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  • 発売日:2024/02/14
  • レーベル:Berlin Classics *cl*
  • カタログNo.:BC0303304
  • 組み枚数:5枚
  • 発売国:Germany
  • フォーマット:CD
  • 国内送料無料

CD

交響曲第4番、第5番、第7番、第8番、第10番 ギュンター・ヘルビヒ&ザールブリュッケン放送交響楽団(5CD)【CD】 5枚組

ショスタコーヴィチ(1906-1975)

実演の迫力が素晴らしいショスタコーヴィチ名演集ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番(5CD)ギュンター・ヘルビヒ指揮ザールブリュッ...

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交響曲第4番、第5番、第7番、第8番、第10番 ギュンター・ヘルビヒ&ザールブリュッケン放送交響楽団(5CD)【CD】 5枚組

税込 6,270 57pt

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商品説明


実演の迫力が素晴らしいショスタコーヴィチ名演集

ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番(5CD)
ギュンター・ヘルビヒ指揮ザールブリュッケン放送響


ヘルビヒは1966年から1972年にかけて、ショスタコーヴィチと親しかったクルト・ザンデルリングと共にベルリン交響楽団を指揮しており、ショスタコーヴィチをレパートリー化。
  ここでの演奏は、2000年から2005年にザールブリュッケン放送響を指揮したもので、第4、5、7、10番は、間接音がほどよく残されたライヴ録音のため臨場感も豊か。スタジオ録音の第8番と音質的な遜色がなく、実演の迫力を十分なクオリティで味わえます。
  ヘルビヒのショスタコーヴィチは、いろいろなパートがよく聴こえるので、レニングラード交響曲のエンディングのブラスがブルックナー8番第1楽章第1主題のオマージュであることもよくわかります。

ドイツの名匠、ギュンター・ヘルビヒ
かつて東ドイツで活躍した指揮者には実力派が揃っていますが、ギュンター・ヘルビヒもそのひとりです。ヘルビヒはヘルマン・アーベントロートに師事し、最初の仕事もアーベントロートが音楽監督を務めていたワイマール国民劇場で得ています。

1956~1966 劇場指揮者
1956年、ワイマール・ドイツ国民劇場の指揮者として契約。1948年に戦後ドイツで最初に再建された劇場。1962年にはベルリン郊外のポツダムにあるハンス・オットー劇場の音楽監督に就任。ヘルビヒは劇場指揮者を10年ほど務める一方で、ヘルマン・シェルヘン、アルヴィド・ヤンソンス、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指導を受け、コンサート指揮者に転向することになります。

1966~1972 ベルリン交響楽団 指揮者
35歳の年に着任したベルリン交響楽団では、首席指揮者のクルト・ザンデルリング[1912-2011]と共に6年間働いています。ザンデルリングは、ショスタコーヴィチの友人で、1960年に東ドイツに来てからも親交が続いていたほか、マーラーの権威としても知られていたので、ヘルビヒにとっては得難い先輩同僚でした。

1972~1977 ドレスデン・フィル 芸術監督
クルト・マズアの後任としてドレスデン市の音楽総監督&ドレスデン・フィルの芸術監督に就任。毎年、オーケストラと共に世界各地にツアーをおこなっており、日本にも来ています。また、クレンペラーの補佐としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者になっていたザンデルリングの誘いで、ヘルビヒも1973年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団に客演しており、以後、BBCとも仕事をするきっかけになっています。

1977~1983 ベルリン交響楽団 首席指揮者
ザンデルリングが定年になったため、ベルリンから市の音楽総監督&ベルリン交響楽団首席指揮者として迎えられます。首席指揮者退任後のザンデルリングも頻繁に客演していたため、ベルリン交響楽団のコンサートはとても充実していました。

1977 新ホール建設の決定
戦争被害のため廃墟と化していたベルリンの演劇用ホール「シャウシュピールハウス」を、コンサート用のホールとして新たに建て替えることがに政府により決定し、1979年に工事が開始。ヘルビヒは喜び、ベルリン交響楽団が最優先で使えるよう政府との約束をとりつけ、1981年には工事中のホールで「工事現場コンサート」も開催。ヘルビヒがホールの使用条件にこだわった背景には、ドレスデン・フィル時代の苦労がありました。

1983 約束反故に対し抗議の辞任
10月、翌年に開場予定のシャウシュピールハウスの優先使用の約束が取り消され、単なる本拠地としての使用となったことに抗議してヘルビヒは辞任。これにより、SED(ドイツ社会主義統一党)から睨まれ、翌年、東ドイツを去ることになります。ちなみにベルリン交響楽団がシャウシュピールハウスを優先使用できるようになるのは、ドイツ再統一から2年が経過した1992年のことでした。

1984 アメリカに移住
ドラティの後、空席が3年間続いていたデトロイト交響楽団の音楽監督に就任。ミシガン州に居を構え、以後、トロント交響楽団、ハーグ・レジデンティ管弦楽団、ボルティモア交響楽団、ザールブリュッケン放送交響楽団、台湾フィルハーモニック、グラン・カナリア・フィルを中心に、世界各地のオーケストラを指揮。40年を経た今も現役です。

 ギュンター・ヘルビヒ 3タイトル同時発売

◆ マーラー:交響曲第5、6、9番、他(3CD+ボーナスCD)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番(5CD)
◆ ブラームス:交響曲全集、ベートーヴェン「英雄」、他(5CD)


 目次

◆ トラック・リスト (楽曲 & 演奏時間情報)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2000)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2004)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)


◆ ヘルビヒ年表
1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 2023

◆ ショスタコーヴィチ年表
前史 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 

◆ 年表付き商品説明ページ一覧

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 トラック・リスト (楽曲 & 演奏時間情報)

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調 Op.43 (56:19)

【関連時系列】

1928年 (21~22歳)

◆ ガヴリール・ポポフ[1904-1972]が、交響曲第1番の作曲に着手。ポポフはレニングラード音楽院在学中でショスタコーヴィチの学友。


1932年 (25~26歳)

