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教育棚と著作権棚が興味深かったです。読書の始まりが、親の本棚にある本を読みはじめることであるように、「無償のテクストを読む」ということから長い読書人生をスタートするという一文に共感しました。
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内田氏のあれも言いたいこれも言いたいという考え方の骨幹となる所が少し分かったような気がしました。後でブログをまとめた物と知って納得。それにしても健全なる精神の持ち主だと改めて感心!福沢諭吉先生ももう一度読んでみたくなりました。
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12.06.xx読了。内田樹デビューの一冊。いろんなことに対して物申すって感じだけど、口調や理論が決して攻撃的ではなくおだやかで説得力あふれるものばかり。前半の故作家哲学者リスペクトはついていけないが、後半の著作権論のところはなかなか痛快。
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教授(あ、「元」教授が正しいのか。まあいいや「教授」で)が本について語ったブログをまとめたもの。私は教授お気に入りの高橋源一郎氏がいまいちピンと来ないので、うーんそうかなあと思うところも結構あるけれど、以下の所はいたって面白かった。
「痩我慢の説」福沢諭吉
リアリスト福沢諭吉の「公的」「私的」のとらえ方に唸る。「国民国家なんてのはただの擬制だよ。だがね、人間というのは弱いもので、そういうものにすがらなけりゃ生きていけやしねえ。その必死さを俺は可憐だと思うのさ」。なるほどねえ。
「ヨブ記」
「私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに取り囲まれている。……誰かが境界線を守護しなければならない。……そのような仕事をする人のことを『歩哨(センチネル)』と呼んだことがある」
村上春樹氏がほとんど同じことを書いていたなあ。
「他者と死者」「レヴィナスと愛の現象学」
ずーっと前から読もうと思ってるんだけど…。なかなか踏ん切りがつかないのだなあ。
「若者よ、マルクスを読もう」
なぜかつての若者達がこぞってマルクスを読み、今は読まれなくなったか。日本人は、ベトナム戦争が終わったあと、「疚しさ」を感じる相手を見失ってしまったから、と教授は言う。
「共同体はそのメンバーのうちで、もっとも弱く、非力な人たちであっても、フルメンバーとして、自尊感情を持って、それぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されねばならない」
「共同体を作り上げ、運営してゆくためには、どうしてもそれなりの数の『大人』が必要です。(中略)その持てる資源を自己利益のためではなく、かたわらにいる弱く、苦しむ人たちのために用いなければならないと考える『大人』が必要です」
「マルクスを読み、マルクスの教えを実践しようとすることは、近現代の日本に限って言えば、『子どもが大人になる』イニシエーションとして、もっとも成功したモデルの一つでした」
こういう切り口で60年代から70年代の若者をとらえたものは他にないと思う。ノスタルジックな思い入れや、「未熟ゆえの暴走」的なとらえ方ではないところがとても好きだ。
「『世界の最後』に読む物語」
「書物はもともと商品ではない」おお!全くその通りだ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」は自費出版で四〇部刷られ、世に出たのはわずか七部。フーコーは「言葉と物」を出版するとき、その内容を理解できる読者をフランス国内で二千人ほどと見込んでいた、などなど。
「彼らの書物は同時代人の『あらかじめ存在していたニーズ』には対応していない。だが、その書物が出現したことによって、世界はその書物が出現するより前とは違うものになった」
思想とイデオロギーの違いについてもたいそう頷かされた。
「逆説的なことだが、思想の公共性を支えているのは『孤立していることの自覚』であり、イデオロギーの閉鎖性を作り出すのは『圧倒的多数が自分と同じ意見であるはずだという無根拠な信憑』なのである」
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-cb63.html
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私たちは、「自分宛のメッセージでない」ものを読むということに極めて吝嗇である。というのは説得力がある。リーダビリティの良否は、この文章は私宛だと読者にどれだけ思ってもらえるかということに拠っている
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「死ぬ言葉」が印象的だった。
「人とともに生き死にする言葉」だけが語るに値し、聴くに値する言葉だということである、というのが印象的。
個人の身体が担保するというのがいかに大切なのか、ということが心に残った。
また「学ぶこと」も印象的。
おのれの無知についての自覚があり、自分の師を直感でき、師を教える気にさせるというのが興味深い。
私がフラメンコを習いたい!思ったのも、いつか読んだ内田樹さんや養老孟司さんの身体に関するエピソードの本がきっかけのような気がしている。
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さすがに内田さんの読書から学んだり考えのきっかけになっていることから学ぶことは難しかった。
読書によって読書力が上がっていく過程、たとえば池谷裕二さんの話をどうとらえているか、政治、マルクス、著作権などなど、話題は多岐に富んでいるように感じる。
まとめてしまえば、あとがきに書かれている「言葉が伝わるとはどいういうことか?」を書かれている。
「著作権について」
以前、内田さんの著書から引用したくて、出版社に問い合わせてみたところ、簡単にOKが出た。多くの人に自分の書いた物を読んでほしくて出している、という考え方だからかどうかはわからないが。
