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ここ最近読んだ新書の中で一番のヒット。
mixiにもレビューを載せかけたけれど、題名が題名なので削除してしまった。
なので後ほどここに載せよう。
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2009/07/26
脳科学者、茂木健一郎氏と、
恐山の禅僧、南直哉氏との対談集。
ブッダが因果を説くのは、
「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」
ということではなくて、
人が努力して未来に希望を持ち、
自分が自分として立っていくために
絶対必要な考え方だからというわけです。
(p.142)
生きることに形而上学的な問題について、
あえて「無記」という姿勢を貫いたブッダが、
因果については熱を持って説くというのが
生きることを「苦」と捉えた
極めて現実主義的な思考の表れのように思う。
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なぜ自分は生まれてきたのか?何のために生きるのか?人類がずっと問い続けてきた難題をテーマに、禅僧と脳科学者が語り合う対談集です。
この世に望んで生まれてきた者など誰もいない。だから、生れて生きることには、もともと根拠が無い。根拠の無いものを問い続けたところで、当然答えは得られない。答えのないものを探し求めるから苦しい、根拠がないからこそ、自ら死を選び取るのもひとつの道なのだ・・・・・と、本書ではそのような会話が交わされます。けれど、苦は快楽だとも・・・・・。
修行とは解脱するために行うもの、悟りとは真理を見いだし、心の平安を得ることだと思っていましたが、そうではないのですねぇ。
答えがないとわかっていながら、それでもなお問い続けずにはいられない。人間って、なんて哀しく、美しい生きものなのでしょう。日頃なんとなく思っていたとおり、存在することというのは、根本的に破綻していたんだ。生きるということは、最初から不条理なものだったんだ。やっぱり生きるためには、生の矛盾と不安を生き切ることで、生そのものを引き受ける覚悟が必要だったんだなぁ。あぁ、せつない・・・。
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茂木さんも南さんも大変。色々考えることがありすぎる。もっと考えないようになれれば楽だろうに。ただ、二人ともその“楽さ”は求めてないんだろうな。でも、二人はほんと楽しそうにしてる。
この本は、テレビでもおなじみの脳科学者である茂木健一郎さんと、禅僧である南直哉(みなみじきさい)さんによる対談集。
2人の対談は、2004年から2008年までの間に、東京都の青末寺、青森県の恐山、東京都の新潮社で3回にわたって行われたものです。ですので、時間が進むに従って、お互いがお互いを深く理解し、自分の考えを深めてから、対談という形で自らの意見をぶつけ合うので、お互いに緊張感があり、さらに喜びがあるように感じられます。読んでいる自分もなぜか緊張してしまいました。
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[ 内容 ]
我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか-。
人類誕生以来、問われ続けてきたアポリア(難問題)に、脳科学者と禅僧が挑む。
死はすべての者に平等に訪れる。
けれど誰もが望んでこの世に生れてくることはできない。
つまり、「私」に根拠はないのだ。
だからこその苦、だからこその人生。
それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。
無常の闇に射す一筋の光明を探すため、存在を賭けた脳と仏教の真剣勝負。
[ 目次 ]
星の友情(茂木健一郎)
1 無記の智慧(坐禅とクオリア 説明不足の仏教 悟りが最終目的ではない ほか)
2 脳の快楽、仏教の苦(裸になれる場所 恐山の日常 「信じる」とは何か ほか)
3 人生は「無常」である(クオリア、仮想、偶有性 「疑団」の破裂 偶有性の反意語 ほか)
悦楽する知(南直哉)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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結局、よく分からなかったです。しかし、分かりようがないと言えばないのです。なんで生きているとか、なんのために生きいるとか誰も知らないのたがら。
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P.76、5行目からのくだりに「なるほど!」と感銘を受けた
自分が普段考えている事をうまく言葉で表現できないでいたが
まさに私が考えていた事とはこういうことだ。
私はまだ生きてはいるが、私の過去は、すでに死者たちと同じ場所にある。
(中略)ただ、私の大脳皮質側頭葉に残るか細い記憶が「その時」と今を
結びつけるだけである。
スッキリした。茂木さん、ありがとう。