◆ 9月、モスクワのボリショイ劇場とプラウダ紙が主催する十月革命15周年記念作曲コンクールに、ポポフが大編成オーケストラを用いた3楽章構成の作品、交響曲第1番を出品し、ピアノ版を試演。審査員はグネーシン、ゴロワノフ、ゴリデンヴェイゼル、ミャスコフスキー等。

◆ ショスタコーヴィチ、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。


1933年 (26~27歳)

◆ 10月14日、作曲コンクールの審査結果が発表され受賞者は賞金を獲得。1位:該当なし。2位:ポポフ、シャポリーン[1887-1966]の交響曲第1番、シェバリーン[1902-1963]の交響曲「レーニン」 (マヤコフスキーの詩による)。ポポフの作品は賛否両論。


1934年 (27~28歳)

◆ 1月、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」初演。ロシア帝国時代の階級社会問題を、殺人や性的な描写も盛り込んで表現したこともあって大成功を収め、ほぼ2年もの間、ショスタコーヴィチに月額1万~1万2千ルーブル前後という巨額の収入をもたらします (一般労働者の30~60倍ほど)。

◆ 春、ショスタコーヴィチ、作曲家同盟レニングラード支部で、交響曲第4番のコンセプトが「祖国防衛」であると発表。

◆ ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の曲想を練るために巡洋艦オーロラに乗船し、第1楽章のラフ・スケッチを書いたりしますが、なかなか捗らなかったため、その後、「祖国防衛」コンセプトは破棄。スケッチは6分ほどの断章として現存。

◆ ショスタコーヴィチ、レニングラード市の区議会議員に選出。

◆ ポポフが交響曲第1番を改訂し最終版を完成。

◆ 12月1日、セルゲイ・キーロフ、レニングラードで暗殺。

◆ 12月末、ショスタコーヴィチ、レニングラード・プラウダ紙に「我々は大いなる時代のトランペッターにならなければならない」と題する論説を寄稿。交響曲第4番が大きな理念と大きな情熱をもったモニュメンタルで綱領的な作品になるだろうとし、キーロフへの弔意を示すと共に、キーロフの記憶にふさわしい作品を書くことがすべての作曲家に求められるとしていました。トランペッターは、黙示録のラッパ吹きではなく、進軍ラッパ吹きを意味すると考えられます。


1935年 (28~29歳)

◆ 3月、レニングラードの文化行事レパートリー管理局の局長オブノルスキーがポポフの交響曲第1番を演奏しないよう指示。

◆ 3月、レニングラードのレパートリー委員会が、ポポフの交響曲第1番に対する局長の指示を拒否。

◆ 3月22日、ポポフの交響曲第1番が初演。演奏はフリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィル。ショスタコーヴィチと親友ソレルチンスキーらも出席。シュティードリーはマーラーの弟子で、シェーンベルクと非常に親しく十二音作品のソ連初演も指揮。語学も含めて博覧強記な教育者のソレルチンスキー[1902-1944]はフィルハーモニー協会でも活動。大のマーラー好きでもあり、ショスタコーヴィチにマーラーの魅力を伝えています。

◆ 3月23日、ポポフの交響曲第1番に演奏禁止令。オーケストラ作品としてはソ連初の禁止措置。「我々に敵対する階級のイデオロギー」という理由。

◆ 4月、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番のためにシンプルで表現力豊かな音楽語法を模索していると発表。

◆ 9月13日、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の作曲を開始。年末までの約3か月で第1楽章と第2楽章を完成。ポポフの交響曲第1番が禁止措置を受けた直後の4月には、シンプルな音楽語法を模索していると発表していたショスタコーヴィチですが、離婚の危機も去って安心したのか、まるでポポフへの連帯を示すかのように、複雑な音楽語法のポポフの交響曲第1番と同じアウトラインを設定。

  ● 3楽章構成の大作。
  ● 大編成オーケストラを使用。
  ● マーラーやロシア・アヴァンギャルドなど他作品の要素をオマージュ的に投入。

当時のショスタコーヴィチは人気絶頂だったため、自分なら大丈夫だろうと考えていた可能性があります。

◆ 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、アメリカ初演後、その内容が不道徳であるとして、アメリカでは「ポルノフォニー」などと揶揄する批評も登場。

◆ 夏頃まで親しくしていた通訳のエレナ・コンスタンティノフスカヤ[1914-1975]が、何者かの告発により逮捕され収監。


1936年 (29~30歳)

◆ 1月28日、プラウダ紙が社説で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を荒唐無稽と批判。2年ものあいだ大人気を容認していたにも関わらず突然の方向転換でした。ショスタコ―ヴィチは、数か月前まで親しくしていたエレナが少し前に逮捕・収監されていたことから動揺。

◆ 2月5日、プラウダ紙が論説「バレエの偽善」で、集団農場「明るい小川」を扱ったバレエの台本を批判。背景には、反ソ連プロパガンダとして非難されたりしていたミハイロフスキー劇場の関係者問題 (=台本作者)があったと考えられます。

◆ 収監されていたエレナ・コンスタンティノフスカヤが釈放。

◆ ショスタコーヴィチの収入が激減。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の上演自粛により、収入が月額2千~3千ルーブルほどに減少 (一般労働者の7~15倍ほど。モスクワ音楽院教授たちの5~6倍相当)。

◆ 5月20日、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番を完成

◆ 5月30日 (第1子ガリーナ誕生の日)、ショスタコーヴィチ、自宅で交響曲第4番をピアノ試演。完成間もない総譜を置いたテーブルには、クレンペラー、シュティードリー、ガウク、グリークマン、ソレルチンスキーらが同席して鑑賞。グリークマンによると総譜の正面にはクレンペラーが着席 (クレンペラーは前年にはポポフの交響曲第1番を国外初演すべく動いていましたが演奏禁止措置により頓挫)。

