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「テレビの語法」の寒々しさ
「こんなことが許されていてよいのでしょうか?」
「情報」と「情報化」
「情報化」とは、「なまもの」をパッケージして、それを取り扱い可能な
「情報」に変換する作業のことである。
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「改憲派に聞きたい二つのこと」の切れ味鋭い論旨展開が気持ち良い。
第一、改憲することによって、日本は本当に戦争ができる国になるのか?どんな国でも、つまりは相手が米国でも戦争を厭わない、ということなのか?法理上も米国と戦争するつもりがないのであれば、それを明記すべきである。だが、それは「日本は米国の軍事的属国である」ことを世界に向けて明言することであり、恥を告白することである。
第二、仮に米国の属国にならぬというのなら、国防全体をいかに担保するのか?核武装、徴兵制を本気で考える気概があるのか?果たしてそれは、日本を「北朝鮮化」するということではないのか?
ポピュリストよ、先の先をきちんと説明できる準備をしてから物申していただきたい。
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内田樹の本を目にするようになったのはいつ頃だろうか。もちろん調べれば分かる話なのだけれども、別に正確に知りたいわけではない。おおよそ10年くらい、という感じだろうか。僕にとっては、何だか突然面白い話をする人が出てきて、以来10年間(かどうかは正確には知らないけれども)、面白いことを言い続けている、という印象の人だ。
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安心して読める文春文庫版のはずがややひっかかる。どうやら回顧趣味的な題名に引っ張られてしまったらしい。
「昭和のエートス」自体はほんの一部なのだが、タイトルというのは基本的なスタンスを決めてしまうのか、初出のブログ記事を読んだ時には感じなかったギクシャクを覚えた。
とはいえ、そこは内田樹。『三丁目の夕日』のような回顧ではなく骨のある論を持ってくる。
曰く、昭和人とは時代の裂け目を個人の分断として内に抱え、その葛藤を生きた人だと。ふむ。翻って、東日本大震災で大きな価値観の転換をしたと思っていた私の節操屈託のなさよ。
それにしても不思議なことに、ブログで読んでから書籍で読むまでのタイムラグのなさのせいなのか、いつもの文春文庫版に感じる喜びがなかった。
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9/2-12 ,12
内田さんが2006~2008年に執筆された文章をまとめた本。
その寄稿先がさまざまだから、テーマも色々でとても興味深く読めた。
内容によってはその章を何回か読み直したりして、内田さんが本当に言いたいことを理解しようとした。
ので読み進めるのにけっこう時間がかかったけど、いろいろと調べものをしていくうちに「なるほど~~。そういうことか!」ということも多くなって読んでいる時間がとても楽しかった。
少し時間を置いて、また読み直したい。
(『日本辺境論』も…。)
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タイトルがおもしろそうやなあと思ったけど、本書は内田さんの文庫のなかでも特に、選ばれた論考に脈絡が感じられなかったように思います。決して悪い意味ではないです。
でも、やはりほかと比べてむずかしく感じました。それゆえ、わくわく感があまり感じられなかったのが残念。後半のほうが断然おもしろかったなあ。
「頭を冷やすことの大切さ」「お金と幸せ」が特に興味深いです。
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昭和という時代を単なる懐古趣味で振り返るのではなく、江戸〜明治〜昭和と、それぞれの時代に存在する「断絶」を我が身に体験した世代の残したものに言及する試み。振り返ってみて昭和から平成に至る時代を生きてきたわれわれは後世に残せるものを築く事が出来ただろうか?そんなことを深く考えさせられる書である。
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先日読んだユダヤ文化論で内田さんに興味を持ったからなのでしょうか、バイト先の平台で、たった一冊しかないその背表紙のタイトルが目に飛び込んできました。確か九月のことです。この本は八月の新刊でしたので、もしかしたら、その前からそこにあって私を待っていたのかもしれませんね。でも読み始めたのは随分遅くなりました。
はやく読んでおけば良かった、と思います。
答えとは言い切れないけれど、そういう考え方を待っていた!というものがたっくさんつまってました。
紹介したいところですが、個人的に全部良かったので抜粋して……なんてことができません、悪しからず。
丁度一年ほど前に日本辺境論を読まなければならなくなったときに、読めなかったのが嘘みたいです。本書のあとがきを読んで知ったのですが、日本辺境論の前身も収録されていたようです。それも楽しく読めたので、再読しないと!
