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- カテゴリ:一般
- 発売日:2023/08/07
- 出版社: ベレ出版
- サイズ:21cm/303p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-86064-734-6
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紙の本
中学校で習う歴史が教えられるほどよくわかる なぜ?がわかる
著者 切替 一薫 (著)
なぜ小野妹子が突然登場してくるのか、どうして初代内閣総理大臣が伊藤博文だったのか。中学校の歴史の教科書では結論しか触れられていない部分の「なぜ」と「つながり」に焦点を当て...
中学校で習う歴史が教えられるほどよくわかる なぜ?がわかる
中学校で習う歴史が教えられるほどよくわかる
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商品説明
なぜ小野妹子が突然登場してくるのか、どうして初代内閣総理大臣が伊藤博文だったのか。中学校の歴史の教科書では結論しか触れられていない部分の「なぜ」と「つながり」に焦点を当てて、丁寧に解説する。【「TRC MARC」の商品解説】
「暗記が苦手」「教科書を読んでもよくわからない」「歴史をきちんと理解したい」という方におススメの歴史学習書です。中学校で習うレベルの歴史(じつは教養として必要十分な知識が詰まっている)を、他人に教えられるくらいに理解しながら学ぶことができます。
本書では、単に事実や用語を羅列するのではなく、教科書に書かれていないような、ちょっと深掘りした内容も盛り込むことによって、「なぜ」「どうして」という因果関係がしっかりわかるように解説していきます。
例えば、「なぜ平将門は乱を起こしたのか」「ソ連はなぜキューバにミサイルを設置したのか」など、教科書では結論しか触れられていない部分の「つながり」にも焦点を当てて、丁寧に説明しています。
本書で学習すれば、教科書でいまひとつよく理解できなかったところも、「なるほどそういうことだったのか!」と、これまで暗記するだけだった歴史のモヤモヤした部分が解消されていくでしょう。やさしい語り口で、歴史の影響や現在とのつながりについても触れられているので、歴史が苦手な方や中高生でも興味をもって読み進むことができる「かゆい所に手が届く」歴史学習書です。【商品解説】
著者紹介
切替 一薫
- 略歴
- 〈切替一薫〉千葉県出身。大手進学塾で勤務後、独立。(株)学習法指導塾PHIを設立。
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2023/10/01 16:28
投稿元:
中学校で習う歴史が教えられるほどよくわかる
1章 人類の進化と文明の発達
地球が誕生したのは約46億年前のことです。そこから約6億年かけて最初の生命(シアノバクテリア)が誕生しました。この時の生命は原始的なものでしたが、大量に繁殖し光合成をしたことで、地球に酸素をもたらしました。
そこからさらに進化が続き、約35億年かけてやっと脊椎動物、つまり背骨がある生き物にまで進化しています。この脊椎動物と無脊椎動物の境目に位置する生命が、「海のパイナップル」でお馴染みのホヤです。
ここから約4億年かけてサルが誕生し、約5000万年の進化を経て、現在から約700万年前に猿人が誕生しました。猿人が誕生してからは約500万年で原人になり、そこから約200万年で新人となりました。およそ38億年前に
遺伝子という生命の設計図が生まれ、とても長い時間をかけて進化してきたことがよくわかりますね。
日本列島(現在の本州)は約300万年前から大陸からどんどん切り離されていって、北海道だけがかろうじてつながっていたと考えられています。そして北海道も含めて完全に海に囲まれた島になったのが約1万年前と考えられています。つまり、日本で発見された旧石器時代(約14万年前以降)の遺跡は、すでに本州はユーラシア大陸と切り離されていた時代のもの、ということになります。
四大文明はいずれも川の近くで発展しており、エジプト文明なら世界最長の川であるナイル川、メソポタミア文明ならチグリス川とユーフラテス川、インダス文明ならインダス川、中国文明なら黄河と長江の近くに発展しています。しかもそれらの川は、世界的に見ても非常に長い川だったことがわかります。
長い川がある地域には文明が発達しやすく、文明の発達には川が重要だったことがわかります。現在は道路や空路が発展したため、水運は時間がかかるという印象が強いですが、まだ道路が整備されていなかった時代には、川を道路代わりに船で行き来するほうが早かったのです。
水運はとても重要な役割を果たしてきました。歴代の都がつくられたのも川があるところですし、城も川がある地域に多く築かれています。江戸城周辺では、川を人工的につくりあげています。瀬戸内が発達したのも瀬戸内海を中心とする水運によるものです。つまり歴史という科目であっても、川や地形、地理的条件から見ていくと、共通して理解できる部分が出てくるということです
現在、人類最古の祖先と言われている猿人は、約700万年前に出現したとされるサヘラントロプス・チャデンシス(トウーマイ猿人)です。アフリカで猿人が出現し、二足歩行をしたと言われていますが、頭骨の特徴からの推測にすぎず、あくまで仮説となっています。
約400万年前から、アウストラロピテクスが誕生しました。この猿人は骨格から直立二足歩行をしていたとされますが、まだ火は使っていなかったと考えられています。一時は世界最古の人類と言われていたこのアウストラロピテクスが、氷河時代を生き抜いて、世界各国へ広がっていった人類となりました。
そして200万年前頃から火や言葉、道具を使用する原人��ホモ・エレクトスが出現しました。原人にはホモ・エレクトス以外にも何種類かいたと考えられており、その一つがジャワ原人です。以前はピテカントロプスと呼ばれていましたが、現在ではその呼び名は使用されていません。また、ジャワ原人はアジアで広がり、一時は教科書に最古の人類として登場しましたが、現在の人類の祖先ではないという説が有力となっています。
20万年前になると、新人に分類されるホモ・サピエンスが出現します。しかしこの時代に再び氷河期が訪れたことで、多くの種族が滅びていきました。その一つがネアンデルタール人です。ネアンデルタール人は早くからアフリカを出てヨーロッパへ進出し、独自の進化を遂げた新人で、狩猟のために戦いに適応した体格になり、武器や道具も発達していました。ここで少し疑問が出てきます。よく強いものが生き残る、強いものが勝ち進んできたと言われますが、なぜ弓茧く、武器や道具も発達していたネアンデルタール人は絶滅してしまったのでしょうか。ここに人類の進化の不思議があるのです。
