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投稿者:むーみん - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画化するということで興味をもった一冊。ノンフィクションものとまではいいませんが、実物のいる話なだけに、こんなにあけすけに書いちゃっていいの?と思いました。綺麗ごとだけではない、体を動かせない生活について考えさせられました
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題名がちょっとおもしろかったので、
よくある 頑張っている上での失敗談みたいな
障害者ものだと思ってました。
息子も障害者なので あるあるネタがあるかな~なんてノリで読み始めましたが… ごめんなさいm(;0;)m
障害者の鹿野さん側の話だけではなくて
ボランティアさん側のはなしもあって
ボランティアさんの心の葛藤みたいなのもあって
そうなんだぁ~ とか、 そういうことなのねっと、読みました。
こんなこと頼んだらわがまま? これってエゴ??
迷惑かしらとか、家族で何とかしなくちゃとか 遠慮していましたが、 手伝ってください!!と、声に出すことも大事なんだなぁ~と感心することだらけでした。
最後に「みんな帰っていい」って言ったのには 泣けました。
やっと、ひとりになれたのかなって…
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・いろいろな読み方ができる本だと思う。これは、筋ジストロフィー患者である鹿野靖明と、彼を支えるボランティアたちとのやり取りを描いたノンフィクションである。この「支える」ということは一体どういうことなのか。果たして障害者は健常者から一方的に「支えられる」存在なのか。
・他人に迷惑をかけないことが美徳とされる日本社会において、他人に迷惑をかけなければ生きていけない障害者は、いわば厄介な存在であり、一方的に保護されるべき対象として見なされてしまいがちだ。しかし障害者もまた人間である。そこに人間としての尊厳はあるのか。医学の進歩により延命が可能となった今日において、残された長い人生を障害者がどのように尊厳を持って生きるかという視角はとても重要である。このことは超高齢社会を控える日本社会全体の問題として受け止めなければならないだろう。
・著者は、他人に迷惑をかけない、相手の気持ちを忖度して摩擦や対立を回避するといった和を尊ぶ日本的風土を突き破り、障害者と健常者とが対等に本音をぶつけ合って本気で対話をしていくことで、障害者と健常者との間に新しい人間関係ができあがっていくことを期待する。それはまさに作中に引用されているボランティアの定義(「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要でないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである)とも一致する。
・著者はもともと障害者や福祉、ボランティアといった分野の素人だったという。したがって、取材の過程で著者が発見した一つ一つの驚きは、そのまま私自身にとっての驚きでもあった。著者のこの目線の高さがとてもいい。読み手の心に間違いなく一石が投じられる一冊。
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現代日本にもこんなにも「生きる」ことに真剣な人がいるのだということを知り、自分に対してどれだけ真剣に必死に生きているかを問ういい機会になった。
通常、障害者を題材にした本のうちの多くは、「障害者なのに一生懸命生きてえらい」というお涙ちょうだいの美談が多く、本書を手に取った時にもそのような本を想像していたが、読んだ直後から良い意味で裏切られた。
生きるために真剣であるあまり、傲慢極まりない(ように見える)障害者鹿野氏と、人生に悩みボランティアに活路を見出そうとし、ある意味障害者に依存する形になる学生たち。
作者が(当初持っていたと思われる)先入観を排して、生の声を伝えてくれることで、非常にリアルなノンフィックションになっていると思う。
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筋ジス患者の鹿野さんと彼を支えるボランティアを描いた作品。10年前に書かれた作品ではあるが,障害者福祉の現状は変わっていないのだなと実感した。
人に迷惑をかけてはいけないと今まで言われてきたが,この「迷惑」というものは何なのかと言うことも考えさせられた。
人との関わり合いの大切さ,自分をさらけ出すことの大切さを学んだ一冊でした。
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筋ジストロフィーと闘うひとりの男と彼を取り巻く介助ボランティアたちのルポは、美談に飾られたお涙頂戴の様相ではなく、人間同士がぶつかり合う喜怒哀楽に満ち満ちた濃厚な物語。
