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空襲が続くと、実際の被害や空腹感や睡眠不足などが原因となる疲労感から毎日の生活が投げやりになったり、刹那的にならざるを得ない心境が伝わってきた。
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昭和19年11月から昭和20年8月まで、阿佐ヶ谷に住み神田に勤めていた27歳の女性の日常を綴った日記。
幾度となく繰り返される空襲下の不安な日々。仕事がなくなり、罹災し焼け出されてきた人たちとの共同生活。日々乏しくなる食料。
そして、一面の焼け野原を畑にしようとして掘り起こすと、そこにはガラス、がれき等々の生活の跡...
私たちの世代に戦争体験はないけれど、地震・津波被災地からの復興は、戦争からの復興に似ているのかもしれない。と、少し思った。
大丈夫、元通り以上に復興できるさ。 あれ?
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戦時中、OLさんだった吉沢さんの戦中の日記。彼女の日記を通じて当時の一般の人々の生活がよくわかる。戦時中の人々の様子や心情を知るためにも「永遠の0」とこの本は日本人として私は一読をお勧めする。私も祖父母から当時のことをもっと聴いておくべきだったと思う。
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しばらく前に、新聞で吉沢久子のインタビューが載っていて、この本のタイトルも紹介されていた。それで読んでみたくて借りてきた。
サブタイトルにあるように、これは「吉沢久子、27歳。戦時下の日記」で、昭和20年に敗戦をむかえたあの戦争の最後の一年を記録したうちから、月ごとに、抜粋した日記と、吉沢自身が今からふりかえって説明を加えた構成になっている。
この一年を、吉沢は、のちに夫となった古谷綱武の留守宅ですごした。古谷の文章によれば、事情はこういうことだった。「私が応召したときには、家族はすでに郷里に疎開しており、東京の留守宅は、仕事の助手をしてくれていた娘に預けた。そして、(*娘に)自分の応召中の仕事としたのは、あくまで東京に踏みとどまって、外部のさまざまな変化から心持ちの変化にいたるまで、できるだけくわしい記録を残してくれることだった。」(p.4)
古谷が応召したのが昭和19年の10月末、吉沢の日記は11月1日から始まっている。吉沢の日記の抜粋を読んでいて、こうの史代のマンガ『この世界の片隅に』のことを思いだしていた。昭和18年の暮れから20年に戦争が終わるまで、軍港のあった呉を舞台に、「戦時の生活がだらだら続く様子」を描いたマンガ。
実際にそうした生活の中にいた吉沢が書いたものと、"戦争を知らない"世代のこうのが描いたものとは、違うのかもしれないけど、どこか通じるものがあるなーと思った。
吉沢の日記で、私がぎょっとしたのは、まずここの箇所だった。
【十一月二十四日 金曜日 晴れ】
(略) 私も外出がちのことを思うと、どこで死んでもよいように、身辺きれいにしていなければと思う。身ぎれいにして、家の中も片づけておかなければ。(略)(p.26)
誰でもいつかは死ぬし、それがいつのことかは分からないにしても、空から襲ってくる爆弾にさらされるかもしれないという日々には、そして、昨日一緒に食事をした人が、ついこのあいだ話をした人が、空襲で死んでいった経験のなかでは、こういう感覚がずっとずっと張りついていたのかと思う。
本の最後のところで、昭和20年8月15日以降の日記について振り返って、こう記している。この箇所は、ぐぐっときた。
▼何はともあれ、毎朝目がさめると「もしかしたら、今日空襲で死ぬかもしれないな」と思った重い気持ちが消えたことはうれしかった。
そんな日々を生きたことが、この日記を読み返していると、はっきりと思い出される。(p.282)
東京の空襲はどんどんひどくなり、寝るに寝られない夜もふえていく。
【六月一日 金曜日 晴れ】
(略)ぜいたくは敵だといわれるけど、今、私の一番したいぜいたくは、二日間くらいぶっ通しで静かに眠ること。それだけ眠ればどんなに元気になれるだろう。(p.218)
空襲下の不安を振り返って、別のページにはこんなことが書いてある。
▼何しろ、眠るべき時間に眠っていられないのは一番つらかった。しかも不安を抱きながらただ空を見上げているだけしかすることのないもどかしさは、人を投げやりにする。もし、現在のような平和な生活の中に、突然そんなことが起こったら、と私はよく思う。今は空襲といっても、飛行機で飛んでこなくても、大量殺戮兵器は襲ってくる。(p.20)
あまりに空襲がひんぱんになったせいで、昼に空襲があったことを夜には忘れてしまうことさえあったという。
