紙の本
変幻自在のワールド
2020/12/22 00:12
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
南米ならではの時間の流れと倦怠感を描いた、「昼寝」がお気にいりです。終わりなき革命へ身を投じていった、著者自身を暗示したかのような「旅路」も忘れられません。
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1974年に刊行された短篇集。
コルタサルらしい幻想的かつ不条理な短篇が並び、1篇1篇はさほど長くないものの、コルタサル的世界にどっぷりと浸れる1冊。
巻末の『訳者あとがき』に詳しく述べられているが、この後、著者は政治運動に深く関わり、徐々に創作からは遠ざかって行くことになる。政治活動の面ではお世辞にも評価が高かったとは言えないようで、『「文学青年コルタサル」が残した最後の短編集』という表現が切ない。
それにしても、どうも版元が余り宣伝に熱心でないというか、宣伝まで手が回っていないというか、いつ、どういうスケジュールで出るのかが全く読めないのはちょっと困る。南米文学は熱心な読者が大勢いるのだし、もうちょっとだけマメに宣伝してくれると助かるのだが……。
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八面体 1974
リリアナが泣く ※想像力の行き過ぎ?
手掛かりを辿ると ※書いたのは自分のこと。
ポケットに残された手記★ ※ゲーム的な出会い。
夏 ※夫婦の危機。
そこ、でも、どこ、どんなふうに ※きれぎれ。
キントベルクという名の町 ※きれぎれ。
セベロの諸段階★ ※死を寓話的に。
黒猫の首 ※ゲーム的な出会いと殺人?
最終ラウンド 1969
シルビア★ ※想像力で人を作る「円環の廃墟」。
旅路 ※すでにだめな夫婦。
昼寝★ ※百合と性的夢想。
「文学青年コルタサルの終り」を告げる一作→以後は政治の季節。
実験的短篇、というよりは、きれぎれの文体による濫作の予兆が見える。
いいなと思った作品が比較的まとまりのある作品(「ポケットに残された手記」「セベロの諸段階」「シルビア」「昼寝」)だからというわけではないが、息切れの兆候が見える。
それは特に「そこ、でも、どこ、どんなふうに」「キントベルクという名の町」「旅路」に。
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「リリアナが泣く」死を待つ体。想像する。自分が消え去った後の妻と友人。良作。
「手掛かりを辿ると」熱狂的な人気を持ちながら謎に包まれた詩人。彼の生涯を追う男。驚くべき真実。
「ポケットに残されたと手記」地下鉄の中のゲーム。偶然の不可能性にかける。
「夏」友の娘を預かった夫婦。夜中。不審な物音。巨大な馬。
「そこ、でも、どこ、どんなふうに」ずっと前か。パコ。もう死んだきみ。
「キントベルクという名の町」ヒッチハイクの少女。スープを飲む少女。かつての自分。
「セベロの諸段階」繰り広げられる儀式。告げられる数字。
「黒猫の首」電車の中。見知らぬ女に触れる。女も私に触れる。女の告白。
「シルビア」子供たちのまとめ役シルビア。しかし大人たちは彼女は存在しないという。良作。
「旅路」列車を待つ男女。彼らは自らが行くべき場所を思い出せない。
「昼寝」悪夢におびえる少女。友との性に関するめざめ。
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あとがきには「文学青年コルタサルが残した最後の短編集」とある。
実際には本書の後にも短編集は発表されているのだが、本書の発表後、コルタサルは政治活動にどんどんとのめり込んでしまい、もはや文学からは遠く離れてしまった感があるために「最後の~」となっている。
本書は「最終ラウンド」という作品集から3つの短編及び短編小説論「短編小説とその周辺」を選出し、「八面体」と名付けられた8編の短編からなる短編集に追加収録したもの。
僕にとっては「手掛りを辿ると」「夏」「「セベロの諸階段」「黒猫の首」「シルビア」あたりが極上の作品(特に「手掛りを辿ると」には本当に痺れてしまった)。