介護とは、助ける人がいて助けられる人がいる。という構図ではまったくないということにまず心を揺さぶられる。
この筋ジスの鹿野という人の「生きる」ことへのものすごい執着心。そのためにはボランティアに対して遠慮も容赦もない。とにかく自分の気持ちを発信し続ける。なぜなら彼は介助者がいないと「生きる」ことが出来ないから。
ボランティア側も鹿野を神聖化したりしないし、過剰に献身的なことをするわけでもない。
そこにあるのは人と人とが正面から向き合い「対話」している姿だけ。介護だろうと家庭だろうと学校だろうと社会だろうと、その中で共に生きるということは、結局コミュニケーションの密度に帰結するのだ。
文庫本で550頁もあってこういうテーマだから最初は正直読むのツラいわと思ったけど、「文筆力を感じさせない」ような文筆力でスルスルと苦もなく読めちゃう。主観と客観のバランスの妙。ボランティアの環にも入っている「半」当事者という独特の立ち位置で、著者は「生きる」ことの意味を手探りで見出だしていく。
すばらしい。すばらしいよこの一冊。
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筋ジストロフィーという難病を患い、人工呼吸器をつけながら、自立生活を営む鹿野靖明氏を負ったノンフィクション。ボランティアで24時間のサポート体制を作って、生活すべてにおいて他人の手を借りながら生きている彼の、日常。「ボランティア」とは何なのか、「人を支える」とはどういうことなのか、障がい者の自立に向けた社会、行政との戦い。著者自身、取材をしながら、鹿野氏の環境に巻き込まれていき、いわゆる一般的な「障がい者」のイメージと、彼の実際の日常とのギャップに違和感を感じたりしていくのが、読んでいる私の感覚と沿っている感じもして、これから自分はどう考えればいいのか、どう接すればいいのか、考え直すきっかけになったと思います。多くの人に知って欲しい一冊ですね。
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たぶんこの著者の距離感が、読み手をすっと引き込むんだと思う。そうか、なんにも知らなかった、と生きるということを同じ目線で考えられるような気がする。そして、読みながら、待て待てと思う。読んだだけでわかった気になるのは間違ってる、やっぱり。もちろん、知らないより知っているほうがいいだろうけど、読んだだけで何かを語るわけにはいかないなあ。もっと自分から掴みにいかないとわからないことが、山ほどあるはずだから。
せめてそういう気持ちはしっかり覚えておこう。
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「自己責任論」が幅を利かせる時代、自分の人生を自由に選択できるという心地よさを享受できるのは素晴らしいが、同時にそれは、その代償として「人に頼る」ことがとりわけ難しくなることをも意味する。鹿野氏のやり方は、ある意味でそんな時代の流れに反しているように思える。
進行性筋ジストロフィーを患い、自分ではほとんど何もできない。"それなのに"病院で過ごすわけでも家族に頼むわけでもなく、ボランティアに任せるというのが彼のやり方だ。
他人に過度に干渉されないこと、逆に自分も極力迷惑を掛けないことこそが、現代に於けるある種のマナーのように考えられている。でも、生まれながらにして障害を持っていたり、家庭環境に恵まれなかったり、そういった自己で決定するという「自由」をそもそも謳歌できないまま、単に不利益だけを被ることになってしまったらどうだろう?他人の援助ですら引け目に感じ、公的な支援だけに頼らざるを得ない―それが多くの“弱者”たちの現状なのかもしれない。鹿野氏のやり方はその社会に一石を投じている。彼は、所謂「迷惑」をかけまくりである。彼の介護には24時間ボランティアが付きっきりでなければならない。そのくせ夜中にバナナがほしいとボランティアを起こすなんて。あぁ自分がボランティアの立場だったら耐えられないだろうな…と正直思ってしまう。
でも、こうした"わがままな"彼の隣で寄り添うボランティアたちは、次第に彼ら自身の内部で化学変化を起こしいく。たとえば30歳を過ぎて医学部に転じるボランティアがいることなど、良い例なかもしれない。「自己責任」社会は、つまり人とのマイナスの関わりを極力避けようとする社会だ。人間社会の化学変化だから、その結果は勿論予測できない。どうなるかは分からないことに対してその都度対処するということは、高度にシステム化された快適な社会の最大の弱点なのだ。ボランティアたちは、そんなシステマティックな社会の在り方とは対照的に、人との関わりの中で悩み、時にそれを他者にぶつけ、そして何かを獲得していく。そしてそのプロセスの中で自分の生きる意味を見出しているようにも見える。
単なる障害者のルポ?いえいえ違います。人との関係性が希薄になる中で、人との交流の中で生じる化学変化のようなものがいかに生きる意味を与えてくれるのか、そしてそんな人との関わり合いの難しさや残酷さ、そして喜びや充実感、そんなことを読者に伝えてくれていると私は思う。
