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アルテミスさんのレビュー一覧

投稿者:アルテミス

66 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

これは書評ではない。告発である。

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私が日露戦争における海戦に関心を持つようになったのは、2004年6月。
ちょうど日露戦争開戦100周年ということで関連本が山のように刊行されていたが、その中で菊田氏の肩書きは目を引いた。
防衛大学校卒。元・防衛研究所戦史部主任研究官。現(刊行当時)・防衛研究所調査員。
こういう著者であれば、当然その内容は信用できると誰でも思うだろう。私も思った。
推測というよりは憶測まで用いて秋山真之を貶める文章の連続に正直なところ嫌悪感さえ覚えたが、それでも、史料に基づく事実として書いている部分だけは、事実なのだろうと思っていたのである。
 
しかし、こちらに知識がついてから読み返してみれば、著者は前著『坂の上の雲の真実』で『黒船の世紀』を参考文献に挙げながら水野広徳の『次の一戦』を佐藤鉄太郎の著作として一段落を書くという信じられない見当違いを犯しており、また、有名な『三笠艦橋の図』の絵は焼失後に描きなおされたものだが、オリジナルに秋山は描かれていない、などという間違いも書いていた。
(私の所蔵する明治44年刊行の水野広徳の『此一戦』にはオリジナルの写真が載っている。秋山は現存するものとまったく同じポーズで描かれている。)
 
それでも、前著での誤りは枝葉の部分であり、根幹部分だけはちゃんと史料に基づいて書いているのだろうと思っていた。
 
著者は本書で、「ロジェストウェンスキー提督の弁明」を根拠に、日本の主力艦隊とバルチック艦隊が会敵したとき、バルチック艦隊は単縦陣であったと書いている。
 
「弁明」の公表の日付がないのだが、明治39年3月の論評に対する反論であるから、まあ同年の4月頃と見ていいだろう。すなわち、日本海海戦の十ヶ月後頃である。
 
ところが、ロシア海軍の公式戦史『千九百四、五年露日海戦史』に掲載のロ提督の一年後の陳述には、「アリヨールハ(略)オスラビアノ右舷外ニアリタリトノ事実ハ今日ニ至リテ殆疑イナキモノノ」とあるのである。
ロ提督はなおも、それはアリョールまたは三番艦の過失と言い張っているが、ロシア海軍軍令部はロ提督以外の証言の一致をもって「ロ中将ノ企画シタル陣形変更ガ戦闘開始ノ瞬間ニ於テハ未完了セサリシニ因ルモノナリ」と結論づけている。
 
著者は戦史研究室にいたのであるから、『千九百四、五年露日海戦史』は当然読めたし、読んだはずである。2作目はロシア側の記述が中心となるのだから。しかし、巻末の参考文献一覧に、同書の書名は無い。自説の著述に不都合だからわざと載せなかったのだとすれば、あまりにも陋劣である。(ちなみに、次作『東郷平八郎』の巻末には載っている。)
 
また著者は「捕虜の証言を勘案した第四戦隊司令官瓜生外吉中将から、会敵時ロシア艦隊は単縦陣形だったと報告されたが、なぜか秋山参謀はこれを黙殺した。」とも書いているが、私は上記やアリョール乗組の造船技師の手記『捕われた鷲』などによりバルチック艦隊は単縦陣ではなかったと結論付け、瓜生提督の所からはそう見えただけだろうと思っていた。
 
昨年、『極秘 明治三十七八年海戦史』がネットで公開されていると知って以来、時間を見つけてはそれを閲覧しているのだが、その備考文書として各戦隊、各艦の戦闘詳報が収録されていた。
第一戦隊の六艦の敵の陣形に関する記述は以下のとおりである。
 
<旗艦三笠>「……先頭ノ二列主力ニシテ其ノ右翼列ハ「ボロジノ」型四隻ヲ以テ成リ左翼列ハ「オスラービヤ」、「シソイ・ウエリーキー」……」
<ニ番艦敷島>「……(二時)十分(略)敵ノ左翼列嚮導艦……同二十分頃敵ノ左右両列共ニ少シク右転シ従テ其ノ左翼列大ニ後レ不規則ナル単縦陣ヲ形成シ……」
<三番艦富士>「左ノ如シ」と右翼列がやや前に出た二列縦陣の図を示したあと、2時19分に「此ノ時「オスラービヤ」隊ハ「ボロジノ」型隊の後尾ニ入リタルモノノ如シ」
<四番艦朝日>「敵ノ陣形ハ二列縦陣ニテ……」
<五番艦春日>「敵ハ二列縦陣ニシテ……」
<六番艦日進>「敵艦隊ハ戦闘艦四隻ヲ先頭トシ其ノ少シク後方ニ「オスラービヤ」ヲ先頭トシテ左翼列ヲ作リ……」
 
これで秋山が連合艦隊の戦闘詳報に単縦陣と書いたら、艦長たちから猛抗議を受けるだろう。
 
しつこく、それでも、と書くが。
瓜生提督だけは単縦陣と書いているのだろうと読み進めて、愕然とした。
第四戦隊の詳報には、
「我ガ触接隊ノ通報及ヒ捕虜「ドンスコイ」副長ノ言ト我カ目撃セル所ニヨレハ概略左ノ如キ隊形ヲ以テ航行シ来リ」
との文の後に陣形図が載っているのだが、どう見ても敵艦主力は二列縦陣であって単縦陣ではない。
単縦陣ではないのである。
 
いやしくも戦史研究者を名乗るものの書いた文章なら、最後の最後ぐらいは事実が書いてあるだろうと期待していたおのれのナイーヴさを笑いたくなった。
史料をあたるまでもなく、本書162ページや176ページの陣形図と、この著者の次作の142ページ、161ページのそれとを見比べるだけで、本書がいかにでたらめであるかくらい、わかりそうなものなのに。
 
前作に書評を書いた後、この著者のものにはもう書くまいと思った。
批評ではなく批判になるのが目に見えていたからである。
 
だから、これは書評ではない。史料と異なって記述しながら「真実」とうたっていることの告発である。

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紙の本

そ〜だそ〜だと言いたい事柄のオンパレード

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『世界の中心で愛を叫んだけもの』が先にあることを知っていたので、あの『セカチュー』が出たとき「パクリタイトルじゃね〜か」と思ってしまった。だから、それを更にもじった本書の書名も、好きでない。パロディとしてもオリジナルより長すぎて上手くない。

