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なるほど…と思ったことがあったけど、さっと読んだ本。マニュアルというより書く前に読んで、技術を身につけるためにどうしたらいいかって感じ。「が」に注意とか、短文で…とか、勉強になった本。
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読了—1月1日
【まとめ】
本書は論文の書き方と題うってはいるけれど、技術的なノウハウの説明をメインにしたものではない。そうではなくて、文章を書くこととは、といった心構えや筆者の思想を述べ、言葉を使うものの姿勢を問うものとなっている。
筆者は文を書くことを、自然に捉えたまま、見えたままの状態(=空間的並存状態)を時間という流れ(=時間的継起状態)に意識的に流し込む働きであると捉える。そして、それは自然というあるがままの混沌状態の内におぼろげに宿す「現実」を、人為的且つ「現実」に秘められた秩序で以て書き表すことであるという。そのようにして生まれた意味ある「新しい現実」は、人間の責任において始めて成立するものである。だから(社会科学において)すべての文章は作文であるという。
本書では、このような文章を書く上での秩序をいかに作るかを説明する。文章は写真や映像とは異なり一気に書き表すことが出来ない。そのため時間軸という秩序をいかに作るのかが重要である。理論−現実、抽象−経験、全体−部分、攻撃−守備など強弱、うねりをつけながら、「裸一貫」の自分本流を貫く文章を書くための工夫を、筆者の経験から明らかにする。
【感想、コメント】
本書での筆者の主張は時代背景がテレビの登場を受けて、言葉が映像の添え物になってしまうという書き手なりの危機意識があるのかもしれない。またこの本は単に論文の書き方を説明するものではなく、筆者の思想や言論における比較文化の要素も加わっている点が興味深い。
筆者は、日本語特有の回りくどさ、社交性から来る相手の意を汲み取る「曖昧性」「共同決定」を排すこと、言葉を使うものとしての責任を強調する。それがただ単に書き方の工夫からそう述べるのか、言葉の曖昧性、無責任性と戦争の関係を念頭に置いているのか明示していないけれど、後者であろうとは分かる。それは筆者が、言論弾圧期における(検閲に引っかからないよう)文体の工夫を行なっていたことへの筆者なりのケジメなのだろうか。
本書を読めば、直ちにいい文章が書けるとは言えなくとも、いい文章か否かを判断する一定の軸を自分で作るために資する本という意味で良書だと思う。
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(1967.01.13読了)(1966.12.02購入)
*解説目録より*
論文やリポートは、なかなか書けないものである。著者は当代一流の文章家。その文体の明晰暢達は広く知られている。読者は、著者の多年にわたる執筆生活の経験に即しながら文章というものの秘密を教えられ、文章構成の基本的ルールを興味深く学ぶことができるであろう。もとより、「いかに考えるべきか」を離れて、「いかに書くか」は存在し得ない。真面目に考え且つ書こうとする人々にとって、本書は親切で有効な手引きとなるであろう。
著者 清水 幾太郎
1907年、東京市日本橋区生まれ
1931年、東京帝国大学文学部卒業
讀賣新聞社論説委員、20世紀研究所所長などを経て、
1949年、学習院大学教授
1952年、文学博士
1954年、日本文化人会議平和文化賞受賞
1955年、日本文化人会議議長
1988年歿
