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ルソーを学校レベルの知識でしか把握していなかったので手に取ってみた。
おそらく、この著者(仲正氏)はルソーと同じ高さで物事を見ることが可能な人物なのだと思う。不平等論を基にして、エミールや社会契約論までもアイロニーとしてとらえるべきだと彼は語る。そもそも自己矛盾の塊ではないかと。
しかし、ルソーを語る人々は、それを受け入れられずにそれぞれに関して素直に解釈し、全体を結びつけるときに根底にある矛盾の処理が行えなくなるというのだ。
そういうことを私たちにわかるように説明しようとしているのだけれど、富士山頂からの景色が登った人のみが真に感じられるように、どれだけ言葉を重ねても実感として感じられることはない。
氏の文章からはそのあたりの表現に苦悩している姿もみられる。ルソーを読むのであれば、その中に彼の言う景色が見えるのかもしれない。
ルソーを読むよというひとにはオススメしたい。
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ルソーに強く「共感する」(=同意する、ではない)著者による、ルソー解説書。アーレントなどはルソーについてボロクソに言ってる。アーレントについても類似タイトルの著書(『今こそアーレントを読み直す』)をものしている著者が、果たしてルソーについて何と言うのか。興味深く読んだ。
著者は論旨が一貫せず、多く矛盾を含むとも、ときには極端な主張も辞さない思想家にすごく共感を持っているのだろうな。ルソーもバリバリの「矛盾した」思想家である。『人間不平等起源論』と『社会契約論』でも書いてることだいぶ矛盾するし。ルソーの著書間で一貫した思想を読み取ろうとするのは無駄ではないかと主張する著者は、そこで各著書を独立したものとして読み込む。とは言っても、もちろん、何のテーマもなく、バラバラに読み込んでも仕方がない。著者が立てるテーマは「社会と自然」「みんなの意思は可能か」といったものだ。
ルソーの矛盾。たとえば、人民が契約を結ぶにしても、まず、最初には「全員一致」が必要だとルソーは考える。「多数決で決めるべき」ということ自体が1つのルールだ。このルールを用いるべきということが決まるまでは、このルールによっかかって決定できない、という理由があるからだ。しかし、厳密に考えれば、多数決だけではなく、他にも様々な「決定の仕方」について、事前に全員一致で決定しておく必要がある。・・・と、ここまで考えても全員一致の「全員」って誰だとか、ルール決定方法に関するルールは誰が起草・立案するのかとか、その立案者がどのように正当化されるのかとか、ちょっとつっこんで考えてみると「どうなってるの?」と思えるところは多い。が、ルソーはこれについて『社会契約論』の中で、解決策を提示していない、と著者は述べている。
素人考えだけど、『社会契約論』を読んだとき、ぼくは「この多数決で決めるかどうかも、まず、最初に、少なくとも一度全員一致がなければならない」の解決策として、「社会契約」が出てくる、と自然に解釈していた。正しいかどうかわかんないけど、こういうことだ。ルソーによれば、契約をしなければ(正しい)社会は生まれない。契約には、契約をするものにとってメリットがなくちゃいけない。社会契約を結ぶ頃には、契約を結ばなければ人類は滅びるくらいの外的環境にある、つまり、個人は自分の身を滅ぼしてしまうと仮定している。だとすると「みんな」=全員、今後の契約の根本となる、社会契約には同意するはずだ、この提案に逆らう人はいないはずだ、と、ルソーは考えているんじゃないか。
まあ、仮にそうだとしても、「多数決で決めていい」と全員一致で決めるまでは、多数決は使えない。同じ無限敗退に陥っちゃうわけだが、「最初の全員一致」の内容には、もう少しいろいろ織り込めるのではないかと疑問に思ったので、今度、ルソー読み直してみる。
