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タイトルからすると大学などで書く論文のための本のように感じるが、内容的には「文章を書くにあたっての心得」といった内容の本。
文章作成の具体的技術についての記述が少なく、記憶に残る部分は少なかったが、次の部分はなるほどと思った
○経験と抽象を行ったり来たりする
○抽象語は西洋では日常的な言葉から生まれているが、日本では訳語に際して漢語を使っており日常感が薄い
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Twitterだったかどこかで、文章を書くには云々の話が出ていた時に本屋さんでみかけ、なんとなく読んでみたもの。
なにせ昔の本なので、現代に通じるかといえば全てがそうとは言いがたい。今の時代、美文を書いて成長した子などいやしないのだから。
それにしても清水幾太郎にしろ、三島にしろ、小学生時代に書いたと言われる文章が恐ろしく統率が取れている。まさに美文。これができるからこそ、後世に残る文章を書くことができたのだろう。時代の差を感じる。現代は「好きに書くがよい」だけを優先し、美しい文章を書くことに注視することが疎かになってはいまいか。
美しい文章は、それを伝えたい人に高精度で内容を伝えることができる。言葉の深奥に含ませたものまで。
束縛と自由の境目で、何を選び何を伝え、何を遺すか。
「論文の書き方」云々を超え、文章を綴ることを考えさせられた1冊である。
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論文の書き方を知りたくて手に入れた書籍。一般的な文書の書き方を教えるという内容ではなく、日本語の文書とはから著者の経験から解説した書籍だった。文書を書きたい人に、書きたいけど悩んでいる人に、何かヒントを与えてくれる。
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清水幾太郎の「愛国心」を読み、とても冷静ですっと読み込めるものだったから、その人がどういうあたりを気にかけながら書くものなのか……ついでに自分もこういう冷静な書き方をしてみたいものだと思って、購入した。
こういう書き方の本はこれ含め3冊持っている…のかな。
どれも共通しているのが、書くことは自分を表現すること、なのである。
私は自分が思ったことを直で書くことが苦手で、こういう記録なども相当苦手だ。それで、小説という形を用いて、別の登場人物に託すことになるのだが、間に何が入っていても、書いている者は私なのだから、書くことは私を書くことなのだ。
その書きものだが、現在まるで書けないでいる。
清水幾太郎によると、新しい現実にぶつかっているからなのだという。
言われてみれば、そういうタイミングでじわじわと書けなくなっていった。
この山を越えたら、また新しいスタイルが、書きたいものが見えるのか。
本はあくまで論文の書き方であったけど、物を書く人は読んでみて損はない。
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筆者の文章は、私たちの世代なら、大学受験国語でおなじみ、読解練習をよくさせられたものである。当時はそのつもりで読んでいるので、感想も何もあったものではなく、ひたすら正解だけを求め続けて読んでいたが、それから数十年、改めて「読書」してみて、当時のそんな読み方は非常にもったいに読み方だったのだなあと痛感させられた。
さすがに岩波新書の青版、近年相次いで出版されているお手軽新書とは違い、読みごたえがある。が、私が年を取って筆者の年齢に近くなっているからか、時々垣間見える筆者の愚痴に親近感もわいたりした。若いときには大家からのありがたいお言葉という感じでの受け止めだけで終わっていたかもしれないが、年を取ってから読むと、このような大家の人間臭い部分がちょっとわかるようになって、そのおかげで本の内容がすっと入ってきてしまうなんてこともある。上では若いときにもっとちゃんと読んでおくべきだったと書いたが、こういう発見は、大人になってから読むことの特典なのかもしれない。
本編についてだが、「論文の書き方」というタイトルであっても、当然最近の軽いハウツー本などとは全く異なり、日本語と外国語の違い、日本の社会や文化・教育に対する批評、哲学等を学ぶ時のこちらの心構えや姿勢など、その考察は本当に深く、これからも折に触れて読み返したいものばかりだった。
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小論文に留まらず、ナマの事実から、
何事かを紡ぎ出そうとする人間には
必須の作業が明快に綴られている。
情報を頭の中で咀嚼して、自分の考え、
自分の言葉としてアウトプットすることの
難しさがよく分かる。
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「論文」となってはいるが、論文に限らず作文技術全般に関するエッセイ。エッセイなので作文技術を体系的に論じたものではないけれど、それでも長く読まれているだけあってたくさんのヒントが記載されているし、エッセイならではの含蓄もある。
