紙の本
哲学者は「社会の虻」は言い得て妙
2023/05/12 14:33
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投稿者:巴里倫敦塔 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「暇と退屈の倫理学」の続編。前著が経済問題が中心だったが、本書のターゲットは「新型コロナ政策から見えてきた政治の問題」である。高校生向けと東大生向けの2つの“講話”を書籍化したもので、深く考えることの重要さを説く。イタリアの哲学者アガンベンの発言をキッカケに、アーレントやヴァルター・ベンヤミンなどの著作や発言を咀嚼しながら解説を加えており、とても分かりやすい。哲学者は「社会の虻(あぶ)」という見立ても興味深い。その昔、米IBMが人材募集に使った「虻のように口うるさい人、異端者を求む」というキャッチコピーを思い起こさせる。
筆者は、新型コロナ危機以降の世界に違和感を感じ、その正体に迫る。新型コロナ以来の息苦しさは、「あらゆることを何かのために行い、何かのためではない不要不急の行為は認めない、あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない」という風潮から生じるとする。「人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由はある」と断じる。“タイパ”重視は人間の自由とは真逆というわけだ。
今回の講話は、アガンベンの「根拠薄弱な緊急事態を理由に甚大な権利制限が行われ、それを当然と受け止めるていることの怖さ」を指摘した発言をトリガーに展開される。新型コロナが権利の制限を拡張する理想的な口実となり、人間にとって最も苦しい罰となる「移動の制限」につながったと述べる。哲学者のアガンベンは移動の制限の根底にある危険性を明らかにし、政治家であるドイツのメルケルは移動の制限の必要性を切々と国民に訴えた。2人はともに自らの役割を確信をもって果たしたと評価する。日本の政治・行政・官僚支配の危機的状況への指摘も鋭い。多くの方に勧めの1冊である。
紙の本
YouTubeでも聴講したが、書籍として再読して改めて納得
2023/05/15 02:00
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
第一部は、元となったYouTubeのプログラムを二回観て、非常に有意義であったと感じ入っていたところ、今回書物として味読することができ、改めてアガンベンの思考を下敷きとしたその所論に納得した。第二部に関連しては、やはり以下の三文に強い印象を受けたとともに、「目的からはみ出る経験」(143頁)や「遊びとしての政治」(186頁)といったキーワードを得ることができたのが、個人的には有益であった。
「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある」(3頁、著者の言葉)。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(114頁、カンジーの言葉)。
「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それは目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになる」(150~1頁、アーレントの言葉)。
それにしても、最近の東大は、本書の著者や斎藤幸平氏など、単なる「訓詁注釈」に堕さない面白い先生が増えているようで、何よりである。
紙の本
コロナ対策での規制について
2023/07/22 09:36
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投稿者:とらとら - この投稿者のレビュー一覧を見る
コロナ対策での規制としてのシャットダウンや移動規制について、イタリアやドイツでの言論、日本での自粛要請なんかのちがいと、移動規制でのある種の危険性なんかがわかりやすく取り上げられていた。第一部は高校生にも向けた講話だったというのもあってかとても分かりやすかった。第二部は、それに比べるとちょっと難しかったけど、「遊び」について、子供のころの感覚なんかを思い出しながら、いろいろと考えさせられた。
電子書籍
自由は目的を超える
2023/07/14 00:25
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
自由は、目的を超える、というその言葉に魅かれて読みました。コロナ禍は、人間の移動の自由と、葬式という儀式を無くしてしまった、みたいなことも書いてあります。共感できるところも、又、そうでないところも。
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会社、ある組織を例にすれば、その組織を良くしたいという目的に対して手段や犠牲を正当化することなく、目的からはみ出て自由であることこそが組織の幸せであり楽しみが見出せる、つまり良くなることなのだろうか。
