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アルテミスさんのレビュー一覧

投稿者:アルテミス

66 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

そ〜だそ〜だと言いたい事柄のオンパレード

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『世界の中心で愛を叫んだけもの』が先にあることを知っていたので、あの『セカチュー』が出たとき「パクリタイトルじゃね〜か」と思ってしまった。だから、それを更にもじった本書の書名も、好きでない。パロディとしてもオリジナルより長すぎて上手くない。

 だが、気にくわないのはそのくらい。書名は、実は編集部が勝手に決めたそうだから、著者の文章で抵抗を覚えるところはほとんど無いことになる。
 細かいことを言えば、著者の嫌いな「(笑)」に私は抵抗が無いということはあるが、そのくらいは違わないと気味悪いというものだ。

 著者は字幕屋。映画の字幕の原稿を書く人である。
 ということで、この本の柱はふたつ。映画屋としての苦労話と、物書きとしてのいまどきの言葉遣いへの疑問である。

 売らんがために内容を捻じ曲げてでも「泣ける話」にしたがったり、画面から状況を読み取るべきシーンにも字幕で説明させたがったりする配給会社との攻防戦が前者。
 著者は何も、芸術的にこの方が優れている、という見地から配給会社に抵抗しているわけではない。まっとうな感覚からすればそれは変じゃないの?と言っているだけである。

 そういえば、字幕でなく吹き替えだが、『西太后』という映画にオリジナル音声には無い説明的なナレーションがやたらと入っていて、それがまたやわらかい声の女優さんだったもので「これは児童向けの歴史教育ヴィデオかい!」とげんなりしたことがあったなあ。あの映画にはしわがれ気味の渋い声のナレーションの声の方が合ってたと思う。
 著者には、ぜひ配給会社との攻防戦を続けていって欲しいものだ。(くれぐれも干されない程度に、だが。)

 字幕というのは画面にあわせて次々と変わっていってしまうものである。ということは著者は普段今どきの日本人に瞬時に理解できる文章を書かなくてはいけないということで、言葉の変化に敏感。それが後者である。

 著者と私は年齢が5歳しか違わないので(私の方が下!)言語感覚が近く、そ〜だそ〜だと言いたい事柄のオンパレードである。

 過剰なまでの禁止用語の自主規制。
 私の勤める出版社でも、昔の本の一挙復刊などの企画があがった時など、前は使えたけど今はダメな言葉がないかどうかをチェックする作業が、編集部校閲部だけでは手が足りないとて(あ、これもいかんのか)私たちの部署にまで読んでくれ〜と回ってくることがある。

 「させていただきたがる人々」。これも同感。多用されすぎる敬語はうっとおしい。著者があげているものの他にもうひとつ私がうっとおしいのは、「あげる」である。「あげる」は既に謙譲語でなく丁寧語であるという意見を仮に受け入れたとしても、度が過ぎるほど使う人というのがたまにいる。

 友人がとある料理番組について、献立自体はいいんだけど、その料理研究家が作ったものは食べたくないと言ったことがある。
 その先生の説明というのが、「お鍋にお湯を沸かしてあげて、そこによく洗ってあげたほうれん草を入れてあげて……」という調子なのだそうだ。深〜く納得した。そんな人の手で作られた料理なんて気持ちが悪い。

 朝日新聞が著者に取材したところによると、著者はこの本を一杯やりながら書いたのだそうである。
 おかげで文章におふざけが過ぎるところも無いではない。だがその方が著者の本音が表れていて面白い。保身に走っている部分までがストレートにそう書かれていて、映画字幕屋というのは気苦労が多いんだなあと察せられる。

今後はなるべく字幕に目くじらを立てずに映画を見ることにしようか。

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紙の本

なんと明朗で、潔い。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「大正時代のおのぼりさん、アジア&地中海の爆笑航海記」
もうひとつ考えた書評タイトルである。どちらにするか、最後まで迷った。
関係者や、生真面目な戦史研究者からは叱責を頂戴するかもしれない。しかし、軍とか戦争とかの言葉が入るだけで拒絶反応を示すたぐいの人にも、だまくらかしてでも読んでもらいたいと思ったがゆえである。

本書をストレートに紹介すれば、こうなるだろう。
「第一次世界大戦の際に、イギリスからの要請によって地中海へ遠征し、輸送船の護衛のためドイツのUボートと戦った駆逐艦に、海軍中主計として乗り組んだ青年の手記」だがこう書くと、謹厳な軍人による壮烈あるいは悲壮な戦闘記録を想像されるのではないか。

ところが。
好奇心旺盛な著者は遠征途上のアジアの国々で、任務により寄港した地中海の諸港で、上陸の機会があればすかさずあちこちを見て回る。時には列車でパリ見物に行ったり、ピラミッドの前でラクダに乗って記念写真を撮ったりする。(これを後世の議員や官僚が視察の「ついで」に公費で観光するのと同列に論じるのは不当だろう。海上での死と隣り合わせの任務に耐えるためには、陸上ではリラックスする必要がある。)
しかも、著者の筆は軽妙洒脱で、笑いを誘うことしばしばである。軍人が上官の命令で書いた戦記がこんなに笑えていいのか?と何度も思ったぐらいだ。
また、歴史知識に裏打ちされ、豊かなボキャブラリーを駆使した文章は、二十代の青年のものとは思えぬくらいに達者である。この文章を読むだけでも、本書を手に取る価値はある。

一方、本来の、戦記としての記述には、派手さはない。護衛任務であるから当然である。
無論、危険であることは攻撃任務と変わるところはなく、著者の乗った艦の鼻先を魚雷がかすめたり、僚艦が大破して多数の戦死者を出したりもする。しかし、私にとって本書は、当時の海軍軍人のメンタリティの一端に触れることができたという点で、大変興味深かった。
軍人が命をかける事を、「百姓が田を耕し、商人が算盤をもつ」のと同じ事とし、そこに過剰な悲壮感はない。
ただ、日本が幕末に列強に結ばされた不平等条約を完全に解消せしめたのが日露戦争の勝利であったことを知っていて、軍事による貢献が「同色人種のため」になるという単純な事実を認識していたがゆえの使命感があるだけである。
このことは、現代の日本人も知っているべきだと思う。
ひとつだけ惜しいのは、本書を編纂されたC・W・ニコル氏が、非売品として軍で編纂され本書の底本となった『遠征記』のほかに、『平和の海より死の海へ』の題で公刊されたものがあったことをご存じなかったことである。(マイクロフィッシュだが、国会図書館で閲覧できる。)
こちらは著者が「端書狂人と云われる迄」買い集めた絵葉書や、ピラミッドの前の記念写真などが載っていて、一般向けを意識した紀行文ふうのつくりになっている。
こちらであれば、軍事に興味のない人にもすすめ易かったのに、と思うのである。

