紙の本
ずっしり
2022/03/08 18:49
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投稿者:owls - この投稿者のレビュー一覧を見る
石井さんの本は沢山よみましたが、ご本人については何もしらずに読み始めました。ずっしりと厚く、情報量もつまってますが、文は読みやすく、すぐにひきこまれました。驚くことばかりですが、特に戦前から戦後にかけての生きざまには驚きました。また、翻訳絵本好きとしては、瀬田さんの記述も興味深かったです。本当に読み応えのある本でした。
紙の本
ひみつの王国
2021/04/21 18:01
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
創作者としても翻訳者としても日本児童文学史上の最重要人物である石井桃子の人生について、石井桃子の作品を愛読し、自ら本人にあって取材した事もある尾崎真理子がまとめた評伝。児童文学者(本人はこの肩書きを嫌ったそうだが)としての一面だけでなく、一人の女性としての人生も描き出されている。
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図書館で借りた600ページ近くある分厚い本を、後ろに予約待ちの人がいて延長できないので、数日かけてせっせと読んだ。石井桃子は1907年(明治40年)にうまれ、2008年(平成20年)に101歳で亡くなった。
石井が書いた本や訳した本を私もいろいろ読んでいるが、この本でくりかえし言及される『ノンちゃん雲に乗る』や、『クマのプーさん』、『プー横丁にたった家』は、タイトルはよく知っているものの、ちゃんと読んだことがない。プーさんは、むしろ絵の好きな友だちともども、スケッチうまいなあとシェパードの挿絵のほうに興味があったことを思い出す。
晩年に(90代の仕事!)、プーの作者・ミルンの大部の自伝を訳した石井は、そのことを「私が自伝を訳してるのは、ミルンはどういう生涯の中で、どういう動機であの本を書いたのか、やっぱり知りたかったからですよ。…(略)…あの魔法使いのミルンは、いったいどういう育ち方をした、どういう人だったのか。ちゃんと知りたいと思ったんですね。」(p.172)と語っている。
著者は、最後の章で、ミルン自伝を訳していた2002年の石井のこんな言葉も引く。
▼「どうして、イギリスには児童文学の傑作があれほどできたかってことですね。イギリス人が大英帝国を発展させるためには、ずいぶん悪いこともしてきた。むごいことやって世界中から集めたもので博物館を作って。そういうものは自分の内側に強さがないと消化できないのだろうけれど、そこから彼らは海賊の話も児童文学にしちゃったのね」
「アリソン・アトリーの『グレイ・ラビット』にしろ、ポターの『ピーターラビット』にしろ、子どもの心に自在に入っていける本がなぜ、大英帝国の時代にできたのか。ミルンにしても、ヴィクトリア朝の教育を受けて劇作家として歴史に残る仕事をしかかっていた人が、どうして『プー』のようなものを生んでしまったのか。その秘密が、自伝の中にあるのではないかと探しているんですね。一生懸命やってるんですけど、まだ、つかめるかつかめないか、わからない状態で…」(p.502)
その大英帝国、日の沈まない国といわれた時代のイギリスが、インドを植民地支配していた頃のことをいくつか読んでいる私は、どうして大英帝国の時代に、という石井の疑問に興味をひかれた。
石井が、身体の強い人ではなかった、というところには、ほんまに?と思った。101歳まで生き、多くの仕事を遺した人だけに、よほど頑丈な人なのだろうと思いこんでいたが、強くなかったからこそ、長く生きられたのかもしれない。
12月から1月にかけて、(『そして、メディアは日本を戦争に導いた』に引用されていた前後を読みたくて)図書館に通って『朝日新聞七十年小史』(1949年刊)を読んだ私は、石井が訳した『熊のプーさん』が1940年に岩波書店から出て、「たちまち初版の五千部を売り切り、版を重ね始め」(p.241)、1942年6月には続編の『プー横丁にたった家』が岩波書店から五千部出た、という話におどろいた。すでに第二次大戦が始まっていたこの時期に、"不要不急"の、しかも敵国製のお話が出たとは!