◆ 8月、エジョフ率いるNKVDが大粛清を開始。

◆ 前年まで親しくしていたエレナ・コンスタンティノフスカヤが、ソ連使節団の一員として、内戦中のスペインで通訳として活躍。1937年8月から1938年2月までは、スペイン第22旅団司令官と第13国際旅団司令官の上級軍事顧問を務めるヴラジーミル・コルパクチ[1899-1961]の通訳を務め、帰国後、「赤旗勲章」を授与され、ほどなくレニングラード音楽院で外国語部門の教職を拝命。ちなみにスペインでは、ソ連から撮影に来ていたロマン・カルメン[1906-1978]という特徴的な名前のドキュメンタリー映画監督(既婚)と親しくなっており、このことがショスタコーヴィチの「カルメン」引用と関連付けられることもあったようです。

◆ 12月、交響曲第4番の初演 (12月11日)に向けてリハーサル開始。ポポフの交響曲第1番と同じく、フリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィルの演奏。

◆ 12月、交響曲第4番初演中止。レニングラード地区の作曲家同盟書記が同地区の党幹部を伴ってレニングラードの演奏会事業を運営するフィルハーモニー協会事務局を訪問。同協会監督でショスタコーヴィチのピアノ・デュオ仲間でもあるピアニストのイサイ・ミハイロヴィチ・レンジン[1903-1969]に対し、ショスタコーヴィチに自発的に初演撤回させるよう要請。2回目のリハーサル後にショスタコーヴィチは初演中止を発表。名目は終楽章を完成させるというものでした。


1946年 (39~40歳)

◆ ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の2台ピアノ編曲版を作成。自筆総譜は、指揮者のガウクが旅行中に紛失していたため、ショスタコーヴィチ自身がスケッチから編曲。ソ連作曲家同盟用にごく少数が作成された編曲譜。


1961年 (54~55歳)

交響曲第4番の総譜が復元。レニングラード・フィルでライブラリアンとして働いていたシャルマンが、書庫に保管されていた全楽器のパート譜を集め、ショスタコーヴィチの友人で作曲家のレヴォン・アトヴミャン[1901-1973]の主導で総譜化。アトヴミャンは当時、モスクワの国立映画交響楽団の芸術監督兼指揮者を務めていました。

交響曲第4番の初演に向け、演奏会事業を運営するモスクワ・フィルハーモニー協会のモイセイ・グリンベルク監督が、モスクワ・フィル音楽監督のキリル・コンドラシンに初演を打診。コンドラシンはピアノ編曲譜を見て承諾。

◆ 12月30日、交響曲第4番が初演。演奏はキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィル。

1962年 (55~56歳)

交響曲第4番の管弦楽総譜が出版。ソ連作曲家同盟が運営するモスクワの「ソヴィエツキー・コンポジートル」からの出版。

CD1 Track 1
第1楽章 Allegretto poco moderato-Presto (27:19)
00:00~12:52 呈示部 (12:52)
  00:00 序奏
  00:14 第1主題
  01:09 マーラー2番第1楽章254小節から変形引用
  02:02 抒情的エピソード (対旋律で第2主題を予告)
  03:23 第1主題 (トランペットで第2主題を予告)
  05:10 スケルツォ風エピソード
  05:45 マーラー7番第3楽章から変形引用
  06:24 第1主題
  07:03 第2主題
  08:19 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用
  09:28 スケルツォ風エピソード
  09:46 抒情的エピソード + チェレスタ
  10:10 第2主題 (ホルン) + カッコー動機
  10:44 第2主題 + 運命動機 (マーラー3番第1楽章から変形引用)
  11:47 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用
  12:08 第2主題 (チューバ) + カッコー動機

12:52~20:52 展開部 (08:00)
  12:52 第1主題
  14:47 弦フガート (第1主題)レオノーレ序曲風
  16:31 金管打楽器参加 (第1主題 + 序奏)
  07:17 ワルツ風 (第1主題)第2楽章第1主題暗示
  19:28 序奏

20:52~23:26 再現部 (02:34)
  20:52 序奏
  20:59 第2主題 + 第1主題
  21:41 第2主題 + 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用 (イングリッシュホルン)
  22:59 第2主題 + カッコー動機

23:26~27:19 終結部 (03:53)
  23:26 ヴァイオリン・ソロ
  24:54 第1主題 + マーラー9番第1楽章から変形引用


CD1 Track 2
第2楽章 Moderato con moto (09:10)

00:00~02:34 第1部 (02:34)
  00:00 主題A1
  01:22 主題A2
  01:44 主題A1

02:34~04:15 中間部 (01:41)
  02:34 主題B。交響曲第5番第1楽章第1主題に類似。

04:15~07:12 主部 (02:57)
  04:15 主題A1の弦楽による対位法的展開
  06:27 主題A1の木管による対位法的展開

07:12~08:40 中間部 (01:28)

08:40~09:10 終結部 (00:30)

CD1 Track 3
第3楽章 Largo - Allegro (19:50)
00:00~06:26 第1部 (A) (06:26)

06:26~10:17 第2部 (B) (03:51)

10:17~19:50 第3部 (A) (09:33)

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年3月5日、ザールラント州、ザンクト・イングベルト、インドゥストリーカテドラーレ (ライヴ)
  プロデューサー:マルクス・ブレンドレ
  エンジニア:トーマス・ベッヒャー

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 Op.47 (49:01)


CD2 Track 1
第1楽章 Moderato (17:13)
00:01~08:12 呈示部 (08:11)
  00:01 序奏主題
  00:30 第1主題
  04:55 第2主題 (「カルメン」~「ハバネラ」のラムール)

08:12~11:52 展開部 (03:40)

11:52~15:31 再現部 (03:39)
  11:52 第1主題
  13:24 第2主題

15:31~17:14 終結部 (01:43)

CD2 Track 2
第2楽章 Allegretto (05:24)
00:00~01:51 第1部 (A) (主部) (01:51)

01:51~03:23 第2部 (B) (中間部) (01:32)

03:23~05:09 第3部 (A) (主部) (01:46)

05:09~05:24 終結部 (B) (00:15)

CD2 Track 3
第3楽章 Largo (14:30)
00:00~03:12 第1部 (A) (03:12)

03:12~04:05 第2部 (B) (00:53)

04:05~06:00 第3部 (A) (01:55)

06:00~08:17 第4部 (C) (02:17)

08:17~10:01 第5部 (A) (01:44)

10:01~11:48 第6部 (C) (01:47)