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ほかの文庫に収められているものとテーマがかぶるものもいくつかあるけど、今回は読書について書いてあったのが収穫。
漢文なんてしばらく読んでないなあ。
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ウチダ先生。やっぱり面白いです。私の稚拙な感想などより、以下に「これは至言」と思われる文章を書き写したいと思います。なんといっても「引用の贈り物」ですからね。
・人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する。一言、「きれごと」を言うごとに、「お前にそんなことを言う資格があるのか?」とただちにそれを否定するような声が聞こえるという人格統合の不調は、結果的に「きれいごと」をさらに論理的に洗練させ、「否定の声」の批評性をさらに鋭利なものにする。
・屋根のある家に住み、定職を持ち、教育機会や授産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態は「貧困」とは言われない。あちらにはベンツに乗っている人がいるけれど、うちは軽四である。あちらにはGWにハワイに行く人がいるのに、うちは豊島園である。あちらにはシャトー・マルゴーを飲んでいる人がいるのに、うちは酎ハイであるという仕方で、所有物のうち「とりあえず同一カテゴリーに入るモノ」を比較したとき、相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。
・誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。そして、たいへん困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。
・もし「日本的なもの」について思念を凝らすことに意義があるとすれば、それは「日本はこんなに素晴らしい国だ」と揚言するためではない。そうではなくて、日本人たちが「世界標準に合わないから」という理由で切り捨てて行ったものを擁護顕彰することによってしか日本の固有性と世界の多様性は担保されないからである。
・「やりがい」を求めて離職転職する若者たちは「クリエイティブ」で、「自己決定・自己責任」の原則が貫徹していて、個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占できる仕事に就こうとする。だが、そういうことは軽々に口にしない方がいいと思う。「クリエイティブ」であるためには人に抜きんでた個性が必要である。「みんなと同じような理由で、みんなと同じような仕方で集団的労働を忌避する」人が個性的な人物である可能性はそうでない場合よりも低い。
・一九四五年冬の時点で敗戦国民が「富者」であるためには旧軍の物資を盗んだか、占領軍に通じていたか、犯罪に関与しているかそのいずれかの方法しかなかった。このとき「フェアな競争の結果、私はこの地位と財貨を手に入れたのだから私にはこれらについて占有権がある」という主張をなすことは恥ずかしいことであった。少なくともそのような暗黙の合意が存在した。だから、相対的に富裕な人々はその資産を他の人々とわかちあう義務を感じたのである。「共和的に貧しい社会」というのは「貧者」がいない社会のことではなく、「富者」の名乗りがはばかられる社会のことである。
・人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない。というのは、そのとき共同体に「弱者」として含まれる幼児や老人や病人や障害者はいずれも共同体のすべてのメンバーにとって「かつてそうであり、これからそうなるかもしれない」存在様態だからである。あらゆる成員はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人あるいは障害者あるいはその両方になる。だから幼児を養い、老人を敬し、病者や障害者に配慮するというのは、自分自身に対する時間差をともなった配慮に他ならないのである。
