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ブログの内容をテーマごとに編集・加筆されたものだけあって、いろんなテーマが散らばっていて読みづらい部分もあった。しかし、言葉が先にあって意味は後からついてくることやなぜ葬礼を行うかなど、最近自分の中でもやもやしている悩みに対してヒントを与えてくれる箇所がいくつかあって良かったです。
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私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのができないものを、私たちは語ることができない。
世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。
自分の言葉が自分の世界の境界である・・・
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読み始めてから、この本は読んだことがあったということに気がつく。そんなに多くはないけれども、これまでもない訳ではないという類のことだし、前に読んだこと自体を忘れてしまっているわけなので、内容についても覚えていることは少なく、初めて読むのと別に変わらない。
最初の方に出てくる「言葉の力」というコラムは面白かった。題材は「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」という朝日新聞のコマーシャルコピーだ。日本のテレビを見る機会がほとんどないので、今でもやっているのかどうか知らないけれども、僕が日本にいた時には、テレビコマーシャルでもこのコピーが流れていたと思う。
僕自身は、このコピーに対して、何となく、変な感じ・違和感を持っていたのだけれども、何故、違和感を持つのか分からないでいた。
その違和感の正体を、内田樹が、小田嶋隆のブログからの引用を紹介しながら、あるいは、内田樹自体の言葉で説明してくれている。
小田嶋隆は、このコピーは「微妙に恥ずかしい」と評した上で、その理由を下記のように考えていることを紹介している。
■朝日新聞自体が、言葉の力を信じていないのではないか。「力」を「チカラ」等としているのは、その表れ。
■「感情的で、残酷で、ときに無力」なものを、簡単に信じちゃって良いの?
■言葉を信じることよりも、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らを戒めることがジャーナリストの心構えの第一条じゃないの?言葉の「チカラ」を安易に信じるジャーナリストは包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人。要するに素人。
更に内田樹は、"「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める"という自説(というか、ラカンの教え)を引いて、朝日新聞のコピーに違和感をとなえている。
朝日新聞のコピーは、「言葉は道具である」という大前提に基づいて出来ているが、本当にそんなこと言っちゃって良いの?ということだ。言語以前にすでに感情があり、他社への害意があり、「言葉」はそれを現実に示すための「道具」に過ぎない。そして、言語の価値は、それが「無力」であるか「有力」であるかの、現実変成の結果によって計量される、ということを朝日新聞は言いたいのですね、それは本当でしょうか?というような異議申立だ。
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なの」であり、「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことのはずなのに。
たぶん、僕自身の違和感は、朝日新聞のコピーは、「自分達の言葉で世の中を変成し得るし、それをするのがジャーナリストだ」と言っているように感じて、それに対する違和感だったと思う。
だから、小田嶋隆や内田樹の違和感とは中身が微妙に違うのだと思うけれども、でも、小田嶋隆や内田樹が言っていることを、無意識に感じていたのかもしれない。
そういうところが「面白い」と感じた次第。
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あーおもしろかった。
○人間は機嫌よく仕事をしている人の隣にいると自分も機嫌よく何かをしたくなるものである。
○人生はミスマッチである。…それでも結構幸福に生きることができる。
○こだわらない、よく笑う、いじけない
○夢を達成できるかは、自分の将来の こうなったらいいな状態 についてどれだけ多くの可能性を列挙できたかにかかっている。
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内田樹のエッセイをまとめた本。日本の様々な問題点について独自の視点で意見を述べていますが、いろんなメディアに書いたエッセイであるため、一貫性があまりない。読んでいるととても面白いし、分かりやすいけれども、あまり記憶に残らない感じ。
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例によって、なるほどと納得する快感を味わった。線を引いた箇所の抜き書きだけ読み返すと、普通のことしか言っていないみたいですが、そこにもっていく展開に説得力があり、エンタメ的サービス精神にもあふれています。以下、ページ数はすべてバジリコ刊の単行本のページ数。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか。(111ページ)
法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない(中略)
だが、「超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。 (157-9ページ)
誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方法はないと思う。(176ページ)
社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の二つしか方法がない。
私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。(256ページ)
人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
(中略)
そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかもしれないから、もう一度お答えしておく。
そういう話を人前でするのはやめましょう。
現に、愛国心をテーマに書き始めたら、私もまた「愛国心」のありようを私とは異にする同国人に対する罵倒の言葉をつい書き並べ始めているではないか。
愛国心についてぺらぺら語ることは結果的に同国人を愛する動機を損なう。(259-62ページ)
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(以下引用)