日常の中に突然に非現実的な出来事が飛び込んできたり、何が起きたのか最後まで明確にしなかったり、原因も結果も示さないままに摩訶不思議な現象を描いてみせたり。
きちんとシロクロはっきりさせてくれる作品は少なく、そういう作風が好きな方にとっては、どうにもとっつき難い短編集だと思う。
また、実験的な文体が用いられており、読みづらいと感じる方もでてくるかと思う。
僕なんかはそんな作風や文体にも面白みを感じたりもするのだが、正直「何が起こっているんだろう」と頭が疑問符で一杯になってしまった作品も実はあった。
そのあたりがちょっと残念だったのだけれども、それは読者である僕側の問題(要するに脆弱な読解力)なのだろうなぁ……。
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「ラテンアメリカ短編集」にボルヘスとコルタサルがいなかったので図書館で借りた。
8つの短編が収録された短編集「八面体」と、短編集「最終ラウンド」のなかから3篇と、コルタサル本人による短編小説の書き方など。
「八面体」は、後に文学活動より政治活動にのめり込むコルタサルの文学青年としての最後の短編集なのだそうだ。
ある程度の年齢と地位を得てからの作品だからなのか、今まで読んできたコルタサルのイメージは「いきなり悪夢に閉じ込められドアを消されたような恐ろしさ」ではなく、なんというか前衛的な短編集だった。
【リリアナが泣く】
病院で安楽死を選んだ男が最期の手記をしたためる。
僕がいなくなり妻のリリアナは泣くだろう。しかしきっと友人たち、僕の主治医のラモスや友人のアルフレドが支えになってくれる。
やがてリリアナも日常を取り戻すだろう。アルフレドと手が重なるのだろか、そして寄り添い合うのだろう、それで良いのだ、すべては起こるべきして起きるのだ。
主治医のラモスが入ってきた、笑っている?何を言っているんだ、僕の検査結果が明るいって?そんなはずはない、僕はもう数日後には死ぬのだ。そしてリリアナは…。それなら急がなければ。看護婦に薬をもらうのだ、リリアナの新しい人生の笑顔のために。
【手掛かりを辿ると】
伝説的詩人クラウディア・ロメロの伝記を書こうとした研究者のホルヘ・フラガは、数年かけて書き上げそれが好評を得てから気がつく。ロメロの真の姿はこんなに美しいものじゃない。いまならはっきりわかるロメロの醜さ。それならなぜ自分なぜロメロの物語を美しく飾って書いたのだろう?そうだ、自分は伝記を書こうとして自伝を書いていたのだ…。
【ポケットに残された手記】
地下鉄に乗る語り手が、偶然見かけた女達の跡を辿るというゲームをしている。
【夏】
友人の娘を預かったマリアのとスルマ夫妻は、その晩娘を寝かしつけてから家の外からの異様な気配を感じる。たてがみ、血を流したような唇、巨大な白い頭、馬だ!近くの農場から逃げてきたのか?焦る夫妻は娘が家に馬を入れようとしている姿を見る。
一晩明け、馬は去ったらしい。なにがあったのか、だがもうすぐ日常が戻るのだろう。
…なにか隠されたテーマがあるのか…読み取れずorz
【そこ、でも、どこ、どんなふうに】
死んだ友人の夢を繰り返し見る語り手。
何度も繰り返す、そこ、でも、どこ、どんなふうに。
また夢で君が苦しんでいるという知らせを聞く。 <実は君はどこにでもいるから、たとえ姿は見えなくとも、どこででも君と会える、終わりはない。P93>
だからもう夢は終わってほしい、僕が彼を助けられないということが分かってしまうから。
【キントベルクという名の町】
キントベルクという町でヒッチハイクのリナという娘さんを乗せたマルセロ。二人の会話がとりとめなく流れる。
二人のセリフと意識と第三者目線の状況とが自然に流れるようにして一本の短編になっている。このような文章を書ける作家は本当にすごいなあと���う。
【セベロの諸段階】
…よくわかりませんでした。セベロという男がベッドに居る。病気?なにかの儀式が行われる?家族や友人が集まる中で、セベロは起こされ蛾に覆われ、周りにいた友人たちに数字をつげる。その数字の順番でなにかが起こる?翌朝子供に「遊びなんだよね?」と聞かれて「遊びだよ」と答えて解散する。なんの儀式で、数字が振られた人たちには今後何が起こるの?
