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主人公はいずれも、心弱いながら心優しく、周囲から少し見下され、それでいてすがられる。ヒトがヒトと関わって生きるということ、医療がどれほど進歩しようともヒトは死を迎えるということ、それを自然体で伝える。他人の死どころか親の死とすら係わらない世にあって、ありきたりに生きる中にも避けられない、あたりまえをここに見た気がする。
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短編が4編、どれも味わいがあるが、やはり「ダイヤモンドダスト」が一番いい。医療系の作品で死を見つめるものは多いが、死に向かって坦々として、自然と一体になったような情景に心を打つものがある。
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第100回芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」を含む四編.
「冬への順応」浪人時代に好きだった人が末期の肺癌で自分の病院に入院してくる.
「長い影」カンボジア難民医療団のOBの同窓会でのできごと.
「ワカサギを釣る」カンボジアで知り合った男性と信州でワカサギ釣りをする.
そして「ダイヤモンドダスト」.
どれも,日常に死が寄り添うような話.センター試験に出題されたという「冬への順応」も心にしみるが,看護士の主人公と幼なじみの淡い恋愛(といっていいんだろうか)と,主人公の父親と末期癌の宣教師の心の交流とその死を描いた「ダイヤモンドダスト」が重層的で読み応えがある.
どれも重い主題を重くなりすぎない文章で描いて秀逸.
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大学二次試験対策で解いたことを思い出して手に取った。日常を冷静にとらえ、現実を飾り気のない文章で描く。淡々としているが、時折地に足をつけようと静かに抵抗する。その、水面に石を投げて徐々に広がる波紋のような感触がいまだに残る。好きとも嫌いとも言えないが、つかみにくい体の小説。消化できていないので、いずれ著者の他作品を読むか再読するかして、この感触を理解し、書き表せるようになりたい。
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【本の内容】
火の山を望む高原の病院。
そこで看護士の和夫は、様々な過去を背負う人々の死に立ち会ってゆく。
病癒えず逝く者と見送る者、双方がほほえみの陰に最期の思いの丈を交わすとき、時間は結晶し、キラキラと輝き出す…。
絶賛された芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」の他、短篇三本、また巻末に加賀乙彦氏との対談を収録する。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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心に残る本の一つである「阿弥陀堂だより」の作者さんの芥川賞受賞作で、4つの短編から成り立っていて、どれもこれも淡々と話しが進んで行きます。
どの話も命に向き合った話なのだけれども、押しつけがましさが無くてあくまでもその時間を切り取って窓から覗いている感じでした。「この話から何かを感じろ」と言われているのではなくて、置いてあった素敵なものを自分で勝手に見て、大事に折りたたんで胸の内ポケットにしまい込んだような気分です。
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海外の危機に対して無関心であることの罪悪感を
「対岸の火事なのか」などと言って煽り立てることは
間違ってるとまでは言わないにしても
しょせん富める者の傲慢にほかならない
それらがけして、真善美に値するものでないということは
忘れられるべきではないだろう
施しは時に偽善であり
忘却は時に必要悪である
もちろん偽とはいえ善、悪とはいえ必要、なんだ
「ワカサギを釣る」
ポルポト政権下のカンボジアから逃亡してきた難民
つまりインテリである
そのインテリ難民が、日本のインテリの傲慢さに対する怒りを
押し殺すというシーンが、なんともいえないものだ
「ダイヤモンドダスト」
死期の決定した人の生を無意味に引き伸ばすことが
マッチポンプのようである、と見る向きもあるだろう
しかしどうあがいたって人生は、散る桜とか、打ち上げ花火とか
あとダイヤモンドダストにたとえられるほど
はかないものでもあるわけだな
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生と死、経済的な裕福さと心の正直さ、またスローな生活に憧れる自分とスピードのある生活に慣れきってしまった自分との葛藤のようなものを感じた。
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10年ぶりの再読。
この作品にはパニック障害だとか鬱病の話は出てこないと思ったら、まだ発症する前の初期作品なのですね。