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紙の本

紙の本英語を子どもに教えるな

2004/03/21 01:41

外国語なんて、何とかなるもの。話すべき内容を持っていない方がよっぽど恐ろしい。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 学生時代の英語の成績が特によかったわけでなく、就職してから英会話スクールへ通ったわけでもないのに、英語と現地語しか通じないところへ度々仕事をしに行く技術者を知っている。
 その人が海外出張をするようになるに当たってした英語の勉強は、洋画のヴィデオを字幕を隠して何本も見て、耳を慣らした、ということだけ。(ほかに、専門用語の日英対照表ぐらいは用意したろうが。)

 また、自分の体験であるが、私の英語は中の上程度の高校を赤点ぎりぎりで卒業できた、というレベルでしかない。しかし、イタリアで一人旅をしていると、混んだレストランなどではしばしば他の国の旅行者と合い席になるのだが、その際には私程度の英語でも立派に会話に花が咲く。イタリア観光という点で興味が共通しているからだ。

 つまり、従来の学校教育の英語でも、立派に役に立つのだ。中学高校で習った英語なんて使い物にならない、と思い込んでいる人の大半は、耳が慣れていないことと、言い間違えることを恐れているだけ。カタカナ発音の英語でも、内容が相手にとって必要であったり、興味を持たせうるものであったりするなら、ちゃんと聞いてもらえるのである。
 小学校から英語を教えることが始まるようであるが、そもそも日本人の大半は日本で生涯をすごすのに、ネイティブ並みに話せる英語をすべての国民に強要する必要がどれほどあるのか。ブロークンではまずいような場合には、プロの通訳を雇えばいいだけの話である。

 それより、話すべき内容を持っていない方がよっぽど恐ろしい。
 いまどきの若い者は…などと言いたくはない。が、先日、TVのあるバラエティー番組で若手タレントがプロの料理人の作った料理を「おいしい」としか表現できず、はたで見ていた年長の俳優が「どんな風においしいの?」と聞いても、「すっごくおいしい」「ホントにおいしい」と繰り返すのみであったのをみて、情けなくなった。
 彼女の味覚に関するボキャブラリーは、「おいしい」と「まずい」しかないのだろう。その料理を食べたことがないので想像だが、せめて「歯ごたえがあって、噛んだ瞬間に材料のうまみが口中に広がって、それが控えめにした醤油の味付けと溶け合って…」程度の描写は出来ないものか。
 考えたことや感じたことを言語に置き換える訓練が出来ていないのである。母語もまともに操れない人間が、外国語で内容のある話をできるとは思われない。

 著者はアメリカで英語教育を受けた子供達を数多くみて、その状況を本書で報告している。
 中には、日本語も英語も見事にものにした成功例もある。しかし、それには両親に確固とした教育方針と、並ならぬ根気が必要であったことが明記されている。
 一方で、現地校へ子供を放り込んで、子供がネイティブ並みの発音で英語で操るようになったと安心してしまった親は、後にその英語が「とにかく通じさえすればいい」式の間違いだらけの幼児レベルと知ってうろたえることになった。しかも、英語で苦労しているのに日本語の勉強までさせるのは大変すぎてかわいそう、と、親が半端に子供に同情したために、その子供は母語である日本語も同レベル。日英共に幼児レベルの言語能力しか持っていない子供は、授業が高度になるに従って、ついていけなくなるのである。

 日本語も外国語も自在に操れれば、それは確かに便利であろう。海外で働きたいと思う人には、必須でもある。しかし、そういう目的があれば、成人した後であろうと外国語を身につけることはできる。
 そして、その際に有効なのは、物事を論理的に理解するための、母語でなされた言語訓練だ。

 英語にばかり目が向いて、母語が貧弱では本末転倒なのである。

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紙の本

「好きならちゃんと見習うべき」。よくぞ言ってくれました。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いささか挑戦的なタイトルである。実際、内容は、きちんと読まなければイギリス批判のオンパレードに見える。私はイギリスについて平均的日本人以上の知識はないので、本書に書かれたイギリス批判が正しいのかそうではないのかの判断はできない。

 しかし、本書の基本姿勢には同感である。
 きちんと読まなければ、と先に書いた。きちんと読めば、本書が批判しているのはイギリスではなく、イギリスのよい所(あるいはよく見える所)だけを見てきて「それに引き替えて日本人は…」という論理を展開する日本人だということはすぐにわかる。本書に羅列されたイギリス批判は、イギリス礼賛ばかりの世間の論調に対してバランスを取るためになされたにすぎない。
 著者は、「決してイギリス嫌いではないし、むしろ、日本がかの国に学ぶべき点は、まだまだある、と考えている。」と明記している。それでいながらこういう本を出さねばならない日本の風潮に憤っているのだ。

 私自身、本書を読む前に、同質の憤りを持ったことがある。
 私の場合はイギリスではなくイタリアだが、すこし目先を変えた旅行をしてみようと考えて、地方都市を見て回った帰り。飛行機の中で、日本の新聞の国際版が機内サービスで配られ、日本語の活字に飢えていた私はむさぼり読んだ。その投書欄である。「段差なかったイタリアの駅」とタイトルがついて、ローマやフィレンツェなどの駅で、段差解消のためのスロープが随所に作られ、そもそも階段がないことが賞賛され、日本の駅は階段だらけだと批判した一文に、私は怒った。イタリアの駅の不便さに辟易として、駅に関しては、日本の方がよほど便利だなあと実感しての帰りだったからだ。
 イタリアの上記の大都市のメインの駅に階段がないのは、それが行き止まりの駅だからである。そこを始発終着でなく通過駅とする列車は前後の向きを反対に折り返して出て行く。つまり、線路をはさんでこちら側から向こう側へ行くには、線路の端を大回りをすればいいだけなのだ。
 ところが、そういう駅はイタリアでも少数派である。通り抜け式の駅ではそうは行かない。線路の反対側のホームに行くには線路の上か下を通るしかない。日本では橋をかけて上を行くのが一般的だが、イタリアでは地下道で下を通るのが一般的だ。しかし、その地下道に下りるのにエレベーターどころかエスカレーターさえないことが多い。車椅子どころか、大荷物を持っていれば健常者にとっても利用するのが大変なのである。これは、地方都市の駅だけの話ではなく、特急列車が止まるような大都市の駅でも同様であった。
 帰宅後、くだんの投書を掲載した新聞に、上記の事実を指摘し他国のよいところしか見ていない人の安易な日本批判に反対する投書をしたが、掲載されなかった。掲載されなかったのは私の文章のせいもあるかもしれないが、要するに公正をもって旨とすべき新聞でさえ、近視眼的な日本批判に迎合しているのである。

 イギリスについての本なのにイタリアのことを書いてしまったが、日本の出版、言論は、少なくとも他国と日本との文化比較に関しては、かくのごとく一面的なのだ。とある国のブームが起こるとそれに乗っかった本ばかり出て、そのブームに対する批判精神を持って書かれた本がごく小数しか出ないというのは、おかしくはないか。ある意見に対しては反対意見の本が同数とは言わぬまでも、ある程度は出版されるべきである。その上で双方を検討して、取り入れるべきところは取り入れるのが、言論の自由の保障された先進国というものだろう。
 
