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Collectors Club 2000年10月9日(月) 名古屋 名古屋市公会堂【CD】 2枚組
ヌォヴォ・メタルの真実! この時期がなければ今の8人編成クリムゾンは存在しなかった!? 歴史的に軽んじられているこのラインナップこそロバート・フリップが長きに渡り追求して...
Collectors Club 2000年10月9日(月) 名古屋 名古屋市公会堂【CD】 2枚組
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曲目
- ディスク1
- Introductory Soundscape / イントロダクトリー・サウンドスケイプ
- Thela Hun Ginjeet / テラ・ハン・ジンジート
- Red / レッド
- The ConstruKction Of Light / ザ・コンストラクション・オブ・ライト
- Into The Frying Pan / イントゥ・ザ・フライング・パン
- FraKctured / フラクチャード
- ProzaKc Blues / プロザック・ブルース
- Improv I / インプロヴィゼイション Ⅰ
- Improv II / インプロヴィゼイション Ⅱ
- Larks Tongues In Aspic Pt IV / 太陽と戦慄 パート4
- ディスク2
- Dinosaur / ダイナソー
- Elephant Talk / エレファント・トーク
- VROOOM / ヴルーム
- Three Of A Perfect Pair / スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー
- The Worlds My Oyster Soup Kitchen Floor Wax Museum / ザ・ワールズ・マイ・オイスター・スープ・キッチン・フロア・ワックス・ミュージアム
- The Deception Of The Thrush / ザ・ディセプション・オブ・ザ・スラッシュ
商品説明
ヌォヴォ・メタルの真実! この時期がなければ今の8人編成クリムゾンは存在しなかった!? 歴史的に軽んじられているこのラインナップこそロバート・フリップが長きに渡り追求してきた究極クリムゾンへ最も接近していた!?
ダブル・トリオ運営が暗礁に乗り上げ、次のキング・クリムゾン・ラインナップを決めるために様々な組み合わせによるプロジェクトでのライヴを経て決まった4人編成クリムゾン。’69年のデビュー以来、この時点までで最もタイトなキング・クリムゾンとなった。クリムゾンの歴史の中では軽んじられている時期ではあるが、演奏面では現在の8人編成クリムゾンと並び最も緻密かつテクニカルだった時期の貴重な記録だ。
2004年まで継続し、『コンストラクション・オブ・ライト』、『パワー・トゥ・ビリーヴ』の2作品を発表したラインナップ。このコレクターズ・クラブ音源は2000年発表の『コンストラクション・オブ・ライト』に伴う日本ツアー11公演を記録したものを2カ月に分け発売。第1回は東京6公演、第2回は地方5公演を公開。
ダブル・トリオ時代はトニー・レヴィン、ビル・ブルフォード影に隠れていたトレイ・ガン、パット・マステロットが急成長。メタル指向を強める新クリムゾン体制の原動力となった。また、メイン・ソングライターであるエイドリアン・ブリューの作曲者としての才能がピークに達した時期でもあり’80クリムゾンとは明らかに違う、ヌォヴォ・メタル期ならではの不思議な魅力に満ちた楽曲が生まれた時期でもある。従来のクリムゾンに対するイメージを覆すヘヴィなブルースから、万華鏡のように目まぐるしくかつ緻密に変化していく高度な演奏スキルを要求される楽曲まで、ロバート・フリップの目指した理想の演奏ユニットを実現した時期のライヴ音源でもある。
コレクターズ・クラブとしての音質面でも前回1995年ツアー同様、すべてサウンドボード・レコーディング音源がマスターとなっており、完成度が高く緻密な演奏の細部まで明瞭に記録されている。2015年以来3年ぶりの来日が決まったキング・クリムゾンの現在のサウンドに直接リンクする貴重な音源と言って良いだろう。
(メーカーインフォメーションより)