 だが、気にくわないのはそのくらい。書名は、実は編集部が勝手に決めたそうだから、著者の文章で抵抗を覚えるところはほとんど無いことになる。
 細かいことを言えば、著者の嫌いな「(笑)」に私は抵抗が無いということはあるが、そのくらいは違わないと気味悪いというものだ。

 著者は字幕屋。映画の字幕の原稿を書く人である。
 ということで、この本の柱はふたつ。映画屋としての苦労話と、物書きとしてのいまどきの言葉遣いへの疑問である。

 売らんがために内容を捻じ曲げてでも「泣ける話」にしたがったり、画面から状況を読み取るべきシーンにも字幕で説明させたがったりする配給会社との攻防戦が前者。
 著者は何も、芸術的にこの方が優れている、という見地から配給会社に抵抗しているわけではない。まっとうな感覚からすればそれは変じゃないの?と言っているだけである。

 そういえば、字幕でなく吹き替えだが、『西太后』という映画にオリジナル音声には無い説明的なナレーションがやたらと入っていて、それがまたやわらかい声の女優さんだったもので「これは児童向けの歴史教育ヴィデオかい!」とげんなりしたことがあったなあ。あの映画にはしわがれ気味の渋い声のナレーションの声の方が合ってたと思う。
 著者には、ぜひ配給会社との攻防戦を続けていって欲しいものだ。(くれぐれも干されない程度に、だが。)

 字幕というのは画面にあわせて次々と変わっていってしまうものである。ということは著者は普段今どきの日本人に瞬時に理解できる文章を書かなくてはいけないということで、言葉の変化に敏感。それが後者である。

 著者と私は年齢が5歳しか違わないので(私の方が下!)言語感覚が近く、そ〜だそ〜だと言いたい事柄のオンパレードである。

 過剰なまでの禁止用語の自主規制。
 私の勤める出版社でも、昔の本の一挙復刊などの企画があがった時など、前は使えたけど今はダメな言葉がないかどうかをチェックする作業が、編集部校閲部だけでは手が足りないとて(あ、これもいかんのか)私たちの部署にまで読んでくれ〜と回ってくることがある。

 「させていただきたがる人々」。これも同感。多用されすぎる敬語はうっとおしい。著者があげているものの他にもうひとつ私がうっとおしいのは、「あげる」である。「あげる」は既に謙譲語でなく丁寧語であるという意見を仮に受け入れたとしても、度が過ぎるほど使う人というのがたまにいる。

 友人がとある料理番組について、献立自体はいいんだけど、その料理研究家が作ったものは食べたくないと言ったことがある。
 その先生の説明というのが、「お鍋にお湯を沸かしてあげて、そこによく洗ってあげたほうれん草を入れてあげて……」という調子なのだそうだ。深〜く納得した。そんな人の手で作られた料理なんて気持ちが悪い。

 朝日新聞が著者に取材したところによると、著者はこの本を一杯やりながら書いたのだそうである。
 おかげで文章におふざけが過ぎるところも無いではない。だがその方が著者の本音が表れていて面白い。保身に走っている部分までがストレートにそう書かれていて、映画字幕屋というのは気苦労が多いんだなあと察せられる。

今後はなるべく字幕に目くじらを立てずに映画を見ることにしようか。

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紙の本

紙の本ミラージュの罠

2007/08/12 11:24

「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『デルフィニアの姫将軍』以来、「王女グリンダ」「デルフィニア戦記」「スカーレット・ウィザード」「暁の天使たち」そして現在の「クラッシュ・ブレイズ」とシリーズ名を変えながら続いてきた一連のシリーズ。
 40冊以上に渡って続いてきたのは、作品にそれだけのパワーがあり、また、それが読者に支持されてきたからだろう。
 だが、15年も読み続けてきたファンとしては、「クラッシュ・ブレイズ」となって以降の作品の停滞に残念でならない。
 
 それ以前のシリーズには、大団円に向かうべき流れがあった。
 「デルフィニア」では大華三国平定。
 「スカーレット」はクーア財閥の掌握。
 「暁の」ではキャラクター全員の復活。
 しかし、「ブレイズ」にはそれがない。
 
 最大の原因は、リィと、そして著者が「目指せ一般市民」にこだわっていることにある。
 キャラクターのパワーが命のキャラクター小説で、主人公が一般市民となって埋没していく大団円などありえないだろう。
 人の情緒の変転を深く描き出す純文学作品ならありえてもだ。
 
 結果、悪人たちが主人公たちにちょっかいを出しては撃退されるというパターンの繰り返しとなる。
 私が今のところ「ブレイズ」でもっとも面白いと思っているのは『ヴェロニカの嵐』なのだが、これが面白いのは、リィが誘拐犯と対決する話ではなく、無人惑星に置きざりにされた学生達の中でリィが久々にリーダーシップを発揮する話であることにある。
 
 「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。

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紙の本

残念である。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

16〜17巻あたりから作品に物語性が失せて、変に著者の主張ばかりが目立つようになってしまった。
日清戦争では主人公の秋山真之が活躍しないので、物語の核が定まらなくなったのだろう。日清戦争は基本的な経緯がわかる程度に留めておくべきであった。

 どうしても日清戦争を省略したくないのだったら、真之を再登場させられる局面となるまで、陸と海にそれぞれ一人ずつ仮の主人公を立ててその人の視点を中心に描くなどの工夫をしたり、細部を割愛する断を下したりするべきだったのだ。
 ところが、とにかく何でもかんでも描こうとし、著者の主張を加えようとした結果、ストーリーが拡散してしまった。

 漫画に著者の主張が入ってはいけないというのではない。
 ただ、主張するのならば、魅力的で説得力のある物語を構築し、それへ読者を惹きこむことによってするべきなのだ。
 仮に著者の見解と読者のそれとが合致しなくても、物語として面白ければ読み続けることはできる。
 そして、それは本作の途中までは、ある程度はできていたと思う。だからこそ、12巻に書いた書評では絶賛したのである。

 ところが、巻が進むにつれて著者はそれを怠った。
 多数のキャラクターがみな中途半端に描かれた挙句、ナレーションの総括で著者の見解を滔々と述べられても、読者はついて行けないし、行かない。