・たしかに「今よりも弱肉強食の社会になれば弱者にもチャンスがある」というのは一面の真理を含んでいる。けれども、その一面の真理にすがりつく人は「弱肉強食の社会で弱者が負うリスク」を過小評価している。強者とは「リスクをヘッジできる(だから、何度でも失敗できる)社会的存在」のことであり、弱者とは「リスクをヘッジできない(だから、一度の失敗も許されない)社会的存在」のことである。社会における人間の強弱は(赤木の想像とは違って)、成功できる機会の数ではなく、失敗できる機会の数で決まるのである。
・私が未履修問題でいちばん胸を衝かれたのは、学習指導要領の不適切でもないし、教育委員会や学校のコンプライアンスの低さでもない。そうではなくて、高校生たちも現場の先生たちも文科省もメディアも含めて、総じて日本人の全員が教育を費用対効果というタームで語ることを当然のように思っているという精神の荒廃に対してである。
・学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。むしろ市場原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻止し、親と企業による収奪から子どもたちをほごするために誕生したものである。
・「いくらでも替えはいる」という強気の人事は「就職氷河期」から定着した。それ以後、多くの企業は社員たちに非人間的にタイトな労働条件を課し、それに耐えた小数をコアメンバーとして残し、あとは中途退社させるという手荒な人事を行っている。自宅通勤の若い女性の中には「朝五時起床、午前一時就寝」というような非人間的なタイムテーブルで酷使されている人が少なくない。このような雇用のあり方は社員の心身を長期的に健全な状態に保ち、企業の中核として育成することをめざしてはいない。
・現場にいる人間の個人的資質とはとりあえず無関係に制度が破綻なく機能するように構築された制度のことを「うまくできた制度」と呼ぶのである。個人的資質や練度の差がただちに制度そのものの存亡にかかわるようでは制度としてたいへん不出来なものであると言わねばならない。
・人間は他社の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。
・日本列島に昇る太陽を「朝日」として認識できるのは日本より西の地方の人だけだからである。「日本」というのは「大陸から見た東方」を意味する国名なのである。(中略)自分を主体としてまず立てることをせず、「主体である他者」からどの方位に見えるかをおのれのアイデンティティの基礎づけとしているという当の事実に気づかずにいられること。それがお���らく「属国人」の際だった特徴なのである。
・学校の管理責任や教師の教育力不足をきびしく批判する親たちの指摘には根拠があることを私は認める。だが、その批判が学校を子どもにとって快適な場所にし、教師の能力向上に資するか、その逆の効果をもたらるかは熟慮すべきであろう。
・コンピュータを使えば私たちはほとんどあらゆる情報を瞬時のうちに検索することができる。しかし、コンピュータにもできないことがある。それは、「私たちが知らないキーワード」で検索をかけることである。そして、教育は「私たちがそのようなキーワードが存在することさえ知らなかったキーワード」との遭遇から始まるのであり、そこからしか始まらない。
・ 私たちが人を羨むとき、私たちが羨望しているのは、美質そのものではなく、そのような美質について羨まれている当の人間は意識しないでいることができるというあり方なのである。だから、羨まれるほどの美質を備えていながら、それを失うことをつねに恐れており、自分がそれを持っていることをつねに誇示せずにはいられない人間(よくいますね)は、どれほどの美質を備えていても、私たちの羨望を少しもかき立てない。(中略)ここまで言えばもうおわかり頂けたと思うが、もしみなさんが「お金と幸せ」から最大のベネフィットを引き出したいと望むなら、なすべきことは簡単である。それは「お金と幸せ」についてできるだけ考えないようにすることである。
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内田先生が「最初と最後は立ち読みでもいいから読んでね」みたいなことをブログで書いていたのだが、その最初と最後がちゃんと読み切れていない状態。リベンジしよう。
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書かれたもの(テクスト)のみが正しい、という考え方にとらわれすぎると、それを書いた人が置かれた時代状況や、抱えていた葛藤などのことを考えることが疎かになってしまう。そのことを痛感した。吉本隆明とか江藤淳を読みたくなった。
