紙の本
読んでよかった
2016/06/26 12:46
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふくちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
被害者とその家族が加害者家族を責めるのは、心情として理解できます。しかし無関係な他人がネット等で匿名性をいいことに、加害者家族を追い詰めている様は、正義とは程遠く憂さ晴らしにしか感じません。メディアは煽るばかり。日本は幼児性が重宝される社会だと個人的には思っていますので、幼稚な人が幅をきかせてしまうのでしょうか。
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テーマ自体はいいが、取材が難しいためか、結局引用等が大半。このテーマに切り込めているとまではいえない。ただし、作者が意図のひとつとしてあげた加害者家族の状況を知って犯罪を起こそうと思わなくなって欲しい、ということについては役割を果たしているとは思う。
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あとがきで知ったのだが、この本は2010年4月にNHK『クローズアップ現代』で取り上げた「犯罪者“加害者”家族たちの告白」という番組を取材したディレクターが、番組内では放送しきれなかった内容を書籍にしたものである。犯罪の“被害者”の家族の人権・プライバシーすらまともに顧みられることもなかった日本において、“加害者”の家族たちの苦悩はなおさら取り上げられることがなかった。特に最近では“加害者”家族の情報がネットに流出し、匿名の敵意にさらされて、仕事や人間関係を失うこともある。
たしかに、被害者家族への支援や補償も十分とは言えない中、加害者の家族たちに手を差し伸べる行為には批判も多いと思う。しかし、本書の最終章で取り上げられているように、イギリスやアメリカでは、加害者の家族もまた事件に巻き込まれ苦しんでいる人間という認識があり、行政や民間での支援の体制ができているという。
日本も、いつまでもムラ社会の感覚で、加害者も加害者家族もいっしょくたに白い目で見るのはやめて、被害者も、被害者家族も、加害者家族も、それぞれにケアしていく仕組みづくりが急務だと思わされた。
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被害者家族ほど、いままでクローズアップされることのなかった加害者家族の現状をレポートした珍しい本。
まだまだ加害者家族への理解が乏しい今こそ読んでおきたい本だと思いました。
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もしも自分の身内が犯罪を犯してしまったら…
被害者とその遺族の苦痛は、察するに余りあることは論を俟たない。
しかし、加害者の家族もまた、社会からの強烈な迫害に晒されることになる。
取材を通して得られた、迫真のドキュメント。
◆
-- 一方で父親のことをよく知っている坂本は、私たちの取材に対してこう語った。
加害者の家族は、罪を犯した本人以上に苦しむことがあるのだということを、私はこの事件を通じて初めて知った。
-- 息子のおかしな挙動を見て、両親はこう思ったという。「また恐喝でもやっているのではないか」。
この事実に対して、裁判官は次のような趣旨の言及をしている。
「息子が人を殺した直後に、その程度の把握しかできないような親が、『今後は息子を監督し更生させる』などといっても説得力はない」
-- 仮釈放された菅家は、東京・浅草で妹との再会を果たす。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、菅家が「長い間、苦労をかけたね」と声をかけると、妹はこう答えたという。
「もう気にしなくていいよ」
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クローズアップ現代の取材をもとにした割には、独自の取材に基づく事実はあまり記載されていないように思える。もっとも、過去の記事や報道などから事実を拾って淡々と書かれている。
日本に個人主義が根付いてないことやマスコミの過剰報道の問題は大きいものの、制度として広い意味での二次被害を防止する手段が必要か
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犯罪が起きたときによく被害者の家族に対するケアが十分でない、という指摘があります。特に少年犯罪が原因の場合は情報が十分開示されないという制度上の問題が指摘されてきました。
しかし、情報が開示されないのは被害者も同じこと、と本書では説明します。本の中で取り上げられている例ですが、夫が殺人を犯した妻のケースが取り上げられています。
夫からは動機や背景など今に至るも何も説明はなし(犯人は取り調べで逮捕直後はそれどころではない、という事情はありますが)。警察の温情で逮捕前に警察車両の中で数分の面談が許された、とあります。警察から特に事情の説明をする仕組みがない。裁判になっても公判前整理が行われるので、裁判官=検察=弁護人は周知のこと、として裁判が進むが傍聴している側には事情は伝わらない。
一方で逮捕直後から自宅や子供の学校には取材が押し寄せる。自宅に近づくことすらできない。
事情が解らない中、釈明もできない状態で電話や呼び鈴は鳴り続ける。
しばらくすると職場や子供の学校を変えざるをえなくなる。加害者家族としてはなんらかの賠償を、と言う前に自分たちの生活が脅かされることになる。
アメリカのコロンバイン高校で銃の乱射事件を起こした高校生の親の元には全米から段ボール二つ分の激励の手紙が届いたといいます。
それに対し、日本では加害者家族に与えられるのは中傷といやがらせ。
「笑うこともなくことも許されないのです」
この言葉が重くのしかかります。
きちんとテーマが深掘りされた、読みごたえのあるノンフィクションでした。
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加害者家族の置かれる悲惨な状況についてレポート。
海外と比較しての日本社会の特異性も浮かび上がる。
家族に対する批判が起こるのは当然としても、
それが度を超した攻撃となることもある。
被害者家族の支援は当然のことながら、加害者家族に対しても、
批判だけではない目を向けていくことも必要ではないかと感じた。
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日頃、なかなか考えていない立場からの考察であり、興味深い書籍であった。交通事故などでは、誰もがいつ、こうした立場になるかわからない時代のなかで、示唆の多い内容であった。
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家族が犯罪を起こした時、
全てが変わります。
夫が
妻が
親が
犯罪を起こしたら
あなたはどうしますか?
