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【内側】と【外側】の人間。
自分は外側の人間だから内側の人たちがどうしていようとどう思っていようと関係ないという、孤独なアンナ。そんな彼女は保養先で不思議な少女マーニーと出会う。
マーニーと過ごした日々は結局現実だったのか夢だったのか。とても不思議な話である。アンナが小さい頃にマーニーの話を聞いていたから、こういうことが起きたのか、孤独なアンナになにか共鳴して起きたのか、そんなことを突き止めるのは野暮であろう。
ともあれ、自分は孤独な人間で何においても卑屈な考え方のアンナがリンゼイ家との出会いで素敵な女の子になってよかったと思う。巡るべくしてリンゼイ家、ギリーさんと出会ったのだろうなあ。
これを読んで、湿地の館がどのように映画で描かれているのかがすごく気になるところ!
個人的にリンゼイ家のご夫人が魔女宅でいうオソノさんのような素敵な人でお気に入りです。
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読み終わった後、不思議な感覚に襲われる。
「あぁ、そうか。そういうことだったのか」と直ぐに結びつく部分と、まだまだ理解し切れてない部分とがある。(これは私の読解力の問題)
ともかく、マーニーとアンナの不思議な繋がりに感動させられるし、登場人物達の他者を想う気持ちに心が温められる。
アンナの目線で描かれていた“外側”と“内側”の世界。きっと誰しもが感じたことのある感覚であって、いまだって感じている人もいるかもしれない。けど、これを読んだ後は、くっきり分かれていたこの二つの世界を、違った視点で見ることができるんじゃないかな。
世界は、思っているよりも、優しい気持ちで溢れている。そう思えた一冊でした。
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主人公アンナの揺れ動く心情が繊細に描かれていて、しっとりと読めた本でした。
静かな風景にひっそりとした洋館のある風景が素敵でした。
アンナの、思春期に誰しもが抱える疎外感の描写にはとても共感。
マーニーの無邪気で掴み所のない、魅力的な振る舞いが脳裏に焼き付いて、印象的な本でした。
また読み返したい一冊です。
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最初は、ありきたり…と思っていたら、最後の方で急展開。そうきたか!と得心しました。アンナが周り人々との関わりから精神的に成長していく姿が目に浮かぶようで一気に読めました(o^^o)
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思っていたよりずっと複雑な構成のお話で大人にも充分読み応えが。
個人的にはすごく好きなタイプのハッピーエンドだったのでよかったです。
当時のイギリスをよく知らないので、映画でぜひ観てみたい。
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外側 (孤独)の少女アンナ。
誰にも寄り添わず、打ち解けようともせず、“ 頑張らない ” 少女アンナ。
養父母の愛に素直になれず、心を閉ざしている少女が、養父母の元を離れ、湿地の街で過ごしたひと夏の物語。
大人なので、かなり早い段階で、有る程度の謎は分かってしまうのですが、それでも物語は、美しく切なく冒険の中、進んで行きます。
アンナとはまるで正反対の暮らしの中にあって、それでもアンナと同じ孤独を抱えた少女マーニーとの出会いが、アンナの心の扉を少しづつ開いて行きます。
「あなたは決して孤独ではない。」
「あなたは愛されている。」
マーニーはそれを伝えたかったのでしょう。
湿地の街へ来たことも、マーニーに出会ったことも、それはアンナにとっては必然でした。
日常生活において、劇的に不思議な出来事なんて、ほとんどないけれど、それでも、出会いも別れも出来事も…考えたらその全部が不思議なことに溢れていて、そしてその全部がきっと必然なこと…なのかな。
人ハ、ソレヲ運命ト、云フ
人生は悪くない。
心ひとつ。きっとね…。
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ジブリの映画を観るまえに。
と、思い購入。
期待していたので、
中盤までのあまり進展しない流れに
目がしばしば。飛ばし読みを始めてしまった…
マーニーが登場してからは、
いっきに目が覚めて本の世界に浸ってしまいました。
読み終えて
アンナとマーニー
現実と非現実
を結びつけるのがちょっと難しいお話やね~
と、感じながらも
とっても素敵なお話だと思いました。
海の近くにある大きな館も良かった!