また、全体主義とルソーの関係も、しばしば指摘されるところだ。タルモンやアーレントはルソーを全体主義的な思想家だとして批判しているが、本書ではこれについても取り上げ、検討している。一般意思にしたがって生きること=自由になることとするルソーの考えは、集団的個体に個人を埋没させてしまうし、自由にするのだということを錦の御旗に、様々な義務を市民=臣民に負わせることを正当化してしまう、統治者に都合のよい考えである(タルモン)、社会の仮面を剥ぎ取った人間の自然を、人間本性を社会契約に持ち込むことで、「徳のテロル」を正当化してしまう(アーレント)といった批判だ。
こうした批判に対し、著者は「ルソーは私的事柄は一般意思の管轄外だとしている」「不平等論と社会契約論をつなげて読むべきではない。ルソーは自然的自由と市民的自由を区別している」と考え、これを退けている。
個人的には、その理屈にあまり説得力を感じなかったけど。
というのも、ルソー思想の中に、そうした全体主義へと至る危険性を排除するような仕組みを明確に見出せないし、全体主義的な記述(皆のために死ねと言われたら死ななきゃなんないとか)も著作にあるから。「一般意思」という概念が不明瞭なため、なおさらその危険性は高いんじゃないかと、ルソーを読むといつも思ってしまう。「一般意思は誤りえない」という主張も、理想の記述でしかないことは百も承知だけど、「一般意思だから間違っているわけがない」と社会に言わせてしまう危険があるのは間違いない。もちろん、「誤っているのだから、それは一般意思ではない」と言う可能性にも開かれているんだけれども、
アーレントのルソー批判も、『不平等論』と『社会契約論』を単につなげて読んだものだとも言い切れないんじゃないか。ルソーはもちろん全体意思と一般意思を区別してるわけだが、それでもアーレントは『革命について』の中で、ルソーにおいては意思=利害となってしまっていること、一般の「同意」ではなく、一般「意思」であることを問題にしている。社会=一般意思だとすると、一般意思には有効な外部がない。社会構成員に共通する利害=意思が、「一般意思」とされてしまいがちだし、ルソーの理屈からもそうならざるを得ないんじゃないか。
最終章、デリダ的読解からすると、ルソーのテキストを「透明なコミュニケーション共同体」という、ありえないフィクション、法=一般意思という完全なエクリチュールを何とか打ち立てたいという夢想かもしれないと指摘した後、次のようなコメントをしてるんだけど、この「ネット知識人」って誰のことなんだろう。デリダ研究者でないことを祈る。
「この”透明な共同体”は、単なるフィクションではない。「法=一般意思」という、(「自然状態」あるいは「幼年時代」の)危険な「代補」は、”我々”に、未だ実現したことのない「完全な民主主義」の夢を見させ続けている。ネット技術の発展を通じて”私”たち相互のコミュニケーションが限りなく透明に近づき、いつの日にか直接民主主義が現実化すると夢想する現代のネット知識人たちは、この「代補」に感染してしまった人たちなのかもしれない。
あ、それとルソーの有名な「不平等三段階説」(不平等は3つの段階に分かれ、最後は専制となり、専制となると逆説的に全員が「平等」になる)を取り上げて解説してるところ(p.78)。著者は専制になると、逆説的に「自由」になると書いてあるけど、これ、「平等」になる、の間違い、ミスなんじゃないの?って思った。いくら『社会契約論』と『不平等論』を繋げて読まないと言っても、「人間はいたるところで鎖につながれている」というのがルソーの現代認識であるとこは変わんないだろうし、不平等起源論を読んでも「自由」ではなく「平等」って書いてある。
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養老孟司→内田樹→レヴィ=ストロースと読み進めてルソーに行き着いた。文明化された人間の理想の姿を「自然人」と定義したが、その思想には様々な矛盾もあると著者は指摘する。現代思想の基本的なパースペクティヴがなんとなく分かってきた。
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ルソーって今はやってるのかしらん?
