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商品説明
「暴力はいけません」? 人はなぜ暴力を嫌悪しながら、暴力に魅せられるのか。この時代の危機とあらゆる暴力論を検証しつつ「反暴力」を構想する。「自由論」の著者による繊細にして苛烈な力篇。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
酒井 隆史
- 略歴
- 〈酒井隆史〉1965年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程満期退学。現在、大阪女子大学人文社会学部講師。専攻は社会学、社会思想史。著書に「自由論」などがある。
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紙の本
抵抗運動のための実用書
2006/05/28 12:30
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:24wacky - この投稿者のレビュー一覧を見る
9・11以降、日本では新しい平和運動のスタイルが生まれた。それは主にインターネットを介して、様々な団体はもとより、組織、階層による束縛のない個人同士の間においても、自然発生的に瞬時に沸き起こったフレキシブルなアクションであった。それまで特定の利害に対するリアクションとしての特定の団体の抗議行動がその主流であったものが、それらに属さないような個人が、「平和」という普遍的なテーマの下に「発見」されていったのが特徴だ。その勢いの中でデモ行進は「ピースウォーク」と呼ばれ、権力への敵対意識丸出しの従来のスタイルは忌避された。ここで掲げられた「テロにも戦争にも反対」という「圧倒的に正しいスローガン」に対して、著者は割り切れない思いが拭えない。そういった極めてアクチュアルな問題意識から本書は書かれている。
暴力を哲学するとは、暴力を批判すること。この「批判」とは、暴力を拒絶することではなく、「(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そのもののなかに線を引く」ということだ。つまり暴力という言葉の使われ方に対して疑義を質し、吟味した上で、先の理念に近づこうという真摯な意志によって貫かれている。
その中で重要なキーワードが「非暴力直接行動」。キング牧師やガンディーによるそれは、日本の「ピースウォーク」のように警察権力とも仲良くする「ピースフル」なものとは相容れないものだと著者は指摘する。座り込みやデモ行進などの「非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです」(キング)。つまり交渉の場に持っていくための巧みな戦術として必要なのだ。
キングの「危機感と緊張をつくりだす」という挑発的な言葉を、著者は「敵対性」という概念を挿入し、さらに吟味を加える。現在の日本の風潮では、「なにかあるシステムに対して『波風を立てる』こと自体が、ほとんど犯罪のように、しばしば『テロ』とみなされる傾向」がある。徹底して敵対性が回避された「市民社会」!政治への無関心!
一方で「戦争中毒」国家によるグローバルな再編に合わせた形で、この国の暴力は各種最悪法案の提出等が露出過多の状況にある。一方で「暴力はいけません」という「正し過ぎる」スローガンが叫ばれる。だがその漠然とした「正しい」モラルがかえって暴力に対する無感覚を肥大化する恐れがあるのではないか、と著者は危惧する。「敵対性と暴力を分けなければ、結局、暴力に直面しても聖人のようにふるまえ、という単なるモラル論、あるいは宗教論に帰着してしまうおそれがある。非暴力直接行動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力を控えることなのです。」
以上のことは、私が生活する「基地の島」沖縄での状況と照らし合わせると興味深い符号が見て取れる。労組、各種団体による抵抗の声。総決起集会、捻りハチマキ、たて看板、横断幕、シュプレヒコール、突き上げられた拳・・・。これら従来型の抵抗運動に対して、そこへ入ってはいけないが基地反対への思いを表現したい個人の声を掬い取る新しい運動の形も生まれつつある。一方で、一坪反戦地主・阿波根昌鴻の「伊江島の闘い」、現在の辺野古への普天間基地移設への反対運動に見られる、敵対する相手を招き、お茶を出すところから始める非暴力直接行動の継承がある(酒井氏はキングの説を柔術に例えているが、伊江島も辺野古もまさに柔術的ではないか!)。それらの敵対性を敵対性として認め、今後の運動の理論と実践を鍛える実用書として、本書の出現は大きい。
紙の本
恐怖と防衛のメカニズム3暴力的構造を打破するために・「非暴力」から「反暴力」へ
2004/08/06 12:26
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
グローバリゼーション下における貧富の差の絶望的拡大と、ネオリベラリズムの推進による弱者切り捨ての現状を分析する点は、五十嵐太郎「過防備都市」斎藤貴男「安心のファシズム」とも共通する問題意識である。
では、その前提を共有しながら、本書ではどのように思考していくのか。
以下、私見だが本書のポイントを三点挙げる。
1.セキュリティの過剰さが生み出す事態の具体的なメカニズムを、「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「バトル・ロワイアル」などを例に挙げ、それを「統治形態としての恐怖(テロル)」であると分析する。つまり、セキュリティを求める心性が結果的に「主権」に収奪されていくという過程である(「安心のファシズム」参照)。
