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確かに子供のときのようにがむしゃらに物事に取り組むってことが無い。
挑戦し続けることが生きていく上で一個人にとっても、社会にとっても如何に重要であるか。
いろいろなエピソードも交え非常に興味深い内容でした。
すごくいい本だと思います。
茂木先生の本は好きで数冊読みました。何かいつも哲学を感じます。(哲学をよくわかってないですが。)
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すごい勢いのある内容でした。
著者茂木健一郎氏の野望をも伺える内容です。
タイトルの通り、挑戦するということ。
日々アクションを起こして、これでもかこれでもかってくらいに。
挑戦し続けることで、どんどん学習されていく。
本書で、天才というものが語られておりますが、実際は地道な練習であり、
努力した結果がそう表しているところには非常に共感がもてます。
レインマンのモデルになったサヴァン症候群の方や、盲目のピアニストなどの内容が記載されておりますが、人間の脳は神秘でかつ奇跡的であるということも感じ取れます。
最後に、ホッブズのリヴァイアサンの議論も出てきており、ウィキリークスをリヴァイアサンと見立てて、今後の筆者が書きたい内容をも読み取れます。
科学的な観点から、どうなのかは勉強不足で知りませんが、読み物としても、啓発本としても面白いです。
最近読んだ新書の中ではベスト。
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・「学習」といえば、誤りが修正され、次第に「正解」に向けて成績が上がっていくプロセスだと思いがちである。しかし、「学習」の本体は、実は「挑戦」である。
・人間の脳は、一つの情報を与えられることでかえってそこに「居付いて」しまうことがある。ある情報が入ってこなくなることは、一つの「喪失」であるようでいて、その実は大きな「自由」の獲得へとつながることがある。
・今振り返っても素晴らしいと思うのは、その子が、自分が視覚において「不自由」であることにこだわってはいなかったこと。そんなことは気にせずに、自分の人生を楽しむということに、全身全霊をかけているように見えたこと。
・未だ人類の誰も考えていない理論について、成功する保証もなく、辛抱強く考える。そのようなプロセスについて、アインシュタインは「暗闇の中を手探りで歩く」ようなものだと表現している。
・一方、視覚に頼ることのできない暗闇の中では、触覚で実際に確認した部分空間以外は、全くの未知の領域である。手を「x」の場所まで動かしたとしても、「x」からたった五センチ分右には、想像を超えるような物体が潜んでいるかもしれない。
・アインシュタインが、相対性理論を生み出そうと苦闘したその日々は、まさに暗闇の中を手探りで進むようなものだった。
・絵に描いたような「グランド・チャレンジ」だけでなく、自分の人生におけるほんの些細な「挑戦」をも正当に評価すること。
・探求を続ける中で今、「挑戦」ということを人間の脳のあり方を考える上での中心的概念として立てることの必要性を感じる。とりわけ、一見関係のないように見えることなる局面における脳の働きを、「挑戦」という視点から統一的に見たい、そのように強く思う。
・脳が成長するとは、もっと劇的な現象である。今まで通らなかった縄が足の下を通っていく
三重回し成功の瞬間のように、自分自身の身体感覚が変わるのである。
・「普通」(normal)という言葉には「それが正しい」というような価値判断が忍び込みやすい。そのような概念を払拭するためには、むしろ、「典型的」(typical)という言葉を使う方が適切かもしれない。
・人間の脳は、一生学習を続けている。その結果、次第により多くのことを学び、理解し、新しいものを創造したりできるようになる。学ぶことで、記憶の量や、結び付きの多用さ、操作の豊さが次第に増大する。次第に「高み」へと至る都いう意味では、学ぶことは「登山」に似ている。
・非典型的な脳ほど、その本質を理解する上では、常識にとらわれない大胆な発想と、異質なものを思い描く想像力が必要となる。多くの場合、本当に試されているのは非典型的な脳の持ち主その人ではなく、それに向き合っている周囲の方なのである。
・ツイッターなどのウェブ上のメディアを通して、瞬時に「関心」や「志向性」の共同体を作ることができるようになった時代。人々が、言葉や国の壁を越えて自由に結び付く動きが出てきている。そんな時代にふさわしいのは、表面的な差異にこだわる「反感」ではなく、異なる立場やあり方を越えて、「普遍的にして人間的なもの」を求める「共感」のモティーフだろう。
・���まざまな意味で「普通ではない」キムだったが、そんなキムの才能が花開いたのは、人間としてごく普通の欲望がきっかけだった。それはすなわち、人に認められたい、コミュニケーションを通してつながりたいという関係性の要求である。
・人間は偶有的な存在である。偶有性こそが、生命を進化させてきた。どのような状況であっても、そのような「偶然」を「必然」として引き受けて、活かしていくしたたかさを私たちの脳は持っているはずである。
・デレクは確かに天才である。しかし、天才とは、努力をしなくても何でもできる人のことを言うのではない。むしろ、天才とはどのような努力をすれば良いのか、わかっている人のことである。そうして、そのような努力を惜しまずに続けることができる人のことである。
・私たちは、脳の回路から一つの機能が失われることを、あるべきものの「欠損」としてとらえられがちである。しかし、実際には、脳の機能は、「あちら立てればこちら立たず」の「トレード・オフ」の関係になっていることも多い。