「入試問題に使われる著者(養老孟司、茂木健一郎、内田樹など)の傾向に関する共通点」
読書経験の浅い人間にとっては、何を言っているのかわかりにくい、人生初めての単語を使われたりするので文脈から意味を汲み取る読解力がよく見える、からでは?
「問題はコンテンツではなく宛名」
だったら「白ヤギさんからお手紙ついた、黒ヤギさんたら読まずに食べた」の歌も納得できるかも。
<池谷さんの講演から>
スワヒリ語の単語四十語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。ただし、四つのグループに分けて、それぞれ違うやり方をする。
・第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また四十単語全部を学習し、四十単語全部についてテストをする。それを全問正解するまで続ける。いちばん「まじめ」なグループである。
・第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、四十単語全部についてテストをする。
・第三グループは、間違いがあれば、四十単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
・第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけを学習し、間違った単語についてだけテストをする。これが一番「手抜き」なグループ。
全問正解に至るまでの時間に差はない。まじめでも手抜きでも結果は同じ。
ただ、数週間後に再テストをすると劇的な差がつく。
まじめグループの正解率は81%。手抜きグループは36%。第二グループは81%。第3グループは36%。
ここからわかるのは、学習は脳への入力である。テストは脳からの出力である。つまり、脳の機能は出力を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。いくら詰め込んでも無意味で、使ったもの勝ち。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、3つ。
①「自分は学ばなければならない」というおのれの無知についての痛切な自覚があること。
②「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
③その「師」を教える気にさせる広々とした開放性。
いろんな意味で、毎回知らなかった世界の知識だけでなく、思考を深い階層に持って行くための、考え方の手順を文章を読ませる中で見せてもらっている気がする。そういう意味で、読む価値のある本といえるのだろう。
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本の著者が求めているのは、「購入者」ではなく、「読者」である、という指摘にものすごく感銘を受けました。
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読んだことのある話しが多いが、同じ話でも読む度に腑に落ちることが増えていく。
自分に向けて書かれたように感じさせるのが内田先生はうまい。
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これはちょっと「読書論」とは言えないかも。面白いけど。
箴言と呼べるような言葉に出会える読書は愉悦に近い。
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ブログやその他の既出の文書を集めたものなので、この本でなにか一つの読書についての論を展開しているわけではないです。
ただ書かれていることのいくつかについてはなるほどと思いました。
・学力について
学力とはテストの点のように測定できるものではなく、学ぶ力のこと。すなわち、①無知の自覚、②師を見つけるアンテナ、③師から学びとる開放性
・母語運用能力について
母語運用能力の高さとは、口から出る文章の分岐点の多さであるという話。
・著作権について
著作権によって著作料を得ることと、作品を読者に届けること、どちらが大事なのか?という話。
・論文について
論文の序文は二回、すなわち書く前後に書く。その二つが乖離しているほど、書くことにより自分が変化したことになる。その変化がなければ、書く意味はない。という話。
・メタメッセージ
メタメッセージ、すなわちメッセージに関する説明をつけ加えることで、メッセージが伝わりやすくなる、という話。
などなど。
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あぁ‥かっこいい。
『街場の文体論』も読みたい。
私には難しいかなと探るように読み始めだけれど、とても読みやすかった。(理解したかどうかはともかく)
知らない書名、知らない人のオンパレードだった「文芸棚」「人文棚」「ウチダ本棚」の章からとにかく楽しかった。
そして「教育棚」「著作権棚」「表現とリテラシー」には比較的身近に感じる話題について、目から鱗な話がハッキリキッパリ書かれていた。格好良かった。
「卒論の書き方」なんて、学生の時に読んでいたら‥!と、どうしようもないことを考えてしまう。
一番興味深かったのは著作権についての考え方。
そして人とともに「死ぬ」言葉のこと。
人通りの多い場所で読んでいたのに、しばらく周りの音が聞こえなかった。
止まった時間の中で読んだようだった。
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ブログ「内田樹の研究室」からのエッセイ集。
内容の濃さ、ボリューム共に思いっきり読書というものを堪能できる。
リーダビリティの本質についての論考が興味深かった。
独特の文章体が読みづらくはあるが、それでも、理解しようと食いついて読んでしまう。
図書館で借りて急いで読んだのだが、これは購入して何度でも繰り返し読みたい。
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面白かった!