社会学者、ジャーナリスト
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実用書は、その目的がすべてだとつくづく感じた。
書き物系の仕事がめっきり少なくなったときに読んでも、ヒットすることはとても少ない。
それでも、話し言葉と書き言葉の違い、については興味深く読めた。
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“書く”、という能動的・戦闘的な態度を通して現実と相対する事の意味(大切さ)を説き、その姿勢をとるための手掛かりを示している。
“書く”という行為は聞く・読むという行為と比して必要とされる精神エネルギーが根本的に異なる。絶対量が多いというだけでなく、質的に異なる能動・戦闘的とも言うべき精神状態に身を置かねば書くことは出来ない。
それ故、書こう、という姿勢をもって世界を捉える・見ることは非常に大きな緊張状態をもたらし、見るべき対象を鮮明に浮かび上がらせてくれる。
また、読むという行為も“書く”という行為を通じて漸く終了することが多い。見る、聞く、読む、といった行為を通じて得たA・B・C…という事象は重み付けが為されていない、或いはあったとしても時間軸に沿って並べられたのみの状態であり、意味付け、という点ではとても弱い行為である。現実を抽出し、改めて紙面の上に再配置する、“書く”という行為を通じ、元々は並存・同列の状態にあったA・B・C…という各々の事象を重みや(空間的・因果的)関係性を持った構造体として配置し直すことが出来るのである。
この、見る、聞く、読む、と“書く”行為の対比は、“写真を撮る”ことと、“絵を描く”ことの対比と似ている。
写真を撮る行為は、シャッターを切ることにより、現実世界の一部をそのまま、一度に切り取る。しかし、画家は一枚の絵をいきなり全て書き終えることは出来ない。部分の研究から始まり、徐々に全体を描き出していく他はない。出来上がった絵は現実と似ているものの、画家の認識というフィルターを通した世界としてキャンパスの上に再現される。絵を描くということは、世界を写し取ることではなく、自らの内に世界を再創造するという行為なのである。
そして、“書く”という行為もつまり、自ら内に世界を再創造することになる。だからこそ、“書く”という行為を通じて得た知識は自らの物として活用出来る様になるのである。
書くという際には「が」に気をつけると良い。日本語の「が」は万能選手である。
「が」はどのような意味を持つか。
一つには、「しかし」や「けれども」の意味を持つ。この「が」の後には多少なりとも反対の意味を持つ句が続く、また、「にも拘わらず」という強い反対の意味を持つこともある。
一つには、前の句によって導かれる「それゆえ」「それから」という意味を持つ。
一つには、因果関係でも無くただ2つの句を繋ぐだけの無色透明の使い方もある。
全ての用法を網羅的に挙げることは不可能であるが、とにかく「が」は万能選手である。「が」を多用して文章を構成することは、言葉と言葉の間に横たわる関係性を積極的に浮かび上がらせる責任を放棄することになりかねない。「が」を多用しては平面的なツルツルした文章しか構成することは出来ない。ツルツルした文は、ツルツルと入ってきて、ツルツルと出ていってしまう。
書く、為には最初にテーマが決まる、テーマは問題とい言い換えてもいい。書くという事は即ち問題を解くことである。
専門用語の蔭に隠れることなく、批判を恐ることなく、書こう。残りの3ヶ月間、“書く”という能動的・戦闘的態度で臨もう、目を開いて臨もう。まずはテーマ選定!
