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文学を「想像界・現実界・象徴界」で考えた事はなかったので、これはひとつのフレームワークにはなるなと感じた。イチバン面白かったのは小松左京。本書では触れられてないが、「復活の日」では女は産む機械としての役割を負わされ、くじ引きで生殖相手を決められるシーンを思い出した。(確かにこういうのは現代ではウケないだろう)
「きみとぼく」という究極のエロスと、社会・公共といったロゴスのブリッジになるのが「家族」なのかなと。家族は基本的にはエロス的関係なのだろうが、「世帯」という概念で考えると社会・公共・経済(家計)というロゴス的要素は無視できない。が、「生殖への欲望」というのは存在するのだろうか?「欲望は他者の欲望」と言われるが、もはや結婚や子供が幸福をもたらすものではないというのは明らかであり、子を持つ欲望というのもかなり怪しく思えるが。
昨年は「あまちゃん」や「半沢直樹」といったセカイ系とは対極に思えるドラマが流行った。「文学を読むことが、社会を語ることの必要不可欠な要素のひとつである日がふたたび来る」兆しなのかな?という気もするがどうだろうか?
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新井素子と法月綸太郞と押井守と小松左京の作品を使ってセカイ系の困難と呼ばれる問題の解決を考える。
押井守以外は実は読んだことないし、押井作品もそんなに熱心に見ていない、けれど、面白かった。
面白かったというか、4章の途中までなるほど、と思いつつ、なんか現実に目を向けよう的な話になるのかな、と思いつつ、なんだか最後の最後に何かとんでもないことが起きたような気がするのだけれど、その部分がどうにも理解を超えているようで、まだ咀嚼出来ていない、ので、もう一度読まねば。
とてもとても読みやすい本だった。
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面白かった。ボクはラノベもミステリーもほとんど読まないので、実感として東さんのいうことはわからないし、押井守にもハマらなかったけれど、ポストモダンとセカイ系の危機、その時代における小説の役割をわかりやすく説明してくれている。僕らよりも若い世代の価値観の一端も垣間見えたような気がする。
特に、押井守の物語のループ性は、細野晴臣が言っていた「世界は螺旋形をしている」と似ているなと思った。反復しながらズレていく世界の中で、自分の生の一回性をどのように価値付けていくのか、愛、家族、もうひとつの母性・・・ 難しいけれど、東さん自身は肯定的な未来を模索し、見出しているようにも思えた。
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思いのほか、とても読みやすかった。文芸批評では取り上げられることのない、新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京の4名の作家から、閉塞したセカイ系をどう突破しようとしたか、が語られる。押井守の映画は何作品か見ていた他、法月綸太郎の本はほとんど読んでいたが、その他2名の作家はあまり読んでいない。それでもとても分かりやすい。
法月綸太郎は、正統派本格ミステリであるようでいて、変格でもある。一時期までは主人公がよく悩んでおり、そこに共感していた(あんまり悩まなくなった近作は、作品としてのパワーも落ちてきたように思える)。が、セカイ系と恋愛の問題、として読み解くことができるとは全く思わなかった。
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期待外れ。期待していたのに。なので、書評も批判モードで。
副題が「現実から切り離された文学の諸問題」である。「セカイ」というカタカナ表記がそのことを示している。「文学が社会に与える影響はかつてなく小さく、逆に社会が文学に与える影響もかつてなく小さい」と言うのは、「文学」と「影響」を狭く捉えすぎていないのだろうか。著者に自分が求めていたのは、そういう姿勢ではなかった。
まずはじめに当初雑誌の原稿を、「だ・である」調から「です・ます」調に変更した、と書く。その理由が「ノンフィクションの書籍では急速に「です・ます」調が一般化し始めているように思うからです」だと言う。さらには、それでも「なにも変わっていない」と言う。それは、物書きとして、表現者として、あまりに自分の言葉への責任が薄いのではないかと思う。たとえば、柄谷公人が「です・ます」調になったらちょっと変だろうし、仮にそうなったとしても、そこには意図が表れていると思うはずだ。自分ですら、このブクログの書評を「です・ます」調から「だ・である」調に変えるときは、意識的な姿勢の変更があったのに。