11:48~12:48 第7部 (A) (01:00)

12:48~13:47 第8部 (B) (00:59)

13:47~14:30 終結部 (C) (00:43)


CD2 Track 4
第4楽章 Allegro non troppo (11:54)
00:00~02:22 第1部 (A) (02:22)

02:22~03:11 第2部 (B) (00:49)

03:11~03:41 第3部 (A) (00:30)

03:41~05:51 第4部 (B) (02:10)

05:51~08:02 第5部 (A) (02:11)

08:02~11:54 終結部 (03:52)

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年9月9日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー、エンジニア:マルクス・ブレンドレ

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ハ長調 Op.60 (68:39)


CD3 Track 1
第1楽章 Allegretto (25:19)
00:00 ~05:50 呈示部 (05:50)
  00:00 第1主題群
  01:57 第2主題群

05:50~18:13 展開部 (12:33)
  05:50 第1変奏(第2主題群)
  06:32 第2変奏(第2主題群)
  07:10 第3変奏(第2主題群)
  07:49 第4変奏(第2主題群)
  08:59 第5変奏(第2主題群)
  09:38 第6変奏(第2主題群)
  10:15 第7変奏(第2主題群)
  10:54 第8変奏(第2主題群)
  11:33 第9変奏(第2主題群)
  12:10 第10変奏(第2主題群)
  12:50 第11変奏(第2主題群)
  13:27 第12変奏(第2主題群)
  14:02 第13変奏(第2主題群)
  14:33 第14変奏(第2主題群)
  14:47 第15変奏(第2主題群)
  15:07 第16変奏(第2主題群)
  15:22 第17変奏(第2主題群)
  15:32 第18変奏(第2主題群)
  15:59 第19変奏(第1主題群)
  16:27 第20変奏(第1主題群)
  17:34 第21変奏(第1主題群)

18:13~22:02 再現部 (03:49)
  18:13 第2主題群
   19:42 ファゴット・ソロ

22:02~25:19 終結部 (03:17)
  22:02 第1主題群
  23:20 第2主題群
  24:34 結尾

◆ 展開部の主題
かつてテレビCMでも使われていた展開部のコミカルな旋律について、後半の下行部分は、ヒトラーが好きな作品だったからという理由で「メリー・ウィドウ」由来とも言われています。

◆ 包囲下でも上演されたオペレッタ
しかし、「メリー・ウィドウ」や「伯爵夫人マリツァ」、「小鳥売り」をはじめとする独墺オペレッタは、包囲下のレニングラードでもほかのオペレッタや演劇と同じく上演を継続していました。大規模な劇場やレニングラード・フィルは、ドイツ軍の攻撃が激化すると疎開しましたが、広大なレニングラードには、残って働く歌手や劇団員、放送オケなどの音楽家も数多くおり、ソ連最大の軍需工場地域に勤めるレニングラードの人々や軍人、市民などを過酷な環境の中で支えています。

◆ 第2主題からの生成
そうした多くの人々が楽しみとしているものを、ショスタコーヴィチが悪者仕立てにするとはとても思えないことから、広く流布している「メリー・ウィドウ」由来説には無理があります。第2主題群から生成された旋律であると思われます。

CD3 Track 2
第2楽章 Moderato (poco allegretto) (10:54)
00:01~04:45 第1部 (A) (主部) (04:44)
  00:01 主題A1 (第1楽章第1主題変形)
  01:29 主題A2
  04:14 主題A1 (第1楽章第1主題変形)

04:45~07:05 第2部 (B) (中間部) (02:20)
  04:45 主題B1
  05:46 主題B2 (交響曲第5番第4楽章冒頭変形)
  06:19 主題B1

07:05~09:47 第3部 (A) (主部) (02:42)
  07:05 主題A1 (第1楽章第1主題変形)
  07:37 主題A2

09:47~10:55 終結部 (A) (01:08)

CD3 Track 3
第3楽章 Adagio (16:35)
00:01~06:47 呈示部 (06:46)
  00:01 第1主題
  00:30 第2主題
  01:11 第1主題
  01:42 第2主題
  02:58 第3主題 (フルート)
  05:31 第2主題

06:47~09:18 展開部 (02:31)
  06:47 第3主題
  08:34 第1主題
  08:58 第2主題

09:18~13:10 再現部 (03:52)
  09:18 第1主題
  09:40 第2主題
  10:14 第1主題
  10:56 第3主題 (ヴィオラ)

13:10~16:36 終結部 (03:26)
  13:10 第1主題
  13:46 第2主題

◆ ストラヴィンスキーとブラームスへのオマージュ?
この美しいエレジー楽章には、いくつかのオマージュ的な要素が感じられます。第1主題は、ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲や、「ラ・フォリア」を思わせる音楽。第2主題はブラームスの交響曲第1番第2楽章の感傷的な部分、第3主題は同曲第4楽章序奏部の前半ピツィカートと後半フルートといった具合で、展開部もどこかブラームスのハンガリー舞曲風です。


CD3 Track 4
第4楽章 Allegro non troppo (16:08)
00:01~06:02 第1部 (A) (06:01)
  00:01 主題A1
  01:22 運命動機
  01:33 主題A2
  04:00 ギャロップ風(主題A2)
  04:52 軍楽風(主題A1)
  05:22 ブリッジ(主題A2)

06:02~09:33 第2部 (B) (03:31)
  06:02 主題B(サラバンド風)

09:33~16:09 第3部 (C) (06:36)
  09:33 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  09:40 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  10:58 運命動機
  11:07 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  11:19 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  11:43 運命動機
  12:01 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  12:21 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  12:37 第1楽章第1主題後半変形
  14:08 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  14:32 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  14:54 第1楽章第1主題再現
  15:28 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)

ベートヴェンは革命の音楽
ベートーヴェンの音楽はロシア帝国時代からロシア音楽協会と各支部の活動によって全国で演奏され、民衆をたのしませるだけでなく鼓舞する音楽としても普及。帝政打倒後はさらに好まれ、革命の音楽として位置づけられています。ここでは長丁場の曲の終盤での注意喚起的な効果を発揮。

