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面白かったです。
タイトルの通り、筆者はフィールド言語学者でありながら、ブルシャスキー語が通用するパキスタンの奥地に行くことを億劫に思っています。そんな筆者のエッセイ集ですが、世界に正書法の存在する言語が半分しかないことや、方言と言語の区別は非常に曖昧であることなど、興味深いトピックが出てきます。
個人的には、「フンザ人からパキスタン人へ」という話が好きです。フンザ人は、筆者が10数年追いかけているブルシャスキー語の母語話者で、フンザ谷というパキスタン奥地に住んでいます。筆者は当初、彼らの村的なあたたかさに感動しており、フンザ人自身も1974年までフンザ藩王国に属していたこともあり、下界のパキスタン人と俺たちは違うという強い意識を持っていました。それが、いつの間にかインフラが整備され、観光客も増え、普通のパキスタン人のようにお金大好きになってしまったことを、筆者は嘆いています。
僕個人としては、経済が発展して田舎が商業主義的になってしまうことは、必ずしも悪ではない。都市から来る観光客こそ商業主義や資本主義の恩恵を受けており、田舎の住人にそうであるなと求めることはエゴだと思います。一方で、インターネットの発達もあるとは思いますが、経済発展により景観は一様になり、人々の嗜好やライフスタイルも均一化する流れがあります。我儘だとは思いつつも、すれていない素朴で美しい土地が残って欲しいと願わずにはいられません。
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読了。面白かった。
山間地方であるカティ語では空間を東西南北ではなく「上流・下流」「上・下」「あちら・こちら・中間」「山の向こう、境界の向こう」等で表現するとあったのが面白かった。
私は山の方の出身なのだけれど、子供の頃の日常生活では最寄りの大きな山を基準として山の方を「上」、山じゃない方を「下」と呼んでいた。
(京都の人とかはまた別の感想を持つのだろうか。)
あと同様にカティ語の出会った時の挨拶の相手が「男から女か」「単数か複数か」、来た場所が「近くか遠くか」「麓の方か頂の方か」からによっていちいち挨拶が変わるというのも面白かった。
言語は話者の関心事がモロに出るんだなあ…とホワワとした。
メモ:
カティ語を話すカタ人はパキスタンの「カラーシャ人の住んでいる谷の奥(アフガニスタンに近いほう)」に住んでいる。
あとで調べる:
「ピジン」
「クレオール」
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一度ご縁があって研究についての講演を伺う機会があった、民博・吉岡乾先生が自分の研究についてつづられた著書が刊行されたと知り、少し遅くなりましたが読みました。
どんなふうに調査を始めて進めていくか、長年の調査や研究をする中で考えていることが著者独特の語り口で赤裸々に語られていて読みごたえがあります。
例えば、
・フィールド言語学者だからといって必ずしもコミュニケーションが得意なわけではない
・フィールド言語学者だからといって、そのフィールドやそこに暮らす人々のことが大好きというわけではない
・多くの言語を研究している言語学者だからといって言語を簡単に自由自在に操れる人ばかりではない(そして英語も得意とは限らない)
というようなことが大きな辛さ・しんどさとともに語られつつも、全編を通じて研究への大きな愛が感じられます。
言語学の研究をしたことがない私は、最初に吉岡先生のお話を伺った際に、なぜそんなに多くの言語を調査されているのか、ピンと来ていませんでした。
本書を通じて、言語間の影響やその言語のオリジナルな姿への理解を深めるために、周辺で話されているさまざまな言語の研究も始められたのだなということがよくわかりました。
パキスタン自体が自分にとってはかなり遠い世界に感じますが、さらに調査地のほうは想像がつきません。フンザ谷などは観光地でもあるようなので、いつかどんなところなのか行ってみたいなぁとも思いました。
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言語学者がどのようなフィールドワークをしているのか、興味があり、まじめでない書き方らしいので読んでみた。パキスタンの少数話者の言語についてのフィールドワークの話。旅の話をおもしろおかしく書いてあったり、まじめに語ったり、興味深く読んだ。その旅の様子は冒険でもあり、現地の人とのコミュニケーションでもあり、お膳立てされた視察旅行などとは違うリアルさ、興味深さ、おもしろさを感じた。
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知らない国名がバンバン出てきて、混乱しつつも、言語学の奥深さに少しふれられたような、気がする。
いや、しかし、英語やフランス語、イタリア語……などの割とメジャーな言語だって、はじめはこういう研究者たちが、色々調査したのだろうか。
堅そうな文章の中に、ちょいちょい雑なものいいが見受けられておもしろい。
