紙の本
映画の原作ながら、米露のチェス界裏事情や名人伝といった映画になっていない部分が面白い。
2014/11/03 13:45
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
チェス・プレイヤーボビー・フィッシャーは、アメリカの意に反してスパスキーと再戦したことで国籍を剥奪された後、各地を転々として行方が知れなかった。表題はそれを意味しているが、伝説の世界チャンピオンのその後の行方を追ったものかといえば、それはちがう。筆者はボビーの後を追い、彼の友人を自称する人々にインタビューを試みてもいるが、それはこの本の一部でしかない。映画好きなら知っているように、この本を原作とした同名の映画が1993年に公開されている。映画は、自分の息子にチェスの才能があることを発見した父親が、その子ジョッシュと二人三脚でチェスに精進し、同年輩の少年たちとの試合を勝ち抜いてゆく姿を描いた物語になっていた。
実は、この本の面白さは映画の原作以外の部分にある。ボビー・フィッシャーの登場でアメリカにおいてもチェスは脚光を浴びるようになったが、アメリカにおけるチェスの認知度はかなり低い。ロシアにおいては、チェスは国家的な威信をかけた一大プロジェクトとして、教育機関も整備され、試合ともなれば、医師やらコーチング・スタッフが何人も集まってチームを作り、支援体制に怠りない。それに比べれば、アメリカでは試合会場に行くのは自費、サポートも得られない。そんな状況下でロシア代表スパスキーを倒したからこそボビー・フィッシャーは英雄視されたのだ。
そんなアメリカでは、グランド・マスターの称号を持っていてもタクシー運転手、その他の仕事をして稼ぐしかない。筆者はロシアとアメリカを比べ、アメリカにおけるチェスの置かれた状況を憂うる一方、チェスを文化として認めるロシア(当時はソヴィエト連邦)におけるユダヤ人及び体制批判者に対する差別や冷遇を厳しく批判する。世界チャンピオンを決定するカルポフ対カスパロフ戦の観戦記事を書くために、モスクワを訪れた旅のレポートが、社会主義政権下のソヴィエト探訪記事として出色の出来となっている。
アメリカ、ロシア、それぞれが抱えるチェス事情。チェスに人生を狂わせられた人々の人生模様。天才的な才能を持った子どもの親であることの重圧、と様々な視点からチェスにまつわるストーリーを多角的に物語る構成。ノンフィクションを謳いながら、警戒厳重なモスクワで監視の目をかいくぐり、インタビューした録音テープを無事アメリカに送るため、大使館に出向く場面では盗聴されているため、メモで会話したり、貸切のコンパートメントに有無を言わさずKGBらしき男が現われスーツケースを探られたり、とスパイ小説顔負けの緊張感溢れる展開を見せる。
しかし、最後はやはり二人の天才少年の対決できまり。何度もチェスから距離を置こうとし、師であるブルースともしっくり行かなくなったりしたこともあるジョッシュが、最後に見せる手とは。フィクションでもなかなかこうはうまくいかないだろう、とうならせられる絶妙のラスト。そして、天才少年はその後どうなったか。特にチェスに詳しくなくても大丈夫。「見てから読むか、読んでから見るか」というコピーがあったが、ようやく読めるようになった。映画もよかったが、原作はまた別の作品である。訳は若島正。チェス・プロブレムの名人もチェスはまた別らしい。団鬼六でもあるまいに「真剣師」のような将棋用語の採用にはいささか当惑した。
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映画も面白かったが、この原作のほうが映画を上回る面白さ。映画のほうは少年のチェスを通した友情や成長にフォーカスしていたが、原作本はチェスというジャンルに関するルポルタージュになっている。若島正氏の翻訳本というだけで5つ星。サインがほしい。
全編読み終わったあとの訳者あとがきがまたいい。
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ボビー・フィッシャーの名前が日本のメディアを騒がしたのは、2004年7月14日のこと。ながらく行方をくらましていたボビーが成田から出国しようとして入国管理官に身柄を拘束された事件だった。伝説的なチェス・プレイヤーでありながら、何かとトラブルを巻き起こすことで有名なボビー・フィッシャーは、アメリカの意に反してスパスキーと再戦したことで国籍を剥奪された後、各地を転々として行方が知れなかった。表題は、当然のことながらそれを意味している。
