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アリストテレスから、カント、ロールズ、ミル、バーリン、ベンサム、ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、サンデルまで古今の哲学者を引き合いにだし自由とはどのように考えられてきたのか述べている。サンデルの『正義とは何か』を自由という視点から考えていると言っても良いかも知れない。
自分の理解の及ぶ範囲で要約してみる。
現代では「何故人を殺してはしけないか」「何故援交をしてはいけないか」といった問いに明確に答えられなくなっている。個人の選択の自由と言ってしまえばそれまでだからだ。
その価値観の基礎にあるのは個人主義、主観主義、相対主義を前提とするリベラリズム(自由主義)である。何を善いと思うかは個人の主観であり、それらに優劣を決めることは出来ない。ならば個人の自由な選択を保証し、平等な権利として認めることがリベラリズムの基本である。
しかし、著者はこうした「個人の選択の自由」を普遍的な権利として推し進めるリベラリズムの風潮(アメリカの掲げる正義は主にこれに由来する)に懐疑する。
自由とは本来何かを行うための手段であるからだ。しかしすべての価値が相対的となり、共通の目的を持ち得ない現代では手段である自由それ自体が目的化してしまう。それはニヒリズムの最悪の形態である。
個人は生まれ出た共同体とは独立に存在する普遍的な存在(負荷なき自己)ではなく、ある共同体に埋め込まれ時代、国家、家、性、人種などの属性を持つ「状況づけられた自己」である。
古代ギリシャではポリスにおいて徳を発揮しポリスに貢献し評価されることが善く生きることでもあった。
また著者は人が時として生命よりも優先させるものとして「義」を挙げた。赤穂浪士の討ち入りやソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』などは共同体や時代を超えた義によって動かされていたのだと言う。(主人への忠誠、家族への愛以外にも様々な形の義があり明確に定義できるものではないとも述べている)
著者の結論は自由は多層的に論じるべきでありそれは①個人の選択の自由だけでなく、②共同体を想定した「社会の是認、他者からの評価」③義に叶うという3つの次元であるという。
そして価値相対主義によってニヒリズムに陥るのではなく、多様な義を認め多元性を容認する方向へ向かうことが重要だとしている。
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現代の自由の観念の捉え方に新たな視点をもたらしてくれました。多様化し成熟した社会と言われる現在においても、豊かさに何らかの違和感を感じている中、その引っかかりの一因に自由のあり方が問われていると感じました。
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リベラリズムではない形で「自由」を論じるにはどう論じたらいいか。
人は、自分が十分な敬意を払われていないと感じるとき、また、そうした集団に属していると感じるとき、真の意味で自由ではない、と感じる。確かに、より高い価値のために自分を犠牲にするという態度は、特定な価値の絶対化に繋がる。だが、それでも、ある種の自己犠牲は多くの人の心をとらえて離さなかった。それを「義」と呼ぶとすれば、「義」というものは、決してあらかじめ決められているものではなく、その社会のある特定の状況の中で具体的な形をとる。
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サンデル、正義の話と主張が重なって見える。理論、論説の語り口も同じように見えるので、サンデル教授に軍配を上げる。3段階の論理はこびがスムーズ。例が良く分かり、複数上げられていた。
最後に収束するところ、サンデルは倫理、徳であったが、本書は義である。
日本と西洋の違いか?宗教の違いだろう。
キリスト教vs東洋儒教
自由を語るときには、対になる何かを明確に規定がありそうだ。
イラクの人質事件と「自己責任論」、自己責任とは、あいまいなことばである。自由があっての責任と捉えられているが、本当にそうか?