アーティスト紹介
King Crimson
ロンドンで1969年に結成されたプログレッシヴ・ロック時代を代表するバンド。 こんにち、ピンク・フロイドやイエスなどとともにプログレッシヴ・ロックの代表格として数え上げられるキング・クリムゾン。その中心となるロバート・フリップの独特の思考法や、はっきりとしたテーマを掘り下げた音楽的探求の手法は、現在も他に類をみないスタイルだ。またクリムゾンが伝説として語られる要因は、彼らが現れた60年代後期から70年代初期の時期にかけて、彼らの音楽がロックの概念自体を揺るがすような刺激に満ちていた、ということが挙げられる。
キング・クリムゾンの母体となるジャイルズ・ジャイルズ&フリップが結成されたのは、1967年のことだった。英ボーンマスのカレッジに通いつつ、またパブでアルバイトをしながらリーグ・オブ・ジェントルメンで活動していたロバート・フリップ。後にクリムゾンの中心となる彼は、かの地でトレンドセッターズ・リミテッドというバンドに在籍したマイケルとピーターのジャイルズ兄弟と出逢いリハーサルを開始。その年の秋に、三人はロンドンに進出するが、たいした仕事を得ることもなく、レストランでシンガーのバック・バンドを務めるといった活動に留まった。
1968年に入りジャイルズ・ジャイルズ&フリップと名乗るようになった彼らは、間もなくデッカ・レコードとの契約に漕ぎ着けた。6月には元インフィニティのイアン・マクドナルドと、その恋人であるジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)がグループに加わりレコーディング。9月に早くもアルバム ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ を発表したが、この直後ジュディが抜け、イアンの友人で元インフィニティのピート・シンフィールドが加入している。
ピート・シンフィールドの提案でキング・クリムゾンと改名することを決めたグループだったが、この頃ピーター・ジャイルズが脱退、新たに元ゴッズのグレッグ・レイクが加入している。そして翌1969年に入りいよいよクリムゾンの歴史が始まる。
1969年初頭からリハーサルを重ねたクリムゾンは、同時期にEGミュージックに籍を置くことになった。また春までに彼らは二度のギグを行い、その凄まじく斬新なプレイで音楽関係者の間で大評判を得るのだった。そして彼らは当初トニー・クラークのプロデュースによりデビュー・アルバムのレコーディングを開始。この時は結果的にトニーが手に余るグループ、として手をひき、録音が中断されたため、夏ごろからセルフ・プロデュースにて録音をやり直している。
1969年10月デビュー・アルバム クリムゾン・キングの宮殿(In The Court Of The Crimson King) はリリースされた。狂気すら滲む名曲“21世紀の精神異常者”などを収録した本作は発表当初から各方面にて高い評価を得た。そして70年2月、あのビートルズ アビー・ロード を押さえ、全英チャート首位に。早くもキング・クリムゾンは来るベきプログレッシヴ・ロックの時代を代表するグループとなったのだった。
クリムゾン・キングの宮殿(In The Court Of The Crimson King) 発表後、グループは全英、そして全米ツアーに出る。しかしこのアメリカ・ツアーでの体験に大きなプレッシャーを感じたイアンとマイケルがロス滞在時にツアー終了時の脱退を表明。ロバート・フリップはこの時自分が抜けるので二人にグループを続けるよう説得したと言われているが、帰国後結局二人は脱退。またこの頃からグレッグ・レイクが渡米時に意気投合したキース・エマーソンとグループを結成するのでは(後のEL&P)、という噂が流れ始める。セカンド・アルバムの制作に着手し始めたフリップとシンフィールドは、グループのメンバーが流動的なこともあって、英ジャズの俊英、キース・ティペット(p)、ピーターとマイケルのジャイルズ兄弟、元サーカスのメル・コリンズ(sax,fl)、元The Fleur de Lys、キューピッド・インスピレーションのゴードン・ハスケルを迎え入れて、 ポセイドンのめざめ(In The Wake Of Poseidon) をレコーディング。同作は1970年5月にリリースされた。しかしこの作品発表前にグレッグ・レイクがかねてから噂のあったEL&P結成のために脱退。マイケル、ピーターのジャイルズ兄弟もイアン・マクドナルドとのマクドナルド&ジャイルス結成のために、フリップのもとを去っていった。