 漫画という表現形態は本来エンターテインメントであるはずなのに、著者はそれを忘れてしまったのだ。

 しかも、ただでさえ上手くない絵に手抜きが目立ち、コマ割りは単調となり、キャラクターデザインもどんどん崩れていく。山県有朋の顔なんて、ほとんどバケモノである。

 19巻あたりからは読むのがしんどくなってきたのを、とにかく主人公が戻ってくればとの忍の一字でいたのだが、雑誌連載の方が「第一部 完」と「休止」してしまった。
 おそらく、本当のところは「打ち切り」なのだろう。

 残念である。

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紙の本

なんと明朗で、潔い。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「大正時代のおのぼりさん、アジア&地中海の爆笑航海記」
もうひとつ考えた書評タイトルである。どちらにするか、最後まで迷った。
関係者や、生真面目な戦史研究者からは叱責を頂戴するかもしれない。しかし、軍とか戦争とかの言葉が入るだけで拒絶反応を示すたぐいの人にも、だまくらかしてでも読んでもらいたいと思ったがゆえである。

本書をストレートに紹介すれば、こうなるだろう。
「第一次世界大戦の際に、イギリスからの要請によって地中海へ遠征し、輸送船の護衛のためドイツのUボートと戦った駆逐艦に、海軍中主計として乗り組んだ青年の手記」だがこう書くと、謹厳な軍人による壮烈あるいは悲壮な戦闘記録を想像されるのではないか。

ところが。
好奇心旺盛な著者は遠征途上のアジアの国々で、任務により寄港した地中海の諸港で、上陸の機会があればすかさずあちこちを見て回る。時には列車でパリ見物に行ったり、ピラミッドの前でラクダに乗って記念写真を撮ったりする。(これを後世の議員や官僚が視察の「ついで」に公費で観光するのと同列に論じるのは不当だろう。海上での死と隣り合わせの任務に耐えるためには、陸上ではリラックスする必要がある。)
しかも、著者の筆は軽妙洒脱で、笑いを誘うことしばしばである。軍人が上官の命令で書いた戦記がこんなに笑えていいのか?と何度も思ったぐらいだ。
また、歴史知識に裏打ちされ、豊かなボキャブラリーを駆使した文章は、二十代の青年のものとは思えぬくらいに達者である。この文章を読むだけでも、本書を手に取る価値はある。

一方、本来の、戦記としての記述には、派手さはない。護衛任務であるから当然である。
無論、危険であることは攻撃任務と変わるところはなく、著者の乗った艦の鼻先を魚雷がかすめたり、僚艦が大破して多数の戦死者を出したりもする。しかし、私にとって本書は、当時の海軍軍人のメンタリティの一端に触れることができたという点で、大変興味深かった。
軍人が命をかける事を、「百姓が田を耕し、商人が算盤をもつ」のと同じ事とし、そこに過剰な悲壮感はない。
ただ、日本が幕末に列強に結ばされた不平等条約を完全に解消せしめたのが日露戦争の勝利であったことを知っていて、軍事による貢献が「同色人種のため」になるという単純な事実を認識していたがゆえの使命感があるだけである。
このことは、現代の日本人も知っているべきだと思う。
ひとつだけ惜しいのは、本書を編纂されたC・W・ニコル氏が、非売品として軍で編纂され本書の底本となった『遠征記』のほかに、『平和の海より死の海へ』の題で公刊されたものがあったことをご存じなかったことである。(マイクロフィッシュだが、国会図書館で閲覧できる。)
こちらは著者が「端書狂人と云われる迄」買い集めた絵葉書や、ピラミッドの前の記念写真などが載っていて、一般向けを意識した紀行文ふうのつくりになっている。
こちらであれば、軍事に興味のない人にもすすめ易かったのに、と思うのである。

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紙の本

紙の本英語を子どもに教えるな

2004/03/21 01:41

外国語なんて、何とかなるもの。話すべき内容を持っていない方がよっぽど恐ろしい。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 学生時代の英語の成績が特によかったわけでなく、就職してから英会話スクールへ通ったわけでもないのに、英語と現地語しか通じないところへ度々仕事をしに行く技術者を知っている。
 その人が海外出張をするようになるに当たってした英語の勉強は、洋画のヴィデオを字幕を隠して何本も見て、耳を慣らした、ということだけ。(ほかに、専門用語の日英対照表ぐらいは用意したろうが。)

 また、自分の体験であるが、私の英語は中の上程度の高校を赤点ぎりぎりで卒業できた、というレベルでしかない。しかし、イタリアで一人旅をしていると、混んだレストランなどではしばしば他の国の旅行者と合い席になるのだが、その際には私程度の英語でも立派に会話に花が咲く。イタリア観光という点で興味が共通しているからだ。

 つまり、従来の学校教育の英語でも、立派に役に立つのだ。中学高校で習った英語なんて使い物にならない、と思い込んでいる人の大半は、耳が慣れていないことと、言い間違えることを恐れているだけ。カタカナ発音の英語でも、内容が相手にとって必要であったり、興味を持たせうるものであったりするなら、ちゃんと聞いてもらえるのである。
 小学校から英語を教えることが始まるようであるが、そもそも日本人の大半は日本で生涯をすごすのに、ネイティブ並みに話せる英語をすべての国民に強要する必要がどれほどあるのか。ブロークンではまずいような場合には、プロの通訳を雇えばいいだけの話である。

 それより、話すべき内容を持っていない方がよっぽど恐ろしい。
 いまどきの若い者は…などと言いたくはない。が、先日、TVのあるバラエティー番組で若手タレントがプロの料理人の作った料理を「おいしい」としか表現できず、はたで見ていた年長の俳優が「どんな風においしいの?」と聞いても、「すっごくおいしい」「ホントにおいしい」と繰り返すのみであったのをみて、情けなくなった。
 彼女の味覚に関するボキャブラリーは、「おいしい」と「まずい」しかないのだろう。その料理を食べたことがないので想像だが、せめて「歯ごたえがあって、噛んだ瞬間に材料のうまみが口中に広がって、それが控えめにした醤油の味付けと溶け合って…」程度の描写は出来ないものか。
 考えたことや感じたことを言語に置き換える訓練が出来ていないのである。母語もまともに操れない人間が、外国語で内容のある話をできるとは思われない。

