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紙の本
人間は大昔から「丸かじり」が大好き
2009/08/10 08:21
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「タヌキの丸かじり」、おいしくいただきました。
満腹です、といいつつ、楊枝で歯をしこしこ磨いていて、ふと、頭をよぎったこと。
この本の初出となった連載時の、総理大臣って誰だったけ。
えーと、連載は1998年9月から1999年5月。
眉毛おじさん村山さんは神戸の震災の時だったし、ライオン丸小泉さんはもう少し後だよなって、満腹になった頭で考えたのですが思い出せません。
みなさん、覚えています?
答えは、ブッチホンこと、小渕さん。
ね、いま、みなさんも「そーなんだ」って顔したでしょ。
「そーなんです」。
答えをきいても、わからない人が数人(もっといるかも)いるくらい、政治のことなんて覚えちゃいないものです。
では、世間ではどうだったのか、というと、連載が始まる直前に「和歌山毒物カレー」なんていう事件がありました。
「お、お、お」って「お」を三回くらい口にした人は、そのあとのワイドショーを巻き込んでの騒動を思い出した人ですね、きっと。
もちろん、そんな怖いカレーの話は、この「丸かじり」では出てきません。
めでたいところでは、1998年秋に横浜ベイスターズがリーグ優勝をしています。
「うそ、うそ、うそ」って思わず口をついてしまった人も、「その当時は横浜に球団があったんだ」と思った人も、今でもちゃんと横浜ベイスターズは崎陽軒のシュウマイと同じくらいがんばっています。
東海林さだおさんもこの本のなかで「だんご3兄弟余話」という文章を書いちゃうくらい、「だんご3兄弟」という歌が流行った時代でもありました。
そういえば、「鯛ヤキ」が流行ったこともありましたね(「泳げ、タイヤキくん」)。
でも、いくら東海林さんが「干瓢応援団」(本書所載)をつくっても、「干瓢音頭」なんてないだろうな。いや、もしかしたら栃木あたりにあるかもしれないし、いずれ大ヒットするかもしれないし。
こうして、過ぎ去りし日々を思い出しても、ちっともピンときませんね。
ぼやーつとしています。
それなのに、東海林さだおさんの「丸かじり」シリーズはいつ読んでも新鮮なのはどういうことなのか。
お、そういえば、この本の連載は前世紀だ。
ということは、「丸かじり」シリーズは、書物における「生きる化石」シーラカンスとでもいえばいいのだろうか。
まあ、各地の遺跡からは必ずといっていいほど、食事のあとが発掘されるくらいだから、人間は大昔から「丸かじり」が大好きだったにはちがいないけど。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でご覧いただけます。
紙の本
読めば読むほど腹が空く
2005/02/01 17:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:八ヶ岳ペンション亭主 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の「丸かじり」シリーズは、いずれも読めば読むほど腹が空いてくる。ましてや、夜などに読み始めると、腹の虫が「何か入れてくんろ」と催促を始める。これは私だけの感想ではないだろう。今回の『タヌキの丸かじり』もそうだった。
「果たしてタヌキをどうやって丸かじりするのだ」
と理詰めで考える人は、ちょっとあっちへ行っててね。と、著者風にお願いをする。
しかし、理屈と言えば、奇妙な多種の角度から理屈をこねまわすのが、東海林氏の得意技である。普通、理屈をこね回せば嫌われるのがる常であるが、氏は全く逆で歓迎される。なぜなら嫌みがないからだ。妙な視点からの理屈に、知らぬ内に、
「うんうん」
と首肯してしまう。東海林氏はだれの中にでもある、食いしん坊のひねくれ者的感情の代弁者なのかもしれない。また、きざなグルメでなく、庶民の味の溺愛者であるところも、人々の共感を呼ぶのであろう。
え、本書の各項の説明がないって。そりゃそうでしょ。これから読む人の興味を奪ってしまったら意味がないでしょう。ね、読みたくなったでしょ。読みなさい!
タヌキの意味もそのとき分かるからね。
紙の本
食べることは考えること、か?
2004/02/23 12:50
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぼこにゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
牛丼屋から牛丼がなくなった日、牛丼屋の店長の決勝戦で敗退した高校球児ばりにむせび泣く様子がニュース番組を賑わせ、そんな彼の姿に心を打たれた全国の視聴者はテレビに向かって熱い喝采を送ったという。店長の脳裏にはこれまでの牛丼人生がめくるめく走牛灯となって駆け抜けたことだろう。十八世紀フランスでは悲劇の王妃アントワネットが「牛丼がなければ天丼を食べればいいじゃないの」と言い放ち、これがのちのフランス革命の端緒となった点をかんがみても、牛丼が一般市民の生活になくてはならない食物だということが知れるわけである。
とか言いながら実は私は、一度も牛丼を食べたことがなくて、近所に牛丼店もないものだから連日のオーバーヒートしたような報道ぶりは正直なところピンと来なかった。
ふだん食べるものというのはその人の経済状態や育った環境とかなり直結しているものでもあるし、なにを選ぶかによって味覚のみならず全般的な感性とか価値観のようなものが如実に語られるわけだから、食についてものを書く、というのは結構勇気の要ることなんじゃないかと思う。特にこの東海林氏のように、なんというか、割合庶民的な食べ物を題材にすることが多くて、それも食べ物それ自体に関する考察というよりは食べ物と自分とのかかわりというスタイルで表現するのは、いわば自分の人間性の極めて基礎的な部分を吐露しているようなものである。それは考えてみたら結構グロテスクなことなのかもしれないが、自分のことを書くという行為に本来つきもののグロテスクさでさえ、東海林氏の生来の優しさというか上品さのようなものでしっかりと包み隠されているのだ。
『子供の目で見て、大人の手で描く』という言葉があるけれど、凡庸な書き手とこの人との差異はまさしくその部分であって、子供の持つ時にはあられもないほどの観察眼と、鍛えられた大人の表現力とがこの息の長い連載の基部になっているのだと思う。
私は小説などを読んでいて、料理したり食べたりする場面が(料理法やメニューとか)比較的克明に書かれていると、それがその書き手の自意識そのものに思われてならないのだ。高級なもの、しゃれたもの、今日的なもの、美的なもの、というステキな料理が出て来たり、質素だけれど白いご飯やお酒に合いそうな小料理を何品か手早く作る場面が出て来たりすると、それが即書き手の自己イメージなのに違いない、と思ってしまう。読み手としてノゾキ見的なおもしろさは感じるものの、やっぱりそういう『ステキなワタシ観』をモロ出しにするっていうのはちょっと見苦しい。食べ物にはそういう恐さがある。と言うか、そういう恐さをいささかも感じないような人、というのは私はどうも好きじゃないのだ。
昔の女学生には食事中、弁当箱の蓋を前に立てて、お弁当の内容を他者の目に晒すことを拒む人が多かった(私の時代にはまだたまにそういう子がいた)らしいのだが、それにはなんとなく共感できるものがあって、よく言われるように食べるということは恥を含んだ作業なのかもしれない。東海林氏の文章にはいたるところそういう含羞の念が差し挟まれていて、それが絶妙のアクセントになってもいるし、私はその、自分自身の内にあるものと相似をなす含羞にいつもちょっと救われるのである。この人はきっと本当に食べ物を愛していて、そんな自分にちょっと恥じらいを持ちつつも、楽しくいろいろなものを食べて行くのだろう。そういう姿勢は私の憧れでもある。
牛丼とはついに面識のないままだったけれども、いつか私の愛好する食物が私の前から消える日が来たら、できれば心穏やかに「今までありがとう、そしてご苦労様でした」と言って別れたいものだ。