そもそもなぜ人類は二足歩行を始めたのでしょうか。現在は降りたのではなく、降ろされたという説が有力になっています。つまり、弱かった人類の祖先は、森林という弱肉強食の世界の中で、木の上では勝てなかったため、降ろされたというのです。木の上で生活していたことにより、手が非常によく発達していました。そのため、地上に降りても手を有効活用できました。そこで編み出したのが、二足歩行です。二足歩行なら、手に何か持ったまま移動できますから、生活する上で有利になっていったのです。これが猿人であるサヘラントロプス・チャデンシス(トウーマイ猿人)、アウストラロピテクスの頃のお話です。
次に人類は火や道具を獲得します。しかしこれも強いから獲得したわけではありません。1対1の肉弾戦では、人類は弱すぎて勝てなかったのです。そこで編み出したのが、集団生活と遠距離攻撃の武器です。狩りも生活も、みんなで行動を共にすることで、弱いなりに生き、繁栄していくことができました。これが原人であるホモ・エレクトスの頃のお話です。
はそのような食糧難の氷河期を、なぜホモ・サピエンスは生き抜くことができたのでしょうか。実はホモ・サピエンスは武器を手に入れたとはいえ、それほど強くなかったので、狩猟だけではなく、木の実の採集や魚介類の漁、簡単な料理を行うようになっていたのです。氷河期にこの経験を活かすことができました。また、強かったネアンデルタール人と比べて、ホモ・サピエンスは逃げるように移動しながら生活圏を変えていました。これが不得意なところを避け、得意なところで生きることにつながっていきます。そのため、ほとんどの種族が絶滅した氷河期の中、現在の人類の祖先だけは生き延びることができたのです。
なお、ネアンデルタール人自体は絶滅してしまいましたが、現在の人類にはネアンデルタール人と同じ遺伝子を持っている人がいることもわかっています。これはホモ,サピエンスが人種を超えて繁殖していったということですが、集団生活で皆が協力しながら生き抜いてきたからこそ、 他の人種でも受け入れることができたとも考えられるのです
この本能が文明を���くっていったのです。教科書では紀元前4000年〜2500年頃に四大义明が大河の近くで発展した、と出てきます。エジプトはナイル川、メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、中国文明は黄河と長江です。人類は地球上のあらゆる場所へ広がっていきましたが、やはり水がないと生きていけないため、川の周りに人が集まってきました。海でもよい気がしますが、海水は飲料水として大量に飲むと死んでしまいます。そのため貪象が、得られる場所が生活には必要なのですが、 真水が得られる場所が意外と少ないのです。すると人々は真水を求め、自然と川の周辺に集まっていきました。人が集まると集団生活になります。人類の進化でもお話しした通り、人は集団で協力しながら生活することで生き延びてきました。こうして様々な人が知恵を出し合い、進化し、文明が発展していったのです。
エジプト文明というと真っ先にピラミッドが出てくると思いますが、文明として重要なのは太陽暦とヒエログリフでしょう。エジプト文明はナイル川の近くで発展し、ナイル川の氾濫を予測するために太陽の公転周期を用いた暦を考え出しました。これが現在使われている暦の原形である太陽暦です。そして集団生活において、意思疎通を図ることはとても重要だったため、ヒエログリフと呼ばれる象形文字を考え出しました。ピラミッドにも書かれている絵文字みたいなものですね。この暦と文字を手に入れたことで、農耕が正確に行えるようになり、集団の力を発揮できるようになったことから、エジプト文明は発展していきました。
メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域で発展した文明です。こちらも殷耕のために暦を作りましたが、太陽ではなく、月に着目したものです。これを太陰暦と言います。江戸時代まで日本で使われていたのし、 この太陰暦が発展してできたものです。また、数を数える必要が出てきたため、時間を測る60進法を発案し、これは現在でも用いられています。そしてくさび形文字も生み出されました。
くさび形文字はもともと数を数えるために考え出されたので、直線的なくさびの向きと数によって文字を表しているという特徴があります。「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典もあわせて出てきますが、このハンムラビ法典もくさび形文字で書かれています。
インダス文明はインダス丿11流域で発達した文明で、インダス文字という象形文字を使用していました。エジプトのヒエログリフはわりと解読されているのに対し、インダス文字は現代との中間に位置する文明が未発見なため、ほとんど解読されていません。ヒンドゥ一教の原点であるカースト制もこの文明で作られました。
中国文明は長江文明や黄河文明といった、長江や黄河流域で発生した文明の総称です。教科書によっては長江文明、黄河文明と分けられていた時代もありましたが、現在は中国文明となっています。この中国文明では亀の甲羅に刻んだ甲骨文字が作られ、これが、後の漢字へと変化していきます。また、儒学や政治体制は、後の日本にも大きな影響を及ぼしていきます。
仏教は紀元前500年頃にインドの釈迦によって広められた宗教で、アジアに広がりながら様々な宗派を生んできました。日本にも6世紀に伝わり、それ以降多くの仏像や寺院がつくられています。「お釈迦様」の釈迦というのが、開祖である釈迦のことですね。「天上天下唯我独尊」という言葉で知っている人も多いでしょう。仏教には釈迦をはじめとする様々な仏が存在します。日本古来の宗教である神道は多神教のため、仏教を受け入れやすかった、というわけです。
ヒンドゥー教は仏教よりも早くインドに根付いていた宗教で、その始まりはよくわかっていません。しかしその考え方がインダス文明に残るものと似ていることから、紀元前2000年頃にはヒンドウー教の元となる宗教があり、それが時代に合わせて変化していき、バラモン教(古いヒンドウー教)となり、現在のヒンドウ一教へと進化したと考えられています。なお、仏教もこのバラモン教に釈迦が解釈を加えて進化させた宗教の一つであり、現在ヒンドウー教では釈迦は神の化身の一人と考えられています。そのためヒンドゥー教も多神教で、仏教にもヒンドゥー教にも呼び名が違うだけで似たような性質の神がいるのです。
キリスト教はイエス・キリストが広めたと思われがちですが、正確にはイエスの考え方を弟子たちが広めたものです。そしてこのイエスの考え方というのが、ユダヤ教の解釈なんですね。つまり、イエスはユダヤ教徒だったのですが、その考え方に賛同できないものがあり、自分なりの解釈をし、その考え方を広めていったところ、賛同者が多く現れてキリスト教となったのです。キリスト教は現在、宗教人口世界1位となっていますが、これは布教活動がシステム化され、効率よく信者を増やすことができたためです。神はヤハウェのみとする一神教で、経典は新約聖書、聖地はエルサレムです。