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読みやすく、明快な文章だったが、同著で引用されている哲学者の著書を読むことで、より理解が進むと思われる。
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佐伯先生の講義である。
様々な社会に対して、鋭く闊達な議論を投げかける筆者が、真っ向から「自由」を論じた本書。過去から現在にわたる「自由」に対する定義と議論をまとめた、哲学・思想の解説。
新書にしておくのはもったいない品格のある講義だ。
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「自由とは何か」佐伯啓思著、講談社現代新書、2004.11.20
286p ¥777 C0230 (2023.07.15読了)(2012.07.27購入)
副題「「自己責任論」から「理由なき殺人」まで」
【目次】
第1章 ディレンマに陥る「自由」
第2章 「なぜ人を殺してはならないのか」という問い
第3章 ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」
第4章 援助交際と現代リベラリズム
第5章 リベラリズムの語られない前提
第6章 「自由」と「義」
おわりに
あとがき
☆登場する本
「自由の二つの顔」ジョン・グレイ
「自由の条件」フリードリヒ・ハイエク
「近代の政治思想」福田歓一、岩波新書
「罪と罰」ドストエフスキー
「実践理性批判」カント
「プリンシピア・エチカ(倫理学原理)」ジョージ・エドワード・ムーア
「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン
「哲学探究」ウィトゲンシュタイン
「正義論」ジョン・ロールズ
「歴史のなかの自由」仲手川良雄、中公新書
「アンティゴネ」ソフォクレス
「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム
「犠牲と羨望」ジャン=ピエール・デュピュイ
『存在と時間』マルティン・ハイデガー
「道徳を基礎づける」フランソワ・ジュリアン、講談社現代新書
「自由論」バーリン
「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット
「意味を見失った時代」コルネリウス・カストリアディス
☆関連図書(既読)
「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著、講談社現代新書、1993.06.20
「「市民」とは誰か」佐伯啓思著、PHP新書、1997.07.04
「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)」佐伯啓思著、PHP新書、1999.06.04
「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義(下)」佐伯啓思著、PHP新書、1999.07.05
「総理の資質とは何か」佐伯啓思著、小学館文庫、2002.06.01
「新「帝国」アメリカを解剖する」佐伯啓思著、ちくま新書、2003.05.10
「自由と民主主義をもうやめる」佐伯啓思著、幻冬舎新書、2008.11.30
「反・幸福論」佐伯啓思著、新潮新書、2012.01.20
「日本の宿命」佐伯啓思著、新潮新書、2013.01.20
(「BOOK」データベースより)amazon
「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。
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[2013-01-26]
■
趣旨は、近代的自由観への問題提起。
近代的自由とは、国家に先立ってまず自由な個人が存在している、とするものであり、ホッブズにより提唱された見解。
あらゆるものに先だってまず個人の自由がある、と考えるホッブズの見解を突き詰めれば、個人の自由を制約するものとしてこれと対立する規範や道徳は行動指針とはなりえなくなり、結局そちらを選んだほうが得だから、という功利主義的な指針に従って行動せざるをえない、とする。
これに対し、著者は、個人の自由もその国家により実現される側面があることを忘れてはならないとする。
「集団の持つ強制力から逃れていること、ここに近代の『私的自由』が成立した。」(p90)
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とてもよかった。
実は1年前に読んでよくわからないという感想であったのだが、今ゆっくり読んでみるととても良いと感じた。
当時見られた身近なニュースをとりあげて、自由とは何か、また自由は何を前提として語られるものなのかを説明している。その上で著者なりのあるべき姿、とるべき態度(私の理解ではあいまいであるが)をゆるく主張している。
過去の哲学者の考え方をしばしば持ち出しており、興味深い考察も多い。
一読の価値がある一冊。難しいと思うので相手を選ぶが、胸を張って他人に勧められる。
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現代社会では自由が殊更に叫ばれながら、自由に対する渇望感がまったくない、というジレンマから論理が展開する。著者はリベラリズムに反対する訳ではないと言うが、明らかにリベラリズムに対する不信感が見て取れる。
曰く、リベラリズムは自由を『個人の選択や趣向』に矮小化してしまうが、自由は本質的に社会的な問題である。自由は必然的に価値判断を伴うが、その価値は共同体に認められるものでなければならない。この説明で何故援助交際が非倫理的なのかが納得できた。『倫理的』の判断が時代や国によって違うことも。
自由を題材に、啓蒙主義、功利主義、カント、バーリンなどの近代哲学を系統だって解説した好著。
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現代のリベラリズムへの批判。
後半の抽象的な論理展開は、他の哲学者でもできるので、是非具体とのリンクを保ちながら論じ続けて欲しかった。
ただ、前半部分については、具体的な視点から論を進めていて、何を問題意識としているのかが分かりやすかった。
