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本著から小村寿太郎の通史を知ることができる。
小村寿太郎は日記、手記等を残さなかったからか(当時は珍しいのでは)、彼に関する書物は意外と少ない。
歴史小説を含め。
その意味では貴重な本かもしれない。
小村寿太郎は藩閥でもなく、実力で外務大臣に上り詰めた。
また、彼を引き上げた陸奥宗光も非藩閥の実力者。
明治という時代は少数精鋭の時代ともいえるが(多くの優秀な人材が幕末で亡くなったという意味で)、彼のような実力者が登用されるという風土があったことが、時代のひとつの特徴ともいえるかもしれない。
ちなみに、”特徴”ということは、現在に学ぶべきこと、という意味も込めて。
(ただ、日清戦争時に、山県、桂から目をかけられ、特に桂内閣で外相に抜擢されることを考えると、長州閥、陸軍閥の意向は自ずと受けていたのかもしれない)
歴史を振り返ると、彼の指向が、韓国併合等帝国主義的で好戦的というネガティブな評価もあるのだろうが、米国、中国、イギリス、ロシアの公使を歴任したことを考えると、当時としてはグローバルな視点で日本の立ち位置を客観的に捉えることができた数少ない人物であったことには間違いない。その観点で、当時の判断としては、理に適う判断だったのだろう。(頭から批判できないし、歴史とは、人を理解して時代を知るのではなく、時代を理解して人を知るべき)
当時の日本の外交はまさに弱肉強食の帝国主義の時代をどう生きるか。端的にいえば、英仏独ロアメリカの大国と、どのように自国の帝国主義化(韓国の植民地化、中国での利権確保)を渡り合うか、ということ。
その関係は時と共に変わり、柔軟な姿勢と一貫性が求められる。
この観点では彼の外交手腕は成功したのだろうし、この外交で最も重要なことは、もしかすると外相や外交官の個人レベルでの手腕かもしれない。(国力に委ねるのであれば、日本はずっと劣勢だった筈)
それは対等に議論できる能力、胆力、知力で、小村にはそれが理想に近い形で備わっていたのだろう。彼は滞在国でその国のことを徹底的に学んだようだ。特に語学力があった故に、様々な文書に接することができた。交渉において、相手のことを相手以上に知ることが如何に重要なことか。
今の日本は相応の国力があるが、それに甘えて、個々の力が無くなっている感があり、その点で小村等を通じて明治人に学ぶことはあると思う。
彼は56歳で亡くなる。陸奥もそうだが、当時は、時代に身を投げうって、国家のために身を削りながら生きてきたのであろう。
それもまた、明治人の生き方でもある。
以下引用
・(少年時代より)優れていた記憶力は、のちに外務省に入ってからも仕事で活かされ、彼がメモを持っているのを見たことがないという逸話が残っているほど有名になる。
・陸奥は、外交官および領事館試験の新しい制度を作成するように指示した。翻訳局長の小村は、栗野慎一郎政務局長とともに、立案担当の原敬通商局長を支えて、試験改革を進めていく。
結果、20歳以上の念連であれば、出身学校なのの経歴や財産を問わず、実力のみで判断されることが定められた画期的なものであった。(→外務省を非藩閥化)
この試験制度が、原や陸奥、栗野、小村といった非藩閥出身者の手で成し遂げられたのは、偶然とは言えないだろう。
・日清戦争後の下関条約締結において、小村の意見書で最も力点が置かれていたのは、清国における日本の通商特権の拡大である。(開港場の開設、鉄道の敷設、汽船航路の拡張)
・小村は、実のところ憲法や議会はどうでもいいと考えていた。国益の追求こそが重要だったのである。彼は、アメリカ留学中から民主主義に否定的だったが、特に議会や政党を嫌悪していた。
・小村と陸奥には微妙な距離があった。これは、陸奥派の三羽ガラスと言われた、陸奥外相期の原敬通商局長、林薫外務次官、加藤高明政務局長・駐英公使と比べると明らかである。
・小村の強硬な反対によって、桂ハリマン予備協定覚書は潰れた。このとき南満州鉄道の日米共同経営が実現していれば、満州を巡る日米対立や1940年代の日米戦争は起きなかったという説もあり、小村の評価が分かれるところである。
・小村は、特定のイデオロギー(政治信条)に左右されることがなかった。彼は、純粋にパワーポリティカル(権力政治的)な観点のみで、国際政治を観察することができたのである。だから、日露戦争時の外相でありながら、アメリカに対抗するために、第二次日露協約でロシアと関係を強化することを厭わなかった。
・小村の外交は、まさに帝国主義外交そのものだった。だが、小村の没後、そのやり方だけでは通用しなくなっていく。第一次世界大戦中から、アメリカが、帝国主義的な勢力圏外を否定する「新外交」を打ち出しつつあったからである。