▼が、二作が書店に並んだ期間は短かった。「最初か、次の版を刷るってところで紙の配給がなくなった。英語から訳したものは、もう出せなくなったんです。『何、言ってるんだ! 不要不急!』って言われました、その時。その日に必要でないような本なんか、出す必要ないって。紙の配給を決めるのは情報局で、岩波の担当がまず原稿を見せに行って、『今、この本は日本に必要かどうか』を基準に決められたわけなんです」と石井は語った。(p.242)
そこに時勢の変化があったと石井は語るのだが、時勢の変化はプーの二作品が出た時期にこそあったのではないかと著者は推す。
1937年、盧溝橋事件を発端として日中戦争となり、翌1938年には国家総動員法、電力国家管理法が成立、出版界では「児童読物改善ニ関スル指示要綱」が発表されている。これは「十歳以上ノモノ、将来ノ人格ノ基礎ガ作ラレル最モ大切ナル時代ナルヲ以テ、敬神、忠孝、奉仕、正直、誠実、謙譲、勇気、愛情等ノ日本精神ノ確立ニ資スルモノタルコト」などと編集上の注意事項を細かく規定し、指示しているのだという(p.243)。
こうした指示により大衆的な漫画などが"悪質文化財"として駆逐されていった一方、この頃好調となっていた児童雑誌や児童書(「少年倶楽部」「コドモノクニ」「日本の子供」や、浜田廣介の『ひろすけ童話読本』等)の市場を守るため、編集者や作家は同業団体を結成していく。
▼文部省は1939年から優良図書を推薦する事業を起こすと、これらが相乗効果を発揮して絵本や児童読物の新刊の水準は高くなり、社会の関心も次第に高まっていく。「童話」に対して、もっと近代的な響きがある「児童文学」という言葉が提唱され始めたのも、この時期だ。(pp.244-245)
こうした子どもの本への"統制"は、その初期には水準向上というかたちで恩恵をもたらした。1940年から41年にかけて集中して、子どもの本の傑作が日本に翻訳紹介されているほか、創作童話も急激に伸びたという。岩波の石井訳プーを追いかけて、新潮文庫でも1941年に松本惠子訳の『小熊のプー公』が出ているそうだ。
だが、太平洋戦争へ突き進んでいく時局の中で、こうした"「赤い鳥」よもう一度"と理想をめざしそれが実現した時期は短く、児童文学は戦意昂揚や国家主義にまきこまれていった。これが、著者のいう"時勢の変化"である。
戦争中の状況を問うた著者に、石井は「めずらしくむきになって」(p.256)こう語ったそうである。
▼「あの戦争中の日本人の意識っていうのは、今の常識というもので判断できない。一種の狂気…。普通の平和な時代なら、とてもやらなかったことを、思い切って何とかするっていうんじゃなくて、生きるためにそれをしなくちゃならなかった。そういうことだったと思うんですね」
「あなたのような若い人たちに、戦争中のわれわれの生活っていうのを説明しても、わかってもらえないでしょう。日本人がどんな気持ちであの戦争の中で、明日をも知れない、ほんとにいつ命がなくなるかわからない時に、どうしたら生きていけるかっていうことをね、もう本当に、明日のことはわからない。で、計画なんて言ったって、きちっとしたこと考えることができないんです。行き当たりばったりで、何かできることから始めるしかなかった…」��p.256)
戦後にともに東北で農地開墾にあたった狩野ときわと、石井は戦中に出会っている。戦争の末期には秋田から狩野が引率して勤労動員にきていた何十人の少女とともに石井も工場の寮で暮らした。この若いかの女たちに「何か澄んだ、きれいなものを味わわせてやりたい」と石井は思い、知人の音楽家にコーラス指導を頼んでいる。
そうして仕上げたさいごの歌、一生けんめい歌ったのが『菩提樹』という歌だった。当時のことを石井がエッセーに書いているそうで、そこが引用されている。
▼この歌をしあげた時、先生のKさんが、「みんなで将来、どこへどう散らばるかわからないけれど、この歌をうたう時は、きっと今晩のことを思いだし、みんなのことを考えようね」と、子どもたちにいい、私も、ほんとにそうしようと思ったことを思いだす。このようなことは、みなうす暗い電灯の下の情景として思いだされる。若い女生徒たちの歌声だけが、きれいだった。(p.283)