P.S. 50年前に出版された本ということで、本書の中では外国語由来の抽象的な概念を表す言葉(社会、客観...etc)が現実としての経験を十分に獲得しておらず、日本語に溶け込んでいないことを日本語の持つ悲劇的な宿命として、今後克服していかなければならないものとして書かれている。
現在、これら抽象的な言葉も既に日本語に溶け込んでいると感じる。50年の間にも日本語が進化していることを嬉しく感じつつ、中国語についても自分の中に溶け込ませるべく、現実的な経験として使っていかねば。
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この本は論文の書き方を親切に手ほどきする本ではない。基本的に著者の経験やエピソードを通して、文章を書くいくつかの原則を挙げていったものである。そのためどちらかと言えば読み物としての性格が強く、この一冊だけで文章がうまくなるとは思えない。あくまで文章をテーマにした話集である。
しかしその内容がとても面白い。引き込まれて、一気に読んでしまった。やはり文章がうまい。一読の価値はある。
参考までに出てきた文章の原則を挙げておく。
・文章を機械と思え。
・ 文章は建築物。
・ 「が」は多用しないように。
・ 骨の部分を常に意識する。
・ 経験と抽象をバランス良く。
・ 語順に気をつける。
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『論文の書き方』 清水幾多郎・著
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短文から始めよう
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字数制限(例えば1000字)を設けて書いてみるという試みである。
字数制限なく書くことは比較的たやすい。
しかし、字数制限を設けると不必要な文章は削除しなければならない。
結果として最低限必要な文章のみが残ることになるので、これが文章修行には効果がある。
自らの経験から、著者が体験的に理解した方法だ。
具体的には次のようなステップを追っていくことになる。
1.テーマを決める。
2.書こうとすることのイメージをつかむ。
3.書こうとすることに関する観念や思いつきを大切にする。
4.2や3を大切にするということは、そのテーマについてよく考えることである。
この過程で、今まで考えなかったような観念や思いつきが新たに浮かんでくる。
5.全体と部分との間の、イメージと観念との間の相互的コントロールが行われる。
結果として、過不足ない短文の群ができるので、これらを部品として組み立てる。
絵画の大作を作るのにもデッサンが必要なように、大論文を書くにあたってもデッサンが必要であるということを教えて頂いた。
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誰かの真似をしよう
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『宝島』、『ジキル博士とハイド氏』などの作者として知られるスティーブンソンの話。
スティーブンソンは作家として大成功した人であり、彼の作品は名文だといわれている。
その成功の秘密、誉れ高い名文は、何人かの先人の真似から始まったという。
しばらくはA先生の真似に徹し、次にB先生の文体を必死に真似るという努力をしたらしい。
結果として、自分の文体を作ることができ、作家として『名文を書く力』が付いたということである。
反対の立場をとる考え方もあるようだけれど、私はこのことは有効な方法だと思う。
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「が」を警戒しよう
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有名な「『が』を警戒しよう」である。
私が初めて『論文の書き方(清水幾太郎・著)』を読んだのは大学の1年生か2年生くらいだったと思う。
既に30年以上前のことだが、何故かこの「『が』を警戒しよう」というアドバイスだけは未だに頭に焼き付いている。
私は、時々、この「が」を使って文を繋いでしまうことがある。
しかし、その思想だけは充分に私の頭の中に住み着いていて、できるだけ「が」を使わない努力はしている。
そいうことで、接続詞「が」は非常に便利な言葉なので多様しがちである。
この本で説明されていることは、「が」の用法には「しかし」という逆接の意味と、「ので」、「だから」という順接の意味があるということ、また、対等の関係を表す「そして」という意味もあるということである。
この章で述べられていることは、接続詞「が」をできるだけ使わないようにして、実際の意味を際だたせようという試みである。
長くなってしまった文を二つの文に切ることになるので、結果として文の見通しもよくな��。
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日本語を外国語として取扱おう
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何故、『日本語を外国語として取り扱おう』なのか、私には少し分かりにくかった。
