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半世紀前のマクルーハンの英知をTwitter、facebook、Line等ソーシャルメディアやビッグデータなどの現代のテクノロジーで発生する様々な事象を通じて論じ、難解なマクルーハンの主張を身近なものにする好著。
マクルーハンの予言には驚くばかりですが、新たなテクノロジーが社会にどのような影響を与えるかを、衰退、強化、回復、反転と四つの視点で考察する「テトラッド」が思考のフレームワークとして特に興味深かった。
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今の時代にマクルーハンを論じるということは、とても誘惑的だ。「わたしは説明しない。ただ探求するのみ」と言ったマクルーハンのアフォリズムは、その意図を超えて今の時代にメッセージを届けているような気がする。マクルーハンは「メディア」という言葉を通常の意味からあらゆるテクノロジーへと拡張する。すべて身体と感覚の拡張として。
マクルーハンは、『メディア論』をずっと前に読んだのみだが、その頃はちっともピンと来なかったことが、今の時代になってすっと腹落ちするような気がする。
本棚から古びた『メディア論』を取り出して開けてみると、その当時それらの言葉をどう受け止めていたのかもう思い出せないが、色々なところにかつての自分が鉛筆で引いた線が残っている。少し例を引いてみよう。ちょうど50年前に出版されたものだということを考えても、現代にも通じるその意義がわかるのではないか。
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「いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を生み出すものである、と。環境は受動的な包装ではなくて、能動的な過程である」
「現代の若い学生たちは電気によって構造化された世界で成人する。それは車輪の世界でなく電気回路の世界である。断片の世界でなく統合パターンの世界である。現代の学生たちは神話と深層の正解に生きている」
「現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまなメディアによって、ほぼ、われわれの感覚をすでに拡張してしまっているとおりである。」
「われわれが新しい電気の世界で麻痺しているのは、現地人がわれわれの文字文化と機械文化に巻き込まれているのと変わらない」
「ケネス・ボールディングが『イメージ』のなかでこの問題を提起して、こう言っている。「メッセージの意味は、それがイメージに引き起こす変化のことである」と。意味ではなく効果への関心の移行したのが、われわれ電気の時代の基本的な変化である」
「技術という形態でわれわれ自身を拡張したものを見ること、使うこと、近くすることは、不可避的にそれを抱擁することになる」
「この電気の時代にいたって、われわれ人間は、ますます情報の形式に写し変えられ、技術による意識の拡張を目ざしている。このことが、人間についての知が増えている、というときに意味されていることに他ならない。われわれは、ますます自身を越える別の表現の形式に自分自身を移し変えることができる、と言っているのである」
「詩人ステファヌ・マラルメは「世界は一冊の本に尽きる」と考えていた。いま、われわれはそれを超えて、全光景を一台のコンピューターの記憶に転移させるところまで来ている。生物学者ジュリアン・ハクスレーの言うように、人間は、単なる生物学的な存在ではなくて、経験を蓄える力を基礎に、それを移し変える機構をもっているからだ。そして、人間の蓄える力(たとえば言語自体のうちに蓄えるのもそうだ)もまた、経験を移し変える手段に他ならない」
「そして、コンピュータの時代にふたたびそうなるかもしれない。なぜなら、いまや、意識の状況に近い。諸感覚間の比率をプログラムすることが可能だからだ。けれども、このような状況は、車輪が回転することで足の拡張となるのと同じように、かならずや、われわれの意識の拡張となるであろう」
「二〇世紀の大発見は「判断中止の技法」である、と言ったのはバートランド・ラッセルであった。一方、A.N.ホワイトヘッドは、十九世紀の大発見が発見の技法であったことを説明している」
「われわれは、新しい技術とメディアによって、自分自身を増幅し拡張する。そういうメディアや技術は、防腐処理などまったくおかまいなしに、社会という身体に加えられる大規模な集団的な外科手術のようなものだ」
「自動車が生まれるまで、だれも自動車を欲しがりはしないし、テレビの番組ができるまで、だれもテレビに関心をもちはしない。独自の需要の世界を生み出すという、この技術の力は、技術がまず最初にわれわれ自身の進退および感覚の拡張であるという事実と無関係ではない」
「われわれの感覚および神経を地球規模に拡張する現代の電気技術は、言語の未来に大きな意味をもっている」
「すべての技術が力と速さを増すために身体の神経組織を拡張したものである。これが本書の一貫した主張である」
「情報の移動の速度は均一でないから、組織に多様なパターンを生み出す。したがって、情報を移動させる手段が新しくなれば、どんな権力構造も変わる」
「車輪、道路、パピルスなどのために、結果として空間の組織に構造上の変化が生じる」
「すべての組織、しかしとりわけ生物組織は、さまざまな外からの衝撃あるいは変化のなかで、内部の状況を一定に留めようと奮闘する。人口的な社会環境も人間の身体の拡張である以上、例外ではない。一種の政治体としての都市もまた新しい圧迫と刺激に対応するのに、豊かな新しい拡張をもってする―-つねに、維持力、恒常、均衡、ホメオスタシスを講師しようと努力しつつ」
「知覚が視覚的に拡散するにつれ、アルファベット文字という形態でより身近なものになるにつれて、それは局地化され専門化された」
「電気科の直前までは、速度の増加が機能の分化、階級の分化、知識の分化を生み出す。しかしながら、電気の速度によって、こういったいっさいが逆転される」