これは、石井自身がよく語っていたという「大人になってからのあなたを支えるのは、子ども時代のあなたです。」(p.5)に通じるものだと思うし、宮本常一が小学校教員をしていた時分に子どもたちに語りかけた内容「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなくなる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」(『民俗学の旅』、pp.75-76) を彷彿とさせるものがある。
石井はなぜ児童文学の翻訳にとりくんだのか、そしてなぜ書いてきたのか。"この人がいなかったら、日本の「子どもの本」はどうなっていただろう"と思う著者は、石井の歩みを跡づけながら、その問いにも取り組む。たとえば石井のエッセーのこんな箇所。
▼私がいままで物を書いてきた動機は、じつにおどろくほどかんたん、素朴である。私は、何度も何度も心の中にくり返され、消えなくなつたものを書いた。おもしろくて何度も何度も読んで、人にも聞かせて、いつしょに読んだものをほん訳した。
それが、偶然、たいてい子どもに関係ある本だつたのは、私が「女、子供」のうちの女であつたことにも一つの理由があるかもしれない。私は、子どもというものを、一度もばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもつた仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。外国の文学者などが、年とつてから、子どものための本を書きだすのを聞いたりすると、うらやましいことだなあと思う(p.365、「児童文学雑感」『読書春秋』1952年2月)
そして、著者はこう書いている。
▼…石井桃子が書くことで追求し続けたのは、「私とは、本当は何者なのだろうか」「なぜこのような仕事を続けることになったのだろうか」、そして「私はなぜ、多くの困難を経てなお、人並み外れて長く生かされてきたのだろうか」…そんな、不可解な自分への疑問、好奇心を、人生の大詰めの時期が深まりゆくにつれ、いよいよ抑えることができなくなったからではないのか。晩年に残した大作はどれも記憶と意識の深層という、自分の中の深い井戸をのぞき込もうとした仕事とみることもできよう。(p.496)
長い長い石井の生涯にはいろんなことがあって、いろんな話があるが、その中で印象にのこったひとつは、関東大震災にまつわること。石井桃子は浦和でうまれ、その石井の父が、関東大震災のときに、近所で飴売りをしていた朝鮮人のおじいさんのことを案じていた…という話(p.46)。昨秋に読んだ『九月、東京の路上で』に出てくる埼玉の話で、飴売りの若者にふれたものがあったのを思い出す。それは名前の分かってる朝鮮人の死で、石井の父がおじいさんを案じたように、毎日のように顔をあわせていた若者のことを近所の人たちが悼んだという話だった。
この本のカバー装画に使われているのは、ヘンリー・ダーガー「カルマンリナにて。肉迫戦の間、敵対する両陣営の兵士たちにあやうくのみこまれるところだったが、戦場の高い木に登って難を逃れる」(61×91cm)の部分。装幀に使ったヘンリー・ダーガーのことは、7章で少しふれられている。石井桃子は「おそらくダーガーの仕事を知る機会はなかったろうが、もし知ったら、滅びない王国の創造主として、大いに関心を示したのではないかと想像する」(p.500)と著者は記す。
(2/22了)
*石井桃子ならびに周辺の人の本で、読んでみたいと思ったもの。
○佐藤碧子(=佐藤みどり)『瀧の音』東京白川書院、1980
小林多喜二が拷問により死亡したことを詳述している部分が、p.113に引用されている。多喜二の死、関東大震災時の民間人による竹槍殺人、大杉栄を扼殺した憲兵にふれ、「国家権力をかさに着た貧しい男達の虐性がひそんでいるようで」と。
○石井桃子『児童文学の旅』岩波書店、1981
