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商品説明
大学退官を前に、学生たちに向けて行った「最後の授業」。2者間の内的交流を重視する対象関係論の論者として、「古事記」や「鶴の恩返し」などの神話や昔話に紡がれた男と女、母親と子ども、日本人の「心の台本」を読み取る。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
テレビのための精神分析入門 | 7−97 | |
---|---|---|
〈私〉の精神分析 | 99−159 | |
「精神分析か芸術か」の葛藤 | 161−186 |
著者紹介
北山 修
- 略歴
- 〈北山修〉1946年淡路島生まれ。京都府立医科大学卒業。精神分析医。九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授を務めた。医学博士。著書に「覆いをとること・つくること」など。
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著者/著名人のレビュー
九州大学退官にあたっ...
ジュンク堂
九州大学退官にあたって行われた一連の記念授業を再録。NHKの放映ではカットされた部分も完全収録されています。
昔話や現在の社会問題から見える日本人の心のありよう、その中における精神分析の役割を平易な言葉で語っています。
テレビが物事を「わかりやすく」伝え、デジカメで消去してしまうから「写真うつりの悪い自分」がいなくなった時代。
外から見えにくくなった「心(うら)」にあるもの、ないものとされてしまった本当はある「裏(見難いもの、醜いもの)」をすくいあげることが心理臨床家には大切というメッセージは、臨床家に限らず私たちが忘れがちなこと。30年以上もマスコミを避け続けた著者が、最後にテレビに公開した深い思いとしてずっしりと伝わってきます。
懇切丁寧な脚注と、北山修の著作リストもつき、精神分析になじみの薄い人にも読みやすい1冊。
書店員レビュー
久々に授業というもの...
ジュンク堂書店三宮店さん
久々に授業というものを受けたくなりました。
大学の精神分析の授業を収録した本ですが、
「言葉を大事にする」というメッセージは色々な人の心を打つと思います。
人文担当:Y.O
紙の本
さらば先生
2010/09/23 07:36
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は、いわゆる団塊の世代の、弟、妹の世代にあたります。
多くの若者たちの情熱の照射に頬を赤らめていた世代といえるでしょう。
北山修氏がザ・フォーク・クルセダーズで「帰ってきたヨッパライ」を大ヒットさせた1967年、声変わりの始まった声でやはり大声で歌っていました。
その後、作詞家となった北山氏が作った歌をどれだけ歌ったことでしょう。「戦争を知らない子供たち」「あの素晴らしい愛をもう一度」など、北山氏の作った歌は団塊の世代だけでなく、これから青春期にはいろうとする私たちにも大きな影響を与えました。
しかし、やがて北山氏は「どこで誰が私を見ているのか分からない」と不安を抱くようになって、静かにマスコミの世界から遠ざかります。
北山氏はそうして精神分析医の道をめざします。
本書は九州大学で長らく教鞭をとった北山氏がその退官にあたって行った「最後の授業」を収録したものですが、単に活字になったというだけでなく、北山氏は「最後の授業」に自身が嫌ったTVカメラを教室に持ち込むという「実験」を行います。
北山氏は「テレビというマスに向けたメディアは、見る側の心にたいへん大きな影響を与えている」といいます。同時に「テレビに出る側やテレビに関わる人たちみんなの心のあり方にも影響を与える」と。
授業を放映するということは、北山氏の授業を聴講している学生たちに、「見る側」と「見られる側」という二重構造を作り出します。そうすることで、臨床心理士をめざす若者たちに、実際の経験をさせうることになります。
教壇を去る北山氏の姿は、あの頃、私たちに多くの歌を提供していた時代と変わっていませんでした。北山修氏は、団塊の世代の仲間であり、その弟、妹世代にとっては、かっこいい兄貴のままでした。
そういえば、北山修氏が作詞した「さらば恋人」にこんな歌詞がありました。「思わず胸にさけんだ/必ず帰ってくるよと」。
北山教授もまたどこかの教壇に帰ってくるのだろうか。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
紙の本
精神分析に少しでも興味を持っている人へ
2010/09/18 13:42
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:K・I - この投稿者のレビュー一覧を見る
べつに隠すことではないから、書くが、
僕自身大学の3年の後半から精神科に通っている。
就職活動でふつうの正社員として働けなかったのは、
そういう心・体、両面での「体力」のなさが一番の要因だ。
今はかなり安定した状態で過ごしているが、
それでも薬はずっと服用しているし、
月に1回、診察に行く。
精神科医とずっと断続的に接していて、
「この人たちはどういう考え方をしているのだろう」
ということに少しずつ興味をもってきた。
それはあるいは少しの反発と関連しているかもしれない。
「こんな診察、無意味なんじゃないか?」という反発と。
でもフロイトという名を「科学的でない」と批判する立場にも接し、
僕は自分で精神科に通院しながら、
精神分析をどう捉えればいいのか分からなかった。
本書は北山修という精神科医の九州大学での「最後の授業」などがおさめられている。
この「最後の授業」の様子はNHK教育テレビでも放映されたから、
ご覧になった方もいるかもしれない。
本書を通読してみて、
必ずしも僕が精神分析というものに全般的な信頼を寄せる、ということはなかった。
北山氏は精神分析を「科学的」だ、と捉えていて、
それへの批判は十二分に考えられる。
たとえば、「マルクス経済学が、科学的ではないのと同じように、精神分析も科学的ではないのではないか?」と。
だが、精神分析、あるいは北山氏の展開する日本文化論にはどこかひきつけられるものがある。
ただ、神話や民話というものは基本的に近代的な国民国家の成立と同時に、
「国民」という概念ができて、それに付随して収集され、国家の統治の目的に合致していたものである。
だから、神話や民話が必ずしもその「民族性」を規定するとは僕には思えない。
たとえば、宇多田ヒカルのことを考えよう。
彼女の親は2人とも「日本人」だが、インターナショナルスクールで教育を受けている。彼女は「日本民族」だろうか?
でも彼女はおそらくアメリカの市民権も持っているだろう。
だとするなら、彼女は「アメリカ人」だろうか?
新潮文庫の『民族世界地図』に示されているように、「民族」という概念は、かっちりと固定されたものではなく、(ここは重要!)流動的に移ろうものなのだ。
だから、たとえば北山氏やユングといったように、神話や民話に人間のあるいはその「民族」の「深層心理」を読む、という方法は、一定の限界がある、ということも同時に知るべきだろう。
それはおそらく、精神分析というものが発生した時期と絡んでいる、と僕は思う。
ただ、ただ批判するというのは少し違う、と思う。
もちろん精神分析なんか全然信用しないぜ!という人がいてもいいと思う。
でも僕はその立場ではない。
この本を読んで、少し、精神分析に興味をもった。
おそらく物理学が科学であるのと同じようには、精神分析は科学ではない。
でも精神分析というのは、僕にとっては避けては通れないテーマだ。
本書はそういった、精神分析に少し興味があるという人にとっての、
格好の入門書だと思う。
参考文献欄も充実している。
さらに興味を持てば、そこから先に進めばいい。
ミイラ取りがミイラになる、という事態は大いに考えられる。
だが、僕は少し、精神分析の世界に、
これから分け入っていこう、と思っている。