 本書の最終章のタイトルどおり、「好きならちゃんと見習うべき」なのだから。

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紙の本

学校で学ぶ歴史が嫌いだった人へ。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は学校の歴史が嫌いだった。
 だが、今考えれば、年号を覚えさせられ暗記できたものの量で評価されるのが嫌いだったのだ。本書に出会う前の私は主にSFやファンタジーを読んでいたのだが、それらの中でも「舞台は架空だがストーリーは大河ドラマ的」なものを特に選んでいたのだから。
 ともあれ「歴史は嫌い」と思い込んでいた私は当然歴史ものを読むことはほとんどなかった。したがって歴史の知識が増える筈がなく、あまたある日本の歴史物はたいてい読者の側にある程度の歴史の教養(常識)があることを前提にしているので、手に取る気にならないという悪循環に陥っていた。
 だが、ある日。
 本書の後に書かれた塩野氏の「レパントの海戦」が目にとまった。レパントの海戦の少し後の時代をを舞台にしたマンガを読んだ後だったのだ。三部作の三作目だったので、一作目から読んだ。面白かったが、この三冊の段階ではまだ「歴史」ではなく「物語」を愉しんでいた。ともあれ、同じ著者の別の作品を、と思って本書を手に取った。
 私の読書傾向は、それ以来一変した。
 本書に、「美術史以外ヴェネツィア史について書かれた書物が皆無に近い日本では、先例を参考にするということができないために、言葉の訳ひとつからして私がはじめなければならない」という記述がある。そのために塩野氏は大変に苦労されたのだろうと察するが、結果として本書は何の予備知識もなく読める歴史書となった。そのおかげで、私は本書を読み通すことができ、「自分が歴史を好きである」ことを「発見」できたのである。
 著者が自らたびたび言明しているが、塩野氏が「作家であって歴史家ではない」のも幸いした。歴史家の書いた歴史書では論拠となる資料をそのつど挙げないわけにはいけない。いきおい「注」が膨大な量となる。なかには、本の厚さのかなりの部分が「注」に割かれてしまっているものもある。いちいち巻末を参照するのは手間である。しかし、引用されている資料のタイトルなどに混じって、知らない用語の解説などが載っている場合もあるのでその手間を省くことはできない。
 そういう散文的な理由以上に、「文章が作家のものであって歴史家のものではない」ことが、本書の魅力をより高めている。これは塩野氏の文章が簡潔、平明であるという意味「も」もちろん含んでいるが、ここでの主眼はそういう意味ではない。歴史家が歴史書を書くときは、おそらく「扱っている史実あるいはそれについての論考に関心がある読者」を想定しているであろう。そういう読者は、内容がしっかりしていれば、文章力は文法的に誤りがない程度であれば文句は言わない。しかし作家は、そういう「はじめから興味を持って読み進めてくれる読者」だけを相手にして文章を書く贅沢は許されない。常に読者の興味を引き続ける文章力(努力と言い換えてもいい)が必要不可欠なのだ。
 その点、塩野氏は間違いなく作家であった。
 史実について述べるときは臨場感豊かに、ときには脱線して空想と遊ぶ。ヴェネツィアを危機が襲うたびに、読者ははらはらして手に汗を握ることになる。読み終わったときに、知的好奇心だけでなく純粋に娯楽としても「面白かった」と言わせうる歴史書など滅多にあるものではない。
 本書の後、ヴェネツィアに関する本が多数出版された。それらを読んで後に本書を読み返すと、塩野氏の視点がいささかヴェネツィアに好意的に過ぎる部分があるとわかる。だが。
 本書に出会うまで、私は長らく歴史を「暗記物」だと思っていた。
 しかし、ヴェネツィア旅行が趣味になってしまい、イタリア語をかじるようになった今では、「歴史」と「物語」が、イタリア語では同じ「ストーリア」という単語であることを、私は知っている。
 そして、塩野七生氏は「ストーリア」の書き手なのである。

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紙の本

環境を考えたらレジ袋を削減するべきなんだろうけど、折りたたみのできるマイバッグって、どうにもおしゃれじゃないのよね〜と思っている貴方、風呂敷をどうぞ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

マイバッグ派ならぬマイ風呂敷派である。いや、レジで風呂敷はくれないから、単に風呂敷派というべきか。

 環境を考えて……という高尚な理由ではない。自宅のゴミ箱をインテリア性重視で選んだら、スーパーでくれる一般的なサイズのレジ袋がセットしにくかったのである。
 私の住む地域ではレジ袋は回収対象の資源なのでゴミにはならないが、朝は忙しいので資源回収に出しに行く回数はなるべく減らしたい。

 最初はマイバッグ派だったのである。だが、ハンドバッグに入れて持ち歩ける折りたたみのバッグは、どこか不満が残る。容量は充分だけど無愛想な無地の実用本位のものだったり、綺麗なプリントのは容量があまりなかったり。

 そんな折に、何気なく入った和雑貨店で綺麗な柄の布が目に入った。風呂敷であった。使い方を書いたフリーペーパーも置いてある。ためしに買った。
そして、はまった。

 たたみ方や結び方次第で容量を大きくも小さくもできるし、フォーマルにもカジュアルにもいける。最近は洋服に合うモダン柄のも多いので、ジーンズにだって違和感なく持てる。(カバー写真を見よ!)

 凝り始めて、もっと他の使い方はないかと風呂敷のハウツー本を選んでみて、ピカイチだったのが本書である。

 完成写真が、実際に持ち歩いてる雰囲気で撮影されているのでどんな感じになるのか一目でわかるし、結び方のページがすぐ次にあるので、探す手間もない。(オールカラーの完成写真は本の始めの方にまとめて載せて、結び方は後ろの方の2色刷りという本は、探すのが面倒である。)
 基礎知識もひととおり押さえられているし、何より、結び方の図解説明がわかりやすいのがいい。

 ついでに。
 不器用で上手く結べなくて裏面が出ちゃうのよね〜という方は、リバーシブルのを選べば問題なし。裏が見えてるほうがオシャレである。
 買わずに試すだけ試してみたいという方には、スカーフをおすすめする。実は、私が何枚か持っている風呂敷のうち2番目に多用しているのは、元はスカーフである。シフォンのではだめだが、ポリエステルのスカーフだったら、レーヨンの風呂敷よりも扱いが楽なのである。

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紙の本

紙の本打開か破滅か興亡の此一戦

2008/03/16 12:32

水野広徳を読む ― 昭和5年に描かれた「東京大空襲」。ここまで先の見える人がいたのに、の思いが読むほどにつのる。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、海軍軍人から反戦平和主義評論家へと転じた水野広徳が、昭和7年に刊行した日米戦のシミュレーション・ノベルである。

まず、誤解を解きたい。
本書は発売後、間もなく発禁処分を受けた。
そして、後年の私たちが読んで衝撃的なのは、東京が受ける空襲の惨状が、実際に起こった東京大空襲と寸分違わなく思われることだ。
この二つから、発禁処分は東京大空襲を予言したためと短絡しがちであるが、そうではない。