p.384で、この本ができた経緯が書かれ、本のまえがきの一部が引いてある。「あるひとりの女の感情的な旅行記として読んでいただきたい」というものらしい。
○瀬田貞二『幼い子の文学』中公新書、1980
これは瀬田が、東京都立日比谷図書館で児童図書館員のためにおこなった講演をまとめたもので、「詩としての童謡」の項では、イギリスでは子どもが読んで理解できるすぐれた詩が、19世紀、ウィリアム・ブレイクから始まったことを丁寧に語っているとか。pp.397-398に言及あり。
○日高六郎「三つの四十年目」『世界』1985年9月号
先頃亡くなったドイツのヴァイツゼッカー大統領が終戦40周年におこなった演説の詳細な引用があるそうだ。p.527には「おそらく最大の重荷は、すべての国々の女性たちによって荷われた。」から始まるその部分が10行ほど引いてある。
石井桃子と半世紀にわたる親友であった水澤耶奈。老い、病によって記憶もうしないつつある母の耶奈に、その息子の水澤周が、母が好きだった日高の論文を読んで聞かせた、という部分。
※「若干」と「弱冠」が合体したような誤字
p.96 若冠二十三歳の記事としては
→【弱】冠
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次々と出てくるビックネーム、犬養毅、菊池寛、太宰治、松居直、中川李枝子、山脇百合子、松岡享子、いぬいとみこ…
並外れた能力と知識と好奇心と、そして運を持ち合わせた女性。
彼女の編集者としての業績を知れたのはとても大きかった。
あの戦争を超えて、独立した女性として生きようとした、日本で最初の世代の代表者でもあった。
彼女の言動に、常に新しく、自分らしく、人間らしく生きようとした自意識を強く感じる。
それは80歳近く歳が離れた私にも、そして子供にもしっかり届く。
確かな資料と彼女に誠実であろうとした筆者の思いが結実した一冊。読み終わるのがもったいないと感じた一冊でした。
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質量ともに読み応え十分だった。
子どもの頃に読んだ絵本や児童書でよく見かけた「いしいももこ」という名前。
今ではミッフィーの方が通りがいいのかもしれないけれど、娘が大好きだったのはちいさなうさこちゃん。
親子二代でお世話になった。
が、彼女は私の想像をはるかに超えてすごい人だった。
何しろ彼女のまわりには近代史、文学史、児童文学史に名を残すような人がうじゃうじゃいたから。
菊池寛、太宰治、犬養毅、山本有三、吉野源三郎、光吉夏弥、瀬田貞二、いぬいとみこ、渡辺茂太…。
明治40年に生まれた石井桃子は、平成20年に101歳で亡くなるまで、いえ、その後も文庫が継続されていたりと、ずっとずっと子どもと本に関わって生きてきた。
生涯独身で。
戦後の10年ばかりだけ、東北の山奥で農地の開墾をして過ごした石井桃子。
幼い頃は病弱で、決して肉体労働に向いた人ではなかったのに、なぜ東京を捨てて農民になったのか。
“鶯沢での開墾生活は、もしかしたら、戦争中に犯した「罪」を償うために行われたのではなかったのか。敢えて罪という言葉を使うことを故人に許してもらいたいけれど、日本少国民文化協会の評議員に加わり、短い一篇であるとはいえ、国威の昂揚に協力した童話を書いたことへの罪悪感を、石井が重く自覚していたことは想像に難くない。”
たった一遍の短い童話を、それもやむに已まれぬ状況に追い込まれて書いただけなのに、結婚すらあきらめ、一生償い続けたのだとしたら、それでも彼女に戦争責任を突き付けることはできるだろうか。
戦時という状況にからめ捕られてしまった人は、大勢いる。
それでも彼女の力を必要とする児童文学会に呼ばれ、また、農業生活を支えるために、彼女は二足のわらじ生活に入る。
“生涯、この国の子どもたちに最善をつくして、どんな時代、政治体制下でもゆらぐことのない、真に心の栄養となる本当のお話を作り、あるいは選び、訳し、届けること。「子どもの本」の仕事に一生を捧げること。”
