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柴田元幸さんのレビュー一覧

投稿者:柴田元幸

7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本白鯨 モービィ・ディック 下

2000/11/28 17:20

『白鯨』新訳がすごい!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 千石英世による新訳『白鯨 モービィ・ディック』(講談社文芸文庫)をパラパラ見ただけで、おおっこりゃすごいと思った。

 『白鯨』は、エイハブ船長が白い鯨を追いかける熱く烈しい物語を縦糸とすれば、鯨大全ともいうべき、平水夫イシュメールの雑多で香具師じみた語りが横糸である。両者がすっきり交互に、ではなく、ぐじゃぐじゃ不可分にもつれあって、できているのがこの大作。で、やったことはないから確かなことはわからないが、エイハブ船長の壮大な憤怒はある程度翻訳で再現できても、イシュメールのバナナの叩き売り的調子良さを再現するのは難しいんじゃないかと思う。事実、これまで多くの読者が、三十二章「鯨学」のような壮大なホラ話で開陳される情報を一つひとつ真面目に吸収しようとして、あえなく「難破」(訳者千石氏自身が、『群像』六月号の奥泉光氏との対談で使っている言葉)してきたのである。

 だが千石訳は、そのノリのよさによって、情報の雑多さ、過剰さこそがポイントであることをよく伝えている。章のフィニッシュも決まっている——

「小さく立つものは、最初に手をつけた工匠によって最終局面まで見届けられもしよう。しかし大いなるものは、そして真なるものは、最後の仕上げの笠石(かさいし 本文はルビ)を後世に託するもの。それが常。ならば、神よ、おれが何かを完成するなどということがないように御守りください。この小説といえども同じ、これはただの下書き、いや、下書きの下書きにすぎぬ。おお、時よ、力よ、金よ! おれは耐えてみせよう」。

 鯨の潮が水なのか蒸気なのか、という問題については——

「おれの仮説は、鯨の潮は蒸気にほかならぬというものである。おれがこう結論づけざるをえないと思う理由は色々だが、なかでも、抹香鯨にのみただよう凛々しさ、雄々しさによるところ大であるとはいっておこう。かれは低俗かつ浅薄な人物ではないとおれはみている。事実、かれは、浅瀬や浜沿いに姿を現すことは決してない。他の鯨はそれをしがちだ。かれは重厚にして深遠である。そして重厚にして深遠なる人物は、たとえば、プラトンやピロン、あるいは悪魔やジュピターやダンテらがそうであるように、かれらが深く思考をめぐらしているさなかにあっては、頭部からある種、見せ消ち(本文では「見せ消ち」に傍点)の蒸気がただよっているものなのだ。いつだったかおれ自身が永遠をめぐって小さな論文を草していたときのことだった。おれは、ふと好奇心に駆られて、眼前に鏡を置いてみたのだ。鏡のなかを見ると、おれの頭上の大気中に何やらゆらめき上がるような、ただよい上がるようなものが見えるではないか。おれの頭髪から絶えず蒸気が立ち上がっているではないか……」。

 あまり引用ばかりだと原稿料泥棒になるのでこれくらいにするが、ところどころ原文と較べてみると、さりげない工夫や微妙な言い換え・書き足しがあって絶妙(これについては『新潮』八月号でも書いたので、ご覧いただければ幸いである)。間違いなく、今年の翻訳界最大の収穫だろう。

(「bk1文芸サイト」 連載書評第一回「『白鯨』新訳がすごい!」より/公開2000.7.10)

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紙の本白鯨 モービィ・ディック 上

2000/11/28 17:14

『白鯨』新訳がすごい!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 千石英世による新訳『白鯨 モービィ・ディック』(講談社文芸文庫)をパラパラ見ただけで、おおっこりゃすごいと思った。