言葉の定義をしっかりしてから、書き進めようという主張であると理解した。
取りあえず書き進めたものの、うまく書き続けることができなくなることがある。
それは、そこで使われた言葉の定義が曖昧だったことが原因であることが多いという。
日本語では、何となく分かっているものとして書き始めてしまうことが多い。
しかし、それをやめて、しっかりと意味を述べてから書いた方が分かりやすいし、書きやすいということなのだろう。
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「あるがままに」書くことはやめよう
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タイトル通り、「『あるがままに』書くことはやめよう」というアドバイスである。
よく考えてみると、それは不可能であるという話である。
写真としての『静止画』や、ビデオのような『動画』ならば、見たとおりのありのままを表現できるだろうが、文ではそれは無理であるという主張だ。
述べられていることを考えてみると、「あるがままに書くということは、なるほど不可能なんだな」と思えてくる。
著者はホテルに泊まってこの本の原稿を書いている。
このホテルの部屋の様子を「あるがままに」伝えようとすると、ベッドと机の関係、(電気)スタンドの明かり、窓から入ってくる光、自分の心境など、ありとあらゆることを文章に表すことが「あるがまま」に書くということである。
こうやって説明されると、文章の場合はそれが不可能であることを直ぐに理解できる。
写真はありのままに伝えられる媒体だとして、『写真>絵画>文章』の順にありのままに伝えられなくなってくると書かれている。
そして、「書くのは私である」ということと「文章は『つくりもの』でよい」という話に繋がる。
そして、読者である私は、ここまで読んで「私の視点で書いてよいのだな」と安心をした。
最後に、「文章は建築物である」と「『序論』と『結論』は独立の小建物だ」と示された。
今まで述べてきたことを要約してみたりするのは無用である。ということは、結論のいらぬような文章を書かねばならぬという意味である。序論も結論もなしに、スルリと書き始めて、プツンと書き終わることだ。
序論、本論、結論という三部構成を避けられない場合もあるだろうということで、次のようなことを述べられている。
そういう場合には、序論や結論は別に書いた方がよい。本論が大きな建物だとすれば、序論も小さいながら、別棟の建築物、結論も、これまた小さいながら、別棟の建築物という風に書いた方がよい。換言すれば、緒論を書いているうちに本論へ入り、本論を書いているうちに結論へ来るというのではなく、本論を書いてしまった後で、序論及び結論という二個の独立の小建物を作るべきであろう。
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裸一貫で攻めていこう
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引用句の効用として、次のような見方を示されている。
1.思想の所有���を明らかにするために行われる。
2.卒業論文や学位論文では、通常オリジナルな主張よりも、着実な勉強ぶりを立証するために書かれる論文では引用句が増えてしまう。
3.ドイツの学生がドイツの文献から引用するのと、日本の学生がドイツの文献から引用するのとでは事情が違って来る。ドイツの学生が試みても、勉強したことへの特別な証拠にならないことでも、日本の学生が試みたら、当然高い評価を受けるだろう。
4.権威と認められている学者や思想家から引用することによって、その権威を自分の文章へ借りてくることができる。本来ならば自分で証明しなければならぬ事柄も、権威者の一句を引用することによって、自分を証明の義務から素早く解放してしまう。
そのうえで、それらを一度取り払って、一切を捨てたあとに自分のいいたいこと、自分の文章の親骨が見えてくると書かれている。
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経験と抽象との間を往復しよう
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大学1、2年生と大学3、4年生の書いたレポートには明確な差があり、後者は抽象的な言葉が圧倒的に増えるというところから話が始まる。
私たちの使っている教科書や、その他、単行本などの文章には、当然のことながら抽象的な言葉が多数存在する。
これはこれで必要なことなのだが、一度、生活の言葉、一般的に経験する事柄に置き換えてみようという。
抽象的な言葉の意味をもう一度吟味し、適切に使おうということである。
その上で、再度、抽象的な言葉に戻ってきて、それを使おうという主張されていた。
それは、ただ文章を書く人間が読む人間への親切としてのみ必要なのではない。それより先に書く人自身にとって必要なのである。
と書かれているところが、私には印象として心に残った。
