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投稿者:松山富士夫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本当に未来予測できてるなーって感じです。お勧めします。
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ベストテンとかチャートとかが、なぜ人々の関心と興味引くかといえば、安定しないことでのスリルがそこにあるからでしょう。「勢い指数」のようなものがそこにあるとして、その基礎になる情報というものは、何なのでしょうか。これがまたあんまりよくわからないものなのです。とりあえず「露出」と「売り上げ」という要素で計りましょうと、いうような感じで、無意識の申し合わせができているようですね。売り上げ×露出=勢い(評判)…という図式は成り立つのですが、、CDでいえば出荷枚数が売り上げだし、主にテレビの登場頻度が露出でしょうから、どちらも「勢い」の指数を上げるために、CDを大量に買ったり、政治的力関係でテレビの登場回数を増やすことも可能でしょう。こうなると「勢い」も人工的に「つくれる」のですから、勢いを価値の軸にする時代というのは、大量生産・大量消費にフィットした考え方だと思うのですが、そろそろ寿命がきているように思えます。根拠の曖昧な価値に合わせて競争することは、運頼みの要素が強くなりすぎるのですね。強い馬が勝ちにくいというレースが、ずっと続くと、最初は逆転の多いゲームを面白がった観客も、やがて飽きてしまうでしょう。つまり、ゲームデザインの杜撰なゲームになってしまうのです。
いまの映画やCDのランキングは、それを選んで買えるヒマのある人が決定しているのですね。現在の市場の動向というものは「消費する時間をたっぷり持っている」比較的ヒマな人々からの発信に偏ってしまいます。
幸せ観がないと、ものは作れないかというと、そんなものがなくてもいくらでもつくれます。しかし、どういうことが幸せなのかということがわからないままに、ドラマを作ったとしても、「ハッピーエンド」の「ハッピー」がわからなければ、そのドラマはハッピーを提示できません。「よかったね」というセリフひとつを書くにも、作者が何を「よかった」と考えているかというプレゼンテーションがないと、共感もできないし、反感を買うことさえできないのではないかと思います。
ドラマを観ていて、何か違う気がするなと思うときは、その作家の人生観や世界観に、見ているあなたの考え方がフィットしなかったわけです。しかし、違うなあと思いながらも、作家が本気で問いかけた時には「俺はそうは思わないけれど、その幸せもあるんだろうなあ」と何となく納得できたりします。その逆で、作家が自分の人生観や世界観にまったく触れないところで、「どうせ、みんなはこういうのがうれしいんだろう? どうせこういうのを面白いと思っているんだろう?」というような、想像上の「多数」に合わせようとした表現には、受け手にして心を動かされることはないと思います。
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「なにか革新的なものが発明されたり、びっくりするようなものが登場したりするたびに、これですごく変わるぞ、一気に変化するぞってみんなは言うけれども、目玉の位置や鼻の数は変わらない」という吉本隆明さんの言葉が引用されていた。インターネットがここまで浸透して、いろいろなことが便利になったけど、この感覚は常に持っていたいと思う。
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クリエイター思考の自分にとって印象に残った箇所。
引用
クリエイティブにとっては、定置的な農作業でなく原野を拓いていくような開拓のほうがいいのだと思います。管理できる労働で時間を埋め尽くすよりも、ふらふらした状態を楽しむのが、一番生き生きするし、効率だってよさそうです。
(75頁10~13行)
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面白かった。印象に残った部分を書き出す。
「正直は最大の戦略である」(112頁)山岸俊男さんの著書『信頼の構造』『安心社会から信頼社会へ』からの引用。
「消費者」という人はいない(145頁)
「商品環境論」「評判論」(155頁)
消費こそ生産だ(200頁)
「消費のクリエイティブ」(203頁)
消費のクリエイティブを育ちにくくさせているもの(229頁)否定的な論評の功罪。「いいと思ったものを、他と比べないで誉める」
立候補するという考え方(241頁)
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最近本読んでも、中々目が滑ってしまうので、こんな本と言えないのだけど…。
並列するものを否定して、そのものを評価するようなことって、確かに貧しいよなぁ、て。
きっと気付かずにやってしまってる気がする…。
また読み返したい本。
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2001年に出版された本書が、2015年の今もまだリーダブルであるのはなぜか? まだiPhoneもiPadもなかった1997年に広告業界からインターネット上に活動の場を移した著者が当時考えていたことはまるでインターネットの未来を予見していたようでもあるが、実はコミュニケーションの本質を深く捉えていたということなのかも知れない。