「文字こそわれわれの視覚の拡張が現れた主要なものに他ならない」
「皮膚の拡張としての衣服は、熱制御装置であるとともに、社会的に自己を規定する手段でもあると見ることができる」
「社会の成員の感覚生活で、感覚の比率あるいは割合が変化したために生ずる変化ということになる。このような移行は、社会の新しい技術や発明という形で身体を拡張するのに伴って生ずるものだ。新しい拡張はすべての感覚と機能のあいだに新しい均衡を打ち立て、いわば「新しい外観」―-多くの領域における新しい態度と嗜好―-へと向かう」
「もし車輪、活字、飛行機などがわれわれの知覚の習性を変えるということに疑いを抱きたくなる人がいても、その疑���は電気による照明とともに果てる。電気による照明では、メディアがメッセージであり、明りがつくと感覚の世界が存在し、明りが消えるとそれは消滅するのである」
「こんにち電子工学の時代には、もっとも富める者が普通の者とだいたい似たような娯楽を楽しみ、同じ食物を食べ、同じ車に乗らざるをえないようになっている」
「すべての人びとにその願望や欲求を、いわば統計的に、供給と需要という市場のメカニズムや価格という視覚的な技術によって翻訳できるように習熟させることと比べたら、生産を組織化することのほうがはるかに容易である」
「すべての技術がミダス王の手の力を持っている。共同体そのものがある程度の拡張をすると、その形態を受容するように他のすべての機能を変えていくものである」
「なにかを生き経験するということは、その直接的な衝撃を多くの間接的な認識の形態に変換することに他ならない」
「たぶん、活字印刷が人間に与えた贈り物である能力のなかでもっとも意義あるのが、非密着性(detachment)と悲関与性(noninvolvement)―-すなわち、反応することなしに行動する力―-であろう」
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マクルーハンが今の時代にまで生きていればどういう言葉を紡ぐのであろうか。「メディアはメッセージである」という有名な言葉はインターネットの進化によりメディアの変容が進む世界においてもなお有効である。さらには「同時的」なメディアとしてのSNSは、新たな解釈を試みられるべきであろう。
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こんな感想持ちました。
・引用されているマクルーハンの文章が難解で、何を語っているのかさっぱり理解できなかった(苦笑
・メディアだけでなく、テトラッド(強化/回復/衰退/反転)というフレームワークで考えていくのは面白そう
・「地球村」は、「宇宙船地球号」的な牧歌的な理想郷ではなく、かなりシビアな世界観である
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メディア関係の本を読んでいると盛んに引用されるのがマクルーハン。しかし、一方でマクルーハンの書は難解との評判もあったので、マクルーハンのガイド本として本書を手にとってみました。
マクルーハンが残した言葉を噛み砕いて分かり易く解説しています。メディアに携わる者としてマクルーハンを勉強してみようと思わせてくれる一冊でした。
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メディアの話によく出てくるマクルーハン。でも名前を聞いたことある(そして断片的な引用しか見たことが無い)程度の自分が、初めて全体像を知ることができた本。マクルーハンの理論のエッセンスが平易な言葉で要領良く書かれている。
マクルーハンの話でジェミノイドとの関連が引かれてたり(P.65)、Googleグラスとの関係性が説かれてたり、フィルターの問題が示されてたり、と正に現在進行形の話題とマクルーハンの理論を絡めてあったので、こういうポイントというのがわかりやすい。
特にバックミラーを通して未来を見る、という話と、新しいテクノロジーは不安とノスタルジーを引き起こす、という話は印象に残った。
『そうした激しい批判を引き起こすものこそ、僕らが「実は社会にとってプラスになるのではないか?」と考えるべきものなのかもしれません』『自分の目では気づきにくい見落としを避けるために、あえて人々が拒否反応を示しているものを探すようにする、というわけです』『少なくとも様々な批判が、いかに漠然とした根拠の上に繰り広げられているかということに、驚かされるのではないでしょうか』
本書にもビッグデータの話題が少し出てきたが、昨今のプライバシーと匿名化されたビッグデータの利活用化というのが、この議論においてどこにあるのか、マクルーハンの意見が聞いてみたい。
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読みやすさ :★★★★☆(読みやすい)
分かりやすさ :★★★★☆(分かりやすい)
内容の充実度 :★★★★☆(満足)
全体のまとまり:★★★★☆(まとまっている)
費用対効果 :★★★★☆(買って読む価値がある)
読後感 :★★★★☆(モチベーションがあがる)
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メディア論の大家のマクルーハン、手頃な入門書が見つかったので読んでみた。
マクルーハンの秀逸なアフォリズムをわかりやすく紹介していてgood。
もちろん、「その解釈は強引じゃない?」と思う点も何箇所かあるが、難解で発散する文章をここまでまとめるのは本当に敬意を表したい。
マクルーハンの示唆した内容が今のメディア環境にも当てはまっているということを実感するとともに、現在のメディア論を眺める上でもマクルーハンの議論は役に立つだろうと思った。
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あれだけ学生の頃勉強したはずのマクルーハンだけど、現代の課題を切り口に検討し直すとこれだけ味が出てくるんだな…2013年の本だけど、5G時代に向けてもう一度メディアについて考えるのにいい準備運動になった。