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M/世界の、憂鬱な先端 みんなのレビュー

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みんなのレビュー7件

みんなの評価4.0

評価内訳

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7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本

宮崎事件だけでなく、今の日本や日本人が抱えている問題を露わにした大著

2006/03/18 19:09

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みなとかずあき - この投稿者のレビュー一覧を見る

 平成18年2月1日、連続幼女誘拐殺人事件の犯人宮崎勤の死刑が確定した。ちょうど昭和から平成に変わる時に世間を騒がせた事件だった。しかし、宮崎勤の精神鑑定などのため裁判は長期化し、最高裁の判決、刑の確定までに17年もの時間がかかってしまった。そして、事件が発覚し、犯人が逮捕された時の世間の騒ぎ方に比べると、判決、刑確定の時にはあまり騒がれもせず、マスコミも淡々と報道していたような印象があった。だが、そのようにして済ませてしまっていい事件だったのか。それを確認したくて、この本を読んだ。
 まず、分厚い!500ページを超える本なんて、久しく読んでいなかったので、読んでも読んでも終わりがこない感じだった。しかも、始まりは20世紀末の新宿であったり、ベルリンであったり、一向に事件の話にたどり着くようには思えない描写が続いた。
 それが、第二章(?)「憂鬱な」になり、突然1997年の宮崎裁判第一審法廷の判決場面になる。そこからは、丹念に事件を追う記述が続く。ここが圧巻である。事件や宮崎本人に関する情報が限られているので、時に推理・推測を交えないと追っていけない部分があったのだろうが、それでもできるだけ事実に近づいていこうとする著者の姿が見えてくる。そして、そこから私たちにもこの事件の姿、事件を起こした宮崎勤の姿が見えてくる。
 この事件を扱った他の本では、宮崎を精神障害者とみなしていたり、演技をしている者と述べていたり、ただ奇妙な猟奇的な行動だけに注目していたりと、どれも事件の本質や宮崎の真の姿に迫りきれていない感じがした。しかし、この本では何とか宮崎の真の姿に迫ろうとしている。決して単に精神障害者だったとか、凶悪犯罪者であったというような決めつけをしていないが、気めつけをしていない分だけ真の姿を描写しているのではないかと思う。
 そして、もう一つ大事なことは、事件の本質が何であったのかということである。それは、「憂鬱な」を読むだけでは見えてこない。終章(?)「先端」を読むことで、初めて気がつかされると言ったら大袈裟だろうか。だが、やはりそうとしか言いようがない。この本を最後まで読むと、宮崎事件が21世紀を迎え、経過している日本が抱えている問題を焙り出すきっかけとなった事件だということがわかる。だからこそ、私にとってもこの宮崎事件がいつまでも気にかかる存在だったのだということを思い知らせてくれた。
 この本は重い。宮崎事件を知ろうとして、結果、露わにされた問題は宮崎や他の事件の犯人や状況ではなく、私を含めた日本人自身に突きつけられているのだ。

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紙の本

なんとも憂鬱な世界を淡々と描く力量

2002/07/14 01:05

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yhoshi2 - この投稿者のレビュー一覧を見る

優れた事件ルポルタージュをものしてきた吉岡忍が満を持して問う論争喚起の書。連続幼女殺人事件の宮崎勤=Mの動機の解明と社会背景の究明に全く新しい境地を切り開いた労作といってよい。宮崎裁判に用いられた「精神医学的解明」のあまりの杜撰さ。心理分析があまりに蛸壺化して、社会背景の解明との連携を欠いた今日の事件処理のありようが容赦なく抉り出される。佐野真一の「東電OL殺人事件」でも鋭く批判されているが、今日の日本の司法のあまりの貧困・堕落にあらためて大いなる失望と怒りを感じる。

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紙の本

このような書物を前にしてどんな言葉を紡ぎ出せばいいのだろう

2001/03/04 22:30

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 著者は、1989年から翌年にかけて、昭和天皇の重態が報じられるなかで遂行されていった幼女連続誘拐殺人事件を二つの側面から叙述している。

 犯人宮崎勤の事実と妄想とファンタジーに彩られた精神のリアリティを内側から理解すること。そして、宮崎を「憂鬱な先端」として持つ「世界」の実相を、つまり戦後復興から高度成長を経て脱神話化された「生活圏の町」を実現し、大衆化された消費社会へとつき進んでいった戦後日本の社会システムやメインとサブのカルチャー、映像を代表とするメディアの在り様を外側から叙述すること。

 この二つの視点は本書に張りつめた緊張感を強いるものであって、マス・メディアから精神鑑定、ノンフィクションの言説のあり方への批判、はてはいままさに書きつつある自作への内省的言及とないまぜになり深い陰翳に富んだ作品世界をもたらしている。

 本書に記述された「宮崎語」、たとえば、のそりのそり、どっきんどっきん、甘い世界、父の人、母の人、ネズミ人間、肉物体(生きていない状態の体)、骨形態。あるいは著者による、映像の攻撃性その他の分析枠組みの提示。そして宮崎勤=解離性同一性障害(多重人格)説と地域社会や日本の戦後社会そのものの解離性を重ね合わせて描写するその構えは、抑圧と解離をめぐるたとえば斎藤環氏(『文脈病』その他)の言説へと接続されるのではないか。

