紙の本
あまりにも充実した作品集
2009/04/24 00:35
8人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:石曽根康一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕は大学を卒業してから小説を書いてきた。書いては公募の賞に出してきた。ただ、一度も「プロの作家になりたい!」と思ったことはない。作家というのはいわば「公人」である。その発言に重みがある反面、その責任を負わなきゃならない。
前にも書いたように、僕は昔から文学少年だったわけじゃない。むしろ「文学青年」という言葉があるように、今26の僕は〈ここ最近で〉文学の世界に足を踏み入れたにすぎない。
そういう方向性で3年生きてきて、ほとんどは外国の作家の作品を読んできた。それは自分でもなぜだかは分からない。
ただ、次第に大江健三郎と村上春樹の作品はすこしずつ読むようになってきた。あるサイトで「○○という作家の作品はなぜこうも賛否が分かれるのか?」と書いてあったが、それはその人が文学を知らないからで、文学とは本来、賛否が分かれるものなのである。大江健三郎と村上春樹についても同様のことが言える。激しい賛否がそこにある。
しかし僕は基本的に日本の作家の中ではこの2人を「見本」としてやってきた。好むと好まざるとにかかわらず、彼ら2人の作品は〈教科書を読むように〉自分に叩き込んできた。
この『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』はあまりにも充実した作品集だ。グロテスクなイメージは効果を上げているし、大江健三郎独特の「現実」と「非現実」の〈あわい〉も効果を上げている。
僕はこの2人の作品は〈教科書〉だと思っているから、「とにかく、読むべし!」としか言いようがない。後に、そこから離れてもいいのだ。ただ僕は2人の作品を自分を教育するために用いた。
ただ、上にも書いたとおり、僕はプロの作家になりたいわけじゃない。地方新聞の賞に送ったりしているが、それはプロになりたいから、ではなく、新聞に自分の小説が載るかもしれないという一種の〈お祭り〉に参加するためである。
僕は本名で今まで60件弱の「書評」を投稿してきた。しかし、先日送った啄木の歌集についての「書評」などあまりにも自分について書きすぎていて、これ以上同じことを追究していくと、家族や周りの人に迷惑がかかるかもしれない、と思うようになった。
というわけで、「石曽根康一」名義で「書評」を投稿するのはこれで最後にしようと思う。
次、送るときは、ちゃんとしたニックネームを考えて、送りたい。
僕はあまりにも自分をさらけ出しすぎた。それは僕の望むところではない。
では、さようなら。
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走れよ、走り続けよ!が好きです。後は何というかまあ、いつもどおり。というか。まあすべていつもどおりですが。しかし短編と長編でこれだけイメージが揺るがないというのも珍しいんじゃないかという気がしますよ。どうだか知りませんが。「食べ物をいかにもまずそうに描写する」のが上手ですよねー。コーラと排骨麺って絶対遠慮したい組み合わせだと思う。何か、こういうの上手ね。(意図してやってないとゆー可能性もあるが)作中で異常な程不味そうに描かれていたオックステイルスープは、大江健三郎本人の得意料理らしい。実際おいしいらしい。(大江健三郎にインタビューしたSwitch編集者の弁)
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われらの狂気を生き延びる道か術かがこの本(とかこうする行為)、ていう話。(しらんけど)実は意味もなく恥ずかしいけど大江健三郎の作った言葉の端々にはハッとこれだよと気付かせられるおれなので、恥ずかしいけど(にかいいった)☆5つにしまつ。恥ずかしいのはシャイだからです。しるかー
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時代の疾走感を感じる、難解さは日本トップクラスの暗号小説群。
「みずから我が涙をぬぐいたまう日」とセットでどうぞ。
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<目次>
第一部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの
第二部 ぼ自身の詩のごときものを核とする三つの短編
走れ、走り続けよ
核時代の森の隠遁者
生け贄男は必要か
第三部 オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編
狩猟で暮らしたわれらの先祖
父よ、あなたはどこへ行くのか?