内田先生のカミュ論は素晴らしい。
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内田樹のエッセイ集。著者のエッセイ集のなかでも、比較的硬い文章が収められている印象です。
「私的昭和人論」は、戦前と戦後の「断絶」を「断絶」として抱え込んだ思想家たちについての考察です。吉本隆明や江藤淳、養老孟司といった人びとの思想に、ひとつの観点からスポット・ライトをあてる試みとして、おもしろく読みました。
著者の日本人論は『日本辺境論』(新潮新書)としてまとめられていますが、本書には著者の推薦する「日本人の社会と心理を知るための古典二十冊」という読書案内が収録されています。とくに、勝海舟、坂本龍馬から、中江兆民、幸徳秋水を経て、田中正造、堺利彦、荒畑寒村らに至る「荒々しく感情豊かな反骨の系譜」の指摘をおこなっているところに、興味をかき立てられました。
「アルジェリアの影」はアルベール・カミュ論です。レジスタンスの闘士として、自著の哲学史的重要性をみずからの行動で実証してしまった稀有な思想家として、カミュを再評価しています。
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雑文の寄せ集めであるが、読めば結構面白い。
徹底して、偏差値主義、単一指標での上昇成功圧力、グローバリスムの名の元での市場万能主義、メリトクラシー、アメリカによりかかる思考、を攻撃する。少なくとも教育者としての信念については、よくわかる。
白川静、カミュなどへの傾倒。
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「『雅文を草する』だって。」
この本を読み始めた彼からこの言葉を聞いたとき、雅文という漢字すら頭に思い浮かばなかった。優雅な文で「雅文」、原稿を書くことを「草する」、合わせて「雅文を草する」。なんて美しい日本語だろうとこの一文に惹かれて、本書を手に取った。
以前読んだ「下流志向」に比べて難しい言葉や表現が多く、また私自身の知識が乏しいためいくつか理解できない内容もあった。数年後に再読したい。
私は昭和を知らない。
内田樹先生は「昭和人」とは「昭和生まれの人」のことではなく、「昭和という時代を作りだし、生きた人」と定義している。
74年前の今日、日本は敗戦した。それまで「国家主義」だったこの国が、その日を境に「民主主義」になるという大きな「断絶」を日本国民は受け入れざるを得なくなった。
そしてそのとき、「断絶以前」と「断絶以降」で自分の中の葛藤に苦しんだ人を「昭和人」と呼ぶ。それは明治人も同様で、明治維新以前と以降で葛藤した人々のことを「明治人」と呼ぶ。
私はここでいう「昭和人」に会ったことがない。多分内田樹先生前後の世代が「昭和人」を知っている最後の世代だろう。
本書では多角的に昭和的な雰囲気を感じることができる。
・東京オリンピック以前の「戦前」的な風景、「どうせ敗戦国だから」という人々の卑屈さとそれゆえの風通しの良い空気感。
・「貧困」は経済問題だが「貧乏」は心理問題である。敗戦後の日本はたいへん貧しかったが、皆が同程度に貧しかったため人々は総じて明るかった。(関川夏央のいう「共和的な貧しさ」貧者がいないのではなく、富者を名乗ることがはばかられた社会)現在日本は「貧困」を脱して豊かになったけれど、格差が生まれたため「貧乏」はむしろ増えた。
(資本主義市場経済はしかし多くの人が「自分は貧乏だ」と思うことで成り立っている)
・今、教育現場でも社会でも「どうやって勝つか」が重視されている。しかし人間はこの世に生を受けてから常に「死」という「負け」に向かっている、構造的敗者なのである。日本人は世界でも稀に見る敗戦経験の少ない国だ。(663年に唐・新羅軍に負けた白村江の戦いと先の大戦くらいだろう)たとえばフランスは数多くの敗戦から――それゆえに甚大な被害を受けてきたので――敗戦を無駄にせず、そこから得た教訓を次に繋げることに長けている。一方我が国は良くも悪くも敗戦“慣れ”していないため、適切な負け方を知らない。戦争を知らない世代が増えた。74年前の戦争を「無意味な敗北」にしないよう、「どうやって勝つか」ではなく、「意義のある負け方」を習得すべきである。
のっぺりとしたシンプルな時代に深みのあるものは生まれない。「断絶」を経験してみたい、と思ってしまうのは私にとって過去の「断絶」がもはや歴史上のことになっており現実味が湧いてこないからだろうか。