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バーリンによる積極的自由の排除という考え方に感銘を受けた。リベラリズムの4つの立場、すなわち1.市場中心主義=フリードマン、ハイエク≒リバタリアニズム 2.能力主義=プロ倫、ノージック 3.福祉主義=ロールズ 4.是正主義≒アフォーマティブアクション なる区分が先鋭というよりも理解の足がかりとして秀逸。白眉は第6章で、「自由」という観念にまつわる一種の胡散臭さや、矛盾をも抽出し、「義」や「価値」にまでの広げた論考は感動的ですらある。
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高校生のころ、エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」という本についての話を聞いたことがある。自由というものを、~からの自由(消極的)と~への自由(積極的)という2つのものに分けて考えていたのだったと思う。当時私は、ふーんそんな考え方があるのか、というくらいにしか思わなかった。そしてそれ以降も、自由ということについて特に考えることも、あるいは議論することもなかったと思う。もし自分の生活が不自由きわまりないということなら、もっと自由について考えたかも知れない。でも、今まで過ごしてきた環境を考えると、自分が自由ではなく、いろいろと拘束されてきたとは思えない。同じ環境でも人によって感じ方に差はあるだろうが。だから自由なんていう言葉にも興味がわかなかったのだろう。でも、本書の著者によると、そういう時代だからこそ、学者さんたちはじっくり自由について論じることも多いのだそうだ。自由には責任がともなうということがよく言われる。確かにその通りだ。自由に好き放題やって、結果がどうなっても知らんぷりというわけには行かない。だから法律がある。校則もある。イラクで人質になった人たちの「自己責任」はどう考えればいいのか?人はなぜ人殺しをしてはいけないのか、そこに自由はないのか?「援助交際」をするのはその個人の自由か?それらの具体的なテーマが次々に語られます。私は本書にそれらに対する納得行く答を見出すことはできません。歴史的な背景もふまえて、いろいろな自由に関する考え方を学んだ上で、上にあげた問題について自分なりに答えられるようにしておかなければいけないのでしょう。ただ、たぶん理詰めではどうにも行かないこともあると思います。「人を殺してはいけない」というのは、絶対的なもの(西洋なら神)として受け入れればよいのでしょう。・・・でもでも、それなら国家が認める殺人=死刑はどうなるのか?たとえば子どもを殺した相手への仕返しとしての人殺しは・・・我が身に置き換えて考えてみると、一般論ではすまされないことも出てきてしまいます。 問題が難しく、頭を抱えながら読みましたが、カントやウィトゲンシュタインという哲学者たちの考えてきたことが、少しだけなるほどと思えました。
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非常に考えさせられる本であった。現代において「自由」という言葉の意味はまさに混迷している。例えば、リベラリズムという言葉も新市場主義から社会福祉主義まで意味するところは様々である。また、自由はどこまで認められるべきか。女子高生による売春も「自由」なのか。他国に「自由」を強制できるのか。
筆者は自由の背後にあるもの=価値観を強調する。そしてその点を無視したところに現代における自由の混迷がある、とする。特に現代では「個人の選択の自由」という局面ー重要な自由の一側面であるにしてもーに矮小化されがちである。結局筆者は、衝突の場面において社会の価値観を自己反省・自己相対化せざるを得ない、として歴史の判断の問題にある意味「丸投げ」している。とはいえ、現代における答えとして、社会としての特定の価値観を示さざるを得ないように思われる。現代的自由には多くの問題・混迷がありつつも、そのような議論をまさしく現代的自由が可能にしていることは忘れてはならない。
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自由とは何かを考える時、どうして人を殺してはいけないのかという問いに行き着く。このテーマをタイトルにした著書(小浜逸郎氏の著作で、対象読者は佐伯先生より若齢か)も読んだが答えはない。偶々、この著書でも取り上げられた少年Aの絶歌を読む機会があったので、その時に、やはり思考の整理をしておこうと思った。つまり、人を殺してはいけないとする命題に捉われず、人がしてはいけない行為全般を考るというアプローチを取ろうと考えたのだ。かつ、殺人の場合は、そこに死の不可逆性が加わる。レイプや盗難、単純な厭がらせだって、人はしてはいけないのだ。私の理解では、これらはある種の双務事項に過ぎず、結果の不可逆性は罰の程度考慮要素に過ぎぬというもの。双務が成立しえない、人間に限りなく近いが人間ではない存在(脳死をどう扱うという課題はこの線引きの議論)には適用されないからだ。寧ろ、原始社会では存在しない場合もある命題であり、ただの後付けの命題なのでは、というものであった。本著では、功利性、つまり、これら禁止を破った時に被る損失の説明を試みた後、カントの定言命法に行き着く。定言命法とは、道徳法則は無条件で絶対。ダメなものはダメ!という事だ。人間として生きる以上、理性を課した状態であらねばならない。理性が人間の定義となれば、自ず、定言命法の範疇となる事項というわけだ。カントを思考の起点にすれば、そうなるのだろうか。但し、定言命法なんてものは、禁忌の歴史さえ顧みぬ、衒学的な思考停止に過ぎまい。
また、自由を論じる際に高確率で出てくるのが殺人議論と共に、援助交際の問題である。これは、他人の権利侵害という観点で課題にし易い。本著でも取り上げている。しかし、テーマ選定が複雑で、もしかすると誤っている。単に売春とした方が良いのではないか。未成年である事と身体を商品化する事がダブったテーマになっている。無論、未成年であり、親から金銭を与えられている以上、そこには金銭を媒介としたルールがあり、売春に限らず不自由な項目はあるべきだからだ。金銭を媒介としなければ、良いか?否、投資家に対しての配慮は必要なのである。
嫌な書き方をするが、自由論を論じれば、結局は強制された自己の解放といった議論に帰着する。その際、一個人を全能とするような議論は成立しないため、透明な自己の実現がテーマとなる。しかし、生まれながらの不平等を是正するような透明な自己さえも、運命論を超越し究極的平等を目指した、ゆえに成立し得ないユートピア思想だろう。従い、自由論には、哲学的変遷が綴られるばかりで、主張がないのだ。但し言える事は、社会システム上は、与件による機会の差も認めることで、下層淘汰される機構であるべきという事だ。それを踏まえて、擬似的な自由論に生きるべきという事である。意図の有無に関わらず中間層以下を騙さねばならない、いや、気づいたものから脱却していく構図である。