この作品は昭和5年の水野自身の著作『海と空』を敷衍したもので、旧作の流用が大変に多く、東京空襲もそのひとつである。『海と空』は発禁になっていないし、私の蔵書は12版である。
また、本書は発禁処分後に不可とされた部分を伏字とし、『日米興亡の一戦』と改題して再刊行されたが、空襲部分に伏字はない。さらに、昭和14年の戦争文学全集には、抜粋が「空爆下の帝都」の題で収録されている。
従って、水野の「東京大空襲」が多くの人の目に触れる機会はなかったというのは、誤りである。

水野は描く。
「火の手は三十ヶ所、五十ヶ所に及んだ。避難民雑踏の為めに消防ポンプも走れない。」
「満天を焦がす猛炎、全都を包む烈火。物の焼ける音、人の叫ぶ声、建物の倒れる響。」
「ああ妻は何処だ、子供は何処だ。おー臭い臭い、人の焼ける臭ひ、妻と子供の焼ける臭ひだ。」
「濠の中には逃げ遅れ、火に追はれて飛び込んだ何千と数ふる人間が、下なるは泥に埋まり、上なるは焼け爛れて、老若の区別も、男女の差別も判らず、丸焼きのロースとなって薪の様に積み重なって居る。」

猪瀬直樹氏は著書『黒船の世紀』で、実際の東京大空襲の被災者の手記を引用した上で「さきほどの手記に重ねて読むと、無力感がひしひしと迫ってくる。こうなるとわかっていたのなら、なぜ避けられなかったのか、と」と述べている。

ただ、水野にとってこれは予言というほどのものではなかったものと思われる。
第一次大戦の最中にロンドンで空襲を体験しており、まだ軍国主義者であったころ既に「日本の如き繊弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾に三軒五軒粉となりて飛散せん。加ふるに我が国には難を避くべき地下室なく、地下線なく、従うて人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰燼に帰するやも図られず。」(大正6年『バタの臭』)と書いている。
水野には、次の戦争では必然であったのである。


本書での水野の凄みは、万歳万歳の国内世論に反して、満州国建国を当事者中国のみならず国際社会すべてを敵に回し、特にアメリカとの戦争の原因となるものであることを喝破したことである。
本書で描かれた国際連盟における日本と中国の論戦では、日本の演説に賛同する国はひとつもないが、中国のそれには割れんばかりの拍手が起こる。
発禁処分はここによる。『日米興亡の一戦』のこのあたりは「×××」の連続で、まともな活字はいくらもない。

また、軍事的には、大艦巨砲が時代遅れであることをはっきりと描いている。
『海と空』や本書で描かれる海戦には、戦艦や巡洋艦による主砲の撃ち合いはなく、戦闘をするのは飛行機(『海と空』では飛行船と潜水艦も)である。日本の艦隊はサンフランシスコ奇襲に成功するものの、反撃にあって航空母艦から母艦機能を奪われてしまい、空母一隻を含むアメリカの追撃艦隊からひたすら逃げることになる。
その危機を脱するのは、一機の飛行機が行ききり攻撃すなわち「特攻」に赴いて、敵の空母の破壊に成功するからだ。
『海と空』では、登場人物の水兵に「軍艦なんて、もう時代の落伍者だよ。」と明言させている。付記すれば、戦艦大和の起工は昭和12年である。

その他、日本にはアメリカとの戦争が軍事力ではなく総合力、特に資源不足やアメリカ依存の産業構造によって不可能なことを大正13年の論文『新国防方針の解剖』で論証済の水野であるが、それを庶民の生活に即して描いて見せるなど、ここまで先の見える人がいたのに、の思いが読むほどにつのって来る。

ただ残念ながら、本書は小説としてはあまり出来が良くない。
シーンごとに見れば描写は的確で文体のリズムもいい。だが、冒頭で時局評論や書評にページが割かれすぎてなかなか物語が動き出さない。その後も一貫した主人公がおらず人間ドラマとしては細切れで、しかも、後半の一部を除けばほとんどの登場人物に名前さえ与えられていない。
士官AやB大尉、松太、竹次、梅三という記号では、感情移入のしようがないのだ。
実戦の戦記である『此一戦』ではそうした手法も緩急をつける効果があったが、いかに実現性が高かろうとも執筆時点で架空である物語を描くのに、この手法は不適であった。

本書の価値は水野の分析力にあるのであって小説としての良し悪しにあるのでないことは重々承知である。
が、小説としての出来が今ひとつであるために、当時の読者の、理性はともかく感性には訴えそこなったのではないかと思う。
あらゆる意味で、惜しい、と感じさせる著作である。

水野特集ページのある拙サイトはこちら
参照:明元社版『此一戦 』

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紙の本

紙の本かなり気がかりな日本語

2004/04/18 10:17

言葉に対する鈍感、無神経。そしてそれをもたらしたもの。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 マラソンの有森裕子選手は、「自分で自分をほめたい」と言った。
 これが巷間に流布するうちに「自分で自分をほめてあげたい」と変形し、自分に対し「あげたい」とはどういう日本語だ、という論争になったことがある。有森選手は心外であったに違いない。

 この言葉のすり替えが起こったのは、「ほめてあげたい」を自然と思い口にする人が多数いたからであろう。しかし、この言い方は、たとえ対象が自分以外であったとしても、間違いである。

 「ほめてあげる」は、「ほめてやる」の「やる」だけを切り離して「あげる」と謙譲表現することにより丁寧にしたつもりで使われているのだが、そもそも「ほめる」とは目上が目下に対してする行為であり、目下は目上を賞賛することは出来ても、ほめることは出来ない。
 目下に向けてしか使えない言葉は、その言葉を選択した時点で主語が目的語より目上であると示しているので、主語は目的語に対し謙譲しようがないのである。

 言葉の選択に鈍感になり、それを補うために誤ったかたちで丁寧になっているのだ。

 誤った丁寧語が広まる過程において、マスコミの責任は大きい。
 視聴者(聴取者、読者)からの苦情を極力減らそうと、過剰に丁寧にかつ婉曲にした結果、敬語表現が混乱し、それを検証することも出来なくなっている。
 それを聴いて育った世代が、まともな敬語を使えなくても、それは彼らの責任ではないだろう。

 「大人たちは、(中略)まともな日本語なるものを(中略)きちんと教えなかったこと、(中略)教えられるだけのまともな日本語を実は自分達が身につけていないことを反省した方がよい。」
 本書の序文にこうあるが、「まともな日本語を教えなかった」だけならまだしも、間違った日本語を(というより間違ったコミュニケーションの仕方を)強制する事例さえ見られる。

 本書は、コンビニの「やまびこ挨拶」(店のあちこちから「いらっしゃいませえ〜」「ありがとうございましたあ〜」と叫ぶ、あれ)は、客に向けてのものではなく、店員の士気を鼓舞するためのものだと喝破している。