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第一部において、コロナ禍におけるアガンベンの問題提起という事例を通して哲学の役割について考察し、第二部において、これまたコロナ禍における''不要不急''の排除という事例を通して「目的」「手段」「遊び」と人間の自由との関係性について考察しています。講和という形式で語り口もやさしく、読みやすいですが、折に触れてアガンベン、アーレント、ベンヤミンの言説の解説なども交えながら、内容はしっかりと論理立てて組み立てられており、さすが國分先生だなと感じました。
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感想
自由を議論する奢り。次の瞬間を迎えることすら恐ろしい。そんな世界だから人間は自己決定感を求める。目的を作り自分の生を歩むという錯覚。
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会社組織で働いていると、売上目標など何らかの経営指標の達成に対して合目的的な活動に自分自身の自由は絡め取られてしまいがちだ。ある意味、それは資本主義というイデオロギーの下では基本ルールかつ至極当然であり、これを疑うことは許されない。少しでも逸脱しようものなら、「非生産的」「非効率的」であると非難され、その会社では居場所を無くしてしまうかもしれない。しかし、こうした暗黙の了解に対してあまりにも服従的であることに、著者はアガンベンの論考を引きながら問題提起をする。コロナ禍で移動の自由を制約する政府の政策を受け入れていたことは、どこかで「仕方のないことだ」と安易に割り切りすぎてしまっていたのではないか。民主主義の歴史に対して、盲目的になりすぎていたのではないか、と。
「目的は手段を正当化する」というハンナ・アーレントの指摘はとても印象深い。タイパやコスパ、不要不急、効率化・生産性──これらの言葉の節々に、すべてを目的化する社会的圧力を感じて止まない。『目的への抵抗』という書名から察するに、安易に新書に解を求める読者への牽制とも言えるのかもしれないが、書名として掲げられている命題に対する期待は少しだけ下回った。
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p22 哲学というものを勉強すると、世の中に溢れている紋切り型の考え方から距離を取れる
p36 意見を述べることと、問うたり考えたりすることは別です。もちろん、意見を述べることが問うことや考えることにつながる場合もありますし、それはとても望ましいことです。ですが、意見を述べ、ある事象について反対か賛成かの態度表明をすることが、それ以上ものを考えるのを妨げてしまう場合がしばしばあります。
p37-コロナの三つの論点
①生存のみに価値を置く社会
②死者の権利
③移動の自由
p81 三権といっても一つ一つ性質が全く違うということです。
p136 浪費は生存のための必要を超えた支出の享受を意味しました。ー浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。ーところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。
p144 必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言うことができます。
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高校生や大学生を対象におこなった講話で、かなりわかりやすいものでありながら、日常的に当たり前だと思っていることを揺るがしていくまさに哲学的な視点は実にスリリング。
コロナという今の状況を踏まえつつ、アガンベンやアーレント、ベンヤミンの議論を踏まえつつ、議論が展開していき、なんだかこれま
で、わたしも読んだことのある本が多いのだが、そういうふうな読みはしていなかったなと驚くことしきり。
すべてがなんらかの目的に向かっての合理性、合目的性、効率性で語られるようになったこの世界、人間の命の大切さということを強調するあまり、生命の維持以上の価値観が薄れていく社会、こうした当たり前の世界になんらかの違和感をもちつつも、みんなやっているのだからと深く考えないようになっているわたしたち。
しらないうちに、われわれは、新しい全体主義に包まれているのかもしれない。
そして、それに抵抗することは、かならずしも抗議活動をするということだけではなく、なにかちょっと楽しんでみる、心から純粋に真剣に遊んでみる、ということかもしれない。
目的を設定して、そこに向かって努力することが悪いわけではもちろんない。でも、人生って、なんらかの目標達成するためだけのものでもないはず。そんな当たり前のことを大切にしていい。
目的はなくても、経済的に意味はなくても、仕事の間のレクレーションという合目的的なものでもなくて、純粋に、真剣に好きなことを楽しむこと。
それっていいなと思う。