著者は、「文芸評論という、いまや古びたあまり見向きのされないジャンルがあります」と断わる。しかし、このあまり見向きのされないジャンルにおいて、高橋源一郎の文芸批評が面白いのは、対象となる本を読まなくても楽しめるようになっているところだと思う。ときには、その小説なりが本当に存在しているのか怪しみつつ読んでいるときさえある。読まれていないことに対する諦念さえも、そこにはあるのだ。一方、東浩紀の文芸批評はそこには至っていない。文学が読まれなくなったといいながらも、それが存在して読まれていることを前提としている。言い訳がましく、徹底されていないのだ。また、取り上げる作家が異色だと言うが、新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京、って別に異色感はない。
この本は、「想像力と現実が関係をもつことのむずかしさを主題とした本です:とのことだが、その主題の立て方は果たして本当に正しい主題の立て方なのだろうか。世界をブンガク化するいくつもの方法があるのではないか。たとえば高橋源一郎はそこでもがいているのではないのだろうか。
「文学を読むことが、社会を語ることの必要不可欠な要素のひとつである日がふたたび来ることを願って、本書を送り出します」と。こんなことでは、そんな日は絶対に来ない。
ということで、最初に置かれた「はじめに」の章で腰砕かれ、あとは飛ばし読みせざるを得なくなった。残念。
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まず本題とは別に東浩紀は作品をおもしろそうに紹介するなぁと思った
ここに出てきた4人の作品はどれも読んだことなかったけれどすごく読みたくなった
ひとつ気になったのはやはり押井守が出てきた点
前置きされていたとはいえ違和感は残った
『ゲーム的リアリズムの誕生』と比較して『all you need is kill』と「スカイ・クロラ」がとても似てるように感じた
だからこそ何故桜坂では駄目だったのかを考えるためにもう一度読みたい
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小説を読む時に、物語の「構成」はちょくちょく気にしながら読んでいますが、小説の「構造」を意識したことは余りありませんでした。なんていうと言葉遊びのようですが、本書を読み終えて思った率直な感慨です。
普段、文芸評論はほとんど読まず、フィクションの海を漂うに任せていることばかりのワシですが、本書は「セカイ系」の世界へと誘う巻頭言から引き込まれました。セカイ系……ワシの中では「最終兵器彼女」あたりから意識し始めた単語・概念でしたが、そこに至る様々な文学史的経緯があった、しかもそれを著者なりの切り口で深掘りし、強い説得力でもって解説してくれます。
しかしその解説も、全然小難しくはない。丁寧な説明、構成で、分かりやすく論理が進みます。ワシみたいな素人に分かりやすいと言うことは、反面もしかして、本格的に文学研究をやっている方には物足りないのかもしれませんが、単なる「小説好き」「物語好き」の好奇心は充分に刺激されました。
ワシは小説を読む時、「作者が誰か」というのを出来るだけ意識していませんでした。それは、内容だけで面白さを判断したい、という自分なりの稚拙なルールなのですが、本書を読むと、作家の「作家性」が気になってきます。
そして何より、作中世界とその外部≒神=作者、との関係性が気になってきます。作家が文学に込める「セカイ」や「社会」や「自分」の繋がり/断絶、これは、今後小説を読むにあたって意識しながら楽しみたい部分になりました。
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セカイ系が、想像と現実を切り離してしまっている問題と、その問題の文学的な葛藤と解決について、新井素子、法月倫太郎、押井守、小松左京の4人の作品を通して考察していく。
幸い、新井『チグリスとユーフラテス』、押井『スカイ・クロラ』、小松『復活の日』については知っていたので著者の主張は飲みこめたが、取り上げられた作家について全く知らないと、内容についていくのは少し難しいかもしれない。
ただ、「セカイ系」と「家族との関わり」に大きな関係があるというのが著者の一貫した主張であるように感じた。