 「やまびこ挨拶」は私も不快と感じるが、最近では諦めている。
 しかし、私のよくいくガソリンスタンドは、挨拶だけでなく、客に問いかけ返答を期待する言葉までが「やまびこ挨拶」化してしまって、これにはどうにも慣れられない。
 目の前にいる相手に「レギュラーですかハイオクでしょうか満タンでよろしいでしょうかあっ」と、大声で一息に叫ばれても、聞き取れないし、問いかけられている気がしないのだ。
 おまけに、新しく入ったアルバイトが穏やかな口調を用いたときなど、客である私が「お、この人はまともにしゃべってる」と思っているのに、先輩だか正社員だかが「そうじゃなくて」と、「やまびこ挨拶」化した言い方をわざわざ教え込んでいるのである。
 「そうじゃなくて」はお前の方だろうが、と言いたくなったものだ。

 本書の「かなり気がかりな日本語」というタイトルは、内容を的確には表していない。
 気がかりの対象は、他者とまともにかかわろうとしなくなってきている社会であり、その結果としての、言葉に対する無神経であるからだ。

 言葉は最大のコミュニケーションツールである。
 電話機でたとえると、「言葉の乱れ」は電話機の故障である。壊れていては通話することが出来ないのと同様、言葉が間違っていては、伝えたいことが伝わらない。
 電話機は壊れていないが、通話しようとしないのが「やまびこ挨拶」であり、受話器を取っても送話部分を耳に受話部分を口に当てているのが上記のガソリンスタンドであろう。

 壊れた電話機は修理し、ベルが鳴ったら受信し、あるいは自分から発信して、正しく扱えば通話ができる。
 「電話機(言葉)」が活用される社会であって欲しいものだ。

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紙の本

「イタリア史」の見事な成功例。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「イタリア史は可能か」、という問いがある。
 西ローマ帝国崩壊後、イタリア半島およびシチリア・サルデーニャ島が統一されるのは、19世紀のイタリア王国建国まで待たねばならない。その間「イタリア」は分裂し、ある地域は都市国家として独自の道を行き、ある地域は「イタリアの外」の国家に征服されその支配の下に忍従する。「イタリア」にある歴史はそれぞれの地域史で、「イタリア史」ではない、とする意見は一見もっともである。

 「イタリア史」と題した書物でのこの分裂期間の処理は、二つのパターンがある。
 ひとつは、大まかな傾向を述べて、それに代表例を付け加える、というもの。これは無難な方法であるが、歴史の表面をなぞって終わることになる。
 もうひとつは、有力であった5つの国(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ナポリ−シチリア)を交互に述べてゆく、というもの。前者よりは掘り下げが可能であるが、内容が散漫になりやすい。第一その5つの地域も長期にわたって一貫した国体を維持しえたのはローマ法王庁とヴェネツィア共和国だけである。

 しかし、この期間のみを取り上げながら、見事に「イタリア史」となっているのが本書である。
 目次をさらっと見ただけでは単なる人物列伝のようである。しかしその人選は、時代を積極的に動かしていった人物ばかりでない。10人のうち支配者層に属すのは半数のみ。残り5人は、(著名人ではあり周辺への影響力のあるものもあるが)あくまで個人レベルで苦闘していたにすぎない。
 ではこの人選の基準は何かといえば、それはそれぞれの時代の精神を、少なくともその一方の極を体現している、ということであろう。
 時代に翻弄される人物を生き生きと描き出すことによって、その時代への関心を高め、主題となっている人物には直接には関係のない国際情勢も興味深く読ませてしまう。そうして語られたイタリア全体にかかわる問題への知識は、次の人物を語る際の下敷きとなり、読者は10人の生涯をたどるうちに、イタリア全域における時代の流れを把握していることとなる。

 これは、従来どおり歴史を国(地域)単位で著述していては困難な手法である。人は、国家だの政体だのに同情はできても感情移入まではできない。
 この手法は、「物語」と「歴史」の分離が現代の思潮に及ぼす影響を危惧し、国家という枠組みへの依存を憂慮する著者の、試行錯誤のひとつであるとあとがきに明示されている。
 私は、見事な成功例であると思う。著者の試みが成功しているということと、さらに、読み物として面白いという2点において。

 余談だが、本書の成功に気をよくしたのか、この後に出版された中公新書の各国史がみな「物語 …の歴史」というタイトルになっているのはいかがなものか。著者が本書で試みた「物語と歴史の再融合」、および、「国家という枠組みからの離脱」という趣旨が、忘れられてしまうように思う。
 

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紙の本

紙の本秋山好古

2009/03/09 04:22

水野広徳を読む ― 祝、復刻! 平和主義の元軍人による軍人の伝記。本書がなかったら、あるいは『坂の上の雲』は別物となっていたかもしれない。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本年(2009年)秋より3年かけて、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』がNHKにてドラマ化され放送される。
 
『坂の上の雲』の主人公は俳人正岡子規、海軍の名参謀秋山真之、そしてもう一人、真之の兄にして陸軍騎兵の父、秋山好古。
司馬氏が好古の人物像を描くに当たって、もっとも活用したと思われるのが本書だ。
本書では秋山好古の誕生から臨終までが、数多くの資料や、家族や交流のあった人々の証言を用いて活写されている。
 
好古の業績で最大のものは、無きに等しかった日本陸軍騎兵を育て上げ、日露戦争の陸戦最大の危機、黒溝台会戦で左翼を守りきった、という事にある。
世界最強といわれたコサック騎兵を劣弱な日本騎兵がしのぎ得たのは、騎兵を馬から下ろして機関砲を持たせたからだ。
 
これはとっさの判断などではなく、日露関係の雲行きが怪しくなっていくのを見据えて、どうすれば対抗できるかを開戦前から考え抜いて準備した好古の深慮による。
本書には、好古が日露戦争を前に機関砲の導入を訴えた『本邦騎兵に附属すべき騎砲(速射機関砲)に関する意見』が収録されている。 
 
また、本書では多く語られないが、永沼挺進隊によるロシア軍後方の攪乱でロシアに後衛へ多くの兵を割かせ数で劣る日本軍にその不利を減じさせたことや、『敵中横断三百里』で知られる建川挺進斥候隊の得てきた情報など、好古の育てた騎兵たちの活躍がなければ日露戦争の趨勢はどうなっていたかわからない。
 
だが、本書を初めて読んだときはむしろ意外であった。
戦前に刊行された軍人を顕彰するための本であり、軍功も充分に述べられているのに、軍国主義の臭いがほとんどしない。
 
好古が戦勝後凱旋帰国する際に部下たちへ送ったのは、軍人としての精進を説いた訓示ではなく、人としてまっとうに生きよとの歌であった。
 
弟の真之は兄以上の変人で、しかも敵を作りやすい性格なのだが、彼が規律にうるさい軍人社会に一応は適応し得たのは、兄の指導のおかげだろう。真之は、晩年に至るまで「自分がこれまでになったのは、陸軍の兄のおかげだ」と口にしていた。
 
また、現役を退いた後、故郷の私立中学校(北与中学校、現在の松山北高校)の校長を六年強も勤めている。
その間は、校長は軍人ではないと背広で通し、軍服姿を披露したのは紀元節(今日の建国記念日)の式典に大将姿を見たいと周囲に懇願された時、ただ一度であった。
 