読んで良かった。
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養父母に馴染めない8歳ぐらいの女の子が
保養地で自分と同年代の母親と出合って友人となる空想メルヘン
そして現実の出合いの中で
空想世界とのギャップが埋められて幸福な自分を取り戻すという
愉しいお話である
ジブリのアニメになっているというので
そちらも見てみたいと思う
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これだけ映画やら新訳やらで巷の話題になっていると多少のネタバレも耳に入って来てしまったけれど、後味よろしい児童書らしく良かったと思います。リンゼイ一家と仲良くなれた下りは気持ち良いものでした。アンナの方には全てが分かってスッキリと明るい未来に踏み出せるけれど、マーニーの人生は?母の人生は?と思いを馳せると、どうだったのでしょう…。本と映画どちらが良いかは、さて置いて、映画も観てみたくなります。
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あなたがいたこと、わたしは覚えている。
ジブリを見なかったので、ああ、こんな話なんだ、と。思っていたのと、違った。マーニーの正体は引っ越してきたプリシラの訳あり(もう一つの人格とか)かと思っていたら違うし、まさか血のつながった祖母とは。で、実際にマーニーは幼い頃にアンナと会っていたんだろうか。日記では確証が得られないよね? そういうあいまいなところも面白かった。日記にアンナのことが書いてあって、みたいな展開も多いし。アンナが会った“マーニー”は誰なのか。後書きで言及されていたけど、確かに『トムは真夜中の庭で』を思い出す。比較したら面白そうだと、読み返したくなった。
自分は“外側”にいる人間だと、周囲と望まれる形の交わりを持たないアンナに共感する人もいるだろう。私の中にもきっとアンナがいた。繊細すぎる自意識を持てあまして、自分と世界の間に線を引いて、そんな自分を無条件に肯定している訳ではなくて、もう一人の自分がいれば気が合うだろうに、とか考えている、いつかの自分。アンナが出会ったマーニーは、もう一人の自分ではなかったけど、橋渡しになってくれた。マーニーとの日々で、傷ついたり考えたり思いやったりすることで、アンナは何も考えずに過ごす日々を抜け出す。そして、プリシラきょうだいたちと出会い、“湿地の館“の表玄関を“発見”する。
館を裏からしか認識していなかったアンナは、世界の片面しか見えていなかった。表の玄関は、もしかすると、世界と交わるのを受け入れたということかも。でも、アンナは窓から見えるマーニーを忘れない。それはとても豊かな世界だと思う。
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子供の頃、自分が孤立してると感じる時は、自分が「内側」で周囲の人間が「外側」だと思ってたな、ってことを思い出しました。
なので、疎外される自分が「外側」にいて、他の人たちを「内側」に一括りにまとめるアンナの心象が私とは正反対なのが面白かったなあ。
自分を中心にして考えてたって意味では、私の方が子供らしい可愛げあったんじゃないの~(笑)。
他人にどう見えるかを意識して表情を取り繕うところとか、大人の些細な言動を一つ一つ論うところとか、「ああ、こういうことが自分にもあったなあ」とノスタルジックな感傷に浸りながら読んでいくと、来ました、謎の金髪美少女、マーニー。
映画は見ていないのですが、予告版で見た映像と原作の世界観がかなりマッチしていたような気がしました。最初にあのビジュアルイメージが前提にあったからそう感じたのかな。そりゃそうなるか。
マーニーとアンナの脈絡のない会話や唐突な場面転換を、映画ではどう表現してるんだろう。と、ちょっと見たくなりました、映画。
ですが、不幸なのは私が既にネタバレを見てしまったことです。
ミステリアスなマーニーとの交流が描かれる前半と、
マーニーがいなくなった後で彼女とアンナの意外な接点が語られる後半という、
ファンタジーっていうよりこれ最早ミステリじゃないの~!というような作品のネタが既に割れていたという不幸…(ToT)うおー
ジャンル的にはミッシングリンクものかなあ。「何故、マーニーはアンナだけに見えていたのか?」という謎が、この秘められた繋がりの真相に辿り着いた途端に理解できるミステリです。
ジブリの宣伝にもあるように、「彼女」は「あの入江で、待ってい」たんですね…。