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新しい時代に文章を生かそう
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この章にもいろいろなことが書かれているが、心に留めておこうと私が思った箇所は次のところである。
語順については多くの工夫が可能であろうが、根本的なルールとしては、句点の多い文章を書いた方がよいと思う。即ち、短い文を積み上げた方がよいと思う。一つの短い文で一つのシーンを明確に示し、文と文の間は、接着力の強い接続詞でキチンと繋ぐことである。
『短くて強い文章を書こう』というところでは、見出しの通りで短くて強い文章を書こうという教えである。
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◆日本を代表する社会学者による、論文の古典的な入門書。最近みられるこの手の本は、執筆するときの注意点から資料の準備方法などまで懇切丁寧に書いてくれていますが、この本はより根本的な問題を扱っているように思います。◆この本が名著といわれるのは、この本の内容が字引きのように役立つということではなくて、この本にある心構えや考え方が、こんにち規範にもなっている大原則になっているからではないかと思います。
◆著者が再三述べていることは、論文(知的散文)とは「あるがままのこと(事実)」を書き綴るものではなくて、「人為的につくるもの」だということです。論文という文章だけの世界のなかで、自分がもっとも述べたいことはなにか。その主張をどのように支えるか。親骨と小骨、攻めと守り、どこで文章を爆発させるかといったことを考え、文章だけの世界で孤独な建築物をつくりあげる必要があるのです。◆そのための具体的なアドバイスとして、文章の関係をあいまいにする接続詞の「が」を回避すること、主語と述語の対応が分かりやすいように短文を中心に積み重ねること、抽象的な概念(えてして小難しい学術用語)はなるべく経験と対応させることが重要だと述べています。
◆いますぐ論文やレポートを書かなければならないという学生などにはオススメしませんが、論文を書くための心構えを押さえておきたいという熱心な方には、お勧めしたいと思います。
* 余談 *
◆ちょっと学問をかじった学生が抽象的な用語を好むというお話があったけれど、これは今でも居る。これに対して、経験の世界との対応が重要だという著者の忠告は、仲間内に鋭く突き刺してみたい一言だった。
◆朝のファミレスで、OLさんたちが騒いでいるとなりで読み始め、読了。
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2014/7/13
論文を書く参考にと思って読んだ。
技術的なところはあまりなかった気がした。なるべく短文を多く。がの使い方。文書をつくる。など文を書く上で今後気をつけていきたい。
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論文を書こうと思った時に読んだ本。
清水幾太郎の著書であり、非常に示唆に富んでいるし、表現もわかりやすい。
文章を書くという行為、読むという行為に比べると高度な、大変な行為だと書いてあったのが印象的だった。
それを表すように「文章とは認識である。行為である」(56頁)と書かれている。文章はただそこに書かれている文字の塊ではない、書いた人と読む人との間での交流が行われている。認識の違いが浮き彫りになることもあれば、たった一文で認識がガラリと変わってしまうことすらある。
とはいえ、文章は必ずしも情緒的なものでもなく、理にかなって作られるものである。それは「数式を解く場合も論理が働いているが、外国語の場合も論理が文法と一つになって働いている。辞典と文法を頼りにして、私は全く理詰めの方法で外国語の文章を読んでいかねばならぬ」(83頁)というように、外国語の文章を読むということと数学の話をつなげて説明している。
しかし、外国語とは何のことだろうか。それは英語やフランス語、アラビア語等のことだけだろうか。日本語であっても、専門用語が使用されている論文や文章を読む行為だって外国語を読む行為に近いものだと思う。
また、言葉の定義だって人によって異なることは多々あるからだ。
ある文章には、その背後にいくつもの背景や文脈があり、それらを踏まえ、理詰めで読んでいって内容がより一層わかる文章は世の中に多くあり、日本語を外国語のように改めて勉強し直すことは大事なのではないかと思う。
文章を書くという行為の難しさは単にそれが日本語が、実は難しいというだけの話ではない。そこに残される文章は現実を表すものであれば、それは歴史として残るからだ。以下のように書き手の責任感について、清水幾太郎は述べている。
「本当の現実や本当の真実は、人間の働きを含んで初めて成り立つ。人間の責任を含んで初めて成り立つ」(190頁)
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清水幾太郎「論文の書き方」岩波新書
文章の書き方や本の読み方について書かれた本に傾倒していたときに買い、清水幾太郎は他の本を読んだからと積ん読していました。
なぜもっと早くに読まなかったのか!
おもしろい!