本書によって浮かび上がってくるのは、赫々たる武勲を立てた軍人の偉人像というよりは、むしろ、厳しさと無頓着さを合わせ持ち、人間味豊かな好古の大きな人柄である。
 
いささか不思議に思っていたのだが、松下芳男の手になる『水野広徳の伝記]に、本書は「先生(水野)の立案指導のもとに、先生と筆者とが協同編著したものである。」とあり、また、水野の書簡(『水野広徳著作集』第7巻に収録)にそれを裏付ける記述を見つけて、納得した。
 
水野広徳は海軍軍人として大佐にまでのぼりながら平和主義に思想転換し、軍への残留を促す声を振り切って評論家に転じた人物である。また、松下は中尉の時に社会主義思想に染まったとして陸軍を追い出され、のち水野の平和思想の感化を受けた。
元軍人の平和主義評論家という特異な編纂者二人は、軍事的功績を正当に評価する眼を持つと同時に、昭和初期を染めた軍国主義から自由であった。
 
しかも水野はその文筆活動を公式戦史編纂から始めており、資料を幅広く集めて全体像を把握すると同時に細部まで検証するという作業に慣れている。
本書の前には好古の弟真之の伝記の立案監修をつとめたり、東伏見宮や故郷の代議士の伝記を書いたりもしていて、伝記編纂の経験もある。
 
好古は、伝記作家に最良の人物を得たといって良いだろう。
 
もしこれが別人によって書かれた軍国主義のふんぷんとしたものであったら、あるいは思想的な臭気はなかったとしても伝記として拙劣なものであったら、好古は『坂の上の雲』の主人公にはなりえず、メインキャラクターの一人にとどまったかもしれない。
実際、本書は最初別人によって書き始められ、その出来の悪さに水野が引き受けたという経緯がある。水野自身は「下らぬ責任感」と書いているが、本書や『坂の上の雲』の読者にとっては、まことにありがたい責任感であった。
 
なお、本書に水野と松下の名が載らなかったのは、二人とも反戦思想による発禁処分の経験者であり監視を受けていたためではないかと思われる。
 
今日、好古の伝記で入手の容易なものは数種あるが、そのほとんどは、本書の内容を薄めて書き改めたものにすぎない。『坂の上の雲』で活写された好古をもっと知りたくて読むには、はなはだ物足りないものである。
『坂雲』ファンであればどうしても読みたくなるのが本書であるが、戦前に限定刊行されて以来これまで一度も復刻されておらず、極めて入手困難であった。
 
しかし、朗報である。
本年4月、弟真之の伝記『秋山眞之』(前述の、水野が立案監修したもの。真之についての評論などで、代表者の名をとって桜井真清著とされているものである)とともに、復刻されることとなった。既にパンフレットの発送が始まっている。
(中村彰彦氏の推薦文に拙文が引用されているのを見て驚いた。が、これは私が素人研究者として優秀だからというより、単に秋山兄弟と水野とを並行して調べるカワリモノが少ないという事情によるものだろう。)
 
版元からの直販のみでリアル書店にもオンライン書店にも卸さないとのことであり、bk-1さんに申し訳ないので、こちらへの直接のリンクは遠慮する。入手方法をご希望の方は、拙サイトに入手法を載せてあるのでそちらをご参照いただきたい。
 
なお、部数限定なのでお早めの予約をおすすめする。

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紙の本

紙の本此一戦

2008/02/27 07:19

水野広徳を読む ― 今日でも通用する日本海海戦の戦記。そして、反戦軍人の「軍国主義者」時代。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は自らも戦闘に参加し、後に海軍の公式戦史『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事した海軍軍人が、日露戦争の帰趨を最終的に決した、日本海海戦の経緯を一般に広く知らしめる目的で書いたノンフィクション・ノベルである。
 
現役軍人が僅か6年後に書いた本であるから、機密やら規則やらに縛られて書きにくいことや書けなかったことが多いのではないかと思うが、改めて読んでみると情報量が多いのに気づく。
たとえば、1991年の戸高一成氏の論文「日本海海戦に丁字戦法はなかった」(『日本海海戦かく勝てり』に再録)でクローズアップされた、実行されなかった奇襲作戦があったことがちゃんとわかる。
また、1999年の野村實氏は著書『日本海海戦の真実』で、野村氏は戦前の資料で密封命令について触れているのは、「筆者が調査した限りでは水野広徳の『此一戦』のみである。」と書いている。
(ただし、1907年刊の塚本義胤『朝日艦より見たる日本海海戦』に、「(略)一の重要な文書が来た。長官幕僚から艦長宛のもので、厳秘の朱印が捺され、信号又は無線電信にて開封すべしと表記してある」との記述はある。)
 
無論、書けなかったことはある。
日本海海戦を語るとき、抜きに出来ないのが丁字戦法であるが、本書では敵前大回頭は東郷平八郎のとっさの判断であるかのように描かれている。
3年後に刊行の著者の『戦影』にははっきりと丁字戦法の文字があることから、練り上げられた戦策があったことを当初は隠す雰囲気があったものと思われる。
 
また、昭和になってもなお極秘であり続けた連繋水雷(機雷を数珠つなぎにしたもの)についても、まったく触れていない。ために、水野の属する第10艇隊は、本書を読んでも魚雷数本を放っただけで、著者本人はこんなものかという気がしてしまう。実は、魚雷発射の後に敵艦の前面を横切って連繋水雷を投下しているのである。(海軍軍令部『極秘 明治三十七八年海戦史』備考文書第87号)。
水野にしてみれば、自分達の活躍を抜きにしても、同郷の先輩秋山真之の発案になる新兵器についてまったく書けないというのは歯がゆかったであろう。ちなみに、秋山と水野は血縁こそないものの遠い親戚で、また、秋山を研究する際の必須資料である昭和8年刊の伝記『秋山眞之』は水野が立案監修したものである。
 
しかし、書けなかったことを補足しさえすれば、本書の記述は今日の目で見ても誤りがほとんどない。
実戦に臨んだ経験に加え、戦後は公式戦史の編纂委員として厖大な資料に接し、かつ現地調査に赴いたり、各局面の当事者に問い合わせたりしていた著者であるから、意図して書かなかったことを除けば、事実との相違の発生する余地がないのである。
 
日本海海戦についての本は数え切れないほど出ているが、戸高一成氏の新説に混乱したり、真実とうたいながら間違いだらけの本に惑わされたりする前に、基本的な知識を得る手段として、本書を第一に推薦する。
明治時代の言い回しに対する慣れを若干必要とはするものの、文体も躍動感に優れており、読み物としても極めて面白い。
明治44年のこの版は絶版であるが、2004年に復刊されたものがあり、こちらは現代人に読みやすいように配慮して編集されている。
 