頭の回転が早くて、厳しくて、ストイックで。
そして何よりも「子どもの本」のためを思った人。
訳者で児童文学者で研究者で、編集者。
“今も書店や図書館に並ぶ絵本、児童書の棚に目を凝らせば、背表紙のあちらこちらにこの二人(石井桃子と瀬田貞二)の名が見つかるが、それは表に出た仕事であって、陰で作品を発見して企画を動かし、訳者や画家を指名して実現した本となると、どれほど多くなるのか見当もつかない。”
明治から平成へ。
社会は全く変わってしまったけれど、彼女が子どもに向ける眼差しは終生変わらなかった。
1958年に彼女が朝日新聞に書いた一文
“「文明」が進むにつれて、私たちはいそがしくなりました。私たちは、大きな機械の中の歯車です。父親も母親もうわの空、そして、子どもは迷子になっているという状態の家庭が集まって、社会を構成しているようにさえ思える、このごろです”
扉に書かれた一文
“大人になってからのあなたを支えるのは、
子ど���時代のあなたです。
石井桃子”
表紙の絵はヘンリー・J・ダーガー。
故・吉野朔実が彼の『非現実の王国で』に衝撃を受けたと言っていたので、いつかは見たいと思っていたダーガーの絵。
施設に育ち、専門教育を受けず、誰とも交わらず、たった一人で物語を紡ぎ絵を描いたダーガーを、今、石井桃子の本が届けてくれた。
こうやっていろんなことどもが繋がっていくのかもしれないなあと思う。
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児童文学者と呼ばれることを本人はあまり好きではなかったようだけど、どうしたってそのイメージが強い。
戦前、文藝春秋社の編集者をしていて新潮にも在籍したことがあったと知識では知っていたけど、その時代が生き生きと立ち上がってきて、ああこんなにどっぷりと雑誌やなんかのジャーナリズムの世界に生きていたんだと、すごくおもしろかった。
そこから戦中、だれもが巻き込まれるようにして大政翼賛会の一翼をにない、戦後、戦争責任について語ることはなかったがおそらくはそれをずっと抱えていたであろうことがさっせられ。農場での暮らしも、あんなに本格的なものだとはしらなかった。(しかも本人はその時代に悔恨を抱いているという。)
謎が多く秘めたことも多かった人なのだなと思うと同時に、その暗闇を背景につむぎだされたくっきりと明るくユーモアに満ちた訳文のすごさがあらためて迫ってくる。
そして戦前の菊池寛をはじめとして、井伏鱒二、中野好夫、瀬田貞二、光吉夏弥、松岡享子、松井直……と綺羅星のごとき人たちとの関わり。それだけの吸引力のある人だから人を引きつけるのだと言ってしまえばそれまでだけど、何か特別な運命を感じずにはいられない。
戦前、すでに創刊まもないホーンブックを入手してその編集部に英文の手紙を送っていたとか、岩波少年文庫のラインナップをほぼひとりで作ったとか、驚きの挿話に満ちた評伝。Kindle版で2日で読んだのだが、紙の本は600ページあったのね。
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101年という作者の年齢と時間の長さと同じように
読み終えるのに時間がかかってしまったけれど、
ようやく。。
石井さんの生きた時代に英訳をするということが
どのようだったのか、
その辺りに興味があったのだけど、
あまり深くは触れておらず、残念。
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尾崎真理子さんの評論、ようやくこの本を読むことができた。谷川俊太郎さんの評論も素晴らしかったが、石井桃子さんのこれはさらにスケールの大きい評伝になっている。
膨大な文献とインタビューに裏付けられているが、尾崎さんの文章は、決して資料の中で、読み手が迷子になることがない。緻密で計算された構成のためと思う
石井桃子とは何者であったのか、編集者、農業実践者、翻訳者、創作者・・・子供のための絵本や物語を書く人、と思っていた読者には、あまりに多くの側面に驚くはずだ。そして、作者がそれを解き明かすことは、決して簡単ではなかったはずだ。