流動的な形態というグループの形を早くも見せ始めたクリムゾンは、1970年12月にサード・アルバム リザード(Lizard) を発表。ここでのメンバーはフリップ、シンフィールドという両巨頭に、メル・コリンズ、ゴードン・ハスケル、アンドリュー・マカロック(ds)という顔ぶれで、更に多数のゲストを迎えて完成させている。しかしアルバム発表の二日後にハスケルが(ソロへ転身)、次いでマカロックが脱退(グリーンスレイド結成のため)。
1971年の年明け前後に、クリムゾンはオーディションを行い新たな人選を行う。加わったのは元ニール・イネス・ワールドのイアン・ウォーレス、新人のボズ・バレル(vo,b)の二人。なおボズ・バレルもともとヴォーカリストとして起用したにも関わらず、同時期に加入したリック・ケンプ(b)が二回のリハーサルのみで脱退してしまったため、急遽ベーシストの座に就くことになったのだった。
メンバーを整えたクリムゾンは1971年にライヴ活動を再開。欧米ツアーを廻りながら、その最中にレコーディングされた通算4作目のアルバム アイランド(Island) を同年12月にリリース。また翌1972年2月~4月に米ツアーを再度行った彼らは、そのツアーの際に録音されたライヴ音源をライヴ作 アースバウンド(Earthbound) として英国で6月にリリースもしたが、これは音質が劣悪だったため米国のレーベル、アトランティックが発売拒否、また日本でも当初は発表されず終いだった(後にリリースされているが)。この出来事と前後するが、アイランド(Island) 発表時点で初期クリムゾンにおけるコンセプチュアルな部分で重要な役割を果たしたピート・シンフィールドが脱退。また米国でのツアーを終えたクリムゾンからコリンズ、バレル、ウォーレスの三人も脱退している。
グループ内の軋轢からグループが分解された状態となったキング・クリムゾンは、しかしフリップを中心に再編される。元イエスのビル・ブラッフォード(ds,perc)、元ファミリーで旧友のジョン・ウェットン (b,vo)、元リングスのデヴィッド・クロス(vln,key)、元アサガイ、サンシップのジェイミー・ミューア(perc)、そして作詞担当として、ウェットン の旧友リチャード・パーマー・ジェイムズが加入。
強力な布陣となったクリムゾンは1973年3月に 太陽と戦慄(Lark's Tongues In Aspec) を発表。同作は高い評価を受けたが、前年の1972年11月からスタートしていた英ツアー中の1973年2月(アルバム発表前)にミューアがライヴ・ステージから転落、ツアーの残りを4人で務めるというアクシデントもあった。なお結局ミューアはグループを脱退。そのまま音楽の世界から離れたと言われている。1973年暮れにツアーを終了した4人は、次作の制作に入り、翌1974年3月に 暗黒の世界(Starless And Bible Black) を発表。欧・米ツアーに入るが、7月のニュー・ヨーク公演を最後にデヴィッド・クロスが脱退。結果、グループは7月から残りの三人で新作のレコーディングに入る。イアン・マクドナルドやメル・コリンズといった元メンバー達に加え、ロビン・ミラーらといったゲスト陣を迎え、作品は完成。その作品 レッド(Red) は1974年10月に発表された。
しかしここでフリップが突然の解散表明。キング・クリムゾンの歴史は6年ほどで一旦幕を閉じることとなった。またその解散後には1974年の全米ツアーの模様を収録したライヴ・テイクに、エディ・ジョブソンのプレイをオーヴァーダビングして作られたライヴ・アルバム キング・クリムゾンUSA(U.S.A.) が発表されたり(1975年リリース)、ベスト盤 新世代の啓示:キング・クリムゾン・ベスト(Young Person's Guide To…) が1976年にリリースされたりしている。
キング・クリムゾン解散後、ロバート・フリップは、さまざまなアーティスト達との交流やソロ活動を経て、かつて在籍したグループと同じ名を持つリーグ・オブ・ジェントルメンなるセッション的なグループで活動した後、頭の中に着々と構想されていた新たな試みを実行に移すべく、1981年年明けからメンバー集めを開始。ブラッフォード、エイドリアン・ブリュー(g,vo)、トニー・レヴィン(b)というメンツでディシプリンを結成し、活動を始める。もともとはクリムゾンを名乗るつもりはなかったというこのグループだが、1981年4月のライヴを皮切りにその後行われた欧ツアーの中で、グループ名をキング・クリムゾンと改めた。