あとがきにあるように、「言葉が伝わるというのは、どういうことか」という主題についてあれやこれやとブログ日記で論じられた文章をまとめたもの。
1つのテーマが2~5ページと短いので、さくさく読める(内田先生風)。
久しぶりにこうした学術的?理屈っぽい?文章を読んだなぁと(いやブログだしかなりくだけた文章なのですが、何しろ大学のセンセイであるからして、やはり内容が…)。
脳が色んな方向からいい具合につっつかれ、動いていない細胞が覚醒するような感じだった。
下記記述以外はほぼ賛同できた。
「私たちは『自分の本棚』を自分の『脳内マップ』として他者の目にさらす。他人から『こういう本を読んでいる人間である』と思われたいという欲望が私たちの選書を駆動している。」
そうなんだろうか?
わたしはこれぞ手元においておきたい、というものを買うようにしている。
図書館で借りて、ひどくよかった本は購入したり。
他人の目ということは一切考えないのだけど…ううむ。
あと、本はそもそも「商品」ではない、という著作権をめぐる論述。
商品となったのはせいぜいこの200年くらいだと。
買ってもらうことより読んでもらうことが大事だと。
おっしゃることはよくわかる。わたしも読者として、書き手としては、まったくそう思う。
ただ、出版界の事情など考えると…。
出版業界で日々売らんかなと必死な人間には素直には聞けないお話かもしれない。
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『レヴィナスと愛の現象学』読んでみたい。
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P169「エネルギー政策」(フレドリック・ブラウン『電獣ヴァヴェリ』)には熱くなっちゃったよ。
中島工務店・中島社長の「もう電気はいらない」発言に「びびび」と来たというお話。
原発依存の理由はモデルそのものを刷新できないように仕組まれていたからだというのは目から鱗(↓)。
もう電気はいらない!(原発はいらない、という意味です。必要な分は自家発電という時代になれ。)
テクノロジーの進化は、当然電力においても、パーソナルなパワープラントとその自由なネットワーキングを可能にした。環境負荷の少ない、低コストの発電メカニズムの多様で自由なコンビネーションによって、「電気は自分が要るだけ、自分で調達する」という新しいエネルギーコンセプトが採用されるべき時期は熟していたのである。電力においてもIMBモデルからアップルモデルへの、中枢型から離散型へ、商品から非商品へのシフトの技術的な基礎はもう完成していたのである。
そのシフトが果たされなかった。旧来のビジネスモデルから受益している人々が既得権益の逸失を嫌ったからである。
原発は彼らの「切り札」であった。
国家的なプロジェクトとして、膨大な資金と人員と設備がなければ開発し維持運営できないものに電力を依存するという選択は、コストの問題でも、安全性の問題でもなく、発電が原発中心である限り、離散型・ネットサービス型のエネルギーシステムへのシフトが決して起こらないがゆえに採用されたのである。