イスラム教は預言者ムハンマド(マホメット)が唯一の神をアッラーとして広めたもので、経典はクルアーンです。聖地はメッカで、1日に5回メッカに向かってお祈りをします。また豚とお酒は禁止で、ラマダンと呼ばれる断食があることは教科書にも書かれています。宗教人口はキリスト教に次ぐ世界第2位で、キリスト教と同じく様々な宗派が存在します。さてこのイスラム教でずが、実はキリスト教の影響を受けたものなのです。経典はアラビア語で書かれているため、名称の発音は異なりますが、聖地も神の名前もキリスト教と同じ
ものを指しています。
ユダヤ教はヘブライ語で書かれた「タナハ」を聖典とし、聖地はエルサレム、神の名前をヤハウェとする宗教です。よくキリスト教の聖典を「新約聖書」、ユダヤ教の経典を「旧約聖書」と呼ぶことがありますが、これはキリスト教側から見た時に、「私たちの聖典は、キリストが作った新しい約束だから、新約聖書としょう」と勝手に決めたものです。よってユダヤ教の人々が、自ら「旧約聖書」と言っているわけではありません。なお、聖書は「神と人間が交わした約束」と解釈していることから、「約」の字が使われています。
イスラム教とキリスト教の原点はユダヤ教。言葉や解釈は違っても、この3つの宗教は同じ神を信仰の対象としているため、対立が起きているのです。特に聖地に関しては、第二次世界大戦前後のごたごたで、イスラム教の国(アラブ人)が支配していた土地に、「ユダヤ教の国を作っていいよ」とキリスト教の国が勝手に許可してしまったものだから、さあ大変!個人の問題も国の問題も超えて、数干年にわたる宗教のプライドの戦いに発展してしまったのです。そのため、いまだに解決できず、対立が続いているのです。
2 旧石器時代・縄文時代
世紀と西暦で数字がズレていてややこしいと感じる人も多いと思いますがその原因は西暦を定めたときには「0」という概念が、存在しなかったためです。数え年の考え方も同じですね。0が存在しなかったので、生まれた年が1歳になってしまうのです。とてもややこしくて苦労するところではありますが、学習するにあたって大切なのは数字ではなく、流れや前後関係なので、おおよそのイメージができれば、数字はそこまで重要ではありません。
以前は日本列島が氷河時代に大陸とつながっていて、そこから日本人の祖先は歩いてきた、と教えられていましたが、現在は氷河時代であっても大陸とはつながっていなかった可能性が高いことが指摘されており、祖先がどのように日本列島へ渡ってきたのかは議論が分かれています。
今から約1万年前、日本列島がユーラシア大陸から分離した時代が、縄文時代です。この時代は名称の由来となった縄文土器が、使われ、定住を始めたと考えられています。土器は日本各地で多数発見されたものの、世界では同時代の土器発見例がほとんどなく、日本の縄文時代を代表する遺物となりました。「人類が初めて化学的に合成して作った道具は土器である」と述べる研究者もおり、この土器の発明と利用がいかに凄いことだったのかがわかります。なお、土器の作り方をどのように知ったのか、それがどのように広まって行ったのかについてはいまだにわからないことが多く、研究が続いています。
氷河期が終わると、気候も温かくなってきたため、木の実が増え、大型動物も消えていきました。そのため、命がけで狩猟を行う必要もなくなり、肉よりも保存がききやすい植物(ドングリやトチの実)を調理して食べるようになりました。移住の必要もなくなり、定住へと変化していったことで、住居も地面に穴を掘り、その上に屋根をつけた竪穴住居が普及していきました。この住居の屋根は、雨は入れずに空気は外へ逃がす構造になっています。そのおかげで、中で火を使って調理をしても、その煙は外へ出るようになっていこのことから、 ただ寝る場所や保存する場所、身を隠す場所としてではなく、生活の拠点として住居を活用していたことがわかります。
3 弥生時代
弥生時代は、狩猟から稲作へと転換し、日本国内には多くの国ができて、争いも起き始めた時代です。日本には当時の記録は残っていませんが、中国の歴史書に書かれた日本の様子と、実際に日本から出土したものを照らし合わせることで、当時の日本の様子を知ることができます。
弥生時代の边跡は、日木各地で発見されています。これらの集落には、その地域にはあるはずのないものが出土されていることから、交易が活発に行われていたことがわかっています。さらに交易は、日本国内にとどまらず、朝鮮半島を経由して、中国とも行われていたことがわかっています。
紀元前400年(紀元前4世紀)頃に九州へ稲作が伝わり、��本でも農耕が始まりました。土器も武骨で大きな縄支土器から、薄くて丈夫な弥生土器へと変化していきました。この時代を弥生土器から名称を取り、弥生時代と呼んでいます。紀元前400年頃というと、中国では戦国時代の真つ最中で、インドでは仏教が、広まり始めた頃、ヨーロッパではパルテノン神殿で有名なアテナイのアクロポリスがつくられた頃です。
吉野ケ里遺跡は日本最大の遺跡で、その広さはディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積よりも広く、周囲は環濠で囲まれていました。環濠というのは周りを囲むように掘った深い堀で、ク二同士の争いがあったことを意味します。吉野ケ里遺跡には500年で1万5千基以上もお墓がつくられたと考えられています。文字や写真もない時代で、これだけ長い間を守り抜いて維持し、少しずつ技術力を高めてきたことを考えると、その凄さが実感できるでしょう。
登呂遺跡では大規模な水田跡が発見されており、水路は粘土や焼き土を用いて防水加工をしていたこともわかっています。弥生時代の農業の技術や生活の様子がよくわかることから、学術的に価値が高い遺跡となっています。
3世紀に入ると、中国の歴史:書に日本に関する記述が出てきます。中国ではすでに文字があり、記録が残っていますが、日本には当時文字がなく、文字史料は存在しません。そのため、中国の歴史書から日本に関する記述を見つけて、それに該当する証拠を日本で探して、 歴史を明らかにしています。
教科書にまず最初に登場してくるのは、1世紀頃に書かれた『漢書』地理志という歴史書です。この中には「海の向こうには倭人がいて、100余りの小国に分かれている。彼らは貢物を持って挨拶にくる」と書かれています。日本は当時、樓と呼ばれていたんですね。
次に『後漢書』束夷伝の中に、「57年に兇武帝が、倭国の使者に金印を授けた」とあります。この時の金印が、福岡県凝!聽で発見された「漢委奴国王」の印形がある金印ではないかと考えられています。そしてこの奴国というのが倭人のクニの一つ、つまり日本に存在したと考えられるク二の一つと考えられています。