被害者や
加害者、加害者の家族については
報道されたりしますが、
加害者の家族については
ベールに包まれています。
人間は怖い。
悪い事をした人に対しては
容赦ない。
更にネットでは名前も出ませんから
人間は言いたい放題です。
こんな時、
人間性が出ますよね。
人間の本心が出ます。
でも、
加害者を援助できるか?
これもまた大きな問題です。
そんな事をしたら
周りから白い目で見られるし、
援助するとしたら、
相当な覚悟が必要です。
実際、本当にあった一例では
加害者の家族を援助した友人は
家族に辛く当たられ
うつ病になり、
結果別れてしまったそうです。
とても難しい問題です。
殺人事件は増えていますし、
ドラマでも多く放送されますが、
結果が分かればおしまい。
でも、本当はそこからさらなる悲劇が
始まっています。
そんな実態を認識するためには
情報を得るためにとても大切な一冊だと思いました。
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2010年4月に放送されたクローズアップ現代「犯罪加害者家族達の告白」の取材を元にまとめられた物。幸いな事に私自身や私の周りには、報道されたりネットで話題になった犯罪の加害者も被害者もいない。しかし、いつ巻き込まれるかわからないのも確か。出来る事は報道された犯罪について興味本位で調べたり、具体的な行動ををしない位だろうか。
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「罪を憎んで人を憎まず」とは言うもののやはり加害者を憎みたくもなる。ただし憎む場合は加害者「だけ」に留めるべきだ。この本でいかに加害者家族が負う必要のない制裁を受けているのかがよくわかった。事件に対するメディアの過剰な情報は日本特有の「空気」と「世間」の陰湿さに満ち溢れている。受け手の我々も気づかないうちに毒されているのが恐ろしい。最初の章だけでも読むことをおすすめしたい。報道と事件そのものの捉え方が変わるはず。
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家族あるいは身近な人が犯罪に巻き込まれる、という想像をした人は少なくないかもしないが、その逆はどうだろうか? 自分の親、兄弟、親類が人を殺す、物を盗む、という想像をしたことは? ない人の方が一般的だと思う。
この本では、世間ではよく知られた凄惨な事件の加害者家族のその後が綴られている。決して同情的になりすぎず、批判的にならず。
宮崎勤元死刑囚による「連続幼女誘拐殺人事件(1988)」、14歳の中学生による「神戸連続児童殺傷事件(1997)」、林眞須美被告による「和歌山毒物カレー事件(1998)」、中学1年性の男子生徒が4歳の男児を殺害した「長崎男児誘拐殺人事件(2003)」、「地下鉄サリン事件」やまだ記憶に新しい「英国人女性殺害事件(2007)」などの加害者家族のその後。
私自身、誰かを殺したりしない、と言い切れるけれど、家族・親類がそうだとは言い切れない。でも現実には、一年に一度、会うか会わないかの親類が犯した罪で職場を追われることになる、といった事実が本書では、淡々と記されている。
被害者家族は、加害者がなぜそのような罪を犯したのか、真実を知りたがる。その矛先は、当然のように加害者本人だけでなく加害者家族にも向けられる。しかし、加害者家族は、捜査の間は加害者との接見は禁止されることが多く、またマスコミや世間から隠れるために自身の生活もままならない。加害者家族もまた、真実を知ることができない状況に追い込まれている。
『龍谷大学の浜井幸一教授は、「日本において家族殺人は、全体の4割を占める、伝統的な殺人の形態である」としている』
殺人事件のうち最も多い「家族内殺人」は、自身が被害者家族であると同時に加害者家族でもある。「家族内殺人」を題材にした映画、佐藤浩市・志田未来主演の「誰も守ってくれない」を近いうちに観ようと思った。
少年犯罪は、加害者の顔や名前を公表しない。しかし、インターネットでは、本人の顔写真だけでなく、両親の実家の住所、電話番号など様々な個人情報がさらされ、そのような個人情報をさらした「匿名」はインターネット上で「神」といわれることすらあるのだ。
『「世間」においては人権や権利はない。あるのは「贈与・互酬の関係」、つまり「お互い様」という関わりだけだ。贈られたら贈り返さなければならない。別の言い方をすれば、やったらやり返されるということになる。