著書の文章作成における心得は、結びに次のようにまとめられている。「文章を機械のように作ろう。文章を建築物として取扱おう。曖昧な「が」を警戒しよう。親骨を見失わないようにしよう。経験と抽象との間の往復交通を忘れまい。日本語の語順に気をつけよう」。とくに「曖昧な「が」を警戒しよう」は、本当に大切な60年前の本だけど、文章を書くことの要諦はぜんぜん変わってない。
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昨年没後30年を迎へた清水幾太郎氏。例によつて愚図愚図してゐるうちに、年越しをしました。
『論文の書き方』は、清水氏の数多い著書の中でも、よく読まれ、かつ現在もロングセラアになってゐます。新書といふ手軽に読める形態も拍車をかけました。
いづれにせよ、昔も今も論文作成に四苦八苦してゐる人が多いといふことですな。
「Ⅰ短文から始めよう」清水氏は、戦前に「東京朝日新聞」にて「槍騎兵」なるタイトルでコラムを連載してゐたさうです。コラムとは短文の典型みたいなコオナアであります。そこで培はれた経験とスキルが文章力がついたと言つてゐます。
「Ⅱ誰かの真似をしよう」これは欠かせないステップでせう。ある程度文章を書く人は、必ず誰かの影響を受けてゐます。しかし新聞の文章は真似するなと主張してゐます。「ニュース本位」と「商業主義」を問題なのださうです。スクープ優先主義といふことですかな。
「Ⅲ「が」を警戒しよう」本多勝一氏も指摘した意味の無い「が」。つひつひ使つてしまひますが、これをなくすことで論理がすつきりとする気がします。
「Ⅳ日本語を外国語として取扱おう」母国語に甘えてはいけない、との指摘は身に沁みます。
「Ⅴ「あるがままに」書くことはやめよう」そもそも「あるがままに」文章が書けるものでせうか。そりや無理です。本当に「あるがままに」書かうとするなら、時間は無限に必要でせう。文章を建築物に例へてゐるのは、眞に正鵠を射てゐると申せませう。
「Ⅵ裸一貫で攻めて行こう」勇ましい章タイトルであります。いよいよ書き始める訳ですが、プロの書き手でも冒頭の文章は迷ふものらしい。ここで失敗したら後々面倒な事になりさうです。「書くことは観念の爆発である」なんて、岡本太郎みたい。
「Ⅶ経験と抽象の間を往復しよう」当時、大学の先生が、学生の一、二年生と三、四年生の間には論文の内容に差があると。即ち、一、二年生は自分の経験をダラダラと書き、三、四年生になると、やたらと抽象用語が増えると。しかも過剰に。著者は、「経験と抽象の間で頻繁な往復交通を行わねばならないのである」と述べてゐます。
「Ⅷ新しい時代に文章をいかそう」日本語の文章では主語が最初に来て、述語が最後になり、欧米人などからは「結語が最後に来るのはストレスが溜る」などと言はれます。特に話し言葉ではさういふストレスを聴衆に与へない事が肝要であります。テレビジョン時代の文章といふセクションでは、映画、ラヂオ、テレビジョンが文章のライヴァルになると予言してゐますが、それは的中したかな?
本書全体を俯瞰しますと、その後の「文章作法」「文章読本」の類ひに敷衍したり、再論されたりする内容が多いのです。それだけ本書の完成度が高いとも申せませう。少々(相当か)古い部分もありますが、その根底に流れる考へは今でも通用すると愚考いたします。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-770.html
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胸に刺さった。とても知的で誠実な説教をされた気分。編集者だったときに、ここまで真剣に言葉に向き合ってなかったなあと反省した。
いわゆる「文章読本」としては珍しく、例文がほとんど出てこない。how to本を期待した読者の多くは、そこで肩すかしを食らったような気になるかもしれない。では、例文なしでどのように「論文の書き方」を説明しているのか。本著で展開されるのは、「知的文章を書くとはどういうことか」についての深い考察だ。「書くとは?」 「日本語の特徴とは?」 「言葉の裏側にある本質的な何かを伝えるのは?」 そういった、知的文章を書くために根源的に向き合わなければならないことのひとつひとつを、著者の経験や古今のエピソードなどをもとに、誠実に深掘りしている。そこから導き出された実践方法は、「日本語を外国語のように扱う」「建築物のように、文章を構築する」「『が』を警戒する」といったものだ。一見すると、抽象的すぎると思うかもしれない。しかし、本著を読むと、これらが「書く」ことの本質をとらえた、普遍的な方法論であることがよくわかるだろう。
読みながら「古典と言っていいような普遍性をもっているなあ」と思っていたら、この手の本の中では古典なんだね。岩波新書の中でもベストセラーだとか。自分が本著を手をとったきっかけが、岩波書店がやっている「はじめての新書 岩波新書80周年記念」の企画で、大澤聡が帯文を書いていたから。結果的には大正解だったなあ。岩波新書の深さを感じた。いまの新書のあり方とは、まったく違うなあ……。