厳密な哲学ではないし、いっていることが矛盾していたりして、アカデミックにはどうかと思われますけど、この著者もそのあたりをとらえてページをさいています。
人間関係やコミュニケーションのかたちが変わってきた現在に、ルソーを読む面白さがちょっとわかった気がします。
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「わかりやすさ」に定評のある著者の文章をもってしても、ルソーの真意は読み取りにくい。著者もルソーの書物に矛盾が散見されることを認めている(あまつさえ、数々の矛盾は、ルソーの意図的なアイロニーなのかもしれない、とまで)。
ルソーのいう「一般意思」を、会社などの団体の意思に例えた説明はシンプルでしっくりきた。しかし同時に、「一般意思」の理想は、ある人が会社に属するのと同様に、コミュニティに「属している」と自覚しているかどうかにかかっているということなのかな。
一見すると誰もが首肯するような正論も、突き詰めるとさまざまなほころびが生じ矛盾が生じるという標本のようなものなのかもしれない、ルソーって。
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わかりやすいです。お薦めします。
なぜかデリダとアレントがよく出てくるルソー入門本。終章が示唆的。
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再読。
でも、やっぱりよく分からない。「一般意志」がどうしても、しっくりこないんだな。
なかでアーレントの「リバティ」と「フリーダム」の2つの自由に対する概念の違いはおもしろかったかも。前者がフランス革命で、後者はアメリカ独立戦争戦争ってわけだ。
なんとなく雰囲気は伝わるんだけど、ルソーからは離れていっちゃうんだな。
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デリダによる音声中心主義批判にさらされ、アレントによって全体主義の元凶とされたルソーを、仲正昌樹が「読み直す」ということで、かなり期待して読みはじめました。
「終章」で文芸批評家のスタロバンスキのルソー解釈に依拠しつつ、「透明なコミュニケーション共同体」を語った「壮大なフィクション」としてルソーの著作を読み解くという方向性は刺激的に感じました。ただし本論は、現代思想的なルソー解釈がきらびやかに展開されるというわけではなく、『言語起源論』や『人間不平等起源論』『社会契約論』『エミール』といった著作にある程度立ち入って内在的に読み解こうとしています。著者の各種「入門講義」でもそうなのですが、現代思想的な解読をそのつど参照しながら、まずは内在的にテクストをたどっていくという姿勢が本書でも示されているように思います。
著者らしい「キレ芸」は本書にはほとんど見られませんが、「過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている」と語る著者に、イロニーの思想家の面目を見てしまいます。
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中川八洋氏(タルモン、アーレント)によると、「ルソーは自然人を理想として人格を改造し、一般意志に従属するロボットとして、全体主義を導く」はずであったが、仲正氏によると、それは誤読で、ルソーはそんなことを主張していないとのことである。そうすると、非難されるべきは、ルソーの思想を利用したロベスピエールやレーニン、スターリンである。それにしては被害者の数が桁違いに多い。中川氏はそこを問題にしているのだろう。
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ルソーそのものよりも社会契約論に的を少し絞った上での一冊。
内容はその『社会契約論』に絞ってあるので、前後の著作にはそれほど多くは触れていない感じなのだけど、この社会契約をもとに全体を説明しようとするバランス感覚が読みやすかった。
一般意志、自然人、社会契約といったキーワードを軸にして、ルソーは現代までにどういった影響を及ぼしているのか、というごく当たり前の疑問に対して、きちんと著者なりの解釈をしているのでスラスラ読める。
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近年、「人が自分らしく生きる」ということと、他の人との関係、そして組織や社会との関係に関心があって、そこから暴力とか、エゴセントリシティとか、成人発達とか、文化の違いとか、色々、興味を持って本を読んでいる。
そういう中で、出会ったのが、ハンナ・アーレントで、彼女の言っていることに全面的に賛成しているわけではなく、一部大きな疑問を持っているとこもあるのだが、問題設定の仕方とか、思考のパターンとかにはかなり共感している。
アーレントは色々なことを言っているわけだが、何かこうしたらいいという積極的な主張があるわけでは必ずしもなく、彼女の最大の関心は、「全体主義を避けること」で、その他のことは少々問題あっても仕方ないみたいな感じなんだろうと思う。
というなかで、反全体主義という観点で、最大の批判の対象となっているのがルソーなんですね。(アーレントは、マルクスにも批判的だけど、全面的な批判はなく、肯定的な評価の部分も多い)
私も昔ルソーの本を何冊か読んだ時の疑問とアーレントの批判はかなり共通の部分があって、共感した。
あと、ルソーといえば、現代思想の中では、批判的に取り扱われることが多くて、デリダが、ルソー、およびルソー的な世界観の中にいるレヴィ・ストロースを批判したのは有名。
というなかで、ルソーの入門書を手に取る。
著者は、アーレント関係の本もたくさん書いていて、デリダの解説もしている仲正さん。
で、不思議なことに、これはルソー批判ではなくて、どちらかというとルソー擁護の本です。
ルソーのテキストに添いつつ、デリダ、ロールズ、アーレントなどとの関係を紐解いていく、まさに私が知りたかったこと。
ルソーに対する誤解の一部は解けたかな?
でも、ルソー本人の意図は違ったとしても、やっぱりルソーの思想は結果として全体主義を生み出すのだ、という感覚はあまり変わらないかな?
好きか、嫌いか、賛成するか、反対するかは別として、ルソーは、今、色々なことを考えるのに大切なところだと思った。
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ルソーの入門書としてすごくわかりやすく勉強になりました。
とことん考え抜いた結果アイロニーに行きつく、この世の救いようの無さ