 著者はアメリカで英語教育を受けた子供達を数多くみて、その状況を本書で報告している。
 中には、日本語も英語も見事にものにした成功例もある。しかし、それには両親に確固とした教育方針と、並ならぬ根気が必要であったことが明記されている。
 一方で、現地校へ子供を放り込んで、子供がネイティブ並みの発音で英語で操るようになったと安心してしまった親は、後にその英語が「とにかく通じさえすればいい」式の間違いだらけの幼児レベルと知ってうろたえることになった。しかも、英語で苦労しているのに日本語の勉強までさせるのは大変すぎてかわいそう、と、親が半端に子供に同情したために、その子供は母語である日本語も同レベル。日英共に幼児レベルの言語能力しか持っていない子供は、授業が高度になるに従って、ついていけなくなるのである。

 日本語も外国語も自在に操れれば、それは確かに便利であろう。海外で働きたいと思う人には、必須でもある。しかし、そういう目的があれば、成人した後であろうと外国語を身につけることはできる。
 そして、その際に有効なのは、物事を論理的に理解するための、母語でなされた言語訓練だ。

 英語にばかり目が向いて、母語が貧弱では本末転倒なのである。

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紙の本

「好きならちゃんと見習うべき」。よくぞ言ってくれました。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いささか挑戦的なタイトルである。実際、内容は、きちんと読まなければイギリス批判のオンパレードに見える。私はイギリスについて平均的日本人以上の知識はないので、本書に書かれたイギリス批判が正しいのかそうではないのかの判断はできない。

 しかし、本書の基本姿勢には同感である。
 きちんと読まなければ、と先に書いた。きちんと読めば、本書が批判しているのはイギリスではなく、イギリスのよい所(あるいはよく見える所)だけを見てきて「それに引き替えて日本人は…」という論理を展開する日本人だということはすぐにわかる。本書に羅列されたイギリス批判は、イギリス礼賛ばかりの世間の論調に対してバランスを取るためになされたにすぎない。
 著者は、「決してイギリス嫌いではないし、むしろ、日本がかの国に学ぶべき点は、まだまだある、と考えている。」と明記している。それでいながらこういう本を出さねばならない日本の風潮に憤っているのだ。

 私自身、本書を読む前に、同質の憤りを持ったことがある。
 私の場合はイギリスではなくイタリアだが、すこし目先を変えた旅行をしてみようと考えて、地方都市を見て回った帰り。飛行機の中で、日本の新聞の国際版が機内サービスで配られ、日本語の活字に飢えていた私はむさぼり読んだ。その投書欄である。「段差なかったイタリアの駅」とタイトルがついて、ローマやフィレンツェなどの駅で、段差解消のためのスロープが随所に作られ、そもそも階段がないことが賞賛され、日本の駅は階段だらけだと批判した一文に、私は怒った。イタリアの駅の不便さに辟易として、駅に関しては、日本の方がよほど便利だなあと実感しての帰りだったからだ。
 イタリアの上記の大都市のメインの駅に階段がないのは、それが行き止まりの駅だからである。そこを始発終着でなく通過駅とする列車は前後の向きを反対に折り返して出て行く。つまり、線路をはさんでこちら側から向こう側へ行くには、線路の端を大回りをすればいいだけなのだ。
 ところが、そういう駅はイタリアでも少数派である。通り抜け式の駅ではそうは行かない。線路の反対側のホームに行くには線路の上か下を通るしかない。日本では橋をかけて上を行くのが一般的だが、イタリアでは地下道で下を通るのが一般的だ。しかし、その地下道に下りるのにエレベーターどころかエスカレーターさえないことが多い。車椅子どころか、大荷物を持っていれば健常者にとっても利用するのが大変なのである。これは、地方都市の駅だけの話ではなく、特急列車が止まるような大都市の駅でも同様であった。
 帰宅後、くだんの投書を掲載した新聞に、上記の事実を指摘し他国のよいところしか見ていない人の安易な日本批判に反対する投書をしたが、掲載されなかった。掲載されなかったのは私の文章のせいもあるかもしれないが、要するに公正をもって旨とすべき新聞でさえ、近視眼的な日本批判に迎合しているのである。

 イギリスについての本なのにイタリアのことを書いてしまったが、日本の出版、言論は、少なくとも他国と日本との文化比較に関しては、かくのごとく一面的なのだ。とある国のブームが起こるとそれに乗っかった本ばかり出て、そのブームに対する批判精神を持って書かれた本がごく小数しか出ないというのは、おかしくはないか。ある意見に対しては反対意見の本が同数とは言わぬまでも、ある程度は出版されるべきである。その上で双方を検討して、取り入れるべきところは取り入れるのが、言論の自由の保障された先進国というものだろう。
 