▼日記の中に、こんなことが書いてあったのにはおどろいた。空襲があまりにはげしくなったせいなのか、「昼間空襲があったことを夜には忘れてしまって、今日は空襲がなかったと思うことがある」という言葉だった。忘れるというのは、自分への救いだったのだろうか。(p.231)
空襲警報だけで、そこに見える空に何もない時間の落ち着かなさを、つくろいものをしながら静めるところは印象的だった。
【十二月三日 日曜日 晴れ】
(略)二時間くらいの間に何度も空襲警報。することもなく空を見ているだけではどうにもならない。ちょっとしたつくろいものを持ち出して、日なたぼっこをしながら針を運んでいると気持ちが静かになる。わりあい近くに爆弾が落ちた様子、消防ポンプが走る。ガラス戸がふるえ、ニュース映画の録音できいたようなドシーンという感じの音と地ひびき。爆弾だな、と思った。(略)(p.33)
それからすぐ近くに落ちた爆弾の音と地響きに対するこういう態度は、空襲に"慣れる"ほど頻繁なことだったのだろうと想像した。それでも、爆弾が降ってくるのは、雨が降ってくるのとは違う。
少しさかのぼって、3月の日記には、「ラジオがよくきこえない気楽さ」が書かれている。
【三月四日 日曜日 雪 休み】
(略)それにしても今朝の空襲はものすごかったと話し合う。朝七時半からはじまり、十時半頃までつづいた。近くに落ちたのか爆風のうなりがおそろしかった。家がふらふら動いているようで、思わず洗濯の手をとめてベランダにかけ出した。おさまったかと、たらいのある風呂場にもどったらまた家が動き出し、ベランダと風呂場をいったりきたりを数回。ラジオがよくきこえない気楽さとでもいったらいいのか。皆目わからず、不安といえばこの上なく不安なのだが、直接からだに感じない不安には鈍感なものだと思った。(略)(p.114)
「直接からだに感じない不安には鈍感なものだ」というところに、警戒警報や空襲警報がなんどもなんども出るなかでの暮らしを思った。どこかで鈍らせておかないと、不安がつのるばかりではやってられないだろうなと。
配給も減り、ろくに食べるものが少なくなってきたなかで、食べたいものを思い描いたところでは、20代の大人の女性でもこんなだったのに、子どもたちはどれほどお腹をすかしていただろうと思った。
【二月十二日 月曜日】
(略)帰宅十時。茶の間で熱いさ湯一杯のんで、今たべたいと思うものをいろいろ思い描く。
一番たべたいのがえびの天ぷら。甘い上生菓子、焼きたてのまだ熱いあんぱん。二十世紀梨、歯にしみるような甘酸っぱいカリカリのリンゴ、生あんず、マスカット、夏みかん、ゆで卵もたべたいな。そう、まぐろの握りずしを、おすし屋さんの大きな湯のみで熱いお茶といっしょに口に入れてみたい。そんなことを考えていたら、おなかがすいてきた。早く寝よう。(p.99)
吉沢は、当時、エスペラント語の講習を受けた仲間とときどき集まって勉強していた。その仲間のひとりが、古本屋で買った本に目をとめられて警察に連れていかれたことがあったそうだ。そのことを振り返って記した箇所。
▼本を買うのも、どこで誰に見られているかもわからないということを、はじめて知った。純粋な勉強会でも、集まりをもつこと自体が監視されているのかとおそろしくなった。やがて勉強会も解散になった。私が、日記にも当時の社会のことについて、何も書かなかった理由を、少しずつ思い出し、思ったことを自由に話したり書いたりできる現在と比べて、日本にもそういう時代があったのだと、今更のように考えてしまう。(pp.49-50)
日記に書かれたものは、残っていれば読める。でも、そこに記されなかったことも「あった」のだということは、「何も書かなかった理由」を振り返ったこういうところからしか見えてこない。記録することの大切さとともに、記録されなかったことをどう思い浮かべることができるかと考えてしまう。
8月15日の玉音放送を、吉沢は街中で聞いている。「街の人たちはどんな態度でそれをきくのか、これは見ておきたいと思った」というところは、古谷から日記を書いておくよう頼まれてずっと書いてきたなかで養われた観察力みたいなものかなと思った。
【八月十五日 水曜日 晴れ】
(略)お昼十五分位前に、会社を出た。私は陛下の放送を、街中でききたかった。お声をきくのも、どんなアクセントで話されるかも、はじめてであり、街の人たちはどんな態度でそれをきくのか、これは見ておきたいと思ったのだ。なぜだかわからなかったが、知らない人たちといっしょにおききしたかった。(略)(p.270)
月ごとにまとめられた章のはじめには、「あの頃の日本」の様子が短くまとめられている。昭和20年3月のページで私が初めて知ったのは、「閣議は、決戦教育体制にむけて、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止にすることを決めました」(p.110)ということ。ほんとうに、決戦に向けて、教育や勉強どころではなかったのだ。
この日記を読みおえて、吉沢に記録を書くように頼んだ古谷綱武の本を、なにか読んでみたいと思った。
(9/7了)