a 裏
b 表
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今回も重かった…。もう自己欺瞞と障害を持った子供から逃げられません。
考えて考えて、考え続けていることの副産物。
10.06.20
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3.11以降のこの時代に、この時期の大江を読むことには感慨を覚える。核の時代の孤独と閉塞感は今に通じる感覚があるのではないか。恐怖によってのみ連帯する人々の中で自由とは狂気と同義なのだろうか。
しかし、詩篇を核とした大江流の私小説が見事に結実し、見事な完成度を誇る作品群である。
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三つの短篇と二つの中篇で構成された内容。この本を読み始めてから読み終えるまでに、間に8冊も違う本を読んでしまった。すごく読んでて苦痛になり、また疲労感を感じるほどパワーがある。完全に自分はパワー負けしたため、違う本(簡単に読める本)へと逃げ込んだ。飼育・死者の奢りも含めて大江氏の本はすごく陰鬱なイメージがあり、奇妙な設定を詳細に書かれた内容だと思う。
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大江健三郎さんの講演を聞いたことがあり、そこで初めて氏が障害者の息子さんを持つことを知った。
講演では明快であったのになぜに作品はこんなにも難解なのか><
大江 健三郎さんのこの著書と宮本輝さんの「流転の海 5部作」が僕の中の「父と子」の物語の双璧です。
http://chatarow.seesaa.net/article/122421857.html
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(1995.09.16読了)(1975.11.22購入)
(「BOOK」データベースより)amazon
外部からおそいかかる時代の狂気、あるいは、自分の内部から暗い過去との血のつながりにおいて、自分ひとりの存在に根ざしてあらわれてくる狂気にとらわれながら、核時代を生き延びる人間の絶望感とそこからの解放の道を、豊かな詩的感覚と想像力で構築する。『万延元年のフットボール』から『洪水はわが魂に及び』への橋わたしをなす、ひとつながりの充実した作品群である。
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序文に続いて最初の短編である『走れ、走りつづけよ』はこれまでになく後味の悪い作品である。この作品は読者を少しも楽な気持ちにさせてくれないし、終盤にある女優と従兄の映った写真の描写は醜悪だった。下降生活者や性的人間と同じ感じ。
『生贄男は必要か』ではアトミックエイジの守護神と同じ、限りない善と限りない悪をテーマとしていて、その語られる内容も凄いけど、テープに吹き込まれた内容を強めるために裏面に猥雑なものを記録するという習慣も強い印象を与えた。
『狩猟で暮したわれらの先祖』では指のなすりつけあいの話が印象深い。この話で出てくる得体の知れない穴ぼこは謎のまま僕の前に立ちはだかっている。
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概要
狂気と自由,作家と障がい者の息子,閉塞的な集落・田舎町などを共通の要素とする3つの短編と2つの中編を収録。1969年発行。
・走れ,走りつづけよ
・核時代の森の隠遁者
・生け贄男は必要か
・狩猟で暮らしたわれらの先祖
・父よ,あなたはどこへ行くのか?
感想
大江健三郎の作品を読むのはほぼ初めて。10年以上も前に初期の作品を読んだ気がするけれど,まったく覚えていない。
正直なところ,難解でよくわからなかった。しかし,よくわからないながらも,つい読み進めてしまう魅力のある中短編集だった。通常,難解な小説というのは読み進めるのが苦痛なのに,この作品はそんなことはなかった。ただし,「父よ,あなたはどこへ行くのか?」はダメで,読むのが苦痛だった。
以下,作品の内容に具体的に触れるので,未読の方はご注意ください。
「走れ,走りつづけよ」で,ホテルの最上階から,化粧をして全裸で落ち,下肢がぐしゃぐしゃに砕かれた従兄の末路,「核時代の森の隠遁者」で隠遁者ギーが焼け死ぬシーンなどハッとするような結末が印象的だった。
大江健三郎の他の作品が読みたくなった。
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5本の短編(中編)集。それぞれの物語にて人間のグロテスクな内面が描かれている。どの作品も面白かった!