そして、アンナが亡き家族に対して抱いていた殺伐とした思いが、一気に氷解する謎解きのラスト。どうして私を置いていったの、という幼い頃からアンナが抱いていた悲しみが昇華していく様が心を震わせます。
アンナが最後に手に入れた未来への希望と、マーニーの辿った人生のコントラストに、悲しくも深い家族の愛を感じました。
親代わりのプレストン夫妻のはからいで、田舎で夏を過ごすことになったアンナ。そこで出会った少女マーニーと親友になったアンナは、ミステリアスでチャーミングな彼女に魅了されるが、やがて嵐の夜に2人の関係が一変する事件が起こり…。
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映画見てきて、その後に本を読みました。
本は、複数の出版社から出ています。ハードカバーの青い本が気になったけど、文庫本があるので断念。
こういう翻訳文学で、児童文学なら、新潮文庫が堅いかなということで、新潮文庫版をチョイスしました。
岩波版の「です・ます」調の翻訳にも、ちょっと引かれたのですが。
まずは、映画の感想ですが、すぐに原作本を購入して読んでいるのからわかるように、かなり気にいりました。
映画を見にいく数日前に、多分この映画のプロモーションとしてテレビで同じ監督の「借りぐらしのアリエッティ」をやっていて、そっちは、ものすごく「なにか足りない」感が多くて、これは、「マーニー」見にいくのやめた方がよいかもしれないなぁと思ったりしていたのですが。
「マーニー」は、「アリエッティ」とは、比べものにならない位の完成度でした。
「トトロ」は、びっくりするぐらい事件がほとんど何も起こっていないにもかかわらず、見入ってしまう映画でした。
「アリエッティ」は、逆に、いろんなことが起こっているわりに、感想が「それで?」みたいな感じの映画でした。人間関係や物語のなにかもかもが宙ぶらりんのまま、でも、アリエッティは引っ越しして終わりってどういうことよという思いが。まあ、それがリアルと言っちゃあリアルなのかもしれないし、あの小人がでてくるファンタジーでリアルさを感じるというのはある意味、すごいことなのかもしれませんが、なんか、もっとちゃんとしたお話に出来るだろう感が強かったのです。
で、「マーニー」ですが、動きだけでいったら、その「アリエッティ」よりも動かない映画です。でも、ドラマは、「アリエッティ」よりもあるのです。
まあそれは、こっちのストーリーが、わたしにとって好みのだというだけかもしれませんが。
基本、わたしの物語を読むって、感情移入なんだけど、それが、いきすぎちゃった感じ、引きずられすぎるぐらい引きずられる感じがあります。
映画を見ていて、あの画面に映っているのが、杏奈か自分かの見分けがつかなくなっちゃってる感じになりました。
だから、本当は、いい映画かどうかなんてわかんないんですよ。
でも、いい映画かどうかなんでどうでもいいぐらいに、自分の深いところに刺さったのは事実です。
だから、映画が、あのいい感じのところに、無難なところに着地してくれなかったら、今頃、うつになっているんじゃないかとすら思います。
魔法の輪の外側にいるって、わたしの中では、みんなの周りに輪があってそこに自分が入れていないイメージではなくて、自分の周りに輪があって、そこに自分しかいないイメージなんですよねぇ。
輪の中には自分しかいない。そして、ここが外側だ。意味わかんないかもしれないけれど。
まあでも、その輪の外側にいる感覚というのは、けっこう誰もが感じている普通の感覚という気もするんですけどね。
そして、輪の中に入るっていうのは、誰かの輪に入れてもらうことではなくて、実は、この自分に向かって閉じている自分の輪を少しだけ広くして、少しだけだれかを入れ��っていう事なんですよねぇ。
それが、わたしらにはどんだけ抵抗のあることかを思い知らせてくれる映画でもあります。
だから、最初は、そのわたしのいる(杏奈のいる)「外側」に入ってくるのは、たった1人だし、マーニーのような「秘密の友だち」であるのです。
その存在が事実や、生身の人間であったかどうかは問題ではないのです。
その時に、自分の全身全霊をかけて、「信頼にたる人と出会うことが出来た」という経験は、事実であろうとなかろうと、るその人のなかの真実なのですから。
まあ、いつ杏奈が、廃墟になった湿っ地屋敷で、白骨化したマーニーに出会うんだろうかとか、映画みている間は、ちょっと思ってもいましたが。
マーニーが何者であるのか?
