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60年安保のときのノンポリとその後の留学の原因は、もしかすると中学時代、まったく友人が居なかったことに起因するのではないでしょうか。
若い頃、「たむろ」することが嫌いだった人は、自然と「さわぎ」は嫌うものです。
人が群れたりする喧騒というのは、生理的にいやなんですね。
そういう生理的なものが加藤の思想にも影響していたのではないかと思うのです。
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海老坂武『加藤周一 二十世紀を問う』岩波新書。西のオム・ド・レットルがベンヤミンと仰げば、東のそれは紛れもなく加藤周一だろう。本書は、加藤への敬愛を込め、出生から膨大な作品群に至るまで丁寧に見ていく秀逸な加藤論であり加藤伝。創作から批評まで幅広い全望を見事にスケッチする。
加藤は政治的であり政治的でなかったのが最大の謎だ。しかし著者は加藤のengagementを政治的それと矮小化せず、知のそれと捉えることでその疑問に答えようとする。即ち全体人間としてのそれである。本書で知る挿話も多くおすすめ。
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加藤周一論は、私のライフワークのひとつです。著者の海老坂武氏はかつて「戦後思想の模索」(1981みすず書房)でおそらく初めて加藤周一論を上梓した人です。そういう意味では、注目して読んだ本でした。
最初の数章は簡単な評伝という感じになっていてガッカリした。あまり期待せずに読んだ。前半は文句ばかりつけていた。瞠目したのは、第六章から。特に「日本文化における時間と空間」に関して丸山真男の古層論との微妙な、しかしだからこそ非常に重要な違いを述べている処に注目した。海老坂氏は2人の評論本を上梓している。著者ならではの「指摘」だったと思う。
特に以下の処。
「加藤にとって主旋律とは変容したあとの結果なのだが、丸山にとっては変容する以前の外国思想そのものなのだ」
「分析対象の違いであり、分析の視点の違いである。丸山の対象は中国の史書と日本の史書である。そして語義の解釈、とりわけ漢字の使い方、また漢文が和文に読みくだされていくときの意味のズレに注目する。そして引き出してきたのが「つぎつぎになりゆくいきおひ」という古層であった。他方、加藤は広く文学を素材とし、また美術作品も重要な素材である。言語作品だけに話を限っても、加藤が単語の語義を問題とすることは稀である。彼が目を留めるのは語順であり、時制であり、語り口であり、文章構成である。」
また、これら両者の「方法等の差異」から「丸山には「空間意識」の分析がない」と指摘する。さらには、異なる「始原」の解釈があり、「いま」の理解の仕方にも違いがあると指摘する。
この指摘は重要であり、私は慎重に検討するべきだと思う。なぜならば、と海老坂氏は言う。
「日本の古層」或いは「土着思想」の解明は、加藤周一も丸山真男も「日本人の精神の変革は可能か」或いは「内から外へ、現在から未来へ、特殊から普遍へ向かう精神の開国は可能か」を問うためのものだったはずだからである。
しかし(この著者の「問いの立て方」自体検討しなくてはならないとは思うが)その結論自体を著者は数行で済ませており、私は納得いかなかった。
また第七章において、「観察する人」(この表現にも異論はある)だった加藤周一がなぜ、「書く人から語る人へ」さらには「9条の会」への参画へと変わっていったかについて書いている。この加藤周一評価に対しても、私はもっと「積極的な」変容があったと観ており、異論がある処ではあるが、その中身はいつか書きたいと思っている加藤周一論に譲りたい。
全面的に肯定出来る本ではなかったが、いろいろ刺激のある本だった。
2013年6月4日読了
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この本を読んで初めて思いついたんだが、カトシューと古市先生は、外形上、けっこう似ているということだ。世界を旅したり、運動にはコミットせず批評に専念したり、ペシミストでありつつオプティミストだったり。
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海老坂氏のサルトルについての本(題名は忘れた)を大学生のとき読んだ。本棚の一番良いところに置いて、時々読んでいた。懐かしい。
この本の中では、海老坂氏が自身と境遇が似ている(戦争の体験がある、東大出身、分筆業)加藤氏に親しみを感じているような記述が所々ある。
独りよがりに見えずに微笑ましく映るのは、真剣に思考して、書いてきた年月の重みを私が二人に感じるからだろう。
現実をただ受け入れるのではなく、理想をもって世界を観察する。ある意味、加藤氏も海老坂氏も少年のようだ。
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生涯に沢山の言葉を残した加藤周一の著作を初期からたどりながら、その言葉と考えを探る小論。新書であるが、それを超えた範囲で、重厚な小論であった。文学、美術、社会評論に関して、その意味、意義を時代や周りの人達との関係を含めて論じられていた。加藤周一の社会的活動についてグラムシの言葉を通じて述べられていた「知性のペシミズム、意志のオプチミズム」という発想は、今の時代だからこそより希望の灯となる。
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第1章 “観察者”の誕生
第2章 戦後の出発
第3章 “西洋見物”の土産
第4章 雑種文化論の時代
第5章 一九六〇年代―外からの視線
第6章 “日本的なもの”とは何か―“精神の開国”への問い
第7章 希望の灯をともす
著者:海老坂武(1934-、東京都、フランス文学)
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戦後を代表する知識人の一人である加藤周一の生涯と思想について、著者自身の観点から比較的自由に語っている本です。
加藤周一については、鷲巣力や成田龍一といった論者たちがその思想的経歴について立ち入った考察をおこなっていますが、本書はフランス文学を専攻し、加藤に近い立場から文学や思想、政治についての評論をおこなっている著者が、加藤の著作を読み解きながら、ときに疑問を提出しつつ、彼の思想にせまっていく試みだといえるように思います。
著者は、戦後の加藤が「エゴイズムを拡充した高次のヒューマニズム」を掲げ、「作家は自己の戦争体験から出発せよ」と主張した荒正人を批判していたことに着目して、「観念によって、思想によって〈戦中〉を耐えてきた加藤にとって、肉体-心理-エゴイズムの側面を強調する論法は受け入れられるものではなかった」と述べています。さらに著者は、こうした観点から加藤と、本居宣長へと回帰していった小林秀雄を対比する視点を提出しています。