『三国志』魏志倭人伝の中には、「倭には魏などと外交している国が30余りあり、80年くらい争っていたが、邪馬台国の卑弥呼という女王がこれを治めた。239年に卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り、魏の皇帝は「親魏倭王」と刻まれた金印と、銅鏡100枚を与えた」とあります。卑弥呼が授かったとされる「親魏倭王」はまだ発見されていないんですね。そのため、邪馬台国が日本のどこにあったのか、いまだにわかっていません。
この時代、日本には文字がなかったので記録が残っていませんが、、言語はあったと考えられています。その証拠として現在も残っているのが、漢字の音読みと訓読みです。日本はその後、中国の漢字を持ち込み、話し言葉は日本語、書き言葉は中国語という使い分けをしていきます。しかしそれでは何かと不便なので、漢字をそのまま日本語として使うことを思いつきます。それが音読みと訓読みです。
日本にはすでに「やま」という言葉があったので、中国語で「やま」にあたる漢字「山」をそのまま「やま」と読むようにしたというわけです。なお、当時の日本語は��の日本語とはかなり異なっていて、発音も複雑だったと考えられています。その名残が、「てふてふ」と害いて「ちょうちょう」と読むような、古語に残っているのです。
弥生時代に生まれた厶ラは、徐々に周辺の厶ラと統合しながら、クニとなっていきました。そして鉄器の普及により道具が進化したため、作業の効率が上がり、米の収穫量も増えていきました。また、武器も進化し、有利に戦うことができるようになっていきます。こうして勢力が拡大していったク二では、権力を誇示するために大きな古墳がつくられるようになっていきました。
日本各地にク二がつくられていった西暦200年頃から、大和盆地(現在の奈良盆地)周辺で、勢力を拡大していた政治権力がありました。それをヤマト政権(ヤマト王権)と言います。ヤマト政権は畿内を中心に徐々に勢力を拡大しながら、 大王を頂点とした国家づくりをしていきました。400年後半頃にせると、 ワカタケル大王として有名な雄億天皇が登場します。
朝廷と言えるほどの中央集権的な権力を持っていなかったのではないかとされ、現在はヤマト政権という言葉が用いられています。
ヤマト政権では、大王は一つの国家として治めていたわけではなく、豪族集団のリーダー的な存在だったと考えられるということです。
およそ350年続いた古墳時代は、大王を中心とする中央集権化が進むにつれ、氏姓制度によって古墳の大きさで権力を示す必要がなくなったため、徐々に衰退していきます。そして聖徳太子がより現代に近い中央集権化を進めたことで、古墳は飛鳥時代以降、ほとんどつくられなくなっていきました。こうして古墳時代は終わり、飛鳥時代へと移行していきます。ちなみに天皇のお墓(天皇陵)は初代神武天皇のお墓から第124代昭和天皇まで全て存在しており、宮内庁の日!3で公開されています。しかしその全てを宮内庁が管理しており、公開や調査が厳しく制限されています。そのため、天皇陵となっていても、本当は誰のお墓なのかわからないところが多々あるのです。
4 飛鳥時代
推古天皇の時代から焉鏡天皇が藤原京へ遷都ずるまで都となっていた場所を飛鳥と呼び、現在は奈良県高市郡明日香村となっています。この飛鳥を中心に栄えた時代を飛鳥時代と言い、壁画で有名なキトラ古墳や高松塚古墳も飛鳥にあります。
朝廷の勢力範囲は、南は鹿児島から、北は福島、新潟辺りまで及んでいたと考えられています。飛鳥はちょうどこの中央に位置し、遣隋使は瀬戸内海、 福岡(大宰府)、対馬を通って、朝鮮へと渡っています。この大宰府と対馬を利用したルートは、江戸時代でも用いられた重要なルートの一つとなっており、大宰府は外交や貿易の役割を担うようになりました。また、白村江の戦いで負けてからは、中国、朝鮮からの侵略を防ぐ防衛拠点となっていきました。
6世紀末に聖徳太子が誕生し、593年に推古天皇の摂政になります。この聖徳太子という名前は死後につけられた尊称で、本名はうまやどの皇子と言います。
聖徳太子は607年に小野妹子を也隋使として派遣した、と教科書には載っていますが、実はこれは2回目の派遣で、600年にも一度派遣しているのです。この1回目の遣隋使の派遣が空振りだったことから、聖��太子は「日本をもっとしっかりしたルールで作られた国にしないといけない」と考えました。そこで考え出されたのが、冠位十二階の制です。冠の色で地位を表し、優秀な人材は血縁にかかわらず登用するという制度ですね。この制度により優秀な人材として認められたのが、2回目の遣隋使となる小野妹子、そして後に大化の改新を行う中臣鎌足なのです。聖徳太子は、力が全てだった豪族の時代に、次の時代のリーダーとなりうる人材を発掘するシステムを作り上げることに成功したのですね。
優秀な人材を見つけることができる制度は整いましたが、国のルールが決まっていません。せっかく優秀な人材が集まっても、ルールがない場所ではそれも活かされません。そこで作られたのが十七条の憲法です。憲法というと法律のような感じがしますが、この十七条の憲法は役人の心構えを記したものです。聖徳太子は、ルールがないこの時代に、ルールの導入から入るのではなく、ルールを守るために必要な道徳、心構えから入ったのです。これがなかったら、後の大宝律令で中国のルールを真似して決めたところで、守られずに破綻していたかもしれません。
さらに十七条の憲法にはもう一つその後の国づくりに関わる重要な内容があります。それが「天皇の詔を受けたら、必ず謹んでこれに従え」というものです。天皇は地方の豪族を束ねている絶対的な存在ではあったものの、強いというウワサがあるから皆が従っていただけだったのです。つまり、天皇家を滅ぼしてしまえばそれでおしまい、という可能性もあったということです。それをルールとして「天皇をトップとして倭という国は成り立っている」と定めたことで、天皇を中心とする国家を作り上げることに成功し、これが日本という国が1400年以上続く基礎になったわけです。
煬帝としても余計な敵を増やしたくない、むしろ高句麗を挟み込める位置にある日本は味方にしておくほうが得だと考えて、遣隋使を受け入れたと考えられています。領土や主従関係のある国の一つではなく、一国家として扱われるようになっていきます。今も存続している「天皇」という言葉には、他の国の属国にはならない、という意思が表れているとも取れますね。
世界最古の木造建築として世界遺産にもなっている法隆寺は聖徳太子が建てたことで有名ですが、ただの趣味で建てたわけではありません。飛鳥時代からこのような建物が増えているように思うかもしれませんが、実はこの時代の一般的な住居はまだ竪穴住居です。当時は天皇の力を見せつける象徴でもあったのです。
聖徳太子は制度やルール、都や建築技術と様々な文化を日本に持ち込み、 アレンジしましたが、実は仏教もアレンジしているのです。まずそもそもなぜ仏教を日本に導入しようとしたのでしょうか。中央集権国家という考え方が全くなかったのです。さらに役割はあったものの、身分制度もなかったため、見たことも会ったこともない人に治められる国というものが、想像もできなかったのです。そこで目をつけたのが、身分制度を持つ仏教という宗教です。
