宮﨑駿)
映画の構成要素は3つ
①ストーリー ②キャラクター ③世界観
ハリウッドでは、キャラクター、ストーリー、世界観
押井守は、世界観、キャラクター、ストーリー
どんな世界なのか、その説明が終わった時に物語が終わる cf.ブレードランナー、千と千尋の神隠し
映画の構造としては、「この世界はいったい何なんだろう?」という興味で引っ張っていく
人間の脳が現実よりも少ない客観的情報をとおして、現実よりも大きな主観的情報を受け取るための媒介物がコンテンツ
・クリエイター視点:自分の脳のイメージをどれだけ正確にユーザーに向けて再現できたか
・メディア視点:どれだけ効率よく、小さな客観的情報量で大きな主観的情報量を伝えられたか
・ユーザー視点:どれだけたくさんの主観的情報量を伝えられたか
「思い入れの映画」と「思いやりの映画」
感動や号泣を引き起こしやすい「思い入れの映画」、笑いや優しさをもたらす「思いやりの映画」
主人公に思い入れるのではなく、それぞれの登場人物に対して「この人はこういうことを考えているんだろうな」ということを思いやる
人間が好む究極のコンテンツとは、本能である食欲や性欲に結びついたもの cf.グルメ情報やアダルトコンテンツの市場
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたかということに観客は疑問を感じない(魔女の宅急便の一度飛べなくなったキキ)
答えがひとつであるコンテンツの世界で、違う答えを出さなければいけないのがクリエイターの苦しみ
コンテンツの要素である「対象」と「手法」では、「手法」のほうが多様性があるので、クリエイターは最終的には「手法」にこだわること
コンテンツはユーザー側から見た場合には、コンテンツを媒介にユーザーの脳の中に再現されるイメージが、人間の情動と結びついていることが重要であること
優れたコンテンツとはいかにユーザーの情動を揺さぶるかで決まる。しかし、コンテンツは現実社会のシュミレーションであり、教材であるという性質を持っているため、同じものを何度も経験すると「学習済み」ということで、価値が下がってしまう。アダルトコンテンツのように人間の情動を動かすことだけに特化した機能的なコンテンツは、教材としては役に立たないものであるということで、機能性の部分で大きな需要があったとしても、重要なものではないと認識されるのでしょう
オリジナリティとは
・脳のビジョンを再現する能力が技術的に不足しているため、偶然に、なにか違うものができてしまう
・意図的にでたらめな要素を入れてコンテンツを作る
・パッチワーク的に、自分がつくっていない要素をパーツとして利用する結果、自分がつくっていない要素が原因で、奇跡が生まれる
・いままでの自分が知っているパターンを切り貼りして、新しい組み合わせのパターンをつくる
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アルゴリズムはコンテンツを作り出すことができるか、というのが本書のテーマの一つ。人間様だけがコンテンツを「創造」できるというのはもはや幻想に過ぎない。創造的領域までディープラーニングの対象に入った時、人間の価値は一体?
この本には示唆に富む挿話が多い…優れたコンテンツは天才にしかできないが、評価することは容易であると。ハリウッドではプロトタイピングと評価のサイクルを繰り返して品質を高める方法で、天才要らずのシステムを回しているという。この人海戦術からアルゴリズム化までの距離はそう遠くない。
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川上さん自身がはじめにで言っている通り、この本はジブリプロデューサー見習いの卒論という言葉がしっくりくる。
個々の具体的な話は面白いけれど、それを理論化する部分は正直、陳腐で面白味がないなぁと。
いくつか面白い話があったので、メモ。
・UGCのようにコンテンツが膨大な数集まったときに起こるのは、多様化ではなく一極集中。例としてなろうの異世界テンプレや一皮剥ぐと違いのあまりないソシャゲがあがってて、思わずなるほどと思った。
・ビーイング創業者の販売戦略。歌詞の聞き取りやすい声質の歌手を起用し、さらに街頭でもすぐ耳に入るよう歌声の音量をバランス以上に上げていた。
・音はいらないと考えていた宮崎駿監督と、音が8割と考えた庵野監督。キャラよりストーリーより世界観を重視した押井守監督。
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著者がジブリで学んだ「コンテンツ」について書かれている本。
この一冊で「コンテンツ」というものを再定義していきます。
考え方など参考になりました。
(以上、ブログ全文です。)
ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/oda1979/archives/4963937.html
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コンテンツという言葉はよく聞くが、コンテンツとは何なのか。良いコンテンツとは何か、天才とは何なのか。これらがわかりやすく整理されていてとても面白い。コンテンツを芸術作品ととらえると、一部の人は反発するだろうし、たまにこの本で語られる文脈とは違う奇妙な大ヒット作が生まれることもある。それでもコンテンツは現実の模倣であり、人の脳が見ている世界をいかに描くか、という視点は面白い。だから、たくさんの表現パターンが出尽くして、なおかつこれまで誰も見たこともない、そして自分の脳の中にある姿を描こうとするクリエイターは天才であり孤独なんだな、と思った。