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鹿野さんとそのボランティアの人たちの話。鹿野さんは筋ジスという難病だけれど自宅で生活することを選び、アルバイトを募集して生活する。アルバイトは学生や主婦などなどが常時誰かが入ってはやめ、常に40人ぐらいのシフト制。
最初は同じ話を繰り返す本かと思っていたけれど、どんどん中身が厚くなり面白くなる。
鹿野さんとその周囲の人たちの長所も短所も厚く書いてある。
鹿野さんの恋愛話も。介護する者とされる者、「対等」とは何かということが特に考えさせられた。
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人と人の関係に迫った、とても良い本だった。
いわゆる「障がい者とボランティア」の本じゃない。
友人関係、恋人、親子、同僚…など、人間関係の芯に迫った本だった。
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自立とは、誰の助けも
必要としないという
ことではない。
どこに行きたいか、
何をしたいかを
自分で決めること。
自分が決定権をもち、
そのために助けて
もらうことだ。
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衝撃的な作品。
泣けるし、笑える。
素直に生きること。
必死に生きること。
そのためのワガママの憎めないところ。
その生々しさ。
人を頼ること、支えているのか支えられているのかわからないくらいに。
言葉を慎重に、大切に遣う文章も素晴らしい。
○他者との遭遇
○相手を受け止めながらも、突き放すこと。そして、突き放しながらも、信じていること。(474頁)
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筋力が段々低下してしまう遺伝性疾患「筋ジストロフィー」になってしまった鹿野氏の生きざまを書くノンフィクション。自分で出来ることはどんどん少なくなっていき、限られているが、病院でも親元でもなく、自宅でボランティアの介護を受け生きる。
鹿野氏のキャラと介助ボランティアを知り衝撃。
私がやったことのある、あるいはボランティアをするならばと頭に描いていたボランティアは、全然ボランティアでは無いなと思い知らされる。
本の中の辛い思いをしてまで、何でボランティアしているのだろうと、考えるボランティアたち。またそれぞれの考えも、関わり方も違うが、ボランティアをすることで成長していく様を見て凄いなと思う。
技術の進歩で、長期間の存命が可能になった。しかし、そのため病院から敬遠されるようになった。現行の制度では、入院が長引くほど、病院に支払われる「診療報酬」が減額されるからだ。そのため、在宅医療の体制が不十分なのに、退院させ、家族が死に物狂いで、介護に当たらざるをえない。
その中で、現状を変える試みとしての在宅生活。
【ボランティアたちの声】
ボランティアをすることで、自分を知る
自分では理性的、冷血と思っていても、辛い人を助けることにより、自分の直情的な部分を感じる
ボランティアとは、「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要ではないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである。
学生で自由な時間はあるが、不安な感覚があり何かやりたいと思い、ボランティアを始めた。
ボランティアもただ黙って相手の要求に従っていればそれが介助かのか、違うんじゃないかと思う。自分が出来ないときは「できません」とか「ちょっと待って」と言うことも大事なんじゃないか。これが出来ないと続かない。
今の若い人たち、健常者の社会には「いきる手応え」が少ないのではないだろうか、人生の深みを感じる機会があまりに少なくなっているのではないだろうか
鹿野氏もボランティアも自分のやっていることはスゴイとか、物事を大げさにしすぎている。介助する方も自分達のやっていることは社会的に意味のあることだみたいな、おごり高ぶりがあるし、一人の障害者を介助するくらいで、本当のやさしさとはとか、思いやりとはとかを論じ始め、違和感があった。
介助の経験を通し、介助、障害と言うものが、意外に身近なものであることを知ることができた。この世の中で起こっている出来事のなかで、自分にまったく関係がない、なんてことはほとんどないのではないだろうか。交通事故でも、犯罪でも、病気でも、戦争でも生きている以上他人ごとではない。
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かなり前から気になっていたこのタイトル。予想していた内容とは少し違ったけど、読んでよかった。
ほんとに全然知らなかったことをたくさん教えてもらった。だからと言って、この本をきっかけに私が何か行動に移せるかといえば、それはそれで簡単なことではなく。でも、とりあえずこの本読んだことを忘れずにいたい。