・人間の脳の感情のシステムは「確実なこと」と「不確実なこと」のバランスをとろうとする。自分の中に「確実なこと」が蓄積されるほど、その分「不確実なこと」を受け入れることができる。
・私たちは、脳の発育のための環境整備について、二段階で考えるべきだろう。まずは、良い環境を整備できるように心がける。しかし、仮に良い環境が得られなかったからといって、諦めてしまってはいけない。「挑戦する脳」は、悪い環境に置かれたことくらいのことで、諦めはしない。むしろ、悪条件が独創性につながることも多い。そのことは、歴史の中の経験的事実が繰り返し証明している。
・笑いは、自分の置かれている状況を「外」から「客観的」に見る「メタ認知」をもたらす。メタ認知を通して、自分と他者との関係を見直すきっかけが得られる。
・私の見たてでは、日本の不調は、たった一つの理由に基づいている。すなわちそれは、「偶有性忌避症候群」(contingency avoidance syndrome)である。
・このような「偶有性」の時代に求められているのは、ある決まった知識を身に付けることではない。むしろ、大量の情報に接し、取捨選択し、自らの行動を決定していく能力である。異なる文化的バックグラウンドの人たちと行き交い、コミュニケーションしていく能力である。
・インターネット文明の母国であるアメリカでは、そもそも社会制度そのものが偶有性の存在を前提に組み立てられている。アジア諸国でも、成長に沸き立つ韓国、中国、台湾、シンガポールには、偶有性の海に喜んで飛び込んでいく若者たちがいる。
・「アンチ」の悪弊の一つは、それが「モノカルチャー」であることだろう。「アンチ」を現状批判という軸に固定することで、かえって視野狭窄に陥ってしまう。それに対して「オルタナティブ」は異なる。現状に対しては、一つの「アンチ」しかないのに、「オルタナティブ」は百花繚乱、さまざまな可能性があり得る。
・私は、一つの「オルタナティブ」を示せているか。「もう一つの生き方」を実践しているか。社会を革命するなど、おこがましい。まずは自分一人の生き方の「革命」を。
・もっとも、人生が熟してきて、そろそろ「秋」を迎えるようになるころから、人間は、それまでにない学習課題を背負うようになる。すなわち、自分の肉体や精神が次第に衰えていくという、「下り坂」の事態にたいする適応である。
・死は、人間の脳にとって最後の、そして最大の「挑戦」である。脳が生み出す意識にとって、自分自身の存在が消えてしまうこと以上の恐怖はない。
・意味を問うな。踊れ。
・わかっていても、できない。そんなことが、この世の中には実はたくさんあるのではないか。
・悪意があるのではない。サボっているわけでもない。ただ単に、できないのである。悪意や怠慢ではなく、純然たる能力不足。そのことこそが、日本の今日の問題点であると、私の中で確信された。
・果たして、私たち日本人の能力は、グローバル化した今の世界に適応しているのか。真剣に問い直す時期がきているのではないか。「できない」という現状の認識を、私たちはもっと突き詰めていく必要があるのではないか。
・さまざまな価値観や秩序に縛られずに、自由に自分の行為を決定する主体を「リヴァイアサン」と呼ぶことにする。
・かのアルベルト・アインシュタインが、「感動するのを忘れた人は、生きていないのと同じである」という趣旨の発言をしているのは、このような生命の更新原理に関わるのであろう。
・「自由」の空気を作り続けることは、創造的に生きるための唯一の方法である。
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日本にリヴァイアサンを育む文化を。既存の秩序を超えれる存在が今の日本には必要。主張はよくわかるが,かならずしもウィキリークスや中国のノーベル賞拒否が時代をよくするリヴァイアサンになり得るとは個人的に思えない。
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成長を続けるためには挑戦するしかない。
現在の日本には閉塞感が満ちている。それならば、その空気を「自由」で満たせばいい。
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「挑戦」することで脳が活性化すると。
脳研究と、昨今の震災や社会的な事象を結びつけて、
脳科学の立場から説く。
今の日本に対する彼の憂いが見え隠れしているが、
その通りだと思う。
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3.11以前から青春と読書と言う本に掲載されたエッセイに、加筆修正を加えたものと言うことです。
話は高校生が読むには少し難しいかもと言う感じだが内容はわかりやすい。いまの日本に必要と感じるものを説明している。3.11以前と以降では少しものの見え方が変わっているのが面白い。
将来においても日本人に必要なものを表していると思われる。
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雑誌プレジデントでの紹介や、
茂木さんのtwitterで少しずつ気になっていた、この本「挑戦する脳」
僕は挑戦するということを幼い時からやってきたつもりだ。
楽な道を選ぶより、必ず困難な道を選んできた。
そうするほうが、達成したときの喜びがひとしお大きい。
人と同じことをするのが嫌なのだ。それが僕の挑戦の原点である。
留学もそう。中学⇒高校⇒大学というある意味エスカレーター式の道を
進むのに疑問を感じた。
だから普通の人がやらない留学を若いうちに経験したいと思った。
現在僕が挑戦していること、それはトライアスロンだ。
僕は18のときから今までトライアスロンをやり続けている。
社会人になってからもほぼ毎日トレーニングし、
週末もトレーニングに時間を費やす。なぜこれを続けるか?