ところがここで問題が一つ浮上しました。日本にはすでに土着宗教である神社(神道)があったのです。そしてこの神道こそが天皇が神の子である根拠でもありました。そのため仏教を取り入れることで、神道を廃することにならないかという問題が生じたのです。実際にこの問題は、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の対立を引き起こしています。
しかし聖徳太子はこれを見事に解決してしまいます。それが、十七条の憲法の一番目と二番目の「和をとうとび、人に逆らい背くことのないように心がけよ」と「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法(仏の教え)と僧である]に表れています。この取り込んで改良するという考え方は、その後の日本においても一つの文化として根付いていきます
大友皇子が皇位を引き継ぐことになりましたが、すかさず吉野で勢力を蓄えていた大海人皇子が大友皇子を攻撃しました。これにより大友皇子は勝てないと悟り、自害します。こうして日本史上例がない、反乱軍が勝利する という形で大海人皇子が即位し、天武天皇となったのです。
天武天皇はその後13年ほどで崩御することになりますが、天武天皇の皇后が即位して持統天皇となり、意思を引き継ぐ形で政策を行っています。その中でも教科書で最も重要な位置づけとなっているのが大宝律令です。「律令」というのは、 今の時代でいうところの「刑法」や「行政法」、「民法」を定めたものです。これまでは唐のルールをただ真似していただけだったので、日本には合わずにうまく機能していないものも多かったのでずが、天武天皇の指示により、試行錯誤を繰り返しながら日本ならではのルールを作り上げていきました。これにより国を一つにまとめ、天皇の地位を高めていくことに成功したのです。「日本」という名称が使われたのも、この時が最初と言われています。
また奈良時代に登場する古事記も天武天皇が指示して作らせたものです。日木で初めてとなる本格的な都である藤原京を計画したのも天武天皇です。教科書には出てきませんが、動物保護の観点から肉食に制限をかけたのも天武天皇といわれており、菜食中心となった日本の食生活にも大きな影響を与えています。さらに伊勢神宮を中心に神道を活性化させ、日本の宗教として確立し、仏教も国が統制する形に整え、現在の日木の寺院のあり方に関する基本部分も作り上げています。飛鳥時代はとても大昔なように感じてしまいますが、古くからあるルールや文化の根木的な部分は、天武天皇により作られたものがわりと存在するのです。
5章 奈良時代
藤原京は694年に中国の都を参考にしてつくられましたが、その中心となる宮殿は藤原京の中心、つまり碁盤目の真ん中に置かれていたのです。しかし当時の中国の考え方では、偉い人は北に立ち、南側を見渡せるように配置するのが常識だったため、「何となく真似してみました」というような完成度となりました。
710年に都は平城京へと遷ります。740年には恭仁京へと遷り、744年には難波京、745年には紫香楽宮へと遷ります。そして同年にはまた平城京へ戻り、784年に長岡京へと遷ります。こうして794年に桓武天皇が平安京へ遷都し、やっと落ち着きます。
ー藤原京は694年に持統天皇の指示でつくられた日本初の本格的な都ですが、元明天皇の時に都は平城京へ遷されます。この都は唐の都(長安)を参考にしてつくられ、 国を運営する方法も、次々と取り入れていきま���た。大宝律令と言われる制度もその一つで、飛鳥時代後期に天武天皇により日本に合わせた制度へと改良され、制定されました。
この大宝律令の中の土地制度には、班田収授法という仕組みがありました。これは6年ごとに6歳以上の男女に口分田を与えるというもので、死亡するとその上地は国家に返されるというものでした。まだ上流階級の中でしかお金が流通していなかった当時、物々交換が主流だったため、お米ができる田んぼを得るというのは生活の基盤としてとても重要なことだったのです。
ところが、これには重要な制度がセットでついていました。それが租と言われるもので、 収穫高の約3%を税として納めなさいというものでした。この税が農民にとっては非常に重く、後に班田収授法の崩壊につながっていくことになります。
制度が'機能しなくなってくると、税収が安定しなくなってきます。これでは国が'成り立たないので、少しでも農民のやる気を出させようとして、新たに開墾した土地は、開墾した者とその孫の代まで私有を認めるという法律を出しました。これを三世一身法と言います。
さらに「もう開墾した土地は返さなくていいよ!子孫代々までその所有を認める!」という大盤振る舞いをしました。これを墾田永年私財法と言います。これにより、やっと「代々所有していいなら!」と開墾を頑張り出す人々が出てきました。ところが開墾が大変なことには変わりありません。今自分がやっている農業にプラスして開墾をしなければならないため、開墾したくてもそう簡単にはできません。そこでグループの力が発揮されました。貴族や地方の豪族が人々をまとめ上げ、雇う形で開墾と農業を行っていったのです。
農民一人で開墾をしてもすぐには収入になりませんが、雇われるという形ならすぐに収入になります。貴族や豪族にとっても自分たちの土地、財産を増やすことができるのでお互いに都合が良かったのです。こうして拡大していった私有地は荘園と呼ばれ、公地公民の制度が崩壊するきっかけになりました。そしてどんどん私有地が拡大することで領地という考え方が生まれ、力を蓄積した有力者が新しい支配階級として台頭します。私有地を武力で守ろうとする社会になり、武家政権が誕生すると、守護・地頭という官職が設置されました。室町時代には、守護の力が増大し、荘園や地域を支配する守護大名が誕生します。
聖武天皇はこれらの飢餓や伝染病は、神の怒りだと考え、仏教の力で鎮めることはできないかと考えました。そこでまず、大きな仏像をつくることにより、信仰心を形にしようとしました。こうしてつくられたのが東大寺と通称「奈良の大仏」で親しまれている原舎那仏像で、それらの建造指揮を任されたのが行基というお坊さんです。しかしそれでも飢餓や疫病は治まらなかったため、遣唐使に唐から僧を連れてくるようにお願いしました。
日本に来た鑑真は唐招提寺を開き、そこで本場の仏教を教えます。聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を建てることで、信仰心を形にしていきました。さて、散々に人々を振り回した聖武天皇ですが、国を想う真剣な気持ちは強く、神道のトップであるにもかかわらず出家までしてしまいます。この熱心さが日本全国に仏教を広げる���ととなりました。現在、神社とお寺の違いがわからないという方が多いのも、こうして神道と仏教が混ざっていったためなんですね。