【黒猫の首】
電車の中で偶然を装って女性の手に触れる男。でもある日彼の手に触れてきた女性がいる。
同じ駅で降りてそのまま会話を交わす。女性は自分の手が勝手に動く、変態扱いされることもあるがどうにも止めようがないのだという。女性の家に行き触れ合いが行われるが男は素っ裸で外に出させる。開けてくれ!
…書いているのがコルタサルでなければ、変態の言い訳と言いたくなるような状況だな。
ここからの4篇は、短編集「最終ラウンド」より
【シルビア】
語り手は友人の家での集まりに誘われた。大人のグループは会話を交わし、4人の子供は集まって遊んでいる。だがシルビアという女性は子供たちのグループに混じっている。語り手がシルビアとは何者なのかと聞くと、友人たちは顔をしかめて言う。「子供たちの作り話のシルビアの話ばかりでうんざりしているんだ」
だがシルビアはそこにいるではないか。子供たちに聞くが、自分たち4人が揃ったときでないとシルビアは来ないという。
翌日我々は解散した。それぞれの家族は遠くに散る。それなら私はもうシルビアには会えないのだ。私の目にははっきりと見えたのに。
…この話はなんとも幻想的なような現実的なような、掴みどころのない女性を掴めないままもう会えないという不思議な感触。
【旅路】
夫婦が旅行に行こうとして駅に行ったんだ。でも友だちに誘われた駅の名前がどうしても重いだせない。アジェンデ?モラグア?そんな駅はない?ではラマージョ?ああ、思い出せない。
なんとか思い出したつもりになり切符を買ったが本当に合っているのだろうか?間違えていたらどうしようかな?
【昼寝】
寝るときに見る夢、恐ろしい義手の男。また現れた。蝋の手が体を探ろうとする。
…ちょっと性的な。
【短編小説とその周辺】
コルタサルの短編小説の書き方エッセイのようなもの。
コルタサルは、普段の生活をしていると、突如自分自身が「私と私の環境」でなくなり短編小説になる時が来るのだそうだ。
<語り手自らが登場人物になっても良いという点。すなわち、粘土の球体でも捏ね上げるように物語の境界線を外側から引いていくのではなく、語る行為そのものが球体の内側から発生し、内から外へ向かって物語を作り上げていく。P211>
<表現する意志から表現自体へのはしわたしとして言葉が存在する一方、同時にその橋が、作家たる私と、書かれたものとの短編小説を分断し、結果として、完成した物語は対岸に取り残されたようになってしまう。P215>
<腕のいい作家なら文学的に価値のある作品を書くのは簡単だろうが、まるで頭にまとわりつく毒虫でも追い払うようにして短編小説と手を切った経験のある者なら、物に憑かれたように各ことと、単に文学的調理を施すことの違いわわかるだろうし、優れた読者なら、正体不明の不吉な領域から生まれてきた作品と単なるメチエの産物との区別など容易につくだろう。P216>
コルタサルは別の本でも、
<自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短編を書いている、つまり、ぼくにとって短編を書くというのは一種の≪悪魔祓いの儀式≫なのです。>と、短編を語ることとは、突如自分に取り付いたものを払う行為だとしている。
しかしそんなコルタサルはその後政治活動にのめり込み、次第に文筆活動は薄れてゆく。
取り憑かれた払い方が短編ではない別の方法になったのか。