 『白鯨』は、エイハブ船長が白い鯨を追いかける熱く烈しい物語を縦糸とすれば、鯨大全ともいうべき、平水夫イシュメールの雑多で香具師じみた語りが横糸である。両者がすっきり交互に、ではなく、ぐじゃぐじゃ不可分にもつれあって、できているのがこの大作。で、やったことはないから確かなことはわからないが、エイハブ船長の壮大な憤怒はある程度翻訳で再現できても、イシュメールのバナナの叩き売り的調子良さを再現するのは難しいんじゃないかと思う。事実、これまで多くの読者が、三十二章「鯨学」のような壮大なホラ話で開陳される情報を一つひとつ真面目に吸収しようとして、あえなく「難破」(訳者千石氏自身が、『群像』六月号の奥泉光氏との対談で使っている言葉)してきたのである。

 だが千石訳は、そのノリのよさによって、情報の雑多さ、過剰さこそがポイントであることをよく伝えている。章のフィニッシュも決まっている——

「小さく立つものは、最初に手をつけた工匠によって最終局面まで見届けられもしよう。しかし大いなるものは、そして真なるものは、最後の仕上げの笠石(かさいし 本文はルビ)を後世に託するもの。それが常。ならば、神よ、おれが何かを完成するなどということがないように御守りください。この小説といえども同じ、これはただの下書き、いや、下書きの下書きにすぎぬ。おお、時よ、力よ、金よ! おれは耐えてみせよう」。

 鯨の潮が水なのか蒸気なのか、という問題については——

「おれの仮説は、鯨の潮は蒸気にほかならぬというものである。おれがこう結論づけざるをえないと思う理由は色々だが、なかでも、抹香鯨にのみただよう凛々しさ、雄々しさによるところ大であるとはいっておこう。かれは低俗かつ浅薄な人物ではないとおれはみている。事実、かれは、浅瀬や浜沿いに姿を現すことは決してない。他の鯨はそれをしがちだ。かれは重厚にして深遠である。そして重厚にして深遠なる人物は、たとえば、プラトンやピロン、あるいは悪魔やジュピターやダンテらがそうであるように、かれらが深く思考をめぐらしているさなかにあっては、頭部からある種、見せ消ち(本文では「見せ消ち」に傍点)の蒸気がただよっているものなのだ。いつだったかおれ自身が永遠をめぐって小さな論文を草していたときのことだった。おれは、ふと好奇心に駆られて、眼前に鏡を置いてみたのだ。鏡のなかを見ると、おれの頭上の大気中に何やらゆらめき上がるような、ただよい上がるようなものが見えるではないか。おれの頭髪から絶えず蒸気が立ち上がっているではないか……」。

 あまり引用ばかりだと原稿料泥棒になるのでこれくらいにするが、ところどころ原文と較べてみると、さりげない工夫や微妙な言い換え・書き足しがあって絶妙(これについては『新潮』八月号でも書いたので、ご覧いただければ幸いである)。間違いなく、今年の翻訳界最大の収穫だろう。

(「bk1文芸サイト」 連載書評第一回「『白鯨』新訳がすごい!」より/公開2000.7.10)

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紙の本圏外遊歩

2001/06/01 19:47

吉澤美香、川上弘美の世界では日常がそのまま「圏外」になる前編

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕は小説家ではないので、小説はあくまで一読者として読むだけだが、エッセイだと自分でも少し書くから、何と言うか、若干「同業者」の眼で見ないこともない。
 同業者の眼で見る、と言ったってべつに、より鋭い読みができるということではなく、たとえば自分も書いたことのある素材について誰かがエッセイを書いているのを見ると、そうかこういう手もあったか俺もこう書くんだった、と空しく羨望したり、うーんこれはちょっと違うんじゃないかなぁだってホラあの問題考えてないわけだろ、と無意味に屈折したりする、とかいうだけの話なのですが。
 で、先日、秒針がチクタクと動く時計と、連続的にスムーズに動く時計の違いを取り上げ、「チクタク」では「チク」を始めとして「タク」を終わりとする「物語」がある気になれる一方、「スムーズ」では時間とはただ流れていくだけのものであることを思い知らされる、というようなことを自分で書いたあと、澤美香の『圏外遊歩』を読んでいたら、こんな一節に行きあたった。