箸が日本に入ってきたのもこの時代で、日本の食生活にも大きな影響を及ぼしています。なお、聖武天皇は天武天皇が出した肉食禁止をさらに厳しく徹底し、戦国時代にキリスト教徒が肉食を持ち込むまで続いたため、和食は菜食が中心になっていきました。とはいえ、とんちで言い訳をして食べていた人がいたことから、「さくら」や「ぼたん」といった肉の呼び方や、ウサギを"一羽二羽と数える文化が誕生しています。
古事記には、歴史を記録する以外に重要な役割がありました。それが、天皇の正統性を裏付けるための書物であることです。聖武天皇は45代天皇なので、すでに天皇制が浸透しつつある状況にはあったと考えられますが、それでもそれは都とその周辺地域での話であり、日本各地までくまなく天皇制が理解されている状況ではありませんでした。そこで考えられたのが、血筋の正統性を示すことです
6章 平安時代
平安時代には、京都を中心として東は現在の秋田県と岩手県まで、西は鹿児島県まで支配が及んでいました。坂上田村麻呂は青森までは行っていないため、この時点で青森はまだ由饌が暮らす土地でした。福岡県は朝鮮半島に近く、対馬を経由して交易が行われていたため、大宰府が置かれていました。その大宰府と都の間にある瀬戸内海は重要な交通の要所だったので、この地域は港や海運が発達したことがわかります。
征夷大将軍は、その名の通り蝦夷を征討する大将という意味です。それ以前にもいくつか名称がありましたが、征夷大将軍という名称で登場するのは、大伴弟麻呂が最初となります。つまり、今まで軍事全般のリーダーという感じでしたが、「蝦夷を討伐するための軍」と名称をつけて、目的をはっきりさせたのです。 そしてこの征夷大将軍という位は、東北地方を治めたその後も残り、軍事トップの代名詞となり、歴代将軍の称号となっていきます。
坂上田村麻呂の戦い方は、当時としては非常に珍しいもので、まず説得から入るものだったと言います。極力戦いを避けて、ダメなら戦うというスタンスだったんですね。その戦いの後も、相手を気遣い、決して虐げることも、服従させることもなかったと言います。それどころか、農業のやり方を教え、村の発展に貢献し、常にその地域の民のことを考えて行動していたと言います。そうした戦い方に心を打たれ、戦に負けても坂上田村麻呂を尊敬する人々が、増えていきました。
田村麻呂は「アテルイを殺すのは得策ではない。日本の制度を知ってもらった上で、東北地方をそのまま治めてもらうほうがいい」と主張しました。ところが、その願いは聞き入れられることなく、坂上田村麻呂がいないところで処刑されてしまいました。坂上田村麻呂は非常に悲しみ、自身が、建立した清水寺にアテルイの墓を作り、葬ったと言います。
なお、 彼の戦いや考え方は伝説として後世まで数多く残されており、その後の武士のあり方にも大きな影響を与えています。日本独特の武士道という考え方は、 彼に由来するといっても過言ではないでしょう
いよいよ日本の仏教の転機となった人物、最澄と空海が登場します。最澄と空海はともに遣唐使に従って唐へ渡った留学僧でしたが、非常に仲が悪かったと言います。その発端となったのが仏教に対する考え方の違いでした。
この2人の考え方の違いが、日本独自の宗派を生み出しました。「経典を貸して」と言った最澄は、「仏教なんて難しくないよ。経典を読めば誰でも救われるかり、みんなでやろうよ!」と言って、比都山延暦寺を建てて、天台宗を開きました。この天台宗は、その親しみやすさから仏教を一気に広めていき、後に時代に合わせて数々の宗派を誕生させました。それが、鎌倉仏教と呼ばれるものです。
一方、教えを厳格に受け止め、自身にも厳しかった空海は、高野山金剛峰寺を建て、真言宗を開きました。空海は「経典を見るだけじゃ仏教の本質は学べない。しっかり見て、聞いて、感じて学べ」と言って、師弟関係と修行を重視しました。このような宗教を韻竅と言います。その厳しさゆえ人数は限られたものとなりましたが、後に山にこもって厳しい修行を行う樹矣道と呼ばれる日本独自の修行の文化にも影響を及ぼしています。
菅原道真は894年に遣唐大使に任命されましたが、その1ヶ月後には遣唐使の廃止を申し出ました。道貞は不安定な唐と仲良くしていると、唐が滅亡した後の国に目を付けられかねないとして、天皇に廃止を進言したのでした。ところが、実は遣唐使が廃止されると困る人々がいました。それが藤原氏をはじめとする貴族たちです。
藤原氏は、道真を陥れて大宰府に左遷させてしまいます。その2年後に道真は死去し、さらにその4年後には、道真の予言通り唐が滅びました。その頃、京では貴族が次々に病にかかって死去したため、 道真の呪いに違いないと恐れられるようになりました。そのため、天神様として祀ることにしたのです。これが次第に笑蒲營として広まり、道真が学問に長けていたことから、学問の神様としてあがめられるようになりました。つまり、現在、天満宮と名の付いているところは菅原道真を祀った神社であり、学問の神様としてのご利益があるということになります。
遣唐使の廃止により、中国の影響が少なくなったことから、日本独自の文化が発展していくきっかけになりました。例えば、かな文字や文学、宗教、建築はこの時を境に日本ならではのものとして進化しています。これらの文化を国風文化と言います。
遣唐使による資金流入もあり、急速に勢力を拡大した藤原氏は、強豪となりうる他の貴族を次々と退けていきました。さらに娘を天皇の后とすることで、産まれた男の子を天皇にし、天皇が幼いうちは国板として、 成人したら関白として政治の実権を握っていきました。この時代の代表的な人物が「言の世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の歌で有名な藤原道長です。
摂政と言えば推古天皇の摂政となった聖徳太子が有名ですが、基本的には天皇が幼かったり病弱だったりして、正しい政治判断ができないと考えられるときに設置される役職です。それに対して関白は、成人の天皇を補佐するための役職です。あくまで補佐なので、 最終的な決定は天皇自身が行っていました。しかし、実質的な最高権力は、摂政と関白という役職にあり��す。
そこはさすが藤原氏、不輸の権という特権を作ってしまいます。これは税を一切払わなくていいという権利です。つまり、藤原氏をはじめとする貴族に土地や収穫物を寄贈した荘園は、不輸の権を与えられ、税を支払う必要がなくなったのです。こうなるとみんな不輸の権利欲しさに藤原氏に寄贈していきます。こうして藤原氏は、本来天皇に入るはずの税収を横流しさせて自分のものにしてしまっていたのです。その横流しを確実なものにするために、もう一つ仕掛けを施します。不入の権という国の役人が一切立ち入ることができない特権も与えてしまいました。こうしてチェックも税も免れることで、藤原氏は土地と税収を爆発的に増やしていったのです。