人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでも結構幸福に生きることができる。チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることができる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。チェーホフが看破したとおり、私たちは誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっている。「自分のオリジナルにしてユニークな適性」や「その適性にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方がはるかに有益であると私は思う。(P.155)
たしかに「予防」は仕事をふやす。場合によっては「自分のミスではないミスの責任者」というかたちでネガティブな評価を受けることもある。けれども、それがいちばん
効率の良いシステム防御策である。「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフを未然に防ぐことができる。けれでもカタストロフは「未然に防がれて」しまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。そういうものである。成果主義は、この「成果にはカウントされないが、システムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい」をゼロ査定しする。だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにして次第に危険水域に近づいている。(P.177)
政策の幅が狭いというのは、悪いことではない。それは社会が成熟して、大きな変化を受け付けなくなったということであり、言い換えれば「誰がリーダーになってもあまり変わらない」ようになったということである。(P.267)
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いつものように、内田さんのおもしろい視点で家族、教育、日本などの話題について語られている。
むずかしい部分と読みやすい部分がある。前半一〇〇ページくらいはかなりむずかしかった。
内田さんの著書の内容は多岐に渡るので、一冊読んで文字通りぜんぶ頭に入れるということはなかなかできないのですが、自分はこの人の考えにかなり影響されているんやろうなあとめちゃくちゃ感じます。
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働かないことが「労働」である根拠として、他人が存在する不快に耐えることを「貨幣」としているという洞察がしっくりきた。ゆとり世代の自分にも経済的価値観の一つとして体内に流れていることは間違いない。
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サブタイトルにあるとおり「構造主義」的な観点から日本の問題(とされている)格差社会、少子化問題、言葉の力、社保庁問題などを考察している。
少子化問題については本当にその通りだと思う。
減っても全然問題ない。
少子化は「問題」ではなく一種の「解答」である。
格差社会についてもすごくすっきりとした良い捕らえ方を知ることが出来た。
「格差社会というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないか。」
あとは「親族の基本構造」が面白かった。
フェミニストと男女の「価値」にまで言及できる。
レヴィ=ストロース読もう。
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「構造主義的」と言っているけど別に「構造主義的」という副題を付ける必要は全くもって無いような内容に思えました。
本書では構造主義において本質的な議論を、言及していたとしても周縁的にしかしていない気がします。1章1節、1章5節あたりの話が一応構造主義そのものに触れている節になりますが、その他の節では特段「構造主義的な分析をしている」と仰々しく言う必要性を感じませんでした。
内田樹は「構造主義」をあまりに広く捉えすぎているのでは無いかと思います(本人に言わせれば、「捉え方なんて人それぞれ、それこそ構造主義的じゃないか!それでいいんだ!」ということなのでしょうが)。
「最近構造主義って聞くけど、よくわかんない。身近な場面で使われていれば…」という読者が「構造主義的に日本を分析するのか!読んでみよう!」と思って読むと間違いなく構造主義を勘違いする(あるいは結局全くわからない)と思うので、気をつけた方が良いのではないかと思いました。
単なるエッセイとして読むなら、確かに面白い視点を提供してくれると思うので良いとは思いますが…
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おむつとコミュニケーションの話や教育の問題は責任の所在が曖昧になったことにあるといった話や思考と言葉の関係など、興味深い内容も多かった。
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日本辺境論がでた頃衝撃を受け、内田先生の著作物は全部読んでやろうというくらいの勢いで読んでいた。が、余りにその出版数が多く、中身が薄くなってないか心配になり、最近ご無沙汰していた。
本書を読み、改めて先生の感性、物の考え方には同意するところも多かった。日本の政治状況に対する捉え方など秀逸で、十年一日の如く、改革、改革と叫んでいる人が多いが、本当に必要な改革なのか考えたほうがいい。先生もおしゃっているように、三等国でも暖かい社会の方が絶対にいいと思う。今の状況は、本書が書かれている時点よりもっと悪くなっていて、不寛容な社会が進行している気がする。弱いものいじめや、正論を押し通すのは、もうやめにしませんか。
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内田樹の本は結構読んでいるけど、どれもクオリティのアベレージが高い。
前々から思ってたことだけど、この人の本は読みやすい。結構難解なことを言ってたりすることもあるんだけど、それでも読みやすい。
その答えがこの本に書いてあった。というのも、結局この内田樹という人が心地の良い文章を書いているからだ。
もちろん自分が作文の名手であるというような自画自賛はしていないんだけど、そういったことが暗に示されている。
この人は語彙力も豊富で、硬軟多彩な語を使い分けている。それでいて、その語彙の選択が間違いないのである。これはこの人の読書量の豊富さと共に、センスのよさを物語っている。
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久しぶりに内田先生の本を購読。なにしろ、著作がどんどん増えるので、この本読んだかな、と本屋で考えることも度々。
発語主体は発語という行為の事後的効果と云う。言いたいことは言葉の後に存在する。「我思う、ゆえに我あり」というコギトでは主体しか確実なものはないというが、内田先生によれば主体は事後的に遡及的に確定される、あやふやなものになってしまう。
昔読んだ構造主義の入門では、親族構造のような構造の存在がコギト神話の否定とあったけど、内田先生の言葉論の方が納得するなあ。
2005~2008年にブログに掲載したものをまとめたものだが、改めて読み直すと、考えることが多い。ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に広がる広大なグレーゾーンにおいて発生する。だから、予防はマニュアル化できない、とか。
いやーホントそうだよな。「オレがやっとくよ」という評価されない行為でしか救いの手はないとのこと。
忘れないよう、ブクログのレビューに書いとこ。