一方、水野の思想面からも興味深い。
 
水野は後に第一次世界大戦の戦中戦後にヨーロッパを訪れて、今後の戦争は軍人だけのものではなく、戦勝国においてすら国民すべてを巻き込む悲惨なものであり、まして敗戦国の惨状はそれ以上であるとの認識を得て思想転換を起こし、平和主義評論家として活動することになる。
 
その水野は本書を軍国主義者が書いたものとして一時期絶版にした(のちに復刊を認めている)。
 
確かに、軍国主義者の発想だと思わざるをえない部分はある。
「軍人戦いに臨む、営を出づるの時、国家は既にこれに対して死を要求しているのである。故に敵を破るためには、たとい部下を全滅せしむるも構はないのである。」という一文。
また「名誉の降伏」という言葉に反発し、捕虜となる前に全力を尽くして戦ったとしても、つかまるまでの行為が捕虜となった恥辱を償うに足るだけとして「どちらかといえば、むしろ戦死した方が、より多く名誉である。」というのもそうであろう。
 
しかし、水野の「軍国主義」は、軍隊による領土拡大が日本の発展をもたらすという、一般的な軍国主義とは意味合いを異にする。
「元来今日の国際公法なるものは、単に紙上の空文に過ぎずして、たといこれを犯し、これを破るも、なんら世界的制裁を加ふるの機関がない。」の文章に続いて、軍備の貧しい国は軍事大国の前に従わざるを得ない事例を示している。
水野にとっての「軍国主義」は、弱者であればこそ軍備を蓄えなければならないという自衛の発想なのである。
 
また、水野は戦闘中こそ闘志満々だが、その結果生じる事柄を厭う気持ちが強い。
味方の死傷者を悼むのは無論だが、敵に対しても壊れかけた救命ボートで荒れた海に漂流するのを見て、「事情許すならば、此の勇敢なる敵をば、救助してやりたきが吾人の情である」と書き、さらに、部下の命を救うため、人事不省に陥った上官を救うため、処罰を辞せず降伏する司令官や部下を人道上からは賞賛すべきとしながら、軍律上それは許されない、「ああ兵は凶器なるかな! を叫ばざるをえない。」と書く。
 
敗戦を恐れる気持ちと、戦争自体を厭う気持ちとの両方が水野には初めから存在し、前者が強かったのが前半生、後者が強くなったのが後半生なのである。
このことは、思想転換後の評論に、より具体的な論理として明確に書かれている。
 
処女作は著者のすべてを内包するといわれる。
反戦軍人水野広徳を知る上で、極めて興味深い著作である。
 
付記。
本書が無許可出版であったため軍から処罰を受けたと書かれたものが少なからず存在するが、それは次作『次の一戦』の時の話である。
本書は事前に許可を受けているし、また、東郷平八郎、片岡七郎、上村彦之丞から揮毫、加藤友三郎、伊地知彦次郎、小笠原長生からは序文を寄せられているので、処罰の対象となることはありえないのである。

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紙の本

紙の本此一戦

2004/07/08 03:26

娯楽作品として読んで面白く、戦争と平和について考えるに示唆に富む。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 表題の「此一戦」とは、かの有名な信号文、「皇国の興廃此一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の、「此一戦」である。さらに具体的にいうなら、日露戦争の帰趨を最終的に決した、日本海海戦を指す。
 本書は、日本海海戦に水雷艇長として従軍した海軍軍人がその6年後に発表し、当時のベストセラーとなった戦記小説を、日露戦争開戦100年を記念して復刊したものだ。

 まずは、復刊に当たっての編集部の方針に賛意を表したい。

 ひとつは、現代人が容易に読めるようにと配慮している、ということ。
 明治時代の作品であるから原文はすべて旧字であった筈だが、それをほぼすべて新字に置き換え、更に、ルビをふんだんに振っている。また、現代では使われなくなった語句にはカッコ書きで解説を加えている。
 資料として読もうという研究者には余計なことかもしれないが、本書はそもそも一般に広く読まれる目的で書かれたものである。この配慮は妥当なものだと思う。

 もうひとつ、語句の解説は豊富だが、内容の解説はほとんどしていない点、これも良いと思う。
 内容を解説しようとすれば、現代的見地からの評価を含まずには済まない。しかし、その評価は読者それぞれがするべきものだ。
 当時の人間には常識であったが現代人にはそうではない事柄を述べてある部分もあろうし、その部分だけでも註を入れるべきではないかという意見もあろうが、その線引きをどこでするかというのは難しい。

 次に、読み物としての本書について。

 一言で評すると、面白い。
 実のところ読む前は、本書が当時ベストセラーとなったのは、今より遥かに情報の少なかった時代、歴史的大勝利の経緯を知りたい人が本書以外にその興味を満たす手段を持たなかったからだろうと思っていた。
 しかし、いかにも明治の美文ではあるが、躍動感ある文章は読者の興味を惹きつづける力を有している。
 ことに著者自身がその一員であった水雷艇の闘いを語るくだりとなると、描写のひとつひとつがリアリティにあふれていて、ページを繰る手が自然と早くなっていく。

 三つ目。本書ならではの記述。

 私は日露戦争についての勉強を始めて一ヶ月強にしかならない身なので、この点を評価するには役者不足ではあるが。
 日本海海戦についての本と言うと、まず大抵は「東郷ターン」と呼ばれる敵前大回頭に始まる主力艦隊同士の砲撃戦に多くのページが費やされており、その夜の駆逐艦や水雷艇の活躍はごく簡単に済ませて翌日の敵将の降伏に記述が移ってしまう。
 しかし、小型艦艇の夜襲によって沈んだロシアの主力艦は一隻二隻ではない。
 その経緯を書いた本がないものかと探していた所であったので、本書は大変ありがたかった。

 最後に、この著作に対しての、現代人である私の見解であるが。

 公平である、と思う。
 最後の2章で勝因と今後どうあるべきかについての論述があるが、世界の海戦史上に類例のない一方的大勝利を遂げた側の著作であるのに、驕り高ぶるところがない。
 また、実際の戦闘を描いた部分では、活劇として描写する一方で、戦争が惨事であることを強調してもいる。

 この著者はのちに平和主義者に転じて退役することになるが、その萌芽は本書にも見出しうる。
 軍人でありながら、それも敗北ではなく勝利を知っていながら平和を志向することになった人の著作は、現代の日本人にも示唆するところは多いのではなかろうか。

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紙の本

おねがい、長生きしてね。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 すっかりはまってしまった。
 明治時代、そして、明治時代の国際社会における日本の位置というものをここまで描き出したマンガというのは珍しいんではないだろうか。

 単なる戦争マンガであれば、戦争に至るまでの外交の駆け引きの外側だけ書けば事足りる。しかし、この作品では、深刻な国家財政や公害問題など、明治の日本が抱えていたさまざまな事柄が取り上げられており、特に、主人公の親友が正岡子規であったということもあって文学についての記述は詳細である。