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前半の移動の自由の話や死者の権利について、このあたり何度か聞いたこともあったのでまだわかりやすかった。質疑応答についても高校生が混ざっていたりするためか、身近な話題も多く読みやすかった。しかし後半はちょっと苦しい。「暇と退屈の倫理学」を僕はどう読んでいたのか。全く理解していなかったのか。贅沢が大事? カロリー補給のための食事ではなく、食事自体を楽しむ。川床で懐石料理を頂くようなことをイメージしてしまうが、誰とどういう状況で食べるのかというのが大事だろうな。目的からの解放。それ自体を楽しむ。「学ぶために学ぶ」受験に合格するためとか、偏差値を上げるためとか、誰かにほめてもらうためとか、そういうものでなく、学ぶこと自体を楽しめればいいと思う。「目標を持ち、目標に向かって努力する」ことが大切だとずっと伝えてきたが、目標なんてなくても、そのこと自体が楽しければ努力は続けられる。そんなことを、僕もあるときから考えるようになっていた。森毅が「楽しいことは伝染する、楽しいことは続けられる」と言っていた。何のために学ぶのかということをずっと考えていて、僕なりの答えは「もっと学ぶために」ということだった。そして、見田宗介の著書で「コンサマトリー」ということばと出会った。「我が意を得たり」と思った。もともと、読書後のレビューを書くのは、職場で校通信に掲載するためであった。しかしそれが30年近く続いて習慣化してしまった。書かない方が気持ち悪い。書くこと自体が楽しい。そのことで、その本の内容がくわしく知れなくても、その本を読んだとき自分が何を感じたかが分かる。だから、ときどきレビューを読み返すのも楽しい。ということで、目的フリーでそのこと自体を楽しみたい。これって、今を生きるということか。未来に拘束されないで生きるということだろうか。うーん、まだまだよく分からない。哲学カフェに参加したい。そして、本気でアーレントを読むべきか。
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近くにある課題と遠くにある関心ごとを考えることが大事。その中間領域にあるものはだいたい上手くいかないから。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでではなく、世界によって自分が変えられないようにするためだある。
マハトマガンジー
ボールドリヤール
浪費は生存のための必要を超えた支出の享受。言い換えると限界を超えてものを受け取ること。浪費は満足をもたらす。満足すれば浪費は止まる。例えば、十二分にしょくじをしてまんぞくひたら、お腹がいっぱいになって食事は終わる。つまり浪費には終わりがある。
一方で消費には終わりはない。なぜなら浪費の対象がものであるのに対し、消費の対象はものではない。消費は観念や記号を対象とするものだから。
たとえば流行してるお店に行くこと。そこで人が受け取っているのはモノそのものではなくて、あのお店に行ったという観念だから。だからいつまでと終わらない。
楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超えでる、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言える。
目的のために行なっている行為(手段)は、それが目的を成すために行なっている限り自由ではない。目的をはみ出して、自分がその行為を楽しんでる時、それを遊びというのか、人は生を感じるんだと思う。最初は目的ありきでも良いし、目的が無くなることはおそらくないのだけど(特に政治とかにおいては)、目的を超えて、思考し、行為し、生きることに、人は人間としての喜びや幸せを感じるんだろーな。でもそれって、きっと目的を達成するために自分なりに全力にやってる時にしか訪れない領域で、まずは目的ありきでも良いと思う。仕事も遊びも、そう。
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コロナ禍で、「移動の自由」や「死者の供養」をあっさりと明け渡した現代社会に警笛を鳴らす
よりよく生きるとはなにか
そこには決して”目的”や”合理性”など、ない
國分さんの本はいつも、「ああこの人は信頼して良い」と、安心しながら読める。
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目的を(こんな言葉は使われていないが)生真面目に・コスパだけを追求してこなすこと。そうした姿勢から確実に失われるもの・奪われるものはある。逆に言えばそうした目的意識とは無縁に「遊び」の心を持ち続けてふざけてみること。「消費」に徹し楽しむ心を持ってみること。それが大切なのかなと思う。これが貶める響きとして聞こえないことを願うが、連想したのは浅田彰的な「スキゾ」や宮台真司的な「意味から強度へ」だった。コロナ禍がはからずもそうした時代を超えた生き方・考え方をあぶり出したと言えるのかもしれない。歴史の皮肉だろうか
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自由は目的に抵抗する。目的は手段を生み出し、目的の手段化は目的の本質的性質なのである。目的なきところに遊びや自由がある、という、別の視点を考えられるようになった