事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの「世間」に取り囲まれる。嫌がらせの手紙や電話、落書きは、ほとんどが匿名によるものだ。集団で同じ行動をすれば、匿名の個人は目には見えない存在として、集団の中に紛れこめる。結果的に常に安全地帯から意見表明をすることができる。そして「世間」による加害者家族への攻撃はエスカレートしていく。
さらに、匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている。』
加害者家族にも責任があるのだから、誹謗中傷は仕方がない、という意見が多くの人に通ずる感情であるのも否定できない。この本のあとがきに東野圭吾の『手紙』の中の一文が引用されている。
『君のお兄さんは、残された君がどんなに苦しむかを考えなかった。君がいま受けている苦難もひっくるめて、君のお兄さんが犯した罪の刑なんだ。君がお兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋違いだ』
これはある一面においては真実だが、だからと言って加害者家族の現状が今のままでいいというわけでは、全くない。
欧米からはだいぶ遅れて、近年になって日本にも加害者家族の支援が始まりつつある。犯罪被害者の人権保護ですら、ここ10年で意識されるようになった日本において、加害者家族への支援活動はより一層時間がかかることが予想される。
『加害者家族に関わる組織だというと、すぐに被害者のことをどう思っているのかという非難がくる。あくまでも被害者支援があっての加害者家族への支援である・・・
だが時折、自分の子どもが犯罪に巻き込まれ、被害者になってしまう状況を想像し、複雑な心境になることがある。
「仮に、自分の子どもが被害者になったら、加害者もその家族も憎くて憎くて、それを支援することなど、とても考えられないと思う。でもいまの自分は被害者でも加害者でもない。第三者だからこそ社会の中でやれること、やるべきことがあるのだと思う。(被害者も加害者も)どちらも、一つの事件からこれ以上、犠牲者を出したくないという点では同じだと思う」』
加害者家族への支援について、実際に関わっている人の意見なだけに、深く、そして考えさせられるものがある。
『犯罪学の権威ともされる研究者に話を聞く機会を得た。犯罪被害者がおかれた窮状をよく知り、一方で加害者やその家族がおかれる立場にも知見のあるこの研究者は次のように語った。
「犯罪被害者を支援する人たちがいて、加害者の家族を支援する人たちもいる。その両方があることが成熟した健全な社会の姿だと思う。加害者家族を支援するのはけしからんと言った途端にすべてが終わってしまう。かつて犯罪被害者を支援する人たちは名前を伏せ、顔を隠して活動を続けて来た。それが10年以上もかかって少しずつ状況が変わったのと同じように、たとえ時間がかかるとしても、加害者家族に関わる人たちが普通に活動していけるような環境を作ることが大切ではないか」』
犯罪被害者も加害者家族も、犯罪そのものではなく、二次的被害、「世間」に苦しめられている。その「世間」とは、「当事者意識のない第三者」ではないだろうか。必要なのは、『犯罪に巻き込まれて被害者になったり、加害者でなくとも加害者の家族になったりする可能性があることを心得』た、「第三者」に、我々自身ひとりひとりがなることが、求められているように感じる。
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今までに類のないと思われる犯罪加害者の家族の実態について
まとめられた本だった。
今までは犯罪加害者の家族が何を思いどのような生活を送っているか、
じっくり考えたことがなかったので自省させられた。
特に第一章の例(フィクション?)は固唾を飲んで一気に読んでしまった。
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犯罪加害者家族に対する、社会的風当たりの強さと苦悩、支援の必要性の有無などについて。
印象に残ったのは、アメリカで銃乱射事件を起こした子供の母親の元に、励ましの手紙が届いたという例示。日本には本当の意味での個人主義は根付いてないってことはよく言われるけど、比較の中ではっきりと自覚させられる事例だと思った。「社会」とか「世間」とか一概にどっちが優れた考え方かってのは言えないだろうけど。