 それにしても、このような書物を前にしてどんな言葉を紡ぎ出せばいいのだろう。しゃべるな。語るな。沈黙するな。通奏低音のように響くこの言葉に、私の魂は戦慄する。著者は本書に10年かけたという。その時間と思索と内省の重みが、たとえば次の文章に凝結している。

《おそらく私の国が歴史を取りもどすことはないだろう。この国を二○世紀のまんなかで大陥没させた狂信や残酷さや激しい暴力を思い起こす記憶力を、この社会は持っていない。解離はまだつづいている。
 そうであれば、ひとつの国が、ひとつの社会が、一人の人間が持っている攻撃性の意味を考え、想像し、認識するのは一人ひとりがやるしかない。集団にたよらず、一人で考え、あたえられた関係を離れ、絆を選びなおし、そうやって親密圏を作っていくなかで人間と国家と世界の善と悪を、正と邪を、愛と憎を、美と醜を、真と偽を見きわめ、もう一度理念を作っていくこと。
 しかし、歴史意識を欠いたまま理念を作ることができるだろうか?
 たとえできたとしても、それは脆弱なままではないだろうか?
 そうかもしれない、と私も思う。
 だからこその先端なのだ。
 やがて確実に歴史を忘れていく世界の、憂鬱ではあるけれどもここが先端なのだ。》

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紙の本

解離

2002/01/26 21:27

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る

 《体験は言葉を得て自覚化され、経験になる。そうやって蓄積されていく経験が、少しずつ主体を作っていく。主体がむっくり立ち上がる。しかし、この先になにがあるか?》

 本書は、すなわち宮崎勤の事件を描いたノンフィクションである。しかし、単にこの事件を描いただけではない。ここには、著者吉岡忍にとってノンフィクションとは何か? この本を書いている<私>とは何なのか? そうした問いも含まれていると思う。
 この事件の裁判に対する著者吉岡忍の疑問点は、簡易鑑定を含めた四つの異なる診断をした宮崎勤の鑑定書だ。吉岡は、どの鑑定書も信用できない。どれも重要な点を見逃していたり、あるいは手を抜いているのではないかと思わせるものばかりだった。これは、「出来レース」なのでは、と言う。
 ここで、吉岡の採った方法は、この事件を起こした宮崎を社会から切り離すのではなく、どうしてこのような人間を社会を生み出してしまったのかと「社会」そのものを問う。《個人を人間関係や社会環境から切り離し、個人の内部にこそ異常や逸脱をもたらした原因がある、と考える正統的な精神医学の行き詰まりが、たえず反精神医学を立ち上がらせてきた歴史を、もう一度ここで思い出してみたい。人間という存在が関係や環境との相互作用のなかで作られていくものだとすれば、宮崎勤は一九六〇年代の前半から八〇年代の後半の日本という個別具体的な時空間で生かされ、適応を迫られ、あげくの果てに凄惨な事件へと突っ走っていったのではなかったか。》
 ここで、精神医学の方法が批判されるのは、結局、宮崎勤の事件は精神医学上、異常で宮崎個人の特有の問題とされ、それならば隔離してしまえばよいと通俗的な判断へと繋がってしまうからである。
 何か想像を越えた異常な出来事が起こる。そして、精神医学の鑑定で異常で特異なものと判断される。そして社会から隔離され切り離され、やがて私たちの記憶から忘れられていく。この作業、これこそ戦後の日本という社会が行ってきたことではないか。
 吉岡の言葉で「生活圏の町」というのがある。いわゆる郊外のニュータウンのような新しい町だ。どの「生活圏の町」もみな同じような風景をしている。ありふれた、のっぺりとした空間だ。戦後、こうした町がどんどん増えていった。この空間で欠けていたもの、それは「記憶」だ。吉岡は言う、《思えば私の国の戦後史とは、人はどこまで記憶なしで生きられるのか、ひとつの文化はどこまで歴史なしでやっていけるのか、と実験していたようなものだった》と。まるで日本は、「解離」状態であるかのうようだ。
 ここで、「言葉」が重要な役割を果たす。言葉を獲得することによって、私たちは体験したことを自覚することが可能になり、意味を持った経験として蓄積されていく。そうして主体というものが出来上がるのだ。《体験にふくまれている意味を明示し、その体験によって変化したものがなんであるかを見抜き、そこに思索や思慮を加えること、つまりは言葉を与えることによって体験それ自体の質を変えていくこと。こうした体験の経験化が教育の仕事、そのだいじなひとつだと思う。》
 おそらく、吉岡がノンフィクションを書くのも、こういう理由からではないか。つまりある事件なり、出来事を吉岡なりに体験し、言葉にすること。そうした言葉によって、記憶が生まれ、思索することが出来るようになる。だから書きつづけるのではないだろうか。世界の、憂鬱な先端で。

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2009/03/10 16:30

投稿元:ブクログ

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2013/07/17 08:42

投稿元:ブクログ

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2023/07/22 13:56

投稿元:ブクログ

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