新生キング・クリムゾンは同1981年10月にアルバム ディシプリン(Disipline) を発表。ギター・ミュージックに拘った新たなアプローチによるサウンドで話題を呼んだ。その後クリムゾンは1982年6月に ビート(Beat) 、1984年4月には スリー・オブ・ザ・パーフェクト・ペアー(Three Of A Perfect Pair) を発表。しかしこの作品発表後、ツアーを行っていたクリムゾンは、帰国後フリップによってあっさりと解散が宣告されることになった。理由は自らの打ち立てたコンセプトが作品としてまっとうされた、というようなものだった。またこの解散後の1986年にはベスト盤 ザ・コンパクト・キング・クリムゾン(Compact…) がリリースされている。
一時期は、フリップの妻トーヤとのプロジェクト、サンディ・オール・オーヴァー・ザ・ワールド、あるいはクリムゾン加入が噂された元ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンとのシルヴィアン・フリップ辺りが次期のキング・クリムゾンに発展していくかに思われたが、結果的にそれは1994年1月の正式な復活表明によって覆された。第七期とされる新生キング・クリムゾンは、フリップのほか、エイドリアン・ブリュー、ビル・ブラッフォード、トニー・レヴィンに加え、ギター・クラフトというフリップ主宰のギター・スクールやオール・オーヴァー・ザ・ワールドにも関わっていたトレイ・ガン(g,b)、元Mr.ミスターのパット・マステロット(当初はジェリー・マロッタが予定されていた)という6人から成り、ギター、ベース(スティック)、ドラムスが各二名づつという「ダブル・トリオ」の編成だった。
同1994年、編集盤の スリープレス~コンサイス・キング・クリムゾン(Concise King Crimson)リリースと同時期にミニ・アルバム ヴルーム(Vroom) をリリースし、再始動した90年代のクリムゾンは、翌1995年3月に早くもフル・アルバム スラック(Thrak) を発表。同4月からワールド・ツアーを開始した彼らは、前年の1994年10月にアルゼンチンで行われたステージをDATで録音したというライヴ作 Bブーム・オフィシャル・ブートレッグ(B’Boom) をそのツアーの最中10月にリリース。
この後の90'sクリムゾン作品は1996年に発表された スラックアタック(Thrakattak) (スラック(Thrak) のインプロだけ抜粋して構成された作品)に留まり、あとは過去の音源が発掘リリースされたりした。2000年には コンストラクション・オブ・ライト(ConstruKction of Light)を発表。2002年には「ヌーヴォー・メタル」なる新たなるアプローチを試み、EP しょうがない(https://www.hmv.co.jp/product/detail/167854)を発表。新作への布石となった。そして2003年前述した「ヌーヴォー・メタル」の全貌が明らかとなるフル・アルバムパワー・トゥ・ビリーヴ(Power To Believe)が用意されている。(2003年1月現在)
冒頭に述べたような「刺激」が今のクリムゾンに明確に存在するか、といえば、なかなかそうは言えない、というのが本当のところだろう。彼らが到達しえた地点にあるような刺激は、再生産が許されないような性質を持っているため、常に真の意味でプログレッシヴな音楽を志向せざるを得ないといった厳しさを伴うのだろうと思う(余談ながらフリップはいわゆるスタイルとしての「プログレ/Prog Rock」という言葉を嫌うらしい)。しかしながらロバート・フリップは今もその知性を駆使しつつ、自らの音楽に殉じるかのようなシビアな佇まいを崩すことなく音楽に対面しているし、これからも自らの業であるかのように唯一無比なキング・クリムゾンの音楽を発動させ続けるに違いない。
メンバー
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