 本書の最終章のタイトルどおり、「好きならちゃんと見習うべき」なのだから。

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紙の本

学校で学ぶ歴史が嫌いだった人へ。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は学校の歴史が嫌いだった。
 だが、今考えれば、年号を覚えさせられ暗記できたものの量で評価されるのが嫌いだったのだ。本書に出会う前の私は主にSFやファンタジーを読んでいたのだが、それらの中でも「舞台は架空だがストーリーは大河ドラマ的」なものを特に選んでいたのだから。
 ともあれ「歴史は嫌い」と思い込んでいた私は当然歴史ものを読むことはほとんどなかった。したがって歴史の知識が増える筈がなく、あまたある日本の歴史物はたいてい読者の側にある程度の歴史の教養(常識)があることを前提にしているので、手に取る気にならないという悪循環に陥っていた。
 だが、ある日。
 本書の後に書かれた塩野氏の「レパントの海戦」が目にとまった。レパントの海戦の少し後の時代をを舞台にしたマンガを読んだ後だったのだ。三部作の三作目だったので、一作目から読んだ。面白かったが、この三冊の段階ではまだ「歴史」ではなく「物語」を愉しんでいた。ともあれ、同じ著者の別の作品を、と思って本書を手に取った。
 私の読書傾向は、それ以来一変した。
 本書に、「美術史以外ヴェネツィア史について書かれた書物が皆無に近い日本では、先例を参考にするということができないために、言葉の訳ひとつからして私がはじめなければならない」という記述がある。そのために塩野氏は大変に苦労されたのだろうと察するが、結果として本書は何の予備知識もなく読める歴史書となった。そのおかげで、私は本書を読み通すことができ、「自分が歴史を好きである」ことを「発見」できたのである。
 著者が自らたびたび言明しているが、塩野氏が「作家であって歴史家ではない」のも幸いした。歴史家の書いた歴史書では論拠となる資料をそのつど挙げないわけにはいけない。いきおい「注」が膨大な量となる。なかには、本の厚さのかなりの部分が「注」に割かれてしまっているものもある。いちいち巻末を参照するのは手間である。しかし、引用されている資料のタイトルなどに混じって、知らない用語の解説などが載っている場合もあるのでその手間を省くことはできない。
 そういう散文的な理由以上に、「文章が作家のものであって歴史家のものではない」ことが、本書の魅力をより高めている。これは塩野氏の文章が簡潔、平明であるという意味「も」もちろん含んでいるが、ここでの主眼はそういう意味ではない。歴史家が歴史書を書くときは、おそらく「扱っている史実あるいはそれについての論考に関心がある読者」を想定しているであろう。そういう読者は、内容がしっかりしていれば、文章力は文法的に誤りがない程度であれば文句は言わない。しかし作家は、そういう「はじめから興味を持って読み進めてくれる読者」だけを相手にして文章を書く贅沢は許されない。常に読者の興味を引き続ける文章力(努力と言い換えてもいい)が必要不可欠なのだ。
 その点、塩野氏は間違いなく作家であった。
 史実について述べるときは臨場感豊かに、ときには脱線して空想と遊ぶ。ヴェネツィアを危機が襲うたびに、読者ははらはらして手に汗を握ることになる。読み終わったときに、知的好奇心だけでなく純粋に娯楽としても「面白かった」と言わせうる歴史書など滅多にあるものではない。
 本書の後、ヴェネツィアに関する本が多数出版された。それらを読んで後に本書を読み返すと、塩野氏の視点がいささかヴェネツィアに好意的に過ぎる部分があるとわかる。だが。
 本書に出会うまで、私は長らく歴史を「暗記物」だと思っていた。
 しかし、ヴェネツィア旅行が趣味になってしまい、イタリア語をかじるようになった今では、「歴史」と「物語」が、イタリア語では同じ「ストーリア」という単語であることを、私は知っている。
 そして、塩野七生氏は「ストーリア」の書き手なのである。

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紙の本

紙の本がんばっていきまっしょい

2005/09/10 01:22

嬉しい贈り物

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本でボートはマイナースポーツである。
 日本の選手がオリンピック2大会連続で6位入賞を果たしたことや、今夏W杯で金メダルをとったこと、つい先日日本で世界選手権大会をやっていたことなどをひとつでも知っている人は、ボート経験者を除けば、私のまわりには一人もいない。
 なので、ボート競技を描いた小説は珍しい。女子高校生が主人公となれば、皆無に近い。
 その例外が、本書である。

 数年の違いはあるが、著者とほぼ同年代に高校でボートをやっていた私には、描かれているあれこれが懐かしい。
初めての練習で、オールを水から抜き損なって「腹切り」をしたり、マイナースポーツの宿命・部員不足に悩んだり。
著者がこの作品を書いたのは卒業後十数年経ってからだそうなので記憶違いをしている部分もあるが(オールがピンク色なのは日体大ではなく日大である)、高校時代をナックルフォアの上で過ごしたことのある女性なら、本書は当時を思い出させてくれる嬉しい贈り物だ。

 ただ、小説として成立させるためではあろうが、一年目の主人公たちをいささか「お嬢さん」に描きすぎには思う。
「私らだけじゃ、こんな重いもん、運べんしねェ」などと言って艇を出すのを当たり前のように男子部員に手伝わせているが、自分達の艇は自分達で運ぶのが当然である。この辺は、読んでいてちょっといらついた。

 もっとも、この「お嬢さん」ぶりを成立させるために設定に配慮はしてある。
男子部員をボートに対して真剣な連中には描いていないのだ。もし真剣という設定であったら、拒否させなくてはならない。先輩達は、他校の女子が自分達で艇を運ぶのを試合の際に見ているはずである。
 真剣に練習している隣の高校の部員達も手伝っているが、彼らは男子校の生徒にしてある。女子と近づきになる機会が嬉しいからという解釈をさせるためだろう。
 (ボート経験のない方へ一言。ナックル艇は重さ130kg前後である。これを4人の漕ぎ屋が持ち上げ、コックスが押して移動する。)

 かくて甘やかされた主人公達は、新人戦で惨敗する。
 しかし、同じ女子高校生のはずの対戦相手に「お嬢さんクルー」と言われて、初めて発奮する。
 OB・OGの先輩夫妻にコーチを頼み込み、「こりゃ大変だ」という練習メニューに必死で打ち込んでいくのである。
 きつい練習に「この一本が終わったらボートなんか辞めてやる」と思っても、「イージー・オール」の声とともにそれを綺麗に忘れるようになったら、もう立派な競技者だ。

 いただけないのは、カバーイラストである。
 茂本ヒデキチ氏の画風は嫌いではない。だが、オールのブレードはチームの顔であるし、割れやすい。これを地面についてもつなど、まっとうなボート競技者にはあり得ない。
 オールの向きを逆にして、描き直して欲しいものだ。

 余談をひとつ。
 冒頭に述べた、オリンピックで入賞したり、W杯で金メダルをとったりした武田大作選手は、主人公達と同じ梅津寺海岸で練習しているそうである。

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紙の本

先に投稿なさっているお二方の触れていない、収録の「日本海海戦はイギリス海軍の観戦武官が指揮していた」一編に限定して評価する。なぜなら、これを読んだら他の文章を読む気が失せたからである。

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著者の須藤喜直氏は、本書を編著している副島隆彦氏の主宰する民間シンクタンクの、ウェブ管理と事務の担当者。
 この文は副島氏が以前に書いたものを下敷きにしているのだが、両氏がもしこれに書いたことをこれに書いてある論拠だけで本気で信じているのなら、今すぐシンクタンクなど閉鎖してしまった方がいい。こんな薄弱な状況証拠と推測だけでこれが真実だと言い切れるなら、世界に歴史は無数のバリエーションが存在してしまう。
 
 以前から観戦武官について書いたものがないかと探していたので、掲載書籍の書名に危惧を覚えながらも読んでみたが(私には「~の真実」という書名の本に説得力のある本は少ない、という持論がある)、冒頭に東郷や秋山の後ろにはイギリスの観戦武官がいて指揮をしていたと断言する副島氏の文章を掲げながら、日本海海戦当時三笠に観戦武官がいたという事実を示す資料をあげることすらできなければ、もちろんその観戦武官の名を記すことも出来ない。
 仮にこれに書いてあるように「T字戦法」や最新の砲術がイギリス海軍により伝授されたものであり、また東郷たちの背後に観戦武官がいたというのは比喩的表現であったとしても、表題は「指揮していた」ではなく「指導していた」でなければ不適当だろう。
 