タイムを競うためではない。健康管理は一理あるが、
あのアイアンマンという苛酷なレースを完走するためだ。
自分への挑戦。誰にも理解されない。
スイム3.8km、バイク180km、そしてフルマラソン。
毎年、レースの号砲が鳴ってから12時間後のゴールテープを切る
あの瞬間のために、トレーニングを続けている。
挑戦することは誰でもできるもんじゃない。
それなりに意思が強くないとできないし、
やり続ける過程でとてつもない困難にあう。
でもそれを乗り切ることで今までにない自分が待っている。
茂木さんは本の中で「プリンシプル」に言及されている。
知識や経験に基づく「プリンシプル」が、
人生の不確実性に挑戦するための支えになってくれる(p91)。
僕はこの根拠のない自信があるというか、
20代の前半に異国で一人暮らししたせいか、
結局なんでも出来るとか成るようになるという楽観的な気持ちがある。
だから挑戦できるのか。
茂木さんは11章で偶有性忌避症候群という言葉で、
日本の経済の停滞の理由を嘆いている。
簡単に言えば、挑戦しないということか。敷かれたレールの上で生きる。
受験なんて正に典型。一流大学へ行くために塾に通い
そして一流大学へ入学すれば、今度は大企業へ就職する準備。
そして世界でも類を見ない新卒採用という訳のわからない就職制度。
僕はこの本を読んで、新しいことに挑戦しようと思った。
よく考えれば今までは自分のために挑戦していた。
トライアスロンなんて正にそう。
でもこれからは社会のために自分の能力を活かしていく。
既存のレールからはみ出して、新たに自分でレールを作る。
今一番興味があるのが教育と少子化対策だ。
僕ができることから始めてみよう。
最後に僕が留学していてそして
一番今でも好きな言葉を皆さんにお伝えする。
“Do not go where the pathway leads;
go instead where there is no path and leave a trail.”
by Ralph Waldo Emerson.
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言葉が難しくて、いまいち理解しきれなかったが、時間を見つけてまた読み返したい。
日本人は常にどこかの組織に所属している、というかたちで「首輪」がついていないと安心できないメンタリティを持っている、という。
「 自由 」な空気を作るために「首輪」を外して挑戦しなきゃ!