彼女がいなければ、今のかたちで日本に優れた外国の児童文学はもたらされることはなかったし、それを読んで育った人たちの、新たな文化・芸術活動を生み出すことはなかったと、私でもそれくらいは言えるだろうと思う。
岩波少年文庫の発刊と、慣れ親しんだ瀬田貞二、いぬいとみこ、渡辺茂男、のちの中川李枝子や松岡享子との繋がりもよくわかって、とても嬉しかった。
多くの謎を秘めた人生と、驚きのエピソード、仕事についての多くの検証と考察もふくめた内容は、最後まで引き込まれた。
2015年
芸術選奨文部科学大臣賞受賞
第34回新田次郎文学賞受賞
平成27年度宮崎県文化賞(芸術部門)受賞
2016年
度日本記者クラブ賞受賞
第46回大宅壮一ノンフィクション賞候補
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『プーと私』の読後、猫丸(nyancomaru)さんからご紹介いただいた一冊。(読むのが遅くなりました汗)
石井桃子さんの評伝であり彼女を取り巻く人々が数多く登場するという事だったが、とにかく長い…!101年と23日を生きられた方が生涯出会われた人々(たとえ一部であっても)を文字に起こしていくと、改めてそのボリュームに愕然とする。
しかし『プーと私』をもってしても、結局石井さんがどんな方だったのかはほとんど分からずじまいだった。(実際、石井さんは自身のことを限定的にしか公表してこなかったという)
そのぼんやりとした輪郭が今回の『ひみつの王国』でようやくハッキリした。この評伝をまとめた元新聞記者の著者による推測箇所も多かったが、全貌を掴むには間違いなくもってこいの一冊になる。
兄1人、姉4人の末っ子。今思い返しても比較的伸びやかな幼少期を過ごされたのではないかと思う。
驚いたのは、社会人になりたての頃から「奥さんが社会的に偉くなったら男の人はそれを誇りに思っても良いと思う」と公言されていたこと。あと戦後「ウソでかためた(出版業界の)世界がイヤになり」戦時中に知り合った女性と東北に移住・開墾、のちに牧場まで開かれていたことも。
元は病弱で控えめな彼女だが、彼女なりのやり方で世の中の理不尽に物申していたように思える。
「子どもの本でも理屈ばかり言ってる人がいるけど、そういうことで児童文学は生まれるものじゃない」
「この本を作った人々は、子供達がまず美しいものにふれ、[中略]さまざまに物を思って過ごしてほしいと願ってくれたのでしょう」
結婚も養子を迎えることもなかった彼女が、何故児童文学の普及に終生奔走したのかー。読む前からくすぶっていた最大の謎もここで明らかになった。
第一に、子供といえど「小さい大人」。
「子どもの雑誌はおとなの雑誌を水とミルクで割ってはいけない」とある女性編集者が話すように、石井さんは真の心の栄養となる話を子供達のために届けていた。子供だからとコケにすることも決してなかったと言うから、本当に一人の人間として彼らと向き合っていたに違いない。
そして、世の中の子供だけでなく「自分の中に生きている子供」にも物語をせがまれていたから。
「生きてて良いんだと子供にエールを送るのが児童文学」だと宮崎駿氏は自身の著書で述べている。大人になって再びその世界を訪れても、そのメッセージは変わらない。そして「永遠にその王国は滅びることはない」。
初めて『プーさん』を日本語で読み聞かせ夢中になってくれた犬養家の子供達。同じく「プー」の物語を子供のように喜び早逝していった女友達。石井さんの中には、きっと自分以外の「子供」の存在も棲みついていたんじゃないかな。
読後、どういうわけか自分は泣いていた。
戦後の混乱期を経て自分が好きなことを好きなだけ追求し、大往生なさったことへの安堵からか。自身が心に描く「子供達」に、良い作品をもっと届けたかったという想いを感じ取ったからか。
不思議な残響がこだましていて、しばらく忘れられそうにない。
猫丸(nyancomaru)さん、改めて素���らしい一冊を紹介してくださりありがとうございました!!