荘園の拡大により、各地で土地をめぐる争いが起きたことから、武芸に優れた者が国司に仕えて役所の警備をするようになりました。これが次第に勢力を増し、武士団を結成し、職業としての武士が誕生していきました。この武士団の中でも特に勢力が大きかったのが、源氏と平氏です。源氏と平氏のルーツは平安京をつくった桓武天皇にあります。
第50代の桓武天皇には子どもがたくさんいました。その数なんと35人と言われています。天皇は世襲制ですが、さすがに35人もいると、皇位継承者にもなれず、官職にも就けない者が続出し、財政も圧迫してしまいます。そこで、天皇家出身ということがわかるように氏(名字)をつけ、皇室から離脱させる(臣籍降下)ことにしました。その中の4人に平安京の「平」の字が与えられ、平となりました。これが平氏の始まりです。
この頃の天皇は非常に子だくさんだったようで、第52代の嵯峨夭皇、第54代仁明天皇、第55代の文徳天皇、第56代の清和天皇も子どもに姓を与えて送り出しました。その中でも「天皇家を源流とする」という意味から
「源」の姓を与えられたのが、源氏となります。この源氏の中でも有名なのが、鎌倉幕府を作った清和源氏です。
京から遠くなれば遠くなるほど支配が届かなくなるため、天皇の血縁者を高官として送り込むことで、 地方の支配力を強めていました。その中でも平将門の父である良将は現在の千葉県北部にあたる下総国を治め、鎮守府将軍を任されていました。良将の兄である国香は、現在の茨城県にあたるひたもの国を治めていました。
この一連の騒動を平将門の乱と言います。教科再ではいきなり平将門が登場して関東一円を治めてしまうような書かれ方になっていますが、少し掘り下げてみると、 将門がいかに不遇だったかがわかり、むしろ可哀そうな気すらしてきますね。
この一連の乱を藤原純友の乱と言います。教科書では乱を起こして鎮圧されたとしか書かれていませんが、このように流れを掘り起こしてみると、果たして誰が悪いのか、考えさせられますね。なお、平将門の乱と全く同時期に起きていたため、二つをまとめて承平・天慶の乱とも言います。
藤原氏はどんどん勢力を拡大していましたが、頼通には男子が生まれませんでした。そして、藤原氏と算歳関係のない後三条天皇が即位すると、藤原氏と対立しながらも意欲的に政治改革に取り組み始めました。それを引き継いで天皇となったのが白河天皇です。このままでは天皇の座すら奪われかねないと感
じた白河天皇は、天皇の座を退いて上皇(白河上皇)となりました。天皇は様々な決定をできる立場にはいましたが、その周りには藤原氏の勢力がはびこっており、自由が利かない状態になっていたのです。そのため、まだ8歳の息子に天皇の座を譲り、自身は上皇となりました。
上皇自身が上皇の周りの人びとを使って直接政治を支配するようになっていったのです。上皇は「院」とも言われていたので、この上皇による政治体制のことを院政といいます。この院政は、その後100年近くも続くことになり、これにより藤原氏の権力は次第に抑え込まれていきました。
100年近くも続いた院政ですが、こうなると天皇と上皇の間にも権力争いが生じてきます。1156年には崇徳上皇と後白河天皇が、それぞれ武士をつけて大規模な争いを起こしました。この戦いを保元の乱と言い、この時に後白河天皇側について戦ったのが、源義朝と平清盛でした。2人はこの戦いで共に戦い、勝利しています。
戦いに勝利した後白河天皇は、その3年後に上皇となり、今度はその権力を巡って武士同士が対立する事態となりました。特に保元の乱で活躍した源義朝は、平清盛と同等の活躍をしたにもかかわらず恩賞に差をつけられたことに不満を持ち、後白河上皇を幽閉してしまいます。 これを助け出そうと平清盛が挙兵し、戦いとなったのが、平治の乱です。平治の乱は平清盛側が勝利し、源義朝は殺されてしまいました。しかしその息子はまだ13歳と幼かったため、死刑は免れて、伊豆への流刑で許されました。この息子こそ、後に平氏を滅亡させ、鎌倉幕府を成立させることになる源賴朝なのです。
さて、この保元の乱と平治の乱は、天皇が日本を統治するための戦いから、明廷内の争い、武士同士の争いへと変化していく過程がハッキリと表れた戦いとなりました。そしてこれ以降、武士が権力を握る時代へと突入していくことになります。
まず、平清盛は1167年に武士としては初めての太政大臣となり、政治での権力を手にします。さらに娘を天皇の后にすることで、その子を天皇にし、後白河上皇による院政を終わらせました。そう、これは藤原氏が権力を増大させた方法と同じです。このようにして武士である平氏が貴族と同じように権力を有していったわけです。この方法で平氏は後に「平家にあらずんば人にあらず」という、「平一族じゃなかったら人とはいえないよね」という言葉を生み出すほど、権力を増大させました。この頃、清盛は大輪田泊という港を整備して、日宋貿易に力を入れました。この港が、後の国際港である神戸港となります。
7章 鎌倉時代
源氏と平氏の戦いを地図で見てみると、源氏が関東から西へ西へと進み、 平氏を壇ノ浦まで追い詰め、滅亡させたことがわかります。そして義経の戦術をよく見てみると、背後に回り込んで追い込んでいったこともわかります。当時はまだ石垣を築いたお城のようなものがなかったため、山や崖を背にして正面からくる敵に対応するのが一般的でした。源氏はその裏をついた戦い方で勝利してきたのです。一方、元寇の時には逆に攻められたので防衛する形になりました。苦戦を強いられたのは、後ろから回り込めなかったという理由もあったのかもしれません。
名字は責族や武士のものでしたから、一農民が名字を授かるというのはとてもありがたいことだったのです。ちなみに頼朝が与えたとされる名字は「切替」と同様、 変わったものばかりです。
頼朝が官位を受けるよりも先に、義経が官位を受けてしまったのです。なにせ血縁だけでまとめあげている時代なので、同じ血縁を持つ義経が官位を受けるというのは、頼朝にとって非常に危険なのです。そしてさらに困ったことに、平氏を滅ぼしたとはいえ、義経の態度や戦い方があまりに横暴で、付いていった東国の武士から非難が噴出していたのです。
京から逃げた義経を探し出すため、頼朝は朝廷に圧力をかけたところ、守護・地頭の設置が認められました。これが、後の鎌倉幕府の政治体制を強固なものへとしていくことになります。
京から逃げた義経は奥州藤原氏を頼りました。奥州藤原氏にも見捨てられた義経は平泉で自害することになり、その首は鎌倉へ届けられましたが、「義経を匿った罪は重い」として、奥州藤原氏も滅ぼされることになりました。
実はこのとき、頼朝は奥州藤原氏の討伐の許可を法皇に願い出ましたが、朝廷は許可しなかったため、独斷で奥州藤原氏を滅ぼしたそうです。これは歴史上とても重要なことで、もはや頼朝の支配力は、法皇も抑えられなくなっていたことを意味します。
