紙の本
対象の模型化
2023/04/22 08:12
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投稿者:マーブル - この投稿者のレビュー一覧を見る
器用人について書かれた第一章には興奮を覚えた。書かれた個別の内容を理解することよりもまず、それに触れることで自分の中に湧き上がるインスピレーションのあれこれに嬉しさを覚えた。例えば、器用人の作る美術作品は模型である。彼らの作る具象作品は対象の持つ次元―――形・大きさ・体裁・時間・色・匂・触感―――を切り取った模型であると。模型の効果は認識過程の転倒にある。対象に対し部分から全体に進まざるを得ない認識が、対象が模型化することで立場が逆転し、全体を先に認識することが可能となる。そこでは人間の側が主体となる。
紙の本
社会人類学の必読書
2023/07/06 19:57
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投稿者:ぶんてつ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「構造主義ブームの発火点」と言われる本だが、構造主義に興味がなくても、民俗学や人類学に興味のある人には必ず読んでもらいたい本。
そして、そういったことに興味のない人にも「思考」する楽しみを提供してくれる1冊。
この本は『今日のトーテミスム』という本の中で、著者が到達したそれまでのトーテミスムに対する考え方への否定的結論を前提にしている。
それまで西欧社会では、「未開社会」のある集団と特定の動植物や無生物(トーテム)との間に交わされる特殊な制度的関係は、トーテミスムとひとくくりに呼ばれていた。しかし、著者はそれぞれの「未開社会」では、同一のトーテミスムとして一般化できない種々の差異があり、むかしの民族学者たちが幻想に惑わされていたとして、トーテミスムの裏面の探究を行っている。
そして、その探究の果てに「野生の思考」が未開野蛮の思考ではなく、われわれの日常の思考の中にも色濃く見いだされることを明らかにしてくれる。とてもスリリングで楽しい本である。
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まず目に付くのは世界のあらゆる箇所で散見される未開部族の「トーテミズム」「外婚制」・・・について、そこに全ての部族において共通となる核、つまり「構造」を見つけることができるということ。西欧文化と対置して、彼らの文化とそう遠くはなれた場所に彼らはいない、というようことがおおっぴらに書かれ始めるのは章もあとになってからだと思う。つまり、ここで彼は、(1)われわれ人間の思考に「構造」を発見し(基本的には未開部族の中から、たまに西欧文化などから)、(2)それを演繹し、我々と彼らの思考はそれほど変わるものではなく、思考の「構造」は同じである(西欧社会との比較において、また、カーストとトーテムの比較において)、ということを言いたいのではないかと思った。この本を読んでみても、よっぽど注意して読まないと、これが「構造主義」のバイブルであったとは思えない。あくまでこれは「構造人類学」のさきがけとしての本だろう。普通に読んでも面白いけど。
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大学入学当時ある先生が「ここに入ったからには在学中に読みなさい」と言っていた三冊のうちの一冊。三度目の読み込みでやっと分かってきた。
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構造主義とは、精神と外界の相互作用によって形成されるエコロジカルな定常回路を明らかにする学問である。クロード・レヴィーストロースは、未開人の神話的思考の中に近代人に劣らない繊細で複雑な回路を見いだしている。
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レヴィ=ストロースの著作の中でも、難解な本らしい。自分とは全く違う現地人の人々の生活習慣などを知り、認識構造の違いについて、色々考えることが多かった。おおむね、ほとんど読みづらくしんどかったが、おっと思わせる部分もところどころあった。だが知らない概念、考え方、用語が多く、非常に読みづらかった。2007.10.5-20.
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僕が早稲田通り界隈の古書店のなかで最も贔屓にしている文英堂書店で購入した一冊です。この間行ってみたらもう新しい『野生の思考』が補充されていて何となく寂しい気分になりました。『野生の思考』界は就職難で後ろが詰まっている、ハローワーク状態なのかもしれません。耄碌したじいさんがやっているように見えますが、意外と綿密に経営されているのかも。
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○呪術は科学の体系ではなく、独立したもの。形は類似している。科学の隠喩的表現というべきもの!
■呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないか?(P15-16)
■人間は、感覚に直接与えられるもの(感覚与件)のレベルでの体系化というもっとも困難な問題にまず取り組んだのである。(P16)
■化学はこの感性の証言が正しいことを証明する。植物学上は無縁のこの二つの科は、他の面で共通性をもっている。(P17)
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○よのなか何を信じるのか、それの基準は確率論だけではないか!
■呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、成績という点では科学が呪術よりよい成績をあげることは事実であるから(P18)
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○具体の科学は、根強くて、つねにめざめた好奇心に基づく、観察と実験である。
■多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげたりするために必要なのは、疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目覚めた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。なぜなら、観察と実験(それら自体がまず第一に知識欲にはじまるとかんがえられるべきである)のなかで、実用に役立ちすぐに使える結果を生じうるものは、ごく一部にすぎなかったのであるから。(P20)
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○奥底に潜む「本質」を察知するのは、美的センスに関わる問題。
■美的感情にとって同等とみなしうるものは同一の客観的現実に対応するとしておくことは、思考においても行動においても有利である。自然はそのようにできているのである。ここはその理由をもとめる場合ではないが、おそらくは、形なり色なり匂いなり、なにか目立った性質をもった種類は観察者に「追求権」とでも呼ぶべきもの、すなわち、外からわかるこれらの特徴は、同じ特殊なものでありながらおもてに出ない特性の印であると考える権利を与えるのある。(P21)
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○発見について。
■ある種のタイプの発見とは、感性的表現による感覚界の思弁的な組織化と活用とをもとにしてなしえた自然についての発見である。このような具体の科学の成果は、本質的に、精密科学自然科学のもたらすべき成果とはことなるものに限られざるを得なかった。(P21)
∴
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○原始的科学=具体の科学の方法について。
■プレコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人(P22)
■神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料��用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって、神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事である。(P22)
■いままで集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるのかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなければならない。そのつぎには、とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な回答な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。(P24)
■作り上げると言っても、結局のところ、でき上がりと材料の集合とは部分の内的配列が異なるだけである(P24)
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○科学=開く=発見=向こう <新たな発見>
○器用=組み替える=効率=手前 <本質的理解>
■したがって、つぎのように言うことができるだろう。科学者と器用人はどちらも情報をねらっている。しかし、器用人の場合、その情報はいわば前もって伝えられているものであって、彼はそれをよせ集めているのである。それは商用電略コードにたとえられよう。それにはこの職業の過去の経験が圧縮してあり、これを用いれば、あらゆる新しい状況(ただしそれが過去にあったものと同類の状況であるという条件において)に対して経済的に対応できる。それにひきかえ、エンジニアであれ物理学者であれ科学者は、リハーサルのしていない問に対してなかなか口を開かぬ話し相手からつねに今までになかったもう一つの情報を引き出してやろうとする。かくして概念は仕事に使われる資材の集合を開く操作媒体となるが、記号作用はその集合を組みかえる操作媒体であって、集合を大きくもしなければ更新もせず、ただそれの変換群を獲得するだけにとどまるのである。(P26)
■器用人はつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。(P27)
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○科学とは何か。科学を乗り越えるには何が必要なのか。
■科学がその誕生に際して科学性として要求した性質は、体験には属さず、あらゆる出来事の外にそれとは無関係なもののように存在する性質であった。(P28)
■神話的思考は器用人であって、出来事、いやむしろ出来事の残片を組み合わせて構造を作り上げるが、科学は創始されたという事実だけで動き出し、自ら絶え間なく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、出来事という形で自らの手段や成果を作り出してゆく。(P28)
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○「相同体」という概念。違う対象のなかに同じ構造があること。
○美的感動の原因
■美的感動は、人間がしたがってまた潜勢的には鑑賞者が、作り出すものの中におさめられている構造の次元と出来事の次元とのこの結合から生じる。(P32)
○構造=必然=内在性/出来事=偶然=外在性
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寝る前や、休みの日に少しずつ読んでいる。なんとなく理解できる感じで読み進める。不必要だが無意味ではない。
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まず、むずかしい。