ブルックナーは巨大さの象徴
ソ連ではブルックナーについては1920年代からアーベントロートやクレンペラーによって演奏会で紹介されるようになり、1930年代からはムラヴィンスキーも参入して4番と9番などを指揮。戦時中もブルックナー演奏はおこなわれており、1944年7月にはムラヴィンスキーにより、ブルックナー7番第1楽章、ショスタコーヴィチ5番第2楽章、モーツァルト協奏交響曲K.364第2楽章とチャイコフスキー5番第4楽章というプログラムでも演奏。
  ソ連では文化については「有害」という概念はあっても、「敵性」という概念は無かったようで、このレニングラード交響曲でのブルックナー引用も、なにか巨大なものを象徴させることが目的とも考えられます。
  ちなみにブルックナー8番は、1927年4月にクレンペラーがレニングラード・フィルとソ連初演していました。
  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2000年9月8日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー:トーマス・ライジヒ
  エンジニア:エーリヒ・ハイゴルト

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ハ短調 Op.43 (62:59)

栄誉と悲しみの中で作曲
1941年に作曲した交響曲第7番「レニングラード」が、1942年に各国で成功を収めたことで、ショスタコーヴィチは米ライフ誌の表紙を消防訓練姿で飾るなど国際的な知名度を獲得。
  国内でも1941年と1942年にスターリン賞第1席を続けて受賞 (賞金計20万ルーブル、現在換算で約3,800万円)、「ロシア共和国功労芸術家」の称号も授与されたことで地位を一気に高め、芸術問題委員会顧問と全ソ文化連絡協会、作曲家同盟の仕事も任され、モスクワの演奏を管理する団体「フィルハーモニー」での発言力も増していました。
  そして翌1943年の1月末には、ソ連政府によってスターリングラードの解放宣言とレニングラードの勝利宣言がおこなわれ、その約5か月後の1943年7月にはショスタコーヴィチは交響曲第8番の作曲に取りかかっています。
  しかしレニングラードが完全に解放されるのはさらに1年後の1944年1月の終わりのことですし、1943年2月中旬に食料や燃料の配給がおこなわれるようになって餓死・凍死の恐怖は去ったとはいえ、逃げ惑う人々を虐殺するドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊による砲撃と爆撃、機銃掃射はショスタコーヴィチの故郷ではまだ続けられていたのです。

作曲風景
じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチのことなので、着想時期はわかりませんが、実際の記譜作業はモスクワの自宅で1943年7月に開始され、月末に第1楽章を完成。モスクワの南約500キロのクルスクで戦いが始まった8月には、反対側のモスクワの北東約200キロのイヴァノヴォの保養施設「作曲家の創造と休息の家」に移り、第2楽章から第5楽章までを9月中に完成させています。
  「作曲家の創造と休息の家」は、ソ連作曲家同盟が貴族の大きな館を宿泊施設に改造したもので、近くには養鶏場や農園もあって食事に困らないことから、ハチャトゥリアン、プロコフィエフ、グリエール、そしてムラデリらも滞在しており、夕方には皆でバレーボールに興じたりするような余裕のある状態だったため、ショスタコーヴィチの心身も健康だったと考えられます。
  また、ハチャトゥリアンによると、ショスタコーヴィチの書斎からはピアノの音が聴こえなかったということなので、まさに、じっくり構想していたものを一気に外に出していたということなのでしょう。
  ちなみにクルスクの戦いでは、3週間ほどでティーガーやパンターなど最新戦車を大投入していたドイツ軍が敗走しています。
  なお、同じ頃、妻のニーナは旧知の間柄の物理学者、アルチョム・アリハニアンから共同研究に誘われ、アルメニアのアラガツ山の標高3,250m地点で宇宙線を調査する高地探検隊に参加。アリハニアンと女性科学者のティナ・アサティアニと共に、空気シャワーの構造研究で新たな発見をおこなっています。この驚きの出来事により、以後、ニーナはモスクワの南約2千キロのエレヴァン (とアラガツ山)に何度も長期出張して共同研究をおこない、やがて1954年12月、実験に伴う放射線障害により45歳で急死するまでの11年間、モスクワとの二重生活を送ることになります。そしてニーナの葬儀の時にポータブル・レコード・プレーヤーで流していたのがこの交響曲第8番でした。

作曲時期の戦争犠牲者
戦局は確かにソ連優勢に転じてはいましたが、一方でドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊によるレニングラード攻撃はまだ続いており、同所での累計死者数はソ連側戦闘員が約40万人、レニングラード市民が少なくとも包囲下で60万人以上餓死させられており、避難時にもドイツ軍などの砲撃や爆撃で約40万人が虐殺されていました。
  1939年の国勢調査ではレニングラード市の人口は約319万人で、1944年1月解放宣言時の人口は約60万人。徴兵と疎開、移住で多くが不在だったとはいえ、まさにジェノサイドです。

レニングラード大虐殺とは無関係だった第7番「レニングラード」
交響曲第7番はレニングラードの犠牲者がまだあまり多くない1941年9月末までにレニングラードで第1・2・3楽章を作曲しており、しかも構想そのものは戦前だったという話も複数の人間によって証言されています。また、10月にはショスタコーヴィチ家に避難命令が出たことからレニングラードを後にすることになり、第4楽章が完成したのは遷都先のクイビシェフで12月のことでした。
  つまり第7番の作品構想にレニングラードの地獄絵図のイメージは含まれておらず、しかもレニングラード界隈はソ連最大の軍需工場地帯で、各地の赤軍部隊に兵器を送り出していたことから、戦意高揚的な音楽になったのは自然な成り行きだったということになりそうです。
  もっとも、第1楽章についてはいわゆる「侵略の主題」が、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」 (ショスタコーヴィチは前年に半年かけて改訂版を作成していました)のプロローグで民衆が廷吏に無理やり歌わされる新皇帝ボリスを待望する合唱「我らの父よ! 我らを誰の手におまかせなさるのか?」に似ていることや、構想が戦前ということを考慮すれば、スターリンと秘密警察NKVDと官僚らによる大粛清を暗に描いたものと見ることもできそうです。