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現実から眼を背けていることを社会の欠落 象徴界の欠落としてつまりセカイ系的なものとして語る 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』の影響がある ココで語るのはセカイ系の困難 つまり家族を作ることからはじまりマザコンを乗り越えることにアンサーを出す 自立して結婚し子供を設けたりすること等で現実に眼を向けることを促そうとしている 象徴界(社会)の克服がキーワードである
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要約:マザコンでひきこもりのオタクへのメッセージ。とりあえずCLANNAD見て「家族っていいなあ」と思え。次に自立してコツコツ働け。そして風俗に行って童貞を捨てろ。それから恋愛して結婚して子供つくれ。それが社会と関わることだ。(っていうのは曲解がすぎるけど、宮台感はある)
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まとめ
○かつての文学
・現実で生きる人々の喜びや苦悩を汲み取り、作品表現として昇華するという役割
=社会や政治をふまえたうえでの創作が価値を持っていた
・文学と社会が「公共的」な関係を持っていた
○現代の文学
・現代の社会はあまりに複雑で、わたしたちはもはや社会全体をうまく見渡すことさえできない(世界から切り離されている)
・あらゆる創作物が「現実逃避」として求められている
・記号的・キャラクター思考
・現実から遠いものとしての虚構群である
・想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く(例・個のボーイミーツガールを、「世界の終わり」や「この世の危機」といった大きな問題と直結させる)
・細部(又は大枠)の欠如
・社会を描かない/描けない/描かなくてもよい
→想像(創作物)と、現実が切り離されている
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新井素子と法月綸太郎はよくしらなかったがきちんとどんな人か踏まえての話なので問題はなかった。おもしろい批評だと思った。動物化するポストモダン1&2と併せて都合三冊読んだことで、現代のアクティブな文学に関しては随分と見通しやすくなると思う。時代とリンクしているのでわかりやすいし。古くなる前に読んだほうがいい本。
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インパク知 6・7
自分たちだけの閉じられた世界(想像界)と、それを破壊するどうしようもない力(現実界)が短絡し、社会や政治など、本来であればふたつをつなぐもの(象徴界)への言及がない――「涼宮ハルヒ」などに代表される「セカイ系」の作品が抱える、「社会とのつながりのなさ」に、作家はどのように対抗しているのか、という考察。
新井素子の「家族」、法月綸太郎の「恋愛」、押井守の「ループ」、そして、小松左京の「未来」について、それぞれの章で考察を加えている。
本書においては、「セカイ系」の解決策は、「自分を(何らかの形で)未来につなぐこと」であると述べられていたように思う。四人の作家の作品への愛と、筋道を立てた読解でわかりやすくそのことが述べられていた本書は、たいへん面白かった。ジャケ買い成功である。
一方で、筆者よりもさらに下の世代である自分には、その解決策が、幻想に過ぎないのではないかという懐疑がある。
虚構において、ひとが社会(象徴界)を必要としないならば、つまり、虚構が現実を描かないのであれば、文学はいらない。これが「セカイ系」の抱える問題である。しかし、四人の作家による作品は「自分を未来につなぐこと」が、そこからの脱却のヒントを示している……というのが本書の主張であるが、「自分を未来につなぐこと」が救いになると読むその点に、筆者のマトモさ、もっといえば「人間に対する絶対的信頼」を感じた。
これが「評論」だ、と思う。しかし、そうであるならば、「評論」は、人間に絶対的信頼を寄せることのできる、一部のエリートのものだ。筆者が「セカイ系」の読者として語る「オタク」に、果たしてその「人間への絶対的信頼」はあるのだろうか。
本書はとても面白い。とても面白いのだが、だからこそ、虚構の中で社会(象徴界)を求め、享受することができるのは、エリートだけなのだという寂しさも感じた。