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人間の脳は、オープンエンドで一生学び続ける。人間の脳の最大の能力は、何が起こるかがわからないということに適応しいぇいくことである。こうした脳科学の見地からして、今の日本はこうも物事に挑戦しない人が増えた国になったにか?という問題提起をしていまづ。結論は、今の時代に機能していない教育に課題が多い。まさしく!その通り。
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4 文脈を乗り越えること、あるいは、そもそも文脈さえもがないような状況に身をさらし、その中で踊り続けることが、生の本来の挑戦である。
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人は幾つになっても、どんな場所でも学ぶことができる、と聞いたのはいつだったのか、また誰の言葉だったのか。
それが人間として必然のことなのだということが、この本を読んで分かりました。
考えてみれば私達の日々の暮らしの中に、挑戦というものは溢れている。
知らない道を通って通勤するのも、新しいお店にランチで入ってみるのも、言ってみれば挑戦。
しかし日々の中に「挑戦」が多く存在し、日々挑戦し続けているはずなのにも関わらず、時に不安になり、怖くなり、立ち止まってしまうことがある。
それはなぜか。文中で人間の脳は「確実なことと不確実なことのバランスをとろうとする。自分の中に確実なことが蓄積されるほど、その分不確実なことを受け入れることができる」とありましたが、だとするとその「確実なこと」が足りないから立ち止まってしまうことになる。
ここで言う蓄積されるべき「確実なこと」が「自信」なのだとすると、いかに自分に自信を持つことが出来るかが大切なのだと思います。経験に培われた「自信」に加え、「根拠のない自信」もより必要になってくる。本書でも「根拠のない自信」を持つことができるかどうかがこれからの時代、重要になるといっています。自信をもって不確実性に向き合えと。
大切なのは不確実性に向き合い続けること。一方で、自分の中の「標準」に当てはめて、周囲のその姿勢をはじかないこと。受け入れること。
「難しさの本質は、未来が容易には見渡せないという事実の中にある」けれども、
そもそも脳は決して完成せず、その働きは挑戦することだとするならば、挑戦することは不安で恐ろしいことであるならば、自分が不安で辛い思いを感じている時こそ、本当に生きているといえるのではないでしょうか。
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挑戦する脳というタイトル。
挑戦することこそが脳にとって最も必要不可欠なもの。それは日本を救うことになる可能性をも秘めているとの著者の考え。
偶有性。人生には何が起こるかわからない、次に何が起こるか保証されていないということ。人間はそのような世界に生きている。それを必然と認識できる、意思の力および脳の構造について。
スピノザの神は無限の存在であるという考え。つまり人間は有限であり、人間の想像にも及ばないものである。だから、神にとって当たり前に見えている物事は人間にとってそう見えない事も。全く関係の無いように思える事柄も、実は繋がっているかもしれない。世界は暗闇の中を手探りで進むようなもの。つまり、手を伸ばしたその先には、予想もつかないものが待っているかもしれない。
日本を覆う偶有性忌避症候群。偶有性は生命そのものの本質であるが、それから目をそらしている。
自分はひとつのオルタナティブを示せているか。アンチに走らず、まずは自分一人の生き方の革命を。
意味を問うな。踊れ。
フリードリヒ•ニーチェの言葉。踊ることが、生きることの偶有性に対する、最も強靭な答えであり得ること。
意味に負けるな。今、ここに没入せよ。
自分ができないことを引き受けたうえで、自分のできるを見つけていく。
何物にも支配されないリヴァイアサンとしての個人。マーク•ザッカーバーグなどの生き方。
自由は常に新しいもののそばにある。イノベーションこそが自由。
何物にも縛られない存在の人間はいない。だからこそ発見や発明を追い求め、古い常識を打ち破り、個人の革命を追い求めることこそが、自由たること。
自分も自由でありえた。四大の時。その気持ちを忘れずに。
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著者が語る脳についての話には何かが欠けているよなぁ…と思いながら読んでいて、それが終盤辺りになってから「心身性」であることに思い当たった。
本書の中でも、子どもの頃に蝶を追いかけて走り回ったというエピソードは出てくるが、雑誌連載だったらしい本書の構造のせいか、あまり重大なこととしては取り上げられていない。むしろ、心身性の真逆にある「インターネットというバーチャル」を礼賛する言が多いように感じた。
そう感じたのは、同じタイミングで併読していた石原慎太郎の本で強く主張されていた「心身性」に自分が大きく影響されたせいかもしれないが、それよりももっと昔に読んだ、養老孟司の本に影響を受けているんだと思う。
インターネットなるものの便宜性に酔いすぎて、現実の痛みや苦しみや美しさがぼやけてしまいがちになるのは、きっと自分だけではないはずだ。美しい夕陽をすぐにiPhoneのカメラで撮影しようとすれば、それは目の前で起きている現実のことではなしに、ディスプレイ越しのバーチャルな出来事に成り下がってしまう。
もちろん、それによっての共感や、そこからの「偶有性」はあるだろうが、それは果たして「今、ここで踊る」ということになり得るのだろうか。
結局はインターネットも一種の麻薬と同じようにただの道具であり、使うものの力量によってはただのバラエティにもなるし、革命を起こす武器にもなり得るということだろう。そしてそれは、自らの脳に対しても言えることなのかもしれない。
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「18.地震の後で」を読んで、強烈に伝わってくる何かがあった。
茂木さんの必死の奮闘・決意が文章を通してビシバシと感じられた。
テレビや講演の茂木先生ではない、素の「茂木健一郎」がまるで自分の耳元で叫んでいるかのようだった。
「19.できない」は、前章を動とするなら、静の章。
「できない」ことのくやしさ、あきらめを乗り越えて、受容するまでに至った心の動きが行間からにじみ出ていた。