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単純に好みや自分へのフィット感の問題なのかもしれないけれど、個人的に「生きるために書かねばならぬ」という逼迫性が感じられる作家は少なくて、ある時期までの村上春樹もそうだったと思うのだけれど、もうここ10年以上彼は自分ではなく他者のために小説を書いていて、そういうのを成長と呼ぶのかもしれず、ある程度まで行ったら天井に手が届いてしまうものかと思ったけれど、大江健三郎を読むにつけ、彼程、スタイルはその時々によって変更されつつも、基本的には長きに渡って自分の為に書き続けている人は私の知る限り他にいない。やはり『燃え上がる…』のような、K伯父さんとして自分は三歩程度下がって他者に語らせるスタイルよりも、『取り替え子』のように田亀とぶつぶつ対話するような、「自分」(もちろん大江健三郎そのものとは言わないけれど、小説の中での、あるいは象徴的大江健三郎とでも言おうか)が直接コトに巻き込まれていくスタイルのほうがしっくりくる。
なぜならば、彼は今も生きていて、自分の大切な人が死んでいったとしても、自分だけは何故だか死なずに生きていて、「自分」が消えないのだから生き続けるキツさは永遠につきまとって、自分の中に流れている音楽のようなものが、少しずつ、しかし執拗に変奏されながらも流れ続けているのはとても自然なことだ。
極めて個人的な体験が、普遍的なものとなりうる、という、彼が29歳?の時に語った言葉に私はここ10年くらいずっと励まされているけれど、その言葉は彼自身をも長く支えていると思う。とても長く。
そして『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という壮大なタイトルのこの本、一体どういう内容なのかと思ったけれど、感触としては一番、彼流に言うならばもっとも「猛然」としていると私には感じられた。『同時代ゲーム』や『新しい人よ目覚めよ』から遡った形での読書になったけれど、それらほど冷静でもなく(といっても…というかんじだけど笑)、『個人的な体験』や『叫び声』の頃程、まとめきらねばならぬ、という小説的配慮にとらわれている感じも薄く、かといってその二つの間の転換期というような迷いもなく、なんかもう必死に、猛然と憤然と書かれている感じが、生々しく、今の私にもっともぴったり来た。
ところでわれわれは直截に他人のために書くことなんてできるのだろうか?
以下はメモ。
「あまりにも根源的にわれわれを急襲する認識は、まずわれわれの存在の根に直接突き刺さり、それからやっと意識の表層にコダマを返してくる。そしてその時われわれの意識は自分がかつてその衝撃を経験したことがある、というニセの感覚を持つのである。」p.298
あるいはその「認識」はあまりにもしっくり来すぎるが故に「発見」という形を取らないのではないだろうか。この文の前に「沈んだボールが水面に戻るように浮かび上がって来ていなかったのだ」とあるけれど、ボールはもともとあって、それがその「認識」をきっかけとして浮上してくるような…。
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久しぶりの大江健三郎。
僕が好きな彼の作品は初期に集中していて(個人的ベストは『芽むしり仔撃ち』)、『万延元年のフットボール』以降の作品はあまり読んでいなかった。多少の時間の余裕が受けて、長く積読状態だったこの本をセレクトし読了。
特定の詩に影響を受けて、その詩を作品内に盛り込む形で書かれた5作の中編が納められており、その誰もが楽には生きていない。その姿が戯画的でありながら、易々とは読み捨てられない印象を残す。特に父親・自身・息子の2重の父親の関係を含み、最後に救いが残る「父よあなたはどこに行くのか」が、息子の誕生を媒介とした社会との関わりを作品内に持ち込むことに成功した点において、印象深い。