 なにしろ、「指揮していた」論拠を挙げることができているのは、第一戦隊の殿艦(一番うしろの艦)日進のマヌエル・ドメック・ガルシアだけなのである。
 その論拠というのが、彼の孫が「日進の艦長たちが負傷した後に指揮をとった、国際法違反だから黙っていた」という彼の言を伝えていることなのだが、さて、孫がそれを聞いたのはガルシアの「ひざの上」である。
 いかに頑健な軍人で体力的にそれが出来たとしても、成人した孫をひざにのせて話をするという状況は通常ありえない。話を聞いたときの孫は明らかに「子供」と呼ばれる年齢だったろう。
 おじいちゃんというのは、幼い孫には見栄を張りたいものである。抱っこしている孫から「すごい海戦だったんだね。それで、おじいちゃんは何をしてたの?」と聞かれて、つい悪意のない冗談を言ったら孫がそれを真に受けてしまった、というのはありそうな話ではないか?
 すくなくとも私は、この証言以外に、公式な文書なりガルシアの指揮の現場に居合わせたものの証言なりがひとつでもない限り、これを可能性のひとつとして留保することはしても、これが真実だと断定する気にはなれない。
 
 またこれが事実であったとしても、指揮官が負傷してしまったので指揮をしたのであれば、それはあくまでその場限りの暫定的なものであり、日露戦争はイギリス人の主導の元で戦われたという著者の主張とは意味合いが異なる。そもそもガルシアはイギリス人でなくアルゼンチン人である。
 
 また「丁字戦法・乙字戦法」は「T字戦法・L字戦法」の表記を改めただけだという文章を菊田氏の『坂の上の雲の真実』(この本もまたいくつかの間違いを指摘できるのだが)から引用しているが、秋山真之による改称は、戦法の出所を隠すためではなく、日本人は日本語を使うべきだという彼の持論によるものだろう。「ブリッジ」を「艦橋」に、「ボート」を「端艇」にあらためたように。
 さらにL字戦法に限って言えば、この場合のL字形というのは筆記体大文字のLの形なので、漢字の「乙」の方が陣形をよく表しているのである。

 副島氏は陰謀史観がお好きなようだが、日露戦争はロシアを叩きたいが自分ではやりたくないイギリスが日本をそそのかしたのだ、という見方はそれこそ日露戦争当時からある。戦っていた兵士達自身が、それを風刺した芝居を自分達で演じて戦闘の合間の娯楽にした、という資料さえある。
 何を今さら、というものだ。

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紙の本

環境を考えたらレジ袋を削減するべきなんだろうけど、折りたたみのできるマイバッグって、どうにもおしゃれじゃないのよね〜と思っている貴方、風呂敷をどうぞ

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マイバッグ派ならぬマイ風呂敷派である。いや、レジで風呂敷はくれないから、単に風呂敷派というべきか。

 環境を考えて……という高尚な理由ではない。自宅のゴミ箱をインテリア性重視で選んだら、スーパーでくれる一般的なサイズのレジ袋がセットしにくかったのである。
 私の住む地域ではレジ袋は回収対象の資源なのでゴミにはならないが、朝は忙しいので資源回収に出しに行く回数はなるべく減らしたい。

 最初はマイバッグ派だったのである。だが、ハンドバッグに入れて持ち歩ける折りたたみのバッグは、どこか不満が残る。容量は充分だけど無愛想な無地の実用本位のものだったり、綺麗なプリントのは容量があまりなかったり。

 そんな折に、何気なく入った和雑貨店で綺麗な柄の布が目に入った。風呂敷であった。使い方を書いたフリーペーパーも置いてある。ためしに買った。
そして、はまった。

 たたみ方や結び方次第で容量を大きくも小さくもできるし、フォーマルにもカジュアルにもいける。最近は洋服に合うモダン柄のも多いので、ジーンズにだって違和感なく持てる。(カバー写真を見よ!)

 凝り始めて、もっと他の使い方はないかと風呂敷のハウツー本を選んでみて、ピカイチだったのが本書である。

 完成写真が、実際に持ち歩いてる雰囲気で撮影されているのでどんな感じになるのか一目でわかるし、結び方のページがすぐ次にあるので、探す手間もない。(オールカラーの完成写真は本の始めの方にまとめて載せて、結び方は後ろの方の2色刷りという本は、探すのが面倒である。)
 基礎知識もひととおり押さえられているし、何より、結び方の図解説明がわかりやすいのがいい。

 ついでに。
 不器用で上手く結べなくて裏面が出ちゃうのよね〜という方は、リバーシブルのを選べば問題なし。裏が見えてるほうがオシャレである。
 買わずに試すだけ試してみたいという方には、スカーフをおすすめする。実は、私が何枚か持っている風呂敷のうち2番目に多用しているのは、元はスカーフである。シフォンのではだめだが、ポリエステルのスカーフだったら、レーヨンの風呂敷よりも扱いが楽なのである。

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紙の本

紙の本世界の日本人ジョーク集

2007/02/12 11:54

発売後一年以上経った現在でもいまだにベストセラーであるほどの本では、無いと思うのだが。

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同じ著者の『世界の紛争地ジョーク集』は面白かった。
 ジョークそのものも面白かったが、それ以上に興味深かったのが、そのジョークを発する国や民族の性格や、登場する国への見方や力関係などが垣間見えたことである。

 でありながら評価が五つ星でなく四つ星であったのは、日本の登場するジョークがほんのわずかしかなく、それも笑いとばす対象としてではなかったのが少し物足りなかったからだ。
 現在の日本は紛争地ではないから、「紛争地」ジョーク集に入らないのは仕方ないのだが。

 同じ著者が今度は日本ネタばかりを集めた本を出すと知って、それはそれは楽しみにして発売直後に購入して一気に読んだ。
 そして、がっかりした。

 それぞれのジョークがどこで聞いたものなのか明記されていないので、単純に言葉の面白さだけしか味わいようがない。
 ジョークはその背景となる文化や認識に対する理解があって初めて充分に楽しめるものである。
 アメリカ人と日本人が出て来るジョークがあるとして、それを言ったのがアメリカ人であるか日本人であるか、あるいは第3国の人であるかでは、味わいが全然違ってくる。