レニングラード大虐殺との関係性が濃厚な第8番
1943年の交響曲第8番は、有史以来、最大の都市犠牲者を現在進行形で生み出し続けていた故郷レニングラードの戦いのさなかに作曲されているのですから、ショスタコーヴィチに明るい曲を期待する方が不自然というものです。
  そして、じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチの創作スタイルや、第7番との共通の動機の使用なども考慮すれば、この交響曲第8番こそレニングラードの戦いから受けた印象を反映させたものと考える方が時系列的には筋が通ります。


CD4 Track 1
第1楽章 Allegro energico,ma non troppo. Heftig aber markig (26:12)
0:01~10:57 呈示部 (10:56)
  00:01 序奏主題
  00:59 第1主題
  05:28 第2主題
  08:50 第3主題

10:57~16:53 展開部 (05:56)
  15:58 トルコ行進曲

16:53~24:08 再現部 (03:15)
  16:53 序奏主題
  17:55 第3主題(イングリッシュホルン)
  21:36 第2主題

24:08~26:13 終結部 (02:06)
  24:08 序奏主題
  24:40 第1主題
  25:17 序奏主題
イングリッシュホルンの虚無とかすかな安息
第1楽章展開部最後のトルコ行進曲と再現部の凄絶なトゥッティ、およびそれに続くイングリッシュホルンの3分を超える長大なソロの部分が有名です。
  これはレニングラード市民を死に追いやるドイツ軍をトルコ行進曲で描き、そのドイツ軍に対して1943年1月に大量の砲弾を撃ち込んだ赤軍のイスクラ作戦を描いたものとも見ることができ、戦闘後の虚無の中に響くイングリッシュホルン・ソロは、あまりの悲惨さに泣くこともできないレニングラード市民のようにも思えます。
  実際、レニングラードがドイツ軍の攻撃から解放されるのは、1944年1月に赤軍がドイツ軍陣地に対して2時間30分で約50万発の砲弾を撃ち込んで無力化した作戦でのことなので、それまでは市民の苦難は続いており、それが戦時に書かれた交響曲第8番の悲しみや奇想に繋がっているとも考えられます。


CD4 Track 2
第2楽章 Scherzo Wuchtig (06:16)
00:00~01:46 第1部 (A) (主部) (01:46)

01:46~03:46 第2部 (B) (中間部) (02:00)

03:46~04:37 第3部 (A) (主部) (00:51)

04:37~06:16 終結部 (01:39)

CD4 Track 3
第3楽章 Andante moderato (06:05)
00:00~03:17 第1部 (A) (主部) (03:17)

03:17~04:24 第2部 (B) (中間部) (01:07)

04:24~06:05 第3部 (A) (主部) (01:41)


CD4 Track 4
第4楽章 Finale. Allegro moderato (10:32)
  00:00~00:16 前奏 (00:16)
  00:16~01:09 主題 (00:53)
  01:09~01:54 第1変奏 (00:45)
  01:54~02:46 第2変奏 (00:52)
  02:46~03:41 第3変奏 (00:55)
  03:41~04:33 第4変奏 (00:52)
  04:33~05:35 第5変奏 (01:02)
  05:35~06:16 第6変奏 (00:41)
  06:16~07:14 第7変奏 (00:58)
  07:14~08:05 第8変奏 (00:51)
  08:05~08:53 第9変奏 (00:48)
  08:53~09:43 第10変奏 (00:50)
  09:43~10:32 第11変奏 (00:49)


CD4 Track 5
第5楽章 Finale. Allegro moderato (13:54)
00:00~04:31 第1部 (A) (04:31)
  00:00 主題A1
  01:21 主題A2
  01:55 主題A3
  02:51 主題A1

04:31~09:37 第2部 (05:06)
  04:31 主題A1展開
  08:06 第1楽章冒頭動機再現

09:37~13:54 第3部 (A) (04:17)
  09:37 主題A1
  10:21 主題A3
  10:45 主題A1

マーラー尽くしな音楽
第5楽章の主要主題と副次主題は、素材的にはマーラーの交響曲第9番第3楽章でのロンド主題とアダージョ予告部分を思わせるので、オマージュ的な要素も含意されていそうで、特に展開部最後はかなり露骨にマーラー・オマージュ風になっているのが興味深いところです。
  マーラーは交響曲第9番で第3楽章の後に美しいアダージョを置いていますが、ショスタコーヴィチの場合は、戦況が好転したとはいえまだまだ凄惨な戦いが続いていたこともあり、複雑で落ち着きのない音楽の中に、明るい方向性だけを示すのがやっとのような雰囲気です。

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2004年2月17日、ザールブリュッケン、ハルベルク・フンクハウス、音楽スタジオ1
  プロデューサー、エンジニア:マルクス・ブレンドレ

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ハ短調 Op.43 (55:26)


CD5 Track 1
第1楽章 Allegro energico,ma non troppo. Heftig aber markig (24:53)
00:01~10:09 呈示部 (10:08)
  00:01 序奏主題
  02:38 第1主題
  06:57 第2主題

10:09~14:15 展開部 (04:06)

14:15~21:38 再現部 (07:23)
  14:15 第1主題
  18:21 第2主題

21:38~24:54 終結部 (03:16)
「怒りの日」の変形?
主要素材はグレゴリオ聖歌「怒りの日」が変形されたものという見方をすると、序奏主題も第1主題も第2主題もその範疇に収まって来るので、単一の主題による巨大なモニュメントのような楽章と捉えることも可能です。

「あなたにとって私の名前は何ですか」の変形?
また、曖昧な部分もある素材なので、前年の1952年10月に書かれた「プーシキンの詩による4つのモノローグ」の第2曲「あなたにとって私の名前は何ですか」の引用とみることもできます。