鎌倉幕府のスタートが、以前の教科書では頼朝が征夷大将軍を賜った1192年とされていたのに、現在の教科書では平氏を滅ぼした!185年になったのは、こんな背景があったからです。つまり、平氏を滅ぼした時点で、頼朝は鎌倉幕府としての実権を握っていたと考えられるということです。
政治の実権を手に入れた頼朝は、御恩と奉公の関係を制度として確立していきました。御恩というのは、将軍が御家人に領地の支配を認めたり、 新たに領地を与えたりして、守護や地頭に任命することを言います。その代わりに、 御家人は将軍のために警備の仕事をし、場合によっては一族を率いて戦いに出ることになります。そして御家人は農民を支配し、年貢を納めてもらうことで生計を成り立たせるというものです。
地頭となった武士は、荘園にやかたを構えました。この館の原型は貴族の住まいだった寝殿造だと言われており、武士の生活に合わせて御家人が集まる場所や、防衛のための設備が用意されていました。そして武士は戦いに備えて、 武芸を鍛えていくようになりました。もっともこの時代は、まだ職業としての武士が確立されたわけではなく、農民も武器を取って戦いに参加していました。こうして荘園に対する地頭の支配が強まっていくと、これが後に国人領主となり、地方の国を治めるようになります。戦国時代に登場する、長宗我部や毛利、そして徳川のもとの姓である松平もこのようにして誕生した大名です。
守護は軍事や警察の役割を担いました。もともと義経を討伐するために一時的に権力が与えられて設置したものですが、その後も将軍が設置の実権を有することになります。これにより、平安時代からあった守護と地頭は、 幕府が掌握することになり、武士政権が確固たるものになっていきます。
3代将甲実朝の時に将軍をサポートして政治を行う執権という役職についていた北条義時が���そのまま幕府の権力を引き継ぐ形になりました。なお、恭時の父時政はこの執権政治(将軍の補佐役である執権が実質的な権力を有する政治)を企て、頼朝の血縁を暗殺していったという説が有力です。
源氏の血が途絶えたことで、結束力を失った鎌倉墓府の様子を見て、付け込んだのが後鳥羽上皇です。後鳥羽上皇は、頼朝によって奪われた政治の実権を天皇に戻そうとして、1221年、2代目執権となっていた北条義時を討つ倒幕命令を出しました。こうして承 久の乱が勃発します。
武士たちは倒幕命令が出されてうろたえますが、ここで頼朝の妻である北条政子が活躍します。政子は実朝が殺された後、形だけの将軍をサポートし、実質的に将軍職を担うようになりました。政子は出家して尼になっていたことから、尼将軍と呼ばれるようになります。その性格のキツさは現在に伝わるほど有名で、日本三大悪女の一人にも数えられているほどです。
政子は「将軍様の御恩を忘れたの?今立ち上がらないでいつ立ち上がるの!」と御家人たちを説得し、幕府軍の士気を高めました。そして有事の際にはすぐに出向くという意味で、「いざ鎌倉」という言葉が生まれました。
そのような無茶ぶりをされた泰時ですが、彼は非常に勉強熱心で、武芸の訓練も欠かさない、武士の鏡と言えるような人物でした。おごらず、冷静に戦略を立て、なんと朝廷軍に圧勝してしまいます。こうして泰時は、朝廷に武力で勝った初めての武士となりました。
承久の乱で勝利した幕府は、後鳥羽上皇を島根県の隠岐(島)へ配流し、朝廷の動向を監視するために六波羅探題を設置します。場所は清水寺の正面の坂を降りて行った辺りですね。この朝廷からも近い場所に幕府の人間を置くことによって、幕府を潰そうなどという動きがないかどうか、監視していたのです。これにより天皇家の権力は衰退し、武士が幕府で統治する世の中へと変わっていくことになります。
泰時が御成敗式目を制定した頃、中国ではチンギス・ハンをリーダーとするモンゴル帝国(元)が勢力を強め、啬髭をはじめ、中国とその周辺一帯を征服していました。
1274年、元はまず朝鮮半島から海を渡って日本の大宰府付近を襲って来ました。元は火薬を使えたので、まだ火薬を持たない日本は相当苦しめられたと言います。ところが暴風が襲ったため、元の船は大打撃を受け、撤退してひきました。この1度目の侵攻を文永の役と言います。
1281年、元は2度目の侵攻を試みました。ところが日本はこの間に上陸を防ぐため、海岸に石垣をつくり上げていました。そして元軍が上陸に手間取っているところに、またしても暴風が襲い、元軍の船はほぼ全滅したと言われています。これを弘安の役と言い、この2回の出来事を合わせて元寇と呼んでいます。
鎌倉幕府は戦いに勝利することで、相手の領地を奪い、御家人に分け与えるという方法で発展してきました。ところが、元宼は侵略からの防衛戦のため、勝っても土地は手に入りません。そのため、大規模な戦いで、大人数を送り込んだにもかかわらず、御家人は恩賞をもらえませんでした。御恩と奉公の関係 は、 あくまで御恩があるから成り立つ関係のため、御恩が得られなければ将軍についていく理由はありません。そ��ためなんとかして御家人に満足してもらえるように考え出したのが徳政令です。
徳政令とは、借金をなかったことにしてしまう借金取消令で、借りたお金を返さなくてもよいというものです。当時の御家人は決して裕福ではなく、借金をしなければ生活が成り立たない人が多くいました。そのため借金の取消をしてしまえば、御家人が払うお金が減り、生活が楽になるだろうと考えられたの
です。
鎌倉時代になると、真言宗と天台宗の2つだった仏教の宗派が多様化してきました。中でも鎌倉時代に開かれた6つの宗派は鎌倉仏教といって現在でも有名なため、簡単に紹介しましょう。なお、この6つは宗派としては独自のものですが、開祖はいずれも天台宗のお寺で修行した経験があります。
浄土宗は法然が開いた宗派で、「南無阿弥陀仏」が有名です。修行の価値を認めておらず、念仏を唱えることで極楽浄土へ行けるという教えのため、参入しやすく庶民に一番普及していきました。そのため、念仏と言えば「なんまいだー」という地位を獲得したのでしょう。
浄土真宗は法然の弟子であった親鸞が開いた宗派で、一向一揆を起こしたー向宗という名でも知られています。また、織田信長が攻撃した石山本願寺は浄土真宗のお寺です。このことからもわかる通り、浄土真宗は武力を有するお寺が比較的多い宗派でした。
日蓮宗は日蓮が開いた宗派で、恁莖崇とも言われています。その名の通り、法華経を中心として人の生き方を一体化させることを目指した宗教で、天台宗から派生した宗派です。「何妙法蓮華」というお経でも馴染みがある宗派で、創価学会もこの系統です。また織田信長が自害した本能寺も日蓮宗のお寺です。
時宗は一
2024/02/17 12:30
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学生の頃、歴史は次々と出てくる単語を記憶するだけの科目だった気がします。
この本を読んで、日本の歴史と世界が深く結びついていることや、時系列の流れがあることに、いまさらながら気付かされました。
私と同じように記憶の科目だと思ってる人にオススメします。