それでも全体の重く沈んだような静謐感はあります。タイ・カンボジア国境での難民医療チームへの参加などを題材にしていても、どこか暑さや弾けるようなエネルギーは無く、メランコリックな挫折感や諦念のようなものが顔を出します。
それが私の好みなのですが。
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05-042 2005/04/17 ☆☆☆☆
ダイヤモンドダストは芥川賞受賞作。
確かに良い話です。凛とした気品のようなものが漂います。
あとがきの中に、著者本人が自分の事を「硬すぎる文体しか持たない」と言っています。そういえば確かに硬いですね。しかし、難解では無い。むしろ平易と言っても良いでしょう。あまり感情に流されないと言う意味での硬さですね。
そうした硬い文体が、いいテーマに当たって、こうした気品が漂うような作品になったのだと思います。
長い影という作品も好きですね。最後、もう少しひねれたら、とても良い作品になったのにと残念です。
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むかし現文の模試で読んだことがあったはず。
死にゆく人と決意と、小説による美化と、医療従事者の目による冷静で現実的な視点。
タイの難民キャンプでの医師派遣の話は、著者の体験によるものだろう。死を扱っているが平和な日本の病院と、カンボジア人たちとの割り切った態度の治療。実際に行った人にしかわからない感想が興味深かった。
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「地に踵のついた」(巻末 加賀乙彦との対談参照)短編集。このような静謐な話は、病気の経験がないと書けないかもしれない。
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医療に携わる人々をテーマにした短編4本。
重い内容で気が進まなかったが、読後は不思議と心を鷲掴みにされていた。
何も対話だけが心を通わせる手段ではなく、また、それだけに価値があるわけでもない。皆あるがままに生きて死んでいくのだと腑に落ちるような感覚になる。
物語の中に浮かび上がる生と死が、命の煌めきとして昇華されていくようだった。
表題作はみるみる引き込まれて一気読み。
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東南アジアに難民医療のため一時派遣されたときの経験・出会った人についての短編が三つ。最後の一編はベトナム戦争で空軍パイロットだった牧師が死の床について語る言葉、「乗り物は早くなるほど罪深くなる」が印象的。
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芥川賞受賞作映画で、私のベスト10に入る「阿弥陀堂だより」を書いた人。
映画の中の美しい風景と、暖かい物語が何時までも忘れられない。br />
それなのに、随分前に話題になったこの本を読んでなかった。
100回記念の時の芥川賞受賞作。。
メモが長くなってしまった。
1989年の著者の近影があった、ひげを取ったら私の主治医の先生に良く似ていて驚いた。うちの先生も佐久の総合病院で研修生時代を過ごしたそうだ。今頃になって同じ病院かどうか聞けないけれど。そのうち切っ掛けを見つけてと思っている。
日常勤務している信州の病院が舞台で、4つの短編に別れている。短編といってもただのショートストーリーではなく読み応えがある。
冬への順応
タイ・カンボジアの国境近くで医療活動に参加して帰った僕は、日本の気候に慣れないでいる。命まで乾いたような難民キャンプの暮らしと、帰国してからの、電話の鳴り止まない病院。命の現場の違いに慣れないで、休日は鮎つりにのめりこんでいた。そこに予備校時代に東京で再会した女性が、転院してくる。末期の肺がんだった。
以前同じチームだった同僚が主治医だったが、手の施しようがないという。
彼女も静かにそれを受け入れていたが、時々病室を覗いて昔話をしたりした。恵まれた育ちで憧れだった人はもうわずかに残る命の灯の前で無力だった。山の診療所で働きたいと話したことがあったが、ちょうど、空いた診療所があり、そこに通うことになった。
そして暫くして彼女が亡くなった。ぼくは、厚く張った氷を割ってワカサギを釣っていて、疲れてコタツに入っていたとき電話で彼女の死の知らせを聞いた。
長い影
カンボジア医療団の忘年会が開かれた。風呂に入っていたところに痩せた女が入ってきて、洗い場で烈しく嘔吐した。僕は汚れを洗い流し、身体にタオルをかけて寝かしておいた。
女は看護婦で参加していた。献身的に働き、妻を亡くした若い男の乳児の世話をしていた。
帰国前に男と乳児を連れて帰りたいと大使館に申請したが却下された。
帰国する日、彼女は淡々と引き継ぎをして、バスに乗った。男と赤ん坊は身を反らせて泣いていた。
----申し送り終えた女に、タケオさんは思い切って聞いてみた。なぜそんなに意地を張ってきたのか、と。女は下を向いたまま、ひとそれぞれに性格がちがうように、責任のとり方にもちがいがある、という意味のことを、きつい東北なまりで切れ切れにつぶやきながら、ジープに乗り込んでいった。