 ぜんまいといえば、電気式のアナログ時計というのがありますが、あれって秒針がスーッとよどみなく動いていくもので、ふつうの時計はコチコチコチと目盛りを一コずつ進んでいき、刻一刻というか、今日があって次に明日があるという安心感がありますが、電気時計のあのスーッといく針を見ていると、時間はというすごいことを把握してしまい、その手の時計を見るたびに私はなぜか地球がドロドロの出来たてだった状態を連想してしまい、それからアメーバとか恐竜とかがでてきて、切れ目がないままそれがノン・ストップで今を通過して地球が滅びて銀河系がブラックホールに吸い込まれていってそのあとまたまっ白い世界があって、というタイムトラベルを一気に体験してしまうみたいな感じが頭の中をひとめぐりします。(「時間はケジメがない」)

 これはすごい。地球出来たて状態まで連想が及ぶだけならまだしも、そこからあっさり「今を通過して」、宇宙の終焉まで行ってしまう。そのおしまいが「……みたいな感じが頭の中をひとめぐりします」と、まるで何ごとでもないみたいに書いているのもすごい。「ひとめぐりするのです」でさえないんですからね。こりゃもう、羨望も屈折もしている余地はない。
 『すばる』で1988年から89年にエッセイが連載されていたときから、澤美香の書く文章は素晴らしいと思っていた。「身辺雑記」とは普通ならお気楽なエッセイの代名詞で、澤美香の文章も、身辺雑記ということでいえば、これほど身辺雑記的なエッセイもなく、買い物帰りに道で何が咲いているのを見たとか、ベランダに蜘蛛が大きな巣を張ったとか、身辺の植物・小動物ネタがかなりの比率を占めている。が、何しろ時計を見るだけで宇宙の創生から終焉までやっちゃう人だから、そういう身辺ネタでも、ちゃんと澤的異界に連れていってくれる。だから、『圏外遊歩』というタイトルは半分外れていて(だってほぼ全部身近な、圏内のことを書いているんだから)、半分当たっている(圏内のことを書いても、ほとんど自動的に圏外に移行するから)。

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紙の本賢人シュンティパスの書

2000/11/28 17:23

現代の小説作法がせせこましく感じられる大らかさ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ミカエール・アンドレオポーロス『賢人シュンティパスの書』(西村正身訳、未知谷)は、蒲田駅ビルの本屋さん(ACTブックス・サンカマタ店)で推薦されていたので、蒲田あたりでこの手の本が勧められていることに感動して衝動買いした。
 平凡社世界大百科によれば、十一世紀末に編纂された「中世ギリシア娯楽短編小説集」だという。本当はさらに数世紀前のパハラヴィー語(中世ペルシア語)版までさかのぼるらしいが(パハラヴィー語→アラビア語→シリア語→ギリシア語と伝わった)、まあとにかく古いことは間違いない。古いだけあって、物語の前提が今日とは違うというか、いまじゃこういう展開・発想はナシだよな、というところが一杯あって面白い。たとえば——

 あるところに、汚いものにはいっさい触れたがらない男がいた。ある日、男の召使いが市場に行くと、いかにも見た目にきれいなパンを売っている少女を見かけたので、買って主人のもとに持ち帰ると、主人はいたく満足し、「これからは毎日このパンを買ってくるように」と召使いに言いつけた。こうしてしばらくのあいだ、きれいで美味しいパンが食べられる日が続いたが、ある日召使いが市場に行くと、少女はもうパンを売らなくなっていた。そこで男は、これからは自分であれと同じパンを作ろうと、少女を呼び出してその作り方を訊いた。すると彼女が答えて言うに、(ここからは直接の引用)

