紙の本
理性で情念を制御するところに芸術を見出すアラン
2008/02/04 14:36
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
アランの文章は好きなのだが、芸術について書かれた幾つかの文章はいまひとつ難解であった。光文社の新訳として出たので、「今度は読めるかも」と期待して手に取った。
「芸術」とはどのようなものであるか。最初に「創造的想像力」という総論の章があり、その後は「ダンスと装飾」「詩と雄弁」「音楽」「演劇」などの各論の章が続く。訂正をせずに書き記すアランであるが、最後に追記という形で補足をしているのは、この文章を従軍した先で書き綴った、という状況もあるのか、と想像させる。
最初の章「創造的想像力」で、アランは「想像に形を与えること」の大事さをまず強調する。これが「美」と「芸術」についてのアランの基本的考え方であろう。情念、情動を制御してこそ、好ましい姿「美」「芸術」が出現する、というところだろうか。このことをアランは各論の中でもくり返し書いている。
各論がまず「ダンスと装飾」という章ではじまり、、その最初が「軍隊とダンス」となっていることは、書かれた背景を考えれば仕方のないことかもしれない。しかし軍隊の行進を芸術としてあつかえるのかどうか、と疑問を感じてしまうのは時代のなせる仕業だろう。統制された集団の美しさというものは確かにあるだろうが、どうせなら戦争とは関係ないところでの「芸術」であってほしい、そういう感情移入をしてしまう。「雄弁」が取り上げられているのも、「雄弁も芸術?」と少し虚をつかれる感があるのは日本人だからだろうか。
そのほかの各論も、アラン独特の考えが散りばめられ、「うーん、こういう考え方もあるのか」というところも多かった。
「美しい!」とか「つらい!」とかの情動、情念という個人的なエネルギーを他人に伝えられる形にしたものが芸術、とするなら、アランの説く「理性での制御」ということもうなづける。しかし、アランは少しばかり「理性の優位」「情動を従わせる」と強調しすぎたように受けとれた。あふれる情念のエネルギーの流れを妨げるのではなく、流れを活かすように理性で調えて行く、というようなかたちが望ましいのでは、というのが「芸術素人」のたどりついた個人的な考えである。「七十而従心所欲、不踰矩(七十にして心の欲する所に従い、矩を超えず」という論語が思わず浮かんだのだが。
こちらの年齢もすすんだせいもあるだろうが、今回の翻訳は理解しやすく、最後まで読み通すことができた。「難しくて理解不能」から「文章は理解できそうだが納得は未定」ぐらいのところまでは進めたようだ。私と同様、以前途中で断念したかたももう一度トライしてみて欲しい。かなり特殊な芸術論かもしれないが、「美」「芸術」を考えたことのある方々に感想を聞きたいものである。
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まだそれほどくっきりと見えてもいないのに、人生について観念的に悩む時期でもある少女期に、ご多分にもれずわたしも人一倍あれこれなんだかんだと苦悩の日々を過ごしました。生きるとは・・・、愛とは・・・、死とは・・・、などの中に幸福とはということにも関心を持って、それで手にしたのがアランの『幸福論』(串田孫一・中村雄一郎訳、白水社、1975年)でした。少しして岩波文庫版(神谷幹夫訳、1998年)も手に入れました。『幸福論』は、言葉で概念を探究するものではなくて、日常生活を活き活きとさせるための、心の持ち方とか智恵を、ズバッと明確に示唆したアフォリズムが並んだ本で、すぐに私のお気に入りになりました。その後、このアランは、本名エミール・オーギュスト・シャルティエというフランスのリセの哲学教師で、我が愛するシモーヌ・ヴェイユの先生だったということを知った私は、彼女と同じようにアランに直接教わるようにしようと、真っ白いノートに向かって、ことばの概念とか自己省察とか社会や現象の定義などを書き留めるようになりました。たしかにあの時期、私はシモーヌ・ヴェイユになりたくてたまらなくて、顔とか髪とか服装とか身の回りをなるべくまったく気にせず、難民の子供たちが餓死していると聞くとお小遣いを募金したり、自分もあまり食べないでおこうとして栄養失調になったり、よくわかりもしないのに何冊ものむずかしい哲学書を開いたりしていました。もし許されれば、銃を持ってどこかの戦線に志願していたかもしれません。それはともかく、こうして小学生のころにしてきた、日記というものに、ありのままを書くという行為は、中学生になって思惟・省察ノートというものに、分析・内省するという行為に変わっていきました。そのようにして、まさに幸福なことに、私にとって哲学とは、何もむずかしい用語を覚えたり、それを駆使して論難したり新しがったりするものではなく、自分のことばでいかに精一杯いいつくそうとするかという、日常の分析的な行為として始まったのです。そして、その後、読み切れなかったヘーゲルを平易に読みやすく教えてもらったのが、この本の訳者の長谷川平蔵じゃなかった長谷川宏センセなのです。最初に読んだ『諸芸術の体系』(桑原武夫訳、岩波書店、1978年)にくらべて、なんと本書の読みやすくてスラスラ入って来ることでしょうか。もしかして私は、この本で、ダンス・詩・音楽・演劇・建築・彫刻・絵画・デッサン・散文・行進・曲芸など、わたしたちが人間として生きる日常生活のなかに、ありとあらゆる芸術と接することの大切さを教えてくれたアランの啓示通りに生きてきたのかもしれません。あるいは、シモーヌ・ヴェイユが、アランの第一次世界大戦へ志願兵として従軍したことにならんで、スペイン内戦に人民戦線派義勇兵として志願したひそみにならって。
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ダンス、行進、詩、音楽、演劇、建築、彫刻、絵画、デッサン、散文までの、様々な芸術活動の切り口から、それらの固有の美についての在り方を論じられている。
前提知識がない僕には始終難しい書物であったが、全体を通して、それらの芸術活動は、表現するという立場で作品を造っており、それを僕たちは見せられる立場にいて、表現したものをどういった尺度で見るか、感じるかということともに、作品を通じて造り手との対話を図ることが芸術活動において必要であり、そこが面白いと感じた。
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ダンス、装飾、詩、雄弁、音楽、演劇、建築、彫刻、絵画、デッサン、散文。以上の創作活動について、体系的な位置づけや意義について詳細に論じている。ただし、この体系は一般的なものではなく、あくまでもアラン先生独自の理解と解釈に基づく。上記の順番にも意味があり、動的な芸術から静的な芸術に至る連続性を保った位置づけを展開。ここが非常に興味深いところで、あらゆる分野の「体系」や「分類」といった考え方一般への興味も奮い立たせてくれるものだ。第一次世界大戦兵役中に書かれたこともあって、人生論的な内容もみられるが、これと芸術との関連性も大きな読みどころである。「幸福論」のように短い形式というわけではないが、難しい表現が少なく読みやすい。趣味であれ仕事であれ芸術に関わっている人ならば有益な考え方に触れることができるだろう。
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到底一度読んだところで理解のできる
簡単な本ではないものの、
その文章は、新訳ということも(?)あって
非常に心地のよい文章でありました。
彼はこの本を彼の当時の年齢としては異例の
激戦化で書き上げているのです。
おそらく、生命の危機が彼の
書く意欲をかきたてる起爆剤となったのでしょうか。
亡くなってしまった今、
それを確かめるすべはありませんが…
扱われているジャンルの多さには
目を惹かれますが、
完全な理解となると…これはきついですぞ。