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知的な冒険の書でした。言語学に関心や知識がなくても、自分の頭を耕そうという気持ちがあれば楽しく読めます。
一部強弁に感じるところもありますが、著者の知性に対して誠実な人柄を感じました。
本書の主題からちょっと外れますが、大学で文系を選んでしまった方やこれから選ぼうという方は、第2章を読んでみてください。
文系の学問って何のためにあるんだろうとか、どんな価値や意味があるんだろうとか、なんで自分は文系を選んだんだろう…といったことを考えたり、誰かに説明するときにヒントになるかもしれません。
あと、昨今の日本の知的活動のあり方やメディアでの取り上げ方に関する警鐘。「面白ければ良い」だけでは、知は滅ぶ。↓
「残念ながら、近年日本も〜ワケ知り顔で甘い「研究」を吹聴し、派手な「研究者」を舁きあげて、地味でじれったい研究に勤しむ人々を無下に扱う。圧倒的大学進学率を誇りながら、知的世界との交流を敬遠し、安易な表現の派手な演出にばかり親しんだ。紋切り型でひたすらウケするフェイクへの学術的な反論を煙たがり、「面白ければ良い」という愚にもつかぬ主張で正当化できていると思い込む。負の循環で再生産され続けるその風潮は、社会的同調圧力との乗算で渦巻く瘴気となって四方を覆い尽くし、まつろわぬ者へ社会不適合者の烙印を捺しだす。利益を呼ぶ研究だけが社会に必要なのだ、と。〜」(P123)
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「はじめに」にて研究者として生きることの厳しい現実問題を述べ、むやみやたらに研究者を目指すことを阻止するような印象を受けるが、本書全編は真摯で、かつ研究への大きな愛に溢れていたように感じた。私自身はフィールドへ赴き泥臭い研究活動をするのが好きなタイプであるが、どんだけ本位ではない大変な思いをしてまでも、それを超える知的好奇心が吉岡先生を突き動かす原動力なのだなぁと随所に現れていたように思う。
文系の研究者の卵として、2章では私が抱える不安を一つ一つ拭い去ってくれたように思う。バックパッカーの話や、理不尽な村人からの出入り禁止は共感しながら読みました。
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この本を読んでいるあたりから怒涛のように忙しくなって、感想を書く暇がなかった。そして、すごくおもしろかったことは覚えているけど、それ以外の記憶がない・・・
と思ったけど、この本は、初めて聞くような話にあふれていて、あまりに興味深かったおかげで、忙しい忙しいと言いながらも、おもしろかった部分をこのブクログのフレーズにメモっていた。それを読み返していたら、断片的に思い出してきた。(ありがとう、ブクログ)
「十進法ではなく、二十進法を用いている言語が多い」と言ったようなちょっとした(でもレアな)情報が何気なく書き添えられていて、そういう記述に会うたび、私の知らない世界への興味が激しくかきたてられて、まるでダイヤの原石でところどころキラキラしている道を歩いているみたいな本だった。
特に、ブスカシについての章は、笑って、わくわくして、そしてホロリ。私たちが日常生活を必死で生きている中で、後ろに置き去りにして振り返らないようにしているものについて、書かれているような気がした。
けっして「昔はよかった」というような単純な文脈ではないのだけど、でも、重要な何かと引き換えに手放さなくてはならなかった昔の何かを思う切ない気持ち。自分にもあるそんなものを思って少し心がかき乱された。
例えばこの部分――
『そんなクニシト村にも、やがて携帯電話の電波が届くだろう。村人たちは次第に多く町へ出て、現代の豊かな物質文化の利器に惚れる。谷肌を削って広い道を舗装するかも知れない。利便性を高め、動物との暮らしから動物が減っていくのも、時間の問題か。そういう変化を彼らが望むのなら、それが彼らにとっての「進歩」となる。それでも、土にまみれたブスカシへの熱狂は、これからも長く残ってもらいたい。手放したらもう二度と戻らないのだから。』
著者の他の本もぜひ読みたい。
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友人と読書会の課題本として読み、大変面白く盛り上がった。
まず、帯にもある様に「日本に帰りたい」、現地が嫌いというのに至る様々なエピソードと本人の感想がとても読みやすく、共感を持った。
その一方で、言語学に関する幅広い知識や類例、発音の表記、各言語の表記等、真摯な言語学への態度も見えてきて、言語学という全く知らない分野の世界を垣間見れるようでとても興味深かった。
私は本書の注釈が結構好きだが、特にアブジャド(子音だけを書く音素文字)の注釈における日本のネット文化で発生した表現がアブジャド式になっているというのは著者のパーソナリティや日本語という言語の表現の可能性が垣間見えてとても良かった。
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うーん、この本は装丁のすごさとマイナーな研究者の取り組みを救いあげたという企画意図が百点満点であって、研究者という人が一般向けに書くことの難しさを鑑みると内容もすごく考えられていると思うのだが、期待以上の面白さはなかった。