タケオさんのまわりに集まって手を振っている、若いクメール人の医療助手の一人が、彼女ほど病棟の仕事をきちんとやった看護婦はいなかった。と怒ったように言った。それにつられて他の一人が涙声で言った。難民に対する同情をおさえることと、なにもしないことが、おなじことだと錯覚していた日本の医者や看護婦たちに、なぜひと一倍多くのことをしてくれた彼女を責める権利があるのだ、と。---------
忘年会が明けた翌日、彼女はさばさばと東京駅から新幹線に乗って帰っていった。
ワカサギを釣る
種村はカンボジアで知り合ったミンがきたので、ワカサギを釣りに行った。ミンは厚い氷の上を恐る恐る歩いて氷に穴を開けた。
ワカサギは大漁だったがミンは初めての寒さを経験した。
ミンは戦前のプノンペンでは良家の息子だった、しかし、新生の政府は家族を連れ去り、彼は収容された。仲間と逃亡をはかりミンは生き延びた。彼の難民用の家に招かれた種村は信州の話をした。
帰国してミンが妻子とともに大阪の看護士学校にいることを知った。
ミンは釣ったワカサギを湖の氷とともに袋に入れて帰っていった。
ダイアモンドダスト
看護士の和夫は帰り道で、幼馴染の悦子がテニスのコーチをしているのに気づく。彼女はカリフォルニアに住んでいた。
和夫の父は小さな電車を運転していた。
別荘地から山の下を回って、温泉街までゆっくりゆっくり走る電車だった。
廃線になり父は仕事をやめたが、持っていた山が別荘の開発業者に売れ、生活の心配はなかった。
母は早く死に、妻もなくなって一人息子と男ばかりの三人家族だった。
家事は器用な父がした。
和夫は医者になるつもりだったが父が頭を打ち、倒れたので看護士になった。
半身が不自由になってはいたが父はまだ家のことができた。だがまた倒れ入院する。
そこになぜか悦子が家事を手伝いに来てくれた。
病院にマイク・チャンドラーという宣教師らしくない宣教師が入院してくる。彼はベトナムでファントムに乗っていたという。元気があるときはそのプラモデルを作っていた。患者が増え父と同室になった。彼は不思議に父と気があった。
父が退院して、水車を作ると言い出した、身体は動かないが頭の中に設計図が出来ていて、悦子を含め、和夫も馬鹿にしていた水車作りに興味がわいた。
低い河から水をくみ上げ庭に水を張る、そんな水車が完成した。
しかし、水車がきしみながら回り続ける頃、庭で父は死んだ。
マイクから遭いたいと電話が来て、エンジントラブルで海に向かって脱出したときの話をした。
-----「誰かこの星たちの位置をアレンジした人がいる。私はそのとき確信したのです。私の心はとても平和でした。その人の胸に抱かれて、星たちとおなじ規則でアレンジされている自分を見出して、心の底から安心したのです。今、星を見ていて、あのときの安らかな気持ちを想い出したかったのです。誰かに話すことで想い出したかったのです」----------
「検査の技術が進歩して、癌患者の予後が正確にわかるのに、治療が追いついていない。このアンバランスはきっと、星のアレンジをしている人が、自分勝手に死さえも制御できると思い上がった人間に課している試練なのだと思います、今、とても素直な気持ちでそう思う・・・・・思いたいのです」----------
この4編。作者はあとがきで、硬する文体しか持たない男の自己検証の作業、といっている。
硬すぎる文体、かえってそれが私には読みやすく、きちんと整ったこの小説に感動できた。
叙情に傾かない言葉で語った作品には力があり、人���生と死について、医療の現場からの真摯なレポートのようだった。
静かで落ち着いた文体の中に重い現実と、必ず訪れる死に対する作者の思いが深くにじんでいる。
ミステリを推理しながら読むことも楽しいが、文学作品はすっぽり浸ってしまえるよさがある。
南木さんの「草すべり」「医学生」「家族」をこれから読んでみる。
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第100回芥川賞受賞作。
「冬への順応」は浪人時代のぼくと千絵子の関係を描く。浪人時代から医学生時代、そして現在と、ぼくと千絵子の関係性が移ろうが、死期が迫ったからこその関係性が美しく描かれていた。死を目前にぼくに再開した千絵子は「生きてた」と思える最期を果たして送れたのだろうか。
「長い影」はカンボジア難民医療団時代のメンバーであった、ぼくとフランス語を話す看護婦(原文ママ)の女の物語。「役人」的な治療をしたぼくと、周りからたしなめられるほど難民に肩入れをしていた女とでは、人道的には女の方が善であるように見える。しかし、それらの出来事は事実として地の文に淡々と描き、善悪の視点は女のセリフに感情をこめて載せられているからか、作品全体としては中立に立っているように思えた。
「ワカサギを釣る」は看護士の種村と医療助手のミンの話。「ものごとを深く、だからどうしても暗く考えてしまう人間」という点で共通する「黙り助平」の種村とミンの命に対する畏敬は同等に深いのだと思う。
「ダイヤモンドダスト」は看護士の和夫を中心に、その家族、幼馴染の悦子、死期の近いアメリカ人宣教師のマイクの物語。特に、従軍経験もあるマイクの死生観は素朴ながらも、人間がある種本能的に持っている神の概念と自然に接続する等身大の感性だと思う。彼が宣教師であるという設定も、その補強になっているように思える。
初読で細部までは読み込めてないように思えるため、いつの機会かに再読をしたいと思う。