孤独な少女が生み出したただの想像上の「秘密の友だち」なのか、それとも、実在の存在なのか。
そこは、「トトロ」同様、ものすごく上手にぼかされています。
どっちの解釈も、ものすごくしっかりとできる。
ある人は、これを本当に不思議な少女と過ごしたそういう物語として受け取るだろうし、また、ある人は、不安定な杏奈の心と記憶が生み出した幻の少女だと解釈するかもしれない。
そして、このどっちの解釈も可能なファンタジーというのは、けっこう大事なことなのではないかと思います。
ただのファンタジーは、ファンタジーを信じる人のためだけのものですが、こうやって、ファンタジーじゃない解釈をいれることで、ファンタジーなんだけれど、すべての人に起こりうる物語として形が作られています。
わたしは、わたしが好きと思っている人には、この映画見て欲しいと思います。
それで、どんな感想を持つのか話したいなぁと思います。特に不器用に生きている子たちと。
あと、プリシラ・アーンのあの歌がものすごくいいですよねぇ。
あれも、心に突き刺さる歌です。
というのが、映画の感想です。
ストーリーとかは、これ読んだだけではさっぱりわからないと思います。
アリエッティダメだった人も、見てみてね。
で、ここから本の感想です。
実は、映画は、ものすごい繊細なお話で、多分、本の方はそこまではないだろうなと思っていました。
それは、たしかにそのとおりだったのですが、本の方が明確に見えてくるものもあって、そこが面白いなぁと感じました。
その1つ目は、映画の杏奈と本のアンナの違い。
感じ方や、置かれた状況は、ほぼ同じなのですが、けっこうわしのなかで、印象が全然違いました。
実は、「思い出のマーニー」の本を読んでいる間、ずっとわたしのなかに、似たような印象の本として浮かんでいたのは、「自閉症だった私へ」なのでした。
そう考えて物語を読むと、アンナの人との接しにくさや、ワンタメニーとの関わり合い、マーニーとの関係、たくさんのこだわりが、なぜ彼女にとってマーニーが必要だったのか、ものすごく理解できる様に感じます。
「暗闇の速さはどれぐらい」も、そういう主人公の物語でした。
と思って、ねぇさんに、
「これって、『自閉症だった私へ』に似ていない?」
と聞いたら、
「えぇっ、あのレイプされたりひどいことされる話だよねぇ」
と言われてしまった。
えぇ、「自閉症だった私へ」って、そんな話だったっけ?それは、わたしの印象の中にはまったく残っていないのだけど。
まあでも、たしかに虐待の話とかはあったですが。
それよりは、自閉症スペクトラム障害を持った人同士が、自分と同じ感じを持つ人を見つけて理解し合って静かに過ごしている様子や、石の小さな差異がわかったりという部分が印象に残っているのですが。
そして、アンナが過敏な部分や、言葉をそのままストレートに受け止めてしまうところは、どこか、作者が自閉症スペクトラム障害を持った子どもをイメージして書いたのではないかなぁと感じたのでした。
もちろん、作者が、そういう障害のことをしっていたかどうかはわからないのですが、多分、その時にモデルになった人物や出来事の一部に、そういう人がいたのではないかなぁと思ったのでした。
多分、アンナとワンタメニーは、お互いが同じところがあるということを感じたのではないかと思うのです。
だから、お互いに気むずかしい感じ同士なのに、自然と接している。
少なくとも、そういう関係が成り立つということをリアルに知っていたのだろうなぁと思います。
そういう「理解しにくい人」をそれでも理解したいと思ったときに出来た物語が、この「思い出のマーニー」ではないかと思います。
自閉症スペクトラム障害を持った人を健常者は理解しにくいです。
基本的に、「心の機能」が理解しにくい自閉症スペクトラム障害といわれていますが、「自閉症」について書かれた本を読んでいると、けっして、他人の「心の機能」が理解できないのではなくて、おそらく別のルールで「心の機能」が動いていることがわかります。だから、同じ障害を持った人(同じルールで「心の機能」が動いている)同士なら理解し合えます。
実は「人の心がわからない自閉症の人」というのは、自閉症の人の心がわからない健常者という意味でもあります。
でも、理解できなくても、少しでも知ることや、想像することが出来たら、多分、その人の居場所をつくることができる。
それは、治療とは違う考え方として、一緒に生きていくことが出来るのではないかなぁと思います。
障害が、オープンになっていく過程で、その言葉なんかを侮蔑の言葉として使うことで自分の不安を解消しようとする人間というのは、いつも一定数はいるのですが、そこで止まってその言葉を禁止して終わるのではなくて、その「違い」こそを共同体の強みとしていくことは可能なんじゃないかなぁと思うのです。