 ストーリーの主軸は日本海海戦で作戦参謀を務めた秋山真之の伝記だが、時代の動きと密接に生きた真之の生涯を描くには、時代を描かねばならないということであろう。

 特記すべきは、主人公と直接かかわりのない事柄に関しても、ト書きで済ませる事なくちゃんとキャラクターを配していて、生き生きとした物語として成立させていることだ。
 だから、主人公がまだ下級士官で目立った活躍をしていないという最近の数巻では主人公の登場ページがかなり少ないが、読んでいて飽きると言うことがない。

 無論、一作品だけで明治を分かった気になってしまうのは危険だ。
 本作みずから、各巻のはじめに「創作部分もあります。ご注意下さい。」と断り書きをつけている。
 しかし、これだけ詳細に書かれると、どこまでが史実でどこが創作なのかを見極めるのは大変な作業だ。著者も大変だが、読者も大変である。

 とりあえず『坂の上の雲』(司馬遼太郎著・文春文庫全8巻)を読み(これも絶品)、そのほか関連書を10冊あまり買い込んで読みふけっている最中である。

 ただ。
 読みごたえがあるのは大変に嬉しいのだが、『日露戦争物語』なのに、12巻でまだ日清戦争のなかば。日清戦争から日露戦争の間だって10年あるのだから、完結するのはいったい何十巻、何年後になるのだろう。ちょっと気が遠くなる。
 著者の健康と長命を切に願うものである。

 おねがい、長生きしてね。

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紙の本

紙の本自転車ツーキニスト

2003/12/21 03:55

二倍おいしい読書。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 しばらく前から自転車通勤をしている。
 18歳から30歳までずっと同じ体重だったのに、30歳になってから毎年1kgずつ増え始め、数年前生活環境が変化してからは、一気にドドーン!と増えてしまったのだ。

 美容面を横においても、急激に体重が増えると何が困るって、手持ちの服が入らなくなること。増え方が半端でなかったので、靴まできつくなった。他にも、立っているのがしんどい、正座が5分ともたなくなるなど(前は、2時間でも3時間でも平気だった)。
 いよいよ危機感を抱いたのは2度目に大台を超えた時で(つまり20kg増えた時)、こりゃやばい、糖尿病になりかねない(親が糖尿病なので、素質は充分にある)、何とかせねばと真剣に考えた。
 ところが。ケチな私はフィットネスクラブの入会金を払う気になれず、しかも不精なため通い続けられる自信もなかった。

 で、思いついたのが自転車である。実は高校時代に部活で、今の勤務先の近くに自転車で通っていたのだ。あの頃と同じスピードは無理にしても、バスと電車を乗り継ぎさらに徒歩という元の通勤手段よりは早いだろうと考えた。自転車代しかお金がかからず、しかも余計な時間を使わないとなれば、いかに3日坊主の私でも続くだろう。
 結果はほぼ予測どおりで、季節が春夏秋と過ぎた現時点で、まだ続いている。体重も5kg減った。減った量が少ないのは、毎日自転車を使っているわけではないため。無理に毎日やるぞと力むと、早々に挫折すると考えた。うーん、私は自分を相当に根性無しと思っているな。
 
 そんな折に、先達の存在を知った。いや、知るだけは前から知っていたのだが、本が出ているのを知らなかった。
 で、読んでみた。

 読む前は自転車通勤についてのハウツー物だと思っていたのだが、そういう章もあるのだが、それよりは自転車をキーワードに、世の中のさまざまなことを考えるエッセイ集の趣が強い。
 自転車での通勤についての文章では、うんうん、そうだよなあと共感した。
 テレビ屋さんという著者ならではの体験には、笑い、怒り、考えさせられた。
 中心となるのは無論、日本の自転車を取り巻く環境である。車道と歩道、どちらを走ればいいのか? スーパーやホームセンターの、あの異様に安い自転車の裏側に潜む問題点は? 自転車泥棒は?
 それに、著者が仕事で出会った国内外の人々の、自転車への思い。
 
 さらに、この本の特色として。
 本書は単行本で出版されていた「自転車通勤でいこう」を大幅加筆修正したものなのだが、その加筆分に書体の違う活字が使われている。そのため自転車通勤初心者の素朴な、そしてちょっぴり感傷的な文章と、それから数年を経た、当時の素朴さに苦笑し訂正し新たな考察を加え、でもやっぱり少しばかり感傷的な文章を交互に読むという、珍しい経験ができる。
 単行本時の著者に近い初心者の私は、元の文章に共感し、加筆分に知識をもらうという二倍おいしい読書となった。

 ただ、同じ初心者と言っても、ベースにある体験が違った。私は、子供用自転車を除けばママチャリしか乗った事がなかった。本格的な自転車に乗って東京から宮崎まで旅したことのある著者とは、道具としての自転車に対する姿勢が違った。
 だから自転車屋のおじさんに薦められるままに、シティサイクルを買ってしまった。シティサイクルとしては高価な部類に属するのでそれなりに軽いし、太りなまった体でも、運動部だった高校生の頃のママチャリより速く走れる。
 でも、スポーツタイプはそんなに軽くて速いのか。ああ、買う前に読むんだった(あ、本書はまだ出てなかったか)。

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紙の本

紙の本シエナ 夢見るゴシック都市

2003/09/07 01:36

イタリア麗しの迷宮都市、立体版

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なぜ立体版かというと、イタリアの麗しの迷宮都市の筆頭はもちろんヴェネツィアで、ただしあちらは地勢上、平面の迷宮だからである。
 ヴェネツィアを別格にすればシエナは私の最も好きなイタリアの町で、なのにシエナに関する日本語の著作は少ないので(ヴェネツィアは本棚ひとつ埋められそうなぐらい出版されている)私にとって貴重な一冊だ。
 シエナに関する著作といえば石鍋真澄氏の名著「聖母の都市シエナ」(吉川弘文館)がある。が、そちらは内容が城壁内にほぼ限定されている上に美術の解説にかなりページが割かれていて(著者が美術史家なのだから当然だ)、周辺の農村地帯や鉱業資源についての記述は乏しい。ひるがえってこちらは、周辺地帯が都市の発展に果たした役割や、市民の気風がどのように形成されていったかなど、より全体的な内容になっている。「聖母の」が、これからシエナを旅行しようという人にとって旅をより興味深いものにするために役立つなら、こちらは、中世イタリアの都市国家というものに対する歴史的興味を日本にいながらに満足させるために役立つと言えよう。
 とはいえ本書は旅行者への配慮も忘れていない。最終章ではシエナで味わうべき味覚の記述があるし、巻末には観光情報の一覧もある。この一覧は、下手なガイドブックより役に立つものだ。
 ただ、本書の初版を購入する際には注意が必要だ。表紙を開いて最初のページが町全体のパノラマ写真なのだが、当初これが裏焼きだったのである。刊行後すぐに編集部に指摘したところ、まもなく(本当にいくらも待たずに)正しく印刷された本が出版社より送られてきた。対応のすばやさに版元の良心をみて感心した。ただし、書店の店頭にはまだ作り直す前のものが残っているので(これは流通上仕方のないこと)、もし白い大聖堂が中心より右側になっていたら、頭の中で左右裏返してご覧になることをお勧めする。

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