それでは、伝説のチェス・世界チャンピオンのその後のドキュメントかといえば、それはちがう。もちろん、筆者は題名にあるようにボビーの後を追い、彼の友人を自称する人々にインタビューを試みてもいる。だが、それはこの本の一部でしかない。映画好きなら知っているように、この本を原作とした同名の映画が1993年に公開(日本公開は翌年)されている。映画は、自分の息子にチェスの才能があることを発見した父親が、その子ジョッシュと二人三脚でチェスに精進し、同年輩の少年たちとの試合を勝ち抜いてゆく姿を描いた物語になっていた。
筆者のフレッド・ウェイツキンは、当時アメリカ中を沸かせていたロシア対アメリカのチェス世界選手権であるフィッシャー対スパスキー戦を見たことからチェスに興味を覚えるようになった。自身の才能には見切りをつけていたフレッドだったが、運動好きの長男ジョシュアが五歳の頃、ワシントン広場でチェスの賭け試合をする大人に興味を持ち、瞬く間に彼らを負かす腕前になると、ジョッシュはもしかしたらボビーの再来ではないか、という夢を抱きはじめる。
チェスのグランド・マスターであり、チェス雑誌にコラムも書いているブルース・パンドルフィーニに週一回レッスンを受けるようになったジョッシュは、全米選手権で一位の座を争うまで腕を上げるが、自分の勝手な思惑で息子にチェス漬けの生活を送らせていることに対する自責の念がフレッドにはあった。ジョッシュもまた、気の乗らないときには投げやりな手を打つことで、ブルースの叱責を受けるような子どもであった。学校に通わず一日中チェス漬けの生活を送るライヴァルの少年が登場することで、話は俄然面白くなるのだが、それは映画に描かれている。
実は、この本の面白さは映画の原作以外の部分にある。ボビー・フィッシャーの登場でアメリカにおいてもチェスは脚光を浴びるようになったが、アメリカにおけるチェスの認知度はかなり低い。ロシアにおいては、チェスは国家的な威信をかけた一大プロジェクトとして、教育機関も整備され、試合ともなれば、医師やらコーチング・スタッフが何人も集まってチームを作り、支援体制に怠りない。それに比べれば、アメリカでは試合会場に行くのは自費、サポートも得られない。そんな状況下でロシア代表スパスキーを倒したからこそボビー・フィッシャーは英雄視されたのだ。
そんなアメリカでは、グランド・マスターの称号を持っていてもタクシー運転手、その他の仕事をして稼ぐしかない。公園での賭け試合にグランド・マスターが顔を見せることもざららしい。ロシアとアメリカを比べ、アメリカにおけるチェスの置かれた状���を嗟嘆する筆者の憤りは激しいものがある。その一方で、チェスを文化として認めるロシア(当時はソヴィエト連邦)のユダヤ人や体制批判者に対する差別や冷遇を厳しく批判もする。
雲隠れしたボビー・フィッシャー以後の世界チャンピオンを決定するカルポフ対カスパロフ戦の観戦記事を書くために、ブルース、ジョッシュと三人でモスクワを訪れた旅のレポートが、社会主義政権下のソヴィエト探訪記事として出色の出来となっている。事前了承済みのはずなのに試合会場にも入れず、知人のコネで一人分のチケットを入手して入った会場の豪華さ、外国人向けに用意されたホテルの至れり尽くせりの設備、と対照的に入れもしない会場外に行列を作る民衆の姿。
アメリカ、ロシア、それぞれが抱えるチェス事情。チェスに人生を狂わせられた人々の人生模様。天才的な才能を持った子どもの親であることの重圧、と様々な視点からチェスにまつわるストーリーを多角的に物語る構成。ノンフィクションを謳いながら、警戒厳重なモスクワで監視の目をかいくぐり、インタビューした録音テープを無事アメリカに送るため、大使館に出向く場面では盗聴されているため、メモで会話したり、貸切のコンパートメントに有無を言わさずKGBらしき男が現われスーツケースを探られたり、とスパイ小説顔負けの緊張感溢れる展開を見せる。
しかし、最後はやはり二人の天才少年の対決できまり。何度もチェスから距離を置こうとし、師であるブルースともしっくり行かなくなったりしたこともあるジョッシュが、最後に見せる手とは。フィクションでもなかなかこうはうまくいかないだろう、とうならせられる絶妙のラスト。そして、天才少年はその後どうなったか。特にチェスに詳しくなくても大丈夫。「見てから読むか、読んでから見るか」というコピーがあったが、ようやく読めるようになった。映画もよかったが、原作はまた別の作品である。訳は若島正。チェス・プロブレムの名人もチェスはまた別らしい。団鬼六でもあるまいに「真剣師」のような将棋用語の採用にはいささか当惑した。
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チェスの天才少年といわれ、IMになりその後引退して違う道に進んだジョシュ・ウェエイツキンの父親の手記。