そして、理解できないのがもどかしいくらい、おもしろいことはわかる。
いつかまた読むつもりでまだ評価はしないことにする。
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土器、織布、農耕、動物の家畜化などの技術の習得は偶然の発見の産物ではない。知的要求に基づく観察、仮説と検証のくりかえしによって得られたものである…というところに感銘を受けた。しかしここはぜんぜん本筋ではないのだ。いちばん強くおもったのは、「この本はむずかしいな」ということである。図書館から借りて読みこなすのはちょっとむりそうなので、古本屋での購入を検討中。
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動植物の考察に始まる本書は,「具体の科学」として具体的な事例を述べているところがよい。
p166あたりでは,連続と不連続,空間と時間について言及している。
科学,技術は具体的なものについて扱うときに,どう役立つかが分かる(見える)。
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……/前略/……
シベリアに住む諸部族が、薬用に用いる自然物に与える明確な定義とそれに認めている特効は、このタイプの社会において観察者や理論化が発揮しなければならぬ入念さ、巧妙さ、細部への注意、弁別への配慮を示す好例である。
蜘蛛と白い地虫を飲み込む(イテルメン族・ヤクート族、不妊症)、
黒い黄金虫の脂肪(オセート族、恐水病)、
潰したゴキブリと鶏の胆汁(スルグートのロシア人、腫瘍とヘルニア)、
赤地虫の水漬け(ヤクート族、リューマチ)、
カワカマスの胆汁(ブリアート族、眼病)、
ドジョウやザリガニを生きたまま呑み込む(シベリアのロシア人、癲癇やそのほか万病)、
キツツキのくちばしに触れる、キツツキの血を飲む、キツツキのミイラを粉末にして鼻から吸い込む、クチャ鳥の卵を呑み込む(ヤクート族、それぞれ歯痛、瘰癧、馬の諸病、結核に対して)、
イワシャコの血、馬の汗(オイロート族、ヘルニアといぼ)、
鳩のスープ(ブリアート族、咳)、
チレグース鳥の脚を潰した粉末(カザーフ族、狂犬に噛まれた時)、
コウモリの干物を首にぶら下げる(アルタイ地方のロシア人、発熱)、
レミズ鳥の巣にぶら下がったつららから滴る水の点眼(オイロート族、眼疾)……/中略/……
*
かような知識は実際にはほとんど有効性をもたぬという反論があろう。ところが、まさにおっしゃるとおりであって、第一の目的は実用性ではないのである。このような知識は、物的欲求を充足させるに先立って、もしくは物的要求を充足させるものではなくて、知的欲求に答えるものなのである。
真の問題は、キツツキの嘴に触れれば歯痛がなおるかどうかではなくて、なんらかの観点からキツツキの嘴と人間の歯を『いっしょにする』ことができるかどうか(病気の治療はこの一致のさまざまな仮定的応用例の一つにすぎない)、またこのように物と人間をまとめることによって世界に一つの秩序を導入するきっかけができるかどうかを知ることである。……/後略/……
*
(『野生の思考』第一章、具体の科学、p11より)
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方法論の説明中心。最後の章サルトルとの論争。
どの文明も自己の思考の客観性を過大評価しがち。同じように見えるものが違い、違うように見えるものが同じ
ブリコラージュ
使える資材が限られている中で限定的リソースの適切な配置がえ。限られた可能性の中での選択、組み換え。
イメージと概念をつなぐ記号は有限。
無限のものをいかにして有限に押し込めるか。
鑑賞者は自分でも気づかぬうちに行為者に変化。
ある社会がそれを構成する部分社会を上下、天地、昼夜などで定義するとき、同じ対立構造の中に和解と攻撃、平和と戦争、正義と取り締まり、善と悪、秩序と混乱などの社会的道徳的要素をも包含する。
社会とその中の個人の相対化によって関係性が決まる。
ルーマン。性格は流動的で相対的。
社会の最小単位は人ではなく関係性。
敵対関係は絶えざる他者の表れへ開き続ける条件。正義がそれ自体正義か?
一つの文明が生まれる時には多くの成果とともに多くの欠陥も生まれる。
バーリン。最悪の状態の回避。
未開社会
競争嫌悪、受動性/無関心
外部との接触による精神的痛手から生まれた。
多数決判断よりまとまり。相互理解。
全員一致まで話し合いを繰り返す。見せ掛けだけの合意。
どれほど奇妙に見えることでも他の社会で同様のことが全く普通のこととして行われていないことはまれ。
自分をヒーローにするために他者を犠牲者にしてしまうという矛盾。
支援者、非支援者の優劣関係。
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構造主義の発火点とよばれる『野生の思考』(原著1961年)の主旨は、「未開人の思考」とよばれるものに、きちんとした分析と体系があること、それは基本的に西洋人の思考と変わらないことを示した点である。レヴィ・ストロースが批判したサルトルは、「西洋人と未開民族の間に同じ人間性を想定することはできない」と述べ、西洋をモデルに「人間学」を組み立てようとし、人類学を危険な退歩とみなした。それに対して、レヴィ・ストロースは親族名称、神話地理学、禁忌などの分析を通して、西洋人の思考法と、「未開民族」の思考法が同質のものであることを指摘している。例えば、トーテムなどは、現地人が「自分たちが本当に動物の子孫であると考えているのではなく、もっと高度な何かである」と述べているように、自然界をモデルにして、人間社会の分類につかっている「生きられる体系」なのであって、決して「無意識」とか「前近代的思考」とかの産物ではない。子供の名の付け方「種として個体」とか、元素、神話の問題などにも、詳細な研究がある。いわゆる「トーテム思考」は、歴史をどこまでも細部にこだわって分析し、共時的にあらわそうとする思考なのであって、通時的な要素を恣意的にえらびとって「歴史」とする発想とは異なるだけなのである。科学は効率を重視した「栽培的思考」であり、「野生の思考」は美学や「器用仕事」、西洋の儀礼などにも、顔を出しているのである。この本を読めば、マルクスとフロイド、ベルクソンといった思想家の理論をうけつぎ、ルシャンドルなどにつながっていく、西洋思想の自己批判の流れを読み取ることができる。