それは、知りたいことや欲しいものがあったら、まず自分から与えることだったり、未完成な状態でも信頼できる相手に見せて、早く意見を貰う事だったりする。
昔、彼が「広告をつくるのに向いてる人っていうのは、おいしいお団子を食べたときに、思わず他人に勧めちゃう人」みたいなことを言っていたのだが、それはまさにインターネットの世界においても必要な資質であろう。
根本的に、ラディカルに考えるとそういう事なのだろう。
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インターネットは、新しいものというよりも、
本質的なもので、
ツールだったり、
人間的なものだったり。
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インターネットは伝える仕組み。
インターネットで丸ごとつながると公私の区別が曖昧になる。
インターネットがない生活も仕事も考えられない時代になったな。
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インターネットが普及することで、社会はどんなふうに変わっていくのか。その変化が、インターネット的、ということ?すごく話題になっている本やけど、そんなに響くところはなかったかなぁ。とはいえ、この本を二〇〇〇年になったばかりのころに書いていたのはやはりすごいのかな。
糸井さんの本をきちんと読むのははじめてやったので、なんとなくこのひとの考えていること、考え方がわかったのがよかった。頭がよくて、バランスのいいひとだ。
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15年も前の出版だが、現代のネット社会や大量消費社会をズバリ予見‼︎ ほぼ日が、長く人気を得ているのに納得。IT化された分、ゆとりある生活を送っているはず⁉︎が。。。
消費や余暇にこそクリエイティブを!本当ですね。
クリエイティブの価値を大事にされている糸井さんならではのネットとの触れ合い方や、問題提起になるほどな~と活を入れたれた感じでした。
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2001年7月に発行された単行本が今の時代を予見しているとされて2014年11月に文庫化された.インターネットの持つ特徴により人々の行動様式がどう変わっていくかについて述べている.
シェアすることに喜びを感じるとか,情報を発信する人の元へ情報は集まってくるとか書けたのは素直にすごいと思った.まだISDN主力の時代で,写メールが流行り始めた時期ではなかったか.自分の嗜好や生活が10年ちょっとでどんな風に変わってきたかなと思いを馳せながら読むと面白かった.
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インターネットではなく、インターネット的。そこに人間の本源性に根ざした視座があった。特に前半は刺激的。話し言葉でなぜか読みにくかったが、ところどころ生きることに自覚的にならざるをえない部分にかちあった。
・価値が多様化すると言うよりは、価値の順序づけが多様化する
・「ここは流れとは関係ない」という話題の選び方こそ、発言者の個性がよくでる。
・インターネットよりも雑誌の投稿の方が内容が豊かだった。バカなことの豊かさとか、自由であることの楽しみについて、先にネットにつながっている人には欠けているものがある。
・ビジネスモデルが明確になるものは、みんなが考えて、過当競争が起きる。
・問いがあったら、答えがすぐある、というクイズのような問題ばかりを、今までのメディアは取り上げてきたが、実際の人間は、答えのない問題についてしゃべったり、考えたりする場を求めていたのではないか。
・欲望の貧困:経験の総量が足りなければ、欲望の生まれようがない。
・古代ローマでの奴隷に当たるのが、コンピュータ?いや、いまのサラリーマンでしょ。
・休み方も仕事のように真剣に研究する課題。
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インターネット「的」というのがおもしろい。パソコンを使わない人でも、インターネット的なことをしている人がいる(たとえば邱 永漢さん)というところ。
ネットで一番大切なこと、いま失われていることを教えてくれる本です。
糸井さんは流行にのって流れている人かと思っていたけれど、じつは流れの底でしっかり足をついたひとだということ、そして、おもしろいことのためには、身をなげうつ覚悟のある人だとわかりました。
でも、私にとっては、やはり飄々としたおじさんなのですけれどね。
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こちらも2001年に書かれたインターネット時代にまつわる糸井重里の考察であり、現在は予言的であったと言われている一冊。
普遍的になりえたのは、この書が、ITの技術やサービスはもちろん、ITにまつわる思想でさえ無く、ただ今この時代を生きる人々の感じ方、考え方、価値観を問うものだから。これからもまだまだ有効なインターネット的。