ウストヴォリスカヤ
「プーシキンの詩による4つのモノローグ」は、親しかったウストヴォリスカヤに献呈した作品で、その第2曲は少しクヨクヨ系の未練がましいような印象もある曲です (ちなみに第1曲はユダヤ人家族のもとを深夜に訪れて重々しくノックする巡礼者の不気味さを描いていますが、巡礼者=ロシア帝国の秘密警察、オフラーナのことかもしれません)。
  また、ショスタコーヴィチは前年の弦楽四重奏曲第5番では、自分の名前を示すDSCH音型の変形と共に、ウストヴォリスカヤの「クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲」の旋律をそのまま組み込んでもいました。
  要するに第1楽章にはショスタコーヴィチの個人的な気持ちも関わっている可能性が高いということになりますが、ウストヴォリスカヤ作品の直接引用ではないのと、DSCH音型の変形使用も少ないことから、前年の弦楽四重奏曲第5番に較べれば、ウストヴォリスカヤへの思いは吹っ切れた状況と見ることもできます。

マーラー第9番第1楽章の影響
第1楽章は重々しくシリアスでモニュメント的な音楽ではありますが、マーラーの交響曲第9番第1楽章の第1主題も「怒りの日」の変形であることや、その第1楽章の巨大なフレームの影響を感じさせるところなども含めて、ショスタコーヴィチの音楽の多義性について改めて考えさせられるユニークな音楽に仕上がっていると思います。

CD5 Track 2
第2楽章 Scherzo Wuchtig (04:17)
00:00~01:22 第1部 (A) (主部) (01:22)
  00:04 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  00:14 主題A2
  00:25 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  00:34 主題A2
  00:47 主題A3

01:22~02:27 第2部 (B) (中間部) (01:05)
  01:22 主題B1
  01:41 主題B2 (「怒りの日」の変形)
  01:47 主題B1
  02:11 主題B2 (「怒りの日」の変形)

02:27~04:17 第3部 (A) (主部) (01:50)
  02:27 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  03:24 主題A2
  03:57 主題A3

大胆すぎるスケルツォ
第2楽章はスケルツォですが、本来の「主部・トリオ・主部」の3部構成ではなく、最初の「主部」のみの構成で、なおかつテンポが速いため、豊富な情報量にも関わらず時間が非常に短くなっています。その強烈なスピード感とダイナミズムはインパクト絶大で、第1楽章の重さから一気に気分転換を図る効果も十分です。

ボリス・ゴドゥノフの引用とスターリン
この楽章では「ボリス・ゴドゥノフ」の冒頭主題に似た旋律が使われていることからスターリンを描いたものとも言われてきました。ショスタコーヴィチは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では舅ボリスを毒殺した直後にカテリーナが嘆いているふりをする歌に「ボリス・ゴドゥノフ」の民衆の合唱の旋律を引用していたほか、交響曲第7番第1楽章の侵略の主題でも同じ旋律を変形使用していたので、プーシキンの描いた「ボリス・ゴドゥノフ」が悪玉だったことからもその素材が「悪の主題」という認識だったと考えられます。しかしどちらの場合も滑稽味を含んでいたことを考えると、このスケルツォ楽章での勇ましさと格好の良さは不思議ではありますが、実際にはスターリンはナチス・ドイツに打ち勝つなど悪い面ばかりでもなかったことから抽象化・圧縮して表現しているのかもしれません。

「怒りの日」の変形使用
第1楽章に続いて、ここでも「怒りの日」の変形素材が使用されています。最初は控えめに、次は力強く登場し、まるで「審判」をめぐる戦いの様相ですが、続く再現でのボリス・ゴドゥノフ風の主題はかえって強大なものとなっているのがなんとも皮肉です。


CD5 Track 3
第3楽章 Andante moderato (13:01)
00:00~03:48 第1部 (A) (主部) (03:48)
  00:00 主題A1
  01:10 主題A2 (+ DSCH音型)
  02:37 主題A1 (+ DSCH音型)

03:48~06:55 第2部 (B) (中間部) (03:07)
  03:48 主題B (エリミーラ音型)

06:55~11:04 第3部 (A) (主部) (04:09)
  06:55 主題A1
  08:18 主題A2 (+ DSCH音型)
  08:54 主題A1 (+ DSCH音型)

11:04~13:01 終結部 (B + A + DSCH音型) (01:57)
マーラーへのオマージュ
ホルンが活躍するマーラーの交響曲第5番第3楽章や、「大地の歌」第1楽章へのオマージュのような音楽。主題A1には第2楽章スケルツォの冒頭動機の変形が含まれ、主題A2にはDSCH音型が含まれるという構造で、その後、ホルンの特徴的な音型が12回も登場して目立ちますが、それはショスタコーヴィチの知人エリミーラを表していると考えられています。

エリミーラ
1947年からモスクワ音楽院で作曲を学んでいたユダヤ系アゼルバイジャン人のエリミーラ・ナジーロヴァ[1928-2014]への指導は、1948年9月にジダーノフ批判でショスタコーヴィチが解雇されたことで終わっており、その年にエリミーラは同郷のアゼルバイジャン人医学生と結婚してバクーに戻ってバクー音楽院で勉強を続け、やがてピアニスト、作曲家として活動を開始。

実際の関係
ショスタコーヴィチは1952年にバクーを2度訪れたほか、エリミーラもモスクワに仕事で何度も出向いていますが、2人の手紙のやりとりが頻繁だったのは1953年の夏から秋にかけて交響曲第10番を作曲していた時くらいなので、単にショスタコーヴィチのイメージ上のミューズだったのかもしれません。ともかく第3楽章でのホルンのエリミーラ音型にアプローチするDSCH音型は非常に情熱的で合体までしています。


CD5 Track 4
第4楽章 Finale. Allegro moderato (13:15)
00:01~04:56 序奏部 (04:55)
  00:01 動機1 (低弦)
  00:25 動機2 (オーボエ)
  01:12 動機3 (オーボエ、フルート)
  01:58 動機1 (低弦)
  02:14 動機2 (ファゴット)
  03:07 動機3 (オーボエ、フルート)
  03:41 第1主題予告

04:56~06:50 呈示部 (01:54)
  04:56 第1主題
  06:12 第2主題

06:50~10:57 展開部 (04:07)
  06:50 第1主題
  07:56 第2主題
  08:21 第1主題
  08:42 第2楽章素材
  09:11 DSCH音型
  09:24 序奏部素材 + 第1主題