学術的な気付きは全然得られず、あんまり笑いのツボも合わず。
ただ本のイメージとイラストがすごくよかった。イラストだけの本の方が、文章にしなくても現地の感じとかがとても伝わってきていいのでは。
なんというか、他の研究者並みにオタクなことがある人たちの本も、もっとこんな感じでポンポン世に出たら面白いのにな、と思う。
著者は言語学者。それも気づいたらマイナーな、文字を持たない、日本からアクセスしづらい奥地に暮らす民族の言語の研究がメインになっていた。
言語学者の仕事のしかた、現地での降るまい方、研究した言語の解説などを、実際にあったエピソードを交えながら語る。
村と街の違い、この人が知識欲が強くて知らないことを知りたくて学者になったこと、村の反応などが面白かった。あまり言語の勉強にはならず、残念。。
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著者が研究している(ほとんど聞いたことのない)言語自体に興味が湧いた。けれども本書でもっとも面白いと感じたのは「研究のあり方」について書かれた2章と、「なくなりそうなことば」についての3章。特に「なくなりそうなことば」については別に著書があるそうなので、そちらも読んでみたいと思う。研究のアウトリーチの一環(122ページ)だという本書は、それなりに目的を果たしていると思う。けれども変に口語に寄せた文体や「独自のユーモア」は本書の内容を豊かにしていない。地道な研究スタイルをもっとまじめな筆致で記述した方が、読んでいて面白い本になったかもしれない。
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言語学にはもともと興味があったが、フィールドワークをどのように行なっているのか書いた本は読んだことがなかったので、インフォーマントの見つけ方や適性についてなど、非常に興味深い内容だった。また、難解な言語学の内容がある一方で、ある一個人としての生々しい感情が垣間見える部分も多く、親しみを持って読み進めることができた。
また、「言語学的な言語の価値は等しいが、経済的な言語の価値には大きな差が存在する」という内容は非常に新鮮だった。それ故、危機言語の話者が全員が自分の言語を後世に伝えたいと考えているわけではないこと。将来の生活を考えると母語を捨てる選択が有利になること。など消滅へと繋がる可能性が生じることがよく理解できた。しかし、もし将来、誰かがある言語を学びたいと思った時に、勉強材料としての資料をその言語が無くなる前に記録しておく必要がある。そのために今記録している。という無くなるものを記録することの意義については、言語学に限った話ではなく他分野にも共通するものだと感じた。
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実際、どのくらい社会に役に立つ研究なのか、もっと言えば、その研究がどのくらい経済的な利益をもたらすか、というような視点で大学の研究がとらえられるとするなら、それはおよそ「研究」というものがどのようなものであるかという最も基本的な部分を理解していないことになるのだろう。
ひょっとしたら世界から消滅してしまうかもしれない言語について研究をすることが、何の「役に立つ」のか、どんな「経済的利益」に繋がるのか、そんなことはどうでもいい。人間は、太古よりその知的好奇心を満足させることで、様々な科学技術を発達させてきたが、そんな科学技術等はあくまで知的好奇心の「副産物」に過ぎなかったであろう。「副産物」ばかりを追い求めることは、知的好奇心の追究ではない。
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著者の研究対象であるブルシャスキー語など聞いたことない言葉が話されているパキスタン北部の地図を見ながら本書を読み始めた。おかげで、パキスタンの地図が少しだけ頭に入った。
漠然としたイメージしかなかった言語学についても少しだけ分かったような気にさせられた。言語学者が必ずしも語学堪能ではないということも分かった。
色々な意味で面白い本だった。著者の思いらしきものを2つ感じた。1つは、嫌だ嫌だと言いながらもライフワークとして縁を結んだ現地への愛、もう1つは、何の役にも立たないかもしれないけど研究者への温かい眼差しと金銭的支援への希求。
著者の記す言葉というか、時折出てくる単語とその表記の美しさというか洒落た感じがいい。日本語という言語にも敏感な故だろうか。
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調査地で生起する全てを喜んで享受し、細大漏らさず研究に資するようガンバル人物をこそ研究者と考えていた節がある。それで自らに失格者の烙印を捺していた僕に、吉岡氏のドライさはいたく響いた。「帰りたい」「時間をロスト」…現地で会う人や彼らの暮らす文化圏への忿懣も、感じたときにはシッカリ表明する(実際口にしたかは不明だが、少なくともテキストとして)。ソレデイインダ〜と肩の荷がほどよく下りた次第。どうも研究者をむやみに理想化していたかもしれない。ゆったりとフィールドワークに臨めそうである。