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文章の書き方について言及した本。
「が」の用法に注意する、日本語を外国語のように数学的に理解できると文章の構造が分かる、難しい言葉を乱用しすぎないなど細かな点で役に立つノウハウがあった。
実際、文章の書き方というよりは「日本語」についての記述が多かったので若干肩透かしをくらった気分。抽象的で理解が追い付かない部分も多々あった。
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めちゃくちゃ読みやすいのに、中身がつまっていて無駄がない。魔法のような文章だと思った。ここで説明されていることが、全てこの本で体現されている。
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大学の授業で教科書として使用。
輪読を行ったが、かなり前に書かれているため、言葉の意味や読み方が分からない箇所が多々ある。
集中して一気に読み進めることはできない。
しかし、長く愛されているだけに、内容は核心を突いているものが多かった。
解釈して自分に落とし込むには難易度が高い。
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タイトルから論文のノウハウを指南してくれるかと思いきや、「が」の乱用や抽象・具体の行き来、東西の文化論まで視野に入れた本格的な文章論だった。
著者も後書きで述べているようにここでいう「論文」の意味は結構広い意味であり、人によってはミスリードにつながるタイトルだと思った。
今からすると大分昔の本なので、テレビ・ラジオの登場により文章の地位が脅かされているといったことなども取り上げられている。その当時(今も)切実だったのだろう。
そういう時代感を把握する上でも価値のある本だと思う。
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文章の書き方指南本で、名著としてしばしばあげられる一冊。
「小さい魔物である」と熱く語られる「が」に関しては、あまり意識したことはなかったが、いわれてみれば確かにそうだ。
「が」の前後で反対の意味のこともあれば、並列だったりもする。「殆ど無数の意味がある」のである。
著者流の書き方に、おおむね異論はないのだが、「『無駄な穴埋めの言葉」を大いに使おう」は、使わない派の谷崎潤一郎に賛成。
接続詞を多用する文章は、書き手の考え方が整理されていなかったり、文章の並びがおかしかったりするものだ。
時折挟まれる論評や小ネタが案外面白い。例えば、「日本語の発音やアクセントが広汎な問題になり始めたのも、ラジオの出現を俟ってのことであった」。確かに標準語が何なのか、ラジオ以前の人々は意識しなかったのかもしれない。
黎明期のテレビも、「言葉がフルに働かなくても、万事は映像が負担してくれる。言葉は隠居することができる」と鋭く分析している。
手に取ったのは何と100刷(2020年9月)だ。1959年の初版と60年以上前の本ながら、現代人にも読まれる分かりやすい文章・文体のおかげだろう。書き方本の面目躍如。
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1 著者の清水氏は社会学者で、評論家でもあります。本書は論文の基本ルールについて、氏の経験を元に書かれています。ハウツー本とは一線を画し、高水準な内容です、文章を書く人には、是非とも読んで欲しい一冊です。
2 先ず本書でいう、論文は「哲学・思想・文化・社会科学の方面」における知的散文です。小説や随筆とは区別されます。
3 私にとって、有益だった点を拾ってみます。
① 文章の修業は、短文から始めた方がよい。短文が長文の基礎或は要素になっている。沢山の短文を繋ぎ合わせたり、組み立てたりすることによって長い文章が出きる。 ⇒ 私はメモする習慣があるので、よく理解できます。
② “が” を警戒しよう。“が”には「しかし、けれども、それゆえ、・・・等、沢山の意味がある。“が”に頼っていては、正しい文章は書けない。 ⇒ 私も安易に“が” を使い勝ちです。真意を伝えるには、接続詞との使い分けが必要と思います。
③ 文章を書く時には、日本語を外国語として、取扱わなければいけない。 ⇒ 文章を論理的に書くということでしょうか。また、例えば、英語は結論からいう言語で、確かに理解しやすいと思います。
4 私の読後感想です。題名からすると、難しい本の様ですが、平易に書かれています。従って、理解しやすいと思います。
私は会社勤めの時に、品質管理を学びました。そこで、人に物事を伝えるには、5W1H(誰が、何時、何を・・・)を明確にして、伝えなければならないと教えられました。十人十色の受け止めを回避するためです。この教えは、本書と合い通ずる点があります。
私は、本書を随分前に読みました。当時はもっと早く読んでいれば、卒業論文のレベルが高くなったのにと悔やんだものです。いずれにしろ、バイブルとして、大切な一冊です。