著者が文章を書く上で自分に課しているルールを本軸に、哲学、思想、文化、社会学方面の「知的散文」を中心とした論文の書き方について述べられています。
しかし、論文に限らず、人に伝える文章を書く上で、気を付けなければならないことや、書き始めるまでに必要なことなど、「知的散文」以外にも役に立つのではないでしょうか。
ただし、あくまで、これまでにある程度の文章を書いてきた人、これからある程度の文章を書いていかなければならない人、文章の書き方や構造に興味のある人向けのような側面もあります。
私も学生時代に、絵本ですが一冊だけですが出版したことがあり、
・日本語を外国語として取り扱う
・文章を削り、言葉を切り捨てる
本著でも述べられている、上記については、とても共感でき、気を付けていたことです。
ある程度コツを掴むと自分のスタイルが出来上がり、さらにある程度まではそのスタイルで卒なく文章が書けるようになる。しかし、ついには自分のスタイルで太刀打ちできず、どうしようもなく文章が書けなくなる時が来る。あるいは、悪文を書いてしまう。そうすると、スタイルが崩れる。そこを苦心して超えたとき、本当の実力が身につき、スタイルが確立するといった旨が述べられている。
その域に達することはかなり厳しいけれど、そこに少しでも近づきたい。
巷で人気の「すぐ役に立つハウツー本」のそれとは違う「書き方」の本です。
私のこの文章を読めばわかりますよね。ほら、すぐには役立っていないでしょう?笑
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800字とか決めて短い文章をたくさん書いて練習せよ。
表現を使いこなせるようになるためには表現に使われろ。気に入った表現を使うための文を書け。
文章は空間的な漠然とした並びを時系列へと置きかえるもの。そのためにも論理をはっきり。
言葉をわからないまま使うな。外国語のようにきちんと確かめながら意味を明確にして使え。
文章を書くのは孤独だ。観念の爆発が必要だ。人前で話すことでそれを爆発させない方がよい場合もあるし、むしろそれを糧にして爆発させられる人もいる。人それぞれ。
文章を書くのは孤独の歩みである。
しゃべりと文章は、支えの度合いにおいて対極にある。
こんなところかな。
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論文執筆マニュアルとしてはかなり古い本ですが、今読んでも学べることが多いように感じます。とくに、文章のスタイルを真似ることの重要性を述べ、そこから模倣を通して思想そのものの理解にまで説き及んでいるところは、論文執筆マニュアルの範囲を超えて大切なことを教えられたように思いました。
そのほか、はっきりとした逆説の意味を持たない接続助詞「が」の問題を指摘している箇所も有益だと思います。「が」を完全に追放することを勧めているのではなく、文章の論理的なつながりにそのくらい意識的でなければいけないというのが、おそらくは著者の真意なのではないかと考えます。
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「「良心」も「運命」も「批判」も、言葉となって初めて存在する。」
文章を書く方法について著者の経験をもとに書かれた本。
文章は思想と密接な関係にあり、誰かの文章を模範にするのはその人の思想の受容になる。
そして、言葉の定義は大切だ。なぜなら、お互いが同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らないからである。抽象的な話は、相手方もその抽象的な話についてくることができる知的さを要求する。
“が”はつかいやすい言葉である。だからこそ、“が”を使わずに文章を構築する努める必要がある。
読んでいて文章を作る際に参考になる本であった。
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決まった事柄について論理的な主張を展開するような文章(清水氏は「知的散文」と称している)を書くに当たって,どのようなことに留意すべきかをまとめた本.後半では,日本と欧米文化圏とでの,言語的側面の違いに焦点を当てながら,日本語の書き言葉・話し言葉がどのような状態にあるのかを考察している.
丁度私自身が最近,文章を書くに当って不具を感じていた折に本書を見つけて読んだ.何故そうした不具を覚えるのかということに対して,或る程度答えになるような見方を提示してもらえたように思う.兎にも角にも徹底して取り扱う問題や事柄と対峙し,使用する表現を絶えず洗練していくことが,良い文章を生み出す上で必要なのだと気付かされた.また,抽象的な語をきちんと経験の世界・具象的な世界の事物に落としこむ努力をする,というところも,常に意識しなければならないと感じた.