実は、健常者、障害者といっても、スペクトラムって一続きの連続体で、どこかに明確な切れ目があるわけではありません。
だから、だれもがなんらかの偏りをもっていて、なんらかの生きにくさをもっています。自閉症スペクトラム障害の人は、その生きにくさが人よりも強い。
人よりも強いといっても、人同士でどれぐらい辛いのか心の中を比べることはできませんので、まあ、外から客観的に見て判断するしかないわけです。
多分、ある時代���「障害」と呼ばれなかった差異でも、時代と共に「障害」とよばれることもあると思います。
「障害」って呼ばれても、それはいいのかもしれないと思います。その差異を知ることこそが、第一歩で、みんな自分なで同じで、自分と同じように感じ考えると思うことが実は差別を生んでいるような気がします。ただ、その「障害」を排斥するための言葉として使わずに、一緒にお互いが楽しく暮らしていくためには、どうしたらいいのかということを考える言葉として使われて欲しいと感じます。
そして、少し自分よりスペクトラムの向こう側にいる人だがいるなと感じるときに、もしかしたら、その子は、こんな風な「マーニーのいる世界」を見ているのかもしれないと想像することは、多分、お互いに生きていく上でとても楽になる考え方だと思います。
映画の彩香は、ちょっとオタクの入ったアクティブな女の子でした。
でも、本の方のプリシラは、ちょっと気むずかしい女の子としてかかれています。プリシラもまた少しかたよったところがある女の子なのだと思います。
彼女の家族は、プリシラやアンナを、いてもいなくても同じように扱います。それがとても、アンナを安心させる。
そういえば、下宿のおじさん、おばさんもそうですね。
まあ、映画では見てて、あんまりにも気にしなさすぎだろうとか、思ったりはしたのですが。
でも、そこに愛情がないわけではない。
見守ってくれているという安心感はものすごくある。
それは、この家が、子だくさんの家だからという感じで本では書かれていて、それは、確かにそうだなぁと。
ある意味、手がいき届かないからこそ伝わる愛情もあるのかもしれないと思ったりしました。
映画と本とどっちが好きかといわれれば、断然、映画なのですが、原作本のマーニーも、いろいろと生きることを考えさせられる1冊でした。
ちなみに、今までで1番衝撃をうけた、原作と映画で違う物語は、「私の中あなた」です。
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大人たちが、みんなで子どもを見守って、あたたかく育てていることが素敵だった。自分も、彼彼女らのように、子どもに寄り添える大人でありたい。
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あとがきにもあるように、本作の佳境は夢とこちら側との境を越えるときである。「内側」「外側」とアンナがひとりごちる中で示されるように、彼女は越境に対して機敏な感性を示していた。そのなかで彼女だけにみえた「まぼろし」。そこへたどり着くのは、湖畔(海)を越える航海という方法によるのであった。
磯鴫の特徴的な鳴き声、アンナに語りかける、現と夢の境に響く声は、『古老の船乗り』のあほうどりにも、イェイツのファンタスマゴリアが描き出す鐘の音にも増す存在感。物語の随所にあって読者に「そうだ、これは物語なんだ」と思い起こさせる、気付けのようであった。
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ひと夏の間ノーフォークで過ごすことになった孤独な少女アンナ、そこでアンナはマーニーと名のる不思議な少女と出会い仲を深めていくのだが…
入り江の様子、海の近くの大きな館、そして風車小屋など情景が非常に豊か。そしてアンナの心理描写もしっかりと描かれています。
訳者あとがきによるとこの描写は著者自身の体験が投影されているらしく、そのためか風景描写も心理描写も非常に鮮やかに自分の中で想像できました。
アンナとマーニーは友情を深めていきながらも、ある日唐突な別れを迎えます。そして話は徐々にマーニーとは何者だったのか、という謎に話が移っていきます。
話としてはファンタジーの部類に入るのかな、と思いますが、マーニーの正体に徐々に迫っていく様子はミステリ的でもあります。そしてすべての謎が解けたとき、アンナが今まで抱いていた思いが鮮やかにひっくり返されます。
アンナとマーニーが友情を深めていく様子、マーニーの正体が明らかになるとともに感じる暖かさ、そしてアンナの変化は児童文学と言えども読みごたえは十分!
そして何より読み終えた後、心の中に暖かな風が吹いたかのように、爽やかで少し幸せな気持ちになれた一冊でした。