2.恐怖による「敵」の絶対化とそれに伴う暴力の無際限なエスカレートを、ロス暴動の発端となった裁判や「テロリズムとの戦い」を例に挙げつつ、「暴力」を批判することが結果的に予防・対抗の名の下に、さらなる「暴力」の行使を可能にしていく逆説的事態を指摘する。
(「力において優位にあり、暴力を行使する側が、力において劣位にあり、暴力を行使される側に、力の優越と暴力の加害を帰属させてしまう」「戦争は、それがどんなに侵略的性格のものであることがはっきりしていても、「自衛」を口実になされます。だから戦争とは逆説的ですが、根本的に“反戦的”なのです」)
3.そうした恐怖に根ざす「暴力」に対抗するためには、単なるモラルとしての受動的な「非暴力」を拒絶することがまず求められる。そこから、「暴力」に対抗するための「反暴力」を、キング牧師、マルコムX、マハトマ・ガンディーらの「実践」をなぞりつつ構想する。
「たとえばキングに即するならば、あるいはガンディーに即するならば、非暴力直接行動がそれ自体「ピースフル」なものであるとするイメージは全くの誤りです。日本でイラク反戦のデモの際にしばしば見受けられた、たとえば非暴力であれば、デモ中に嫌がらせをする警察とも仲良くしなければならないというような、緊張を忌避することが何か運動の発展に意味があるというような発想はキングとも、ガンディーともまったく無縁です」
次はキング牧師のテクストからの孫引き。元は全文強調。
「非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張を作りだそうとするものです」
本書で行われているのは、「暴力」という一元化された言葉から、恐怖に端を発する際限なき「暴力」と抵抗戦略としての「反暴力」を切り分け、後者を「われわれ」の側に奪還しようという試みである。ここで注意すべきなのは、冒頭でベンヤミンを引いて書かれているように、教条的な「正しい暴力」があるわけではないことだ。抵抗戦略としての暴力を際限なく認めるのであれば、それは国家的暴力と何ら変わらないことになる(「きれいな原爆」!)。そこにより有効な線を引くために、非暴力者としてキング牧師、暴力主義者として見られているマルコムXを比較検討していく。
そこがこの本で面白い部分で、一見対立的に見える両者が、ともに「暴力」に対する優れた思想家であったということを論じていく。暴力を批判し、コントロールし、活用するために、彼ら二人の思想家をここで呼び出しているのである。
デモやストなどの「非暴力直接行動」までが「暴力」として排除されかねない現状において、「暴力」の質を見極めることはなにより重要なことである。波風を立てることそれ自体が疎まれがちな、この国の風土はそれ自体抑圧的である。抗議、抵抗の戦略的行動までもが否定されてしまうのであれば、構造的抑圧はいつまでも延命してしまうことになる。本書はそこにくさびを打ち込む、きわめて刺激的な本である。
紙の本
暴力のなかに線を引くこと──「血の匂いのする暴力」と「浄化的暴力」
2004/06/20 16:40
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツ語の Kritik(批評)の語源は krinein(分離)。「つまり暴力を[カント的な意味で]批判するとは、(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そのもののなかに線を引くということなのです」。ベンヤミンの「暴力批判論」に言及した箇所で著者はそのように書いている。「戦争/平和」「悪しき暴力/正しい暴力」等々の様々な線引きがあるなかで、著者はまず政治的意味(革命、民族解放など)の喪失という「暴力の新しいパラダイム」に即して「暴力/非暴力」の分割を論じ(第一部)、ついで「主権」とともに近代国家を規定していた「セキュリティ」の変質に即して「暴力/反暴力」の峻別を論じる(第二部)。そして最後に「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」というメルロ=ポンティ(『ヒューマニズムとテロル』)の言葉を屈折点として「政治の道具=手段としての暴力/人間存在の多様な力の表出(生の発現)としての暴力」の区分に説き及び、再びベンヤミンに戻る。
《ここで最初の問いに戻ってみます。暴力を拒絶することは、暴力を批判することには必ずしもならない、むしろ暴力の抽象的・一般的な拒絶は、暴力を呼び込んでしまう仕組みがあることに注目する必要があるということから入りました。暴力の拒絶が、暴力をもたらす、という循環の仕組みを、主権という項を挿入しながら考えてみました。野村修は、ベンヤミンを手がかりにしながら、抽象的なモラルである暴力の否定が暴力を呼び込む構造を断ち、暴力の質を評価する基準を設定するために、もう一つの項である「反暴力」を挿入しました。それは、あらゆる国家暴力の廃絶の理念を胚胎しているかぎりにおいて、あらゆる暴力を構造化している制度そのものを解体する質をはらんでいるかぎりにおいて、暴力のもつ問題性をはらんではいるけれども、しかし用語されねばならない、というのです。しかしそれでも、この「反暴力」を正当化されない対抗的暴力からどう区別できるのか、いまひとつよくわかりません。(略)
法を創設したり維持したりする主権をめぐる暴力、血の匂いのする暴力を神話的暴力、そうした仕組の一切を解体する血の匂いのしない浄化的暴力を神的暴力とベンヤミンは呼びましたが、それはこの反暴力とも近いといえないでしょうか? そこにはより深遠な含蓄があることは認めますが、恐怖によって求心性の磁場をつくりだす主権を拒絶する力。残酷の組織化とエスカレーションを可能なかぎり回避するものとしての。そして、そこに非暴力直接行動があらたに位置づけられるのかもしれない。国家と主権が折り重なった時代の終わりとともに、直接行動あるいは直接活動の創造性をどこまでおし広げられるか、そこにもしかすると、いまという時代の核心がかけられているのかもしれません。》