「奥さまが背中に怪我をして、そのことでお医者さまが奥さまにこう言ったんです、『奥さん、混じりっ気のない小麦粉を用意して、それにバターと蜂蜜を混ぜてよくこねて、すっかり治るまで、それを傷の上に貼りなさい』って。それで奥さまはお医者さまの言う通りにしたんです。その練り粉は傷口からはがすたんびに、すぐに捨てていたんです。それをあたしが地面から拾い上げて、それでパンを作って、そしたら旦那さまの召使いがやって来て、買ってくれたんです。でも今は奥さまの傷もすっかり良くなってしまって、だからもうあのパンは作らなくてもよくなってしまったんです」。

 こう聞かされた男は、「堪え難い忌まわしさに襲われ」、「死を懇願し」た……。

 愉快な話ではある。でもこれが、王さまが悪い女にたぶらかされて息子を死刑にせんとしているのを思いとどまらせようと、側近の者が王に語るたとえばなしなのだ。たとえばなしとしてどこまで有効なのか、ようわからん。きれいなパンは、悪い女のたとえってことですかね……。およそ現代の人間が思いつきそうなたとえではなさそうである。
 とにかくこの本を読んでいると、こういう書き方はいいとか悪いとか、明文化されているにせよいないにせよ無数のルールで縛られた現代の小説作法が何ともせせこましく思えてきて、精神衛生上大変よろしい。

(「bk1文芸サイト」 連載書評第一回より/公開2000.7.10)

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紙の本なんとなくな日々

2001/06/01 19:56

吉澤美香、川上弘美の世界では日常がそのまま「圏外」になる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

(*澤美香『圏外遊歩』の書評からの続き)

 圏内がほとんど自動的に圏外に移行してしまうといえば、『圏外遊歩』と同じシリーズで岩波書店から出ている、川上弘美のエッセイ集『なんとなくな日々』についても同じことが言えそうな気がする。

 台所ではときおり妙なことが起きる。先日も真夜中書きものをしていると、背後から音が聞こえた。背後とは、台所である。きゅうううう、という大きな鳴き声みたいなものが聞こえたのであった。かなしそうに、鳴き声はなりひびく。これには聞き覚えがあった。冷蔵庫の鳴き声なのである。冷蔵庫の扉をぴったりと閉めずにしばらく置いておいた後に、気づいて閉めると、この鳴き声がする。さもかなしそうな鳴き声である。閉めてほしかったのですよう、せつなかったですよう、そんな気持ちのこもったような鳴き声である。ただし先日は閉め忘れてなどいなかった。扉はたしかにぴったりと閉じられてあった。それでも鳴くとは、何が言いたかったのか冷蔵庫よ。夜中でさみしいのですよう、冷えつづけることもせんないものですよう、そんなことを言いたかったのか。それとも、遊びをいたしましょうよう、春だからうきうきいたしましょうよう、そんなことを言いたかったのか。鳴き声は五分ほどでおさまった。(「台所の闇」)

 小川洋子や川上弘美を読んでいて嬉しいことのひとつは、アメリカの大半の女性作家と違って、台所が異界とごく自然につながっていることだ。上の一節もそうである。つながりがごく自然だから、あっさり「鳴き声は五分ほどでおさまった」と締めくくれるのである。
 澤美香が植物ネタと小動物ネタを得意とするのに対し、川上弘美は友だちネタが強い。動物のしっぽのみならず、植物のしっぽまで怖くてたまらず、「でもしっぽがついたままじゃおそろしくて調理できないから、仕方なく切り捨てるの。そういうことをしなければならない台所が、わたしはこわいのです」と言う友人。お葬式の帰りに、河童と目が合ってしまい、「目が合っちゃったからまあしょうがないです」と言いながら「くいくいと」お酒を飲む友人。ものすごく足の速い赤ん坊に追いかけられていたら、山羊の乗っている自転車があらわれたので、山羊をまるめこんで自転車をうばい、乗って逃げたという夢を電話で語る友人……。
 『シベールの日曜日』に連れていってくれた、かばんの中にコルゲンコーワのかえるのコレクションを持っていた中学の同級生、というのも出てくる。これは、人見知りでオクテで世界を知らなかったかつての自分と、いちはやく世界を知って悦びも体験し傷つきもしていたあの人、という川上エッセイにときどき出てくるパターンである。このパターンが出てくると、川上弘美はいつになく、女子校中高一貫教育体験者ふうに感傷的になる。個人的好みを言うと、僕はこの感傷性がかなり好きである。