映画化もされている。映画のほうでは子供のほうにスポットライトがあてられているが、原作は父親の目から見た子供とのチェス漬けの日々の思い出の手記といった感じ。個人的には映画の話よりもこの原作の話のほうが好き。
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幼い息子にチェスの才能を見出した著者がチェス教師とともに息子がチャンピオンになることを夢見る。そして、当人や周囲の人間が様々な葛藤の中で生きる姿を描いている。
1988年に米国で出版され、登場人物もすべて実名というドキュメンタリーであるが、なぜ、今翻訳が出たのだろうか。当然ながら、執筆時と現在では20年以上の時間差がある。登場人物のその後は、訳者のあとがきに少し記されている。
それでも、本書は面白かったし、読む価値があった。なぜなら、親の子どもへの期待であるとか、ときにそれが昂じて子どもをダメにしそうになったり、親が反省してありのままの子どもを愛そうとするといった親子関係は、時代、地域、子どもに期待する分野を問わず、普遍的なものであり、そのことが本書を通じて再確認できるからだ。その意味では、例えば、難関校に挑む受験生の親などが読むと、受験生の親向けのノウハウ本などよりも得るものがあるように思う。ちょっと長いのが難点だが。
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ボビー・フィッシャーのドキュメンタリーを見て、この伝説のチェスプレイヤーに興味があった。この本のタイトルを見た時、ボビー・フィッシャーに関する本と思っていたが、内容は著者の自慢の息子がチェスプレイヤーとして成長する姿を追ったノンフィクションで、期待したものとは多少違っていたけれどとても面白く読めた。著者の息子ジョッシュは6歳でチェスを始め、わずかな期間で同年代や年上の子供は勿論、やがて父親や大人の棋士達に勝てるほど強くなる。
著者は息子の能力に惚れ込み、コーチをつけてトレーニングをさせ、海外に遠征し、学童チェス大会に参加して実戦経験を積ませる。幾多の挫折を経て、学童の全米大会に出場する。
70年代の冷戦の時代に、米ソはチェス競技で国家の威信を賭けて戦った。ボビー・フィッシャーは世界チャンピオンになったアメリカの伝説の英雄であり、当時のチェス人気を背負っていた。チェス好きの親は子供にチェスを教え、未来のボビー・フィッシャーになることを期待する。息子に惚れ込んだ著者も同じ「親バカ」としか思えなかったけれど、それは子供を持つ親に共通する感情なのだろう。この本の大半は、アメリカのチェス環境と息子に対する想いが綴られたものだが、遠征で訪れたソ連については、社会環境、チェス教育の仕組み、アメリカのチェス棋士の環境の違い(アメリカのチェス棋士は不遇で比較にならない)、ソ連の伝説のプレイヤーの過去と現在(と言っても80年代の状況だが)やボビー・フィッシャーのプレイなど、著者の体験やエピソードが多く語られていて興味深かった。
チェスの世界でも戦略や定跡に名前があるのだが、チェスの場面で出てくる用語の意味が判らなくて、いま一つイメージが湧かない部分があった。事前にチェスの予備知識(駒の名前や動き)を知っておいたほうがより楽しめると思う。ゲームには興味が無い自分だが、この本を読んで少しだけチェスをやってみたくなった。
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アメリカの天才チェス少年ジョシュ・ウェイツキンの2年間をその父親が記した本.映画化もされたらしい.面白い部分は多々ある.アメリカのチェス界には常にボビー・フィッシャーの影がつきまとうこともわかった.しかし,読後に思ったのは,「なぜ今ごろになって翻訳が出版されたのか?」である.ソ連は崩壊しているし,ジョシュはすっかり大人になっている.
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チェスには詳しくないですが、この親子関係は興味ぶかいです。親にとって子はスペシャルなもので、かつ子供が特別な才能を発揮した場合には、特別な高揚感、幸せ、期待をもってしまうのは自然だと思います。
そこで、どうするかですよね。子供の才能を伸ばすのは親の努めではあるけど、それは子供の幸せのためであり、親の幸せのためであってはいけない。親にとって幸せとは、子供の幸せなのだから。
そーいった主題の脇にあるのはチェスの世界であり、その得意な知的ゲームの世界は魅力的である。そしてボビー・フィッシャー。次は「完全なるチェス」を読んでみます。
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160227 中央図書館
ステージ・パパの正直な告解? 子供に期待をかける心理は、わからなくもないが、息苦しい。