 たとえば186ページの「アメリカ人と日本人」というジョーク。これは塩崎智氏の『日露戦争 もう一つの戦い』(祥伝社新書)という本にも出てくるのだが、これは欧米への日本美術の紹介者として名を残す岡倉天心のエピソードとして紹介されている。

 真偽のほどは定かでないとの断りつきだが、これがもし日本という国が何が何でもアメリカ国民の好意を得なけらばないという国際情勢下で言い放たれたものだとしたら、何ともスリリングではないか。
 その意味では、紹介されたジョークそのものよりも、著者が実際に見聞きしたことを述べている解説文の方がよほど興味深い。

 表面的な面白さだけでもそこそこには笑えるので、最初にベストセラーリストに顔を出したときにはそれほど意外ではなかったのだが、発売後一年以上経った現在でもいまだにベストセラーであるほどの本では、無いと思うのだが。

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紙の本

どのようなとりあげ方をしても満点の評価が出来ないのは、残念である。

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私は[極秘明治三十七八年海戦史」は未見である。

しかし、極秘海戦史を重要史料として使用した著作は、20数年前から既に多数書かれており、それらと比較したとき、本書は史料を「読みたいように読んでいる」感じが見受けられる。
前述のように極秘戦史は読んでいないのでそれへの著者の記述についてはここでは述べない。が、周辺史料からの引用部分だけでも、著者の恣意を指摘できる。

本書の副題は「秋山真之神話批判」であり、批判の対象は秋山本人ではなく彼を覆った神話なのであるが、神話を剥ぎ取る過程で批判の矛先が秋山に向くのが止むを得ない場合はあろう。
その批判の傍証として秋山と周辺との不協和音をあげており、その例をいくつかの史料から引用している。
しかし、参謀長島村との間に齟齬があったとするのが仮に事実としても、巡洋艦浅間艦長八代との間までが不仲であったかのように匂わすのは、当たっていない。
確かに八代と秋山が口論をしたという話は残っている。だが、誰でも親しい友人と論争になることはあるだろう。
これは引用された「口論」が掲載されているのと同じ史料にあることであるが、八代は日露戦争の前年に秋山の結婚を世話した人物であるし、戦後に海軍大臣に就任した際には秋山を軍務局長にすえている。海軍最大の汚職事件の後始末をせねばならないというデリケートな時期の大臣就任であるのに、息の合わない相手を部下に選ぶとは考えられない。
一つの史料から、きわめて親しい仲であったと認められる部分に言及せずに、口論だけを取り上げるのは、恣意でないとすれば作為である。

また、田中宏巳氏の1991年の小論「日本海海戦の丁字戦法は幻の戦法だった」を頻繁に引用しているが、田中氏は何らかの理由で考えを改めたのであろう、2004年の「秋山真之」では「絵に描いたような丁字戦法が実現」と書いているのを、果たして著者は知っているのかどうか。どうせ引用するなら、最初に丁字戦法はなかったと唱えた戸高一成氏の論文からにするべきであった。

さらに、著者の本来の専攻であるメディア論としても不満な点がある。
ここで著者が槍玉に挙げているのは海戦史編纂の責任者である小笠原長生である。確かに、公刊戦史には作為がある。また折々の広報活動で小笠原がこの作為を強化していったというのも事実かもしれない。

だが、本書が「メディア論」であるならば、それをそのまま流し続けたメディアの側の責任について言及がないのはおかしい。
当時のメディアが参照しえた資料が公刊戦史しかなかったとしても、その付図を一瞥するだけで、丁字戦法が黄海海戦で大失敗していることや、日本海海戦では陣形が「丁」の字の形になっていないのは見て取れる。
丹念に読めば、付図と本文との矛盾点を指摘することは可能なのである。
メディアがそれをしなかったのは怠慢であるだろう。
(ただし、日本海海戦での「優速を活かした並航戦」が丁字戦法のエッセンスを生かした「改良版丁字戦法」であるという見方は可能で、これをもって「日本海海戦に丁字戦法はあった」とすることはできる。これは吉田惠吾氏の「創出の航跡」に詳しい。今のところ、私はこの説を妥当と考えている。)

戦史分析としては、論を展開する上で時に恣意が見えるのはいただけない。
メディア論でありながらメディアの責任を問わないのも同様である。
小事を付け加えるならば、論文でありながら引用文を現代語訳してしまったり、参考文献の一覧を付さなかったりするのも不適当。

著者の分析にはなるほどとうなずける部分も少なくないだけに、どのようなとりあげ方をしても満点の評価が出来ないのは、残念である。

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紙の本

紙の本坂の上の雲の真実

2007/04/19 00:39

これでは評論とはいえない。

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著者は、海上自衛隊で護衛艦に乗務していた若き日に『坂の上の雲』をわくわくして読み、秋山真之にわが身をダブらせていたが、戦史研究の結果、日露海戦の実像が小説のそれとは異なることに気づき、本書を著すことにしたのだという。
 崇拝した対象が自分の思っていたものと違っていたと感じると、一転して激しく攻撃する人がいる。著者はまさしくそのタイプのようだ。

 しかも、この著者の場合、文章が戦史研究者のものというよりも、小説家のそれである。それも描写が秀逸だとかいう話ではなく、「講釈師、見てきたようにものを言い」の文章なのである。しかも、いちいちねちっこく秋山を貶めるような書き方になっている。
 「坂の上の雲」のファンならずとも、この文章には辟易するのではなかろうか。

 それでも、本書を最初に読んだ当時は、菊田氏の説の大筋そのものは、そういうこともありうるかもしれないと思っていた。
 著者は職業上、一次資料を好きなだけ閲覧できるはずであり、また、文中にしばしば参照した資料を示す注があるからである。著者の判断にバイアスがかかっていたとしても、拠って立つ資料が多ければ、導き出されるものは自ずと真実に近づくだろうと考えたのだ。

 ところが、著者は資料をきちんと読むことすら怠っていた。そう思わざるを得ない間違いがあるのである。
 199ページに「北原鉄雄氏があらわした『次の一戦』(金尾文淵堂、大正三年刊)」とあり、次ページに「文章表現の特徴などから、北原鉄雄なる著者は、佐藤鉄太郎であると信じられる。」とある。二重に間違いである。