*は「吉」の「士」が「土」になった字です。標準的なPC用フォントに存在しない文字のため、画像データを張り付けています。IE5.0で文字サイズ「中(M)」に合わせて作りました。ご了承下さい(編集部)

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紙の本濁った激流にかかる橋

2000/11/28 17:28

伊井小説=いい小説の魅力はどこにあるのか

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 白状すると、僕は、伊井直行の小説のどこが面白いのか、さっぱりわからない。
 どこが面白いのかはわからないのだが、にもかかわらず、伊井直行の小説は、ほとんど例外なく面白い。今年出た『服部さんの幸福な日』、『濁った激流にかかる橋』なんて、どっちもものすごく面白い。
 最新刊の『濁った激流にかかる橋』は、連作短篇である。「改良工事」を重ねに重ねた巨大で複雑な橋によって二分された「町」に生きる人々をめぐる九つの物語である。「泥水の激流の右岸に住むさいづち頭の子孫」「霧のかかる騒がしい橋からのひそやかな墜落」「橋の上で赤い銅貨のような光を浴びる女」……等々、こんなにカッコいいタイトルをつけて、つまらなかったらどう責任とるんだろう、と他人事ながら心配になるくらい魅力的なタイトルが並んでいる。そしてその心配は、杞憂である。
 登場人物たちのキャラクターが魅力的だということは、たしかにあるだろう。「左岸のいい家のお嬢様」でありながら「橋梁改善奉仕団」なる団体をたった一人で組織し、毎日橋に立って「お気をつけあそばせ。ここには大きな穴が開いてございます」と人々に呼びかける女性。ろくでもない物件を口先三寸で客に押しつけ、美人の幽霊に出会っても怖がるどころか「死んでもいいから一発やらせてくれ」と襲いかかる不動産屋の老人。猫のウニャ(またの名をニャン吉)をほぼ唯一の私的意志疎通相手とし、生活面では廃人同様でありながら、政治家としての勘は異様に鋭いままの市長……等々、時に類型を巧みに利用しつつ、最終的には決して類型に回収されない印象的な人物を何人も生み出している。でもそれが伊井直行の「売り」かというと、そうではない気がする。
 あるいは、社会とか政治とかいったものがおそろしくいい加減な経緯で成り立っていることが、きわめて具体的に示されているという点でも、『濁った激流にかかる橋』はきわだっていると言えるだろう。『湯微島訪問記』などでもそう思ったが、一見もっともらしいものが、実は一部の人間の中途半端な思惑や、成り行きの慣性的力などによって全然もっともらしくなく動いていることを示すのが、伊井直行は実に巧い。もちろん伊井直行は、そういういい加減さに憤っているのではない。少なくとも、いい加減さを糾弾することが彼の小説のポイントでないことは間違いない。理想的な正義と、現実における正義の不足、といった二分法は、伊井小説には(「いい小説には」でもいいのだが)存在しない。むろん、理想的な正義の空しさを嗤(わら)い、正義の不足こそ現実だと「直視」を迫るわけでもない。「直視」を迫っても、二分法自体は強化されかねない。むしろそういう二分法の虚構性を、伊井小説はさりげなく批判していると見るべきだろう。
 でも、それがそのまま、伊井小説の面白さにつながる十分条件じゃないよなあ……。
 さらにまた、今回の作品についていえば、連作短篇ということで、さっき出てきた人物がまた別の形で別の作品に出てきて、作品と作品とが有機的につながっていき、全体として一個の豊かな小宇宙が現出する、ということはもちろんある。特に、最後の短篇「伝令、激流にかかる橋を征服する」で、それこそ激流がまさに堰(せき)を切ったように物語がすさまじい勢いを得るのは、それまでの八つの作品に出てきた人物たちが、かなり意外な形で再登場を果たすという事実によるところが大きい。でもそういう、目に見える形での構成力が、伊井小説の魅力なのかというと……。
 と、「……」ばっかりで書評者失格で申し訳ないのですが、とにかく『濁った激流にかかる橋』、ぐいぐい引き込まれて読みました。本当に面白かった。