10:57~12:08 再現部 (01:11)
  10:57 第1主題 (+ DSCH音型)
  11:48 第2主題

12:08~13:16 終結部 (01:08)
「怒りの日」も効果的
マーラーの交響曲第5番第5楽章へのオマージュのような音楽。序奏部は悲し気な美しさが印象的で、「怒りの日」の変形使用も効果的。じらしにじらされてから登場する第1主題はとても快活で第2主題はとてもワイルドでコミカル。

スターリニズムからの解放
展開部では第2楽章スケルツォの猛烈な音楽が再現されるものの、DSCH音型が最後にさえぎって打ち克ち、エネルギッシュな再現部へと繋げ、DSCH音が盛大に演奏される中、喜びのエンディングを迎えます。

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年4月10日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー、エンジニア:トーマス・ライジヒ

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 ヘルビヒ年表

 1931年/昭和6年 (0歳)

◆ 11月30日、ギュンター・ヘルビヒ、ドレスデンの南南東約48kmに位置する工業と農業の盛んな都市アウシヒ(チェコ語でウスティ)で誕生。同地は400年近くオーストリア領土だったことから、約5万人の住民の多くはオーストリア人やドイツ人で、ヘルビヒの両親もオーストリア人。略さない場合はドイツ語で「アウシヒ・アン・デア・エルベ」、チェコ語で「ウスティ・ナド・ラベム」となりますが、通常は略称が使用されていました。
  長くオーストリア領だっただけに、同地には劇場などの文化施設も数多くありました。


◆ オーストリア=ハンガリー帝国は1918年に崩壊し、1920年にはチェコスロヴァキア共和国が誕生。ズデーテン地方もチェコスロヴァキア領有となって11年目を迎えていました。

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 1932年/昭和7年 (0~1歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1933年/昭和8年 (1~2歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ コンラート・ヘンラインにより「ズデーテン・ドイツ郷土戦線」がチェコスロヴァキアのアシュで創設。アシュはバイロイトの北東約55km、アウシヒの南南西約150kmに位置する標高666mの国境の町。

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 1934年/昭和9年 (2~3歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1935年/昭和10年 (3~4歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ アウシヒの議会選挙で、投票者の約60パーセント「ズデーテン・ドイツ人党」(旧称:ズデーテン・ドイツ郷土戦線)を選択。

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 1936年/昭和11年 (4~5歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1937年/昭和12年 (5~6歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1938年/昭和13年 (6~7歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ 10月、ミュンヘン協定により、ズデーテン地方はドイツに割譲。ズデーテンラント帝国大管区が設置。
◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ アーベントロートがアウシヒに客演。

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 1939年/昭和14年 (7~8歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ 3月、ドイツによりチェコスロヴァキア占領。

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 1940年/昭和15年 (8~9歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスンを開始。

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 1941年/昭和16年 (9~10歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1942年/昭和17年 (10~11歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1943年/昭和18年 (11~12歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1944年/昭和19年 (12~13歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1945年/昭和20年 (13~14歳)

◆ ドイツ → チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ 4月、アメリカ軍の爆撃により、アウシヒ住民500人以上が殺害。
◆ 5月、赤軍がアウシヒに到着。親衛隊は逃げていたためほとんど戦闘はおこなわれませんでした。
◆ 7月31日、列車でプラハから動員された囚人約300人や兵士たちが、エルベ橋などでドイツ系民間人を虐殺。犠牲者数は被害者団体によれば最大4千人、チェコ側情報では40~100人と大きな開きがあります。

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 1946年/昭和21年 (14~15歳)

◆ 4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆ 4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ チェコスロヴァキア政府により、ズデーテン地方在住のドイツ民族約300万人を、土地・家屋没収のうえで追放する過酷な政策が実施。ドイツ東部の国境はすぐ近くですが、目的地は様々だったため、移動手段は貨物列車や荷車、自転車、徒歩などでした。



◆ アウシヒ在住のドイツ民族のうち約5万3千人が1946年4月までに追放。なお、アウシヒは工業の盛んな町だったので、工場稼働に必要なドイツ民族は残されています。

◆ ドイツ在住。

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 1947年/昭和22年 (15~16歳)

◆ ドイツ在住。

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 1948年/昭和23年 (16~17歳)

◆ ドイツ在住。
◆ 6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。これによりベルリンは経済的に分断。
◆ 6月24日、ソ連軍政局がベルリンを封鎖(1949年5月12日まで)。

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 1949年/昭和24年 (17~18歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ 4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
◆ 10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

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 1950年/昭和25年 (18~19歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ 10月、東ドイツ、第一回人民議会選挙。でSED70%の議席獲得。

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 1951年/昭和26年 (19~20歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


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 1952年/昭和27年 (20~21歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 2月、国家保安省(シュタージ)設置。
◆ 5月、東ドイツと西ドイツの間に国境が設定。国境から500m以内に居住する者は、強制的に退去。

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 1953年/昭和28年 (21~22歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


◆ 3月5日、スターリン死去。

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 1954年/昭和29年 (22~23歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


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 1955年/昭和30年 (23~24歳)

◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 5月6日、西ドイツがNATOに加盟。
◆ 5月14日、NATOに対抗するためワルシャワ条約機構が設立。
◆ 11月、西ドイツが再軍備を開始。

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 1956年/昭和31年 (24~25歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


◆ 1月、東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟。
◆ 3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。
◆ 5月29日、アーベントロート、イェーナで客死。

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 1957年/昭和32年 (25~26歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1958年/昭和33年 (26~27歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1959年/昭和34年 (27~28歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1960年/昭和35年 (28~29歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


◆ 夏、ヘルマン・シェルヘンがワイマール国際音楽セミナーでマスタークラスを開催したため受講。
◆ 9月、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記であるヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]が、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。

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 1961年/昭和36年 (29~30歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場。スパルタカス。ギュンター・イェーツラウ振付。


◆ 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆ 8月、ホーネッカーの指揮により「ベルリンの壁」建設開始。

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 1962年/昭和37年 (30~31歳)

◆ 東ドイツ在住。◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督に就任。ポツダムの劇場。


◆ 10月、キューバ危機。

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