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カヴァーに「生涯最高の活動期ともいうべき晩年の名作五篇を収録。」とありますが、ほんとうに犀星晩年作品は素晴らしい。『密のあわれ』が好きな方は多いことだろう。こんなふうに自分のことを「あたい」と呼び、「おじさま」と語りかける、なんとも魅力的な少女。朱い金魚(出目金)を思い浮かべながら読むと、尚更。ガン闘病記『われはうたえども やぶれかぶれ』からもまた、犀星その人の「構え」を感じることができる。そして遺作、最後の詩「老いたるえびのうた」。この講談社文芸文庫には、解説、作家案内も詳しい。著作目録が載っているのも有り難い。陶古の女人密のあわれ/後記 炎の金魚火の魚われはうたえども やぶれかぶれ老いたるえびのうた以上を所収。
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「蜜のあわれ」が艶っぽくて素敵。金魚のはすっぱな感じが可愛らしい。
にしても犀星先生、女の人好きねー!(笑)
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室生犀星『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』読了。特に『蜜のあわれ』が不思議な感覚。若い金魚の女と人間の老人の対話篇。そこに幽霊が絡んでくる。全員、恋をしている。当然、現実的な話ではないのに、時々奇妙に現実に重なる。
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室生犀星と言えば「故郷は遠きにありて思ふもの・・・」ぐらいでしか知らなかったが、金魚と飼い主?の言語を介したやりとりは、すごく新鮮に感じた。シュルレアリスムの具象的な形式としては、非情に面白い。
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「おじさま」と三年子の赤い金魚との会話によって構成されている短編、「蜜のあわれ」が特に好き。
「おじさま」と金魚屋さんにとっては小さな可愛い金魚、他の人にとっては人間のはずなのに、どこからが金魚でどこからが人間なのかわからなくなる。
金魚である方が官能的で美しい気すらする。
その他の短編も秀逸。
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陶器や金魚など、身近なものに愛着をもって一日中それを観察していて飽きないという作者の特質がよく表れている短編集だと思う。
どの小説も(「蜜のあわれ」にしても)、尻切れとんぼというか、私小説風の余韻を残すような「味」のある演出と言えなくもないが、
とにかくナンダカンダ言って私小説なんだなと思って、でも私小説にしてはちと馬力が足りないんじゃないかな。「蜜のあわれ」途中で飽きるし。それに作者性格わるそうだし(いや、別にそれはいいか)。
いーやそれよか、死ぬ間際でさえ排尿とかラジウムの愚痴を書き連ねた挙句「大家」とは何なのかね? 小説家にとっての絶筆って、もっとほら、他にあるんじゃない? まあ、うまくハマらなかったという話。
あぁ、でも型にハマってなかったというのはその通りだと思います。
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赤い金魚が人間の女の子となって、老齢の男性と交流する話…
と聞いて、読んでみたい!と思い室生犀星初挑戦。
表題作はじめ全5篇の物語なのだけれども、
特に「蜜のあわれ」は期待を上回る作品。
室生犀星の理想の“女ひと”像の結晶ということらしいのだが、
全篇対話形式で描かれる二人(?)のやりとり及び関係は
とてもエロチック。
いや日本語で、色っぽい。あるいは艶っぽいとするべきか。
森見登美彦の「宵山万華鏡」でも金魚というモチーフ自体が、
妖しい少女として描かれていたように、
文学的に描写されるのは、メス=少女が似合う。
また金魚としての命の儚さと、老齢の男性が避けられぬ死。
エロスとタナトスと言ってしまっては在り来たりだけれども、
死の影がそこはかとなく漂うことで
より色っぽさ・艶っぽさが濃くなっているよう。
幽霊も登場することだし。
他の作品に関しては、読んでみると面白いのだけれども、
なにより文体や言葉遣いなどが今とは違っていることが
原因か、読むのにとても時間がかかってしまった。
日本文学の明治・大正・昭和初期の作家にももっと触れていきたい。
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その昔、Book1stの店員さんが「ROLL OVER & DIE!」っていう冊子を作ってらして、2003年の「裏100選」ていう文庫の特集号を偶然手に取ったのです。そこに載っていて読んだ本。今でもこの「裏100選」はだいじに持っていて、時々読み返します。新潮Yonda君があっかんべしてる表紙なのです(笑)。
さて「蜜のあわれ」ですけども、すごくいけないもの見ちゃった感じで、でもすごくかわいくて、もうなんともいえないきゅんきゅんする作品です。悶えます。室生犀星は、これからもっと読んでいきたい作家です。
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「密のあわれ」のみ、院生の頃日本幻想文学集成で読んでたのですが、やっと残りを読みました。ので、感想編集。
きんぎょちゃんかわいいです。オジサンと女の子の組み合わせっていいよね。「火の魚」とかも読むと、作者にとって金魚はほんとに女性を象徴するものやったのか、と思ったけど後から「陶古の女人」読んで、なんだ、へんたいか、と考えを改めてしまっt…
背表紙でガン闘病記とかいうから「われはうたえども やぶれかぶれ」は結構構えてしまったんやけども面白かったぞ。思い付くままに流れるように文を繋いでいて、治療しかすることない入院中はそうやって思考が流れるんやろなあと、腰をこごめてウンウンしているおっさんを想像することができたよ。しかしガンの要素はどこに?