(「bk1文芸サイト」連載書評第二回より/公開2000.8.19)

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紙の本服部さんの幸福な日

2000/11/19 18:18

本当に「手に汗握る」という常套句が相応しい展開

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(『濁った激流にかかる橋』(伊井直行著)の書評からの続きです。併せてお読み下さい)

 一月に出た『服部さんの幸福な日』も『濁った激流にかかる橋』と同じくらいいい小説だと思うが、こちらは、少なくとも前半は、「面白い」という言葉が、もう少し使いづらい。もちろん「つまらない」のではない。自分の身にこういうことが起きたら嫌だなあと日ごろ思っているようなことが、大いに共感できる主人公の身につぎつぎと起こり、その消耗感がほとんど生理的に伝わってくるので、それが読んでいてつらいのである。

 平凡なサラリーマン服部さんが飛行機事故に遭い、もう一人の男とともに、奇跡的に生き残る。マスコミに騒がれ、自分に対する無根拠な悪意や見当外れの善意が、自分の知らないところでどんどん増殖していく。ある意味で、事故を境に服部さんはまったく別の生を生きていると言ってよく、ほとんど来世を生きているような非現実感もそこにはあるのだが、と同時に、服部さんに浴びせられる無責任な悪意や鬱陶しい善意はものすごくリアルなのだ(しかも語り手は、視点を服部さんに限定せず、随時必要に応じて全知の視点から語るので、服部さんの知らない悪意も読者には知らされる。これがまた切ない)。

 それと、これはさっきの、現実における正義の不足の話ともつながるのだが、いわゆる「しがないサラリーマン」として服部さんは、正義や正論とは関係のないところで物事が動く世界を生きることを(『さして重要でない一日』の主人公をはじめとする、伊井文学におけるほかの多くのサラリーマンたちと同様に)強いられる。僕は幸運にも、先生先生とおだてられ、そういう現実とあまりかかわらずに日々を生きているので、服部さんがそうした目に遭うのを読むのが、すごくしんどい。

 しかし! そうしたしんどさを感じつつも、服部さんの運命がどうなるのか知りたくて、我々は読み進まずにはいられない。そして読み進んで終盤までたどり着くと、そこにはものすごくスリリングな展開が待っている。服部さんの人生を破壊しようとする人々の家に彼が単身乗り込んでからの数十ページは、ハラハラドキドキ、本当に「手に汗握る」という常套句が相応しい展開である。「それで? 次はどうなる?」というもっとも基本的な物語的欲求がストレートに喚起され、それが存分に、だが定型的でない形で満たされる。『濁った激流にかかる橋』の最終短篇もすごかったが、こっちの終わりもすごい。まずどちらの一冊を推すか、書いているうちに見えてくるかと思ったのだが、がっぷり四つに組んだまま両者一歩も譲らず……。

(「bk1文芸サイト」 連載書評第二回「『濁った激流にかかる橋』『服部さんの幸福な日』——伊井直行の快作二冊」より/公開2000.8.19)

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