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茂木健一郎をこれ程までに捉えた対談者はいなかったであろうと思える南直哉。恐るべし。とてもスリリングだった。
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攻めの姿勢の対談本だった。
南さんが苦、ととらえるものを、茂木さんが快楽ととらえているところが面白い。そのように違った捉え方をしているかと思えば、方法論は同じだったり、またその逆があったり。
二人ともが、真っ直ぐに自分の考えを開示し、真っ直ぐに相手へ質問をしているからこそ、内容の濃く、深い対談になっているのだと思う。
ニーチェの星の友情とはまさにこの二人の間にあるもののことであろうと思えた。
じっくり咀嚼しながら何度も読みたい本。
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茂木健一郎と南直哉の3回に渡る対談を書き記した形式で、脳とは?死とは?とクオリアやお互いの哲学を元に語り合っている。
なぁなぁとした対談ではなく攻撃的でなかなかどうして笑ってしまった。
南という方を初めて知った本。
禅僧についてのイメージが間違ってたのかもしれないが
宗教家ぽくないという感想を持った。救世の気持ちはあるのだろうか。
二人ともとても個人的な、根源的な欲求から脳について本気で考えてるんだと思う。但しだからこそ、今後の展開で民衆(私)は救われる手筈が見つかるかもしれない。
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「人はなぜ生きるのか」人間の永遠のテーマである。古来、哲学者や宗教家、教育者、科学者たちはこの問いに対して、答えを求めてきた。本書は、脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉の問答が繰り広げられている。
面白いのは、そのテーマに対し、「答え」より「問い」が重要であると言うことである。すなわち、そんな答えは考えても存在しない。ブッタでいう「無記」である。言っても意味がない。仏教では、生きていることは病であり、苦である。だから信じればすくわれるだぐいではない。死というものに向き合い、安心のない生を生きていくだけである。
脳科学も進歩し、脳の構造や組織の役割が分かってきたが、それだけでも、なぜ生きるのかという答えに迫ることができない。主体者が意識し、認識をすることで生に関することに迫れるが、死が起こってからではその主体性がないため、そこに科学の限界が生じる。なので、科学的にも確かな答えを出すことはできない。
生きることに答えはない。生きていれば病気もするし、不幸なことも起こるし、哀しいことにも直面するが、時に嬉しいこともある。決して安心、安全なものはなく、永遠に続くものはなく、あらゆるものは時代とともに流れていく。今はすでに過去なのである。そういうことを理解して、生まれたからには、「生きる」ということを引き受けて、問いも持って、ただ毎日を過ごしていくことが大切であるという。
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「無記」という言葉に出会えただけでも、自分にとっては価値があった。この境地というか「悟り」ははるか彼方の感覚なんであろうけれど、問い続けていった先に、これ以上先は問わないとできる気持ちの持ちようって何なんだろう。この本を入口に、仏教について学びたいと純粋に思った。常に目の届く範囲においておこうと思う。
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茂木さんは,もう脳科学者の看板を下ろして,ちゃんとフリーライターとして自由にすればいいと思う.面白いけど,胡散臭く感じる.フリーライターがその人となりで南さんの思いをうまく引き出している.面白かった.
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私には難しい本だった。そもそも「クオリア」という言葉の意味もよく分からなくて‥。Wikipediaによると、”
心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のこと”。やっぱり分からない。
でも科学者と仏教者の対話という観点ではとても面白かったです。
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脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉が、3回にわたっておこなった対談を収録しています。
南の語る内容は、彼のこれまでの著作と同様、彼自身の解する仏教の立場からまっすぐに届けられてきますが、これにたいする茂木の発言は、脳科学者の立場からなされているものとはいいがたいように感じます。ある意味では、南のことばをうまく引き出す役割を果たしているといえるかと思うのですが、「脳科学者と禅僧の問答」というサブタイトルを裏切ってしまっています。
あるいは、もはや科学者ではない、一人の人間としての茂木の姿を見ることができるところにおもしろさを感じる読者もいるかもしれません。