 私の手元に大正3年刊の『次の一戦』の現物がある。
 函にも本文冒頭にも「一海軍中佐著」と記されており、「北原鉄雄」は著者でなく編集者である。
 また、「一海軍中佐」の正体だが、これは『此一戦』の著者、水野広徳である。日露海戦を研究していて『此一戦』を読んでいないことなどなかろうに、こんなによく似た題名を連想しなかったのだろうか。1982年に「水野広徳著」で再刊されているのだが。

 それでも、大正版の『次の一戦』しか読んでいないのであれば著者がわからなくても仕方ないかもしれない。
 だが、同じ章の注に、猪瀬直樹氏の『黒船の世紀』が挙げられている。『黒船の世紀』は戦前に刊行された日米戦予想の本を包括的に紹介した著作で、『次の一戦』の著者である水野が記述の中心となっている。
 これをたとえ斜め読みでも一通り読んでいれば、『次の一戦』の著者を佐藤鉄太郎と思い込むなどは、絶対に、100パーセント「ありえない」のである。

 評論とは、資料を精読して、客観的かつ冷静に書くべきものである。
 これでは評論とはいえない。

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紙の本

紙の本打開か破滅か興亡の此一戦

2008/03/16 12:32

水野広徳を読む ― 昭和5年に描かれた「東京大空襲」。ここまで先の見える人がいたのに、の思いが読むほどにつのる。

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本書は、海軍軍人から反戦平和主義評論家へと転じた水野広徳が、昭和7年に刊行した日米戦のシミュレーション・ノベルである。

まず、誤解を解きたい。
本書は発売後、間もなく発禁処分を受けた。
そして、後年の私たちが読んで衝撃的なのは、東京が受ける空襲の惨状が、実際に起こった東京大空襲と寸分違わなく思われることだ。
この二つから、発禁処分は東京大空襲を予言したためと短絡しがちであるが、そうではない。

この作品は昭和5年の水野自身の著作『海と空』を敷衍したもので、旧作の流用が大変に多く、東京空襲もそのひとつである。『海と空』は発禁になっていないし、私の蔵書は12版である。
また、本書は発禁処分後に不可とされた部分を伏字とし、『日米興亡の一戦』と改題して再刊行されたが、空襲部分に伏字はない。さらに、昭和14年の戦争文学全集には、抜粋が「空爆下の帝都」の題で収録されている。
従って、水野の「東京大空襲」が多くの人の目に触れる機会はなかったというのは、誤りである。

水野は描く。
「火の手は三十ヶ所、五十ヶ所に及んだ。避難民雑踏の為めに消防ポンプも走れない。」
「満天を焦がす猛炎、全都を包む烈火。物の焼ける音、人の叫ぶ声、建物の倒れる響。」
「ああ妻は何処だ、子供は何処だ。おー臭い臭い、人の焼ける臭ひ、妻と子供の焼ける臭ひだ。」
「濠の中には逃げ遅れ、火に追はれて飛び込んだ何千と数ふる人間が、下なるは泥に埋まり、上なるは焼け爛れて、老若の区別も、男女の差別も判らず、丸焼きのロースとなって薪の様に積み重なって居る。」

猪瀬直樹氏は著書『黒船の世紀』で、実際の東京大空襲の被災者の手記を引用した上で「さきほどの手記に重ねて読むと、無力感がひしひしと迫ってくる。こうなるとわかっていたのなら、なぜ避けられなかったのか、と」と述べている。

ただ、水野にとってこれは予言というほどのものではなかったものと思われる。
第一次大戦の最中にロンドンで空襲を体験しており、まだ軍国主義者であったころ既に「日本の如き繊弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾に三軒五軒粉となりて飛散せん。加ふるに我が国には難を避くべき地下室なく、地下線なく、従うて人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰燼に帰するやも図られず。」(大正6年『バタの臭』)と書いている。
水野には、次の戦争では必然であったのである。


本書での水野の凄みは、万歳万歳の国内世論に反して、満州国建国を当事者中国のみならず国際社会すべてを敵に回し、特にアメリカとの戦争の原因となるものであることを喝破したことである。
本書で描かれた国際連盟における日本と中国の論戦では、日本の演説に賛同する国はひとつもないが、中国のそれには割れんばかりの拍手が起こる。
発禁処分はここによる。『日米興亡の一戦』のこのあたりは「×××」の連続で、まともな活字はいくらもない。

また、軍事的には、大艦巨砲が時代遅れであることをはっきりと描いている。
『海と空』や本書で描かれる海戦には、戦艦や巡洋艦による主砲の撃ち合いはなく、戦闘をするのは飛行機(『海と空』では飛行船と潜水艦も)である。日本の艦隊はサンフランシスコ奇襲に成功するものの、反撃にあって航空母艦から母艦機能を奪われてしまい、空母一隻を含むアメリカの追撃艦隊からひたすら逃げることになる。
その危機を脱するのは、一機の飛行機が行ききり攻撃すなわち「特攻」に赴いて、敵の空母の破壊に成功するからだ。
『海と空』では、登場人物の水兵に「軍艦なんて、もう時代の落伍者だよ。」と明言させている。付記すれば、戦艦大和の起工は昭和12年である。

その他、日本にはアメリカとの戦争が軍事力ではなく総合力、特に資源不足やアメリカ依存の産業構造によって不可能なことを大正13年の論文『新国防方針の解剖』で論証済の水野であるが、それを庶民の生活に即して描いて見せるなど、ここまで先の見える人がいたのに、の思いが読むほどにつのって来る。

ただ残念ながら、本書は小説としてはあまり出来が良くない。
シーンごとに見れば描写は的確で文体のリズムもいい。だが、冒頭で時局評論や書評にページが割かれすぎてなかなか物語が動き出さない。その後も一貫した主人公がおらず人間ドラマとしては細切れで、しかも、後半の一部を除けばほとんどの登場人物に名前さえ与えられていない。
士官AやB大尉、松太、竹次、梅三という記号では、感情移入のしようがないのだ。
実戦の戦記である『此一戦』ではそうした手法も緩急をつける効果があったが、いかに実現性が高かろうとも執筆時点で架空である物語を描くのに、この手法は不適であった。

本書の価値は水野の分析力にあるのであって小説としての良し悪しにあるのでないことは重々承知である。
が、小説としての出来が今ひとつであるために、当時の読者の、理性はともかく感性には訴えそこなったのではないかと思う。
あらゆる意味で、惜しい、と感じさせる著作である。

水野特集ページのある拙サイトはこちら
参照:明元社版『此一戦 』

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