これ読みながら、頻尿気味のわたしは何度もトイレに行きましたがね!
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金魚の化身、赤井赤子と先生の日常を全て会話だけで描いた名作。少女趣味があろうと無かろうと、コケティッシュで無邪気な彼女には皆、惹かれるだろう。
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性欲に反して美人と縁のない生活を送ってきた「をじさま」は作家だから、脳内で愛人をいっぱい作り小説に書いたりする。
その「をじさま」がずっと会話して遊んでいる「あたい」は金魚。
金魚は容姿端麗なお嬢様になったり、かと思えば出目金の姿でメダカを齧ったりしている。
「をじさま」にはお小遣いを5万円せびったりしている。
そうして講演会で、「をじさま」の昔の知人「をばさま」に出会って、ふたりを引き合わせようとするのだが…。
かわいいお話。
ただ、会話だけで進むので、脚本を読んでいるよう。
小説を読んでいるという感覚はなかった。
室生犀星よんでみたかったので叶って満足。
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この金魚との会話、楽しんで書いたんだろうな、と想像してみる。
“あたい”の口調のテンポのよさに紛れてしまいそうだけれど、会ってもらえない幽霊の手首についた、腕時計をねじり取られた傷跡とか、身につけたハンドバッグの錆びついた留め金なんていう描写を目にすると、冷え冷えしたものを感じる。以前読んだ犀星の「後の日の童子」での、童子の残した足跡に群がるたくさんの“”うじうじ”した馬陸(ヤスデ)という描写もそうだった。
美しいものを愛した犀星らしいといえばらしいのだけれど、「火の魚」で折見とち子を評するにあたって、“美人ではないためのりこうさ”とか、“美人でないための穴埋め”とか、“美人であるなしをいう相手の批評”とか、くどいくらいに書いていて、笑える。
個人的には、頭もキレて、手も利く人というのは、もう無条件に尊敬してしまう。死の影を抱いて、いっそう凛として。
この5月に実父ががんで死んだこともあって、「われはうたえども・・・」はなかなかに身につまされる話だった。
86歳だったので、世間的に見れば、もう十分生きたでしょうと言われそうだけれど、昨年がんが見つかるまで持病一つない健康エリートだったので、もう十分なんて、本人はこれっぽちも思っていなかった。
同い年の義理の母も、ちょっと調子が悪いと、どこぞのがんかもしれない、と毎年恒例のように大騒ぎをして検査を受けている。そんな二人を見るにつけ、年をとればとるほど、生への執着は強くなるのかしら、と思っていたので、作中の、
“八十八歳であっても生きねばならないことに変りはなかろう。五十歳六十歳の小僧っ子から見たら、それだけ永く生きていたら沢山だというかも知れないが、八十八歳の人はまだまだ生きなければ損だと真面目に考えているのだ。生きることに限度はない、永く生きることは予測することの出来ない欲のふかさとも言えるだろう。”
との言葉に本当にそう、と思う。
最近の緩和ケア界隈では、スピリチュアル・ペインへの対応も忘れてはならない、というようなことも言われていて、それは確かに忘れてもらっては困ることだけれど、それだって、食う・寝る・出すの安寧が担保されてこそ、の話だな、とつくづく思う。
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あまりにもつるつると完成されていて。少し怖気づくも、ユーモアにすくわれる。しかし、そのユーモアの冷えびえとしていることよ。
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この金魚少女の可愛らしさは少女趣味で詩人の室生犀星にしか書けない。描写はより現実的でありながら幻想的でフェティッシュ。
「何処にも、あたいのような良い金魚はいないわよ、お判りになる、おじさま。」
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「蜜のあわれ」だけ読んだ.
すべてが会話だけで書かれている.Wikipediaによれば対話体小説というらしい.
金魚とおじさまの痴話が主体.無粋な私には楽しみ方がわからなかった.
この本,講談社文芸文庫にしてはレビュー数が多いのはなぜ?