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イスラームについて、初めて(だと思いますが)少し詳しく
書かれてある本を読みました。
イスラム国への学生の渡航が問題になった時にTVにも少し
出ていた著者の半生(いかにイスラームになったのか)
とか、イスラームとはとか、カリフ制についての意見が
書かれてあります。
イスラームについては、すべてを理解したわけではありませんが、個人的には少し違和感があり、共感できるものではないと思いました。
キリスト教やユダヤ教との距離感よりももっと遠い感じがします。
やはり生れた環境や歴史が、日本とは異なるので、
日本人にとっては(私にとっては)共感できない
ところが多いのだと思いました。
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イスラームについてや中田考さんの人生についてのインタビューを手記のような形でまとめたもの。イスラーム研究者じゃなくてムスリムとして内側からイスラームを捉えてる人の見解で、外から見ていたという意識すらなかったおれに大きな衝撃を与えてくれた。彼が教わった学生たちの書いたものもあり、日本でムスリムとして生きるってのはどういうことか、イスラームの研究者として生きるってのはどういうことかってのが垣間見えた。中田さん奥さんを亡くしてたってことに絡む話も出てて、なんかそこはイスラームの論理では悲しいことではないんだろうけど悲しい気持ちになった。
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著者の本は難解なものが多く、途中で放り出してしまうことも多々あった。
しかし本書は題名にもあるとおり、「なぜムスリムになったのか」が述べられており、大変読みやすかった。
著者と妻について記述が処々にある。妻の死後、妻はどこに行ったのかと著者が考えていたというエピソードは、目頭が熱くなった。
個人的には、非ムスリムではあるが、イスラームを分かりやすく説明する学者は、内藤正典先生だと思う。
内藤先生の本で勉強してから、著者の本を読むと分かりやすいかもしれない。
著者に関わった人間が著者について述べている項目もあり、興味深い。
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タイトルの通り、著者である中田考氏がなぜ、様々な宗教や進行について学んだうえでイスラム教徒になったのか、という経緯が書かれた本。それと同時に、氏が提唱するカリフ制の復興こそ世界の安定や繁栄にとって必要である、という持論も展開されています。
ISISが提唱しているせいで悪い印象のあるカリフ制ですが、氏によればカリフ制とは「すべての領域国民国家を廃止、国境をなくし、人と金とモノの自由な行き来を可能にする」もので、異教徒であっても人頭税を払えばその信仰が担保され、安全に暮らすことのできる制度。よって、イスラムを利用して国をまとめているサウジアラビアなどにとっては危険思想となり、そのほかにも政治家や王の支配権を是とする現在の国民国家からも受け入れられない、という制度でもあります。
氏はカリフ制復興がすぐに成就するとは考えていません。ただ、世界の混乱や衝突を回避する妙案の一つとして、一考に値すべきものであるという確信を持っていることはよくわかりました。
著者いわく、現状、「ムスリムであればだれでも受け入れる」というスタンスなのがISISだけで、イスラムの為政者が治める国であっても実質的には違う宗派のムスリムを受け入れず、ムスリムの精神を理解していない指導者が治める国では真面目なムスリムが生きていけないというのが問題、らしいです。そういう視点で見ると、いわゆる「敬虔なムスリム」や「居場所のないムスリム」がISISに傾倒した理由が分かります。
同じムスリムならシーアもスンニも同じじゃないか、と考えてしまう非ムスリム&中東から遠い極東日本に住む日本人にとっては、シーアとスンニが同じ宗教内にありながら水と油ほども違うことを理解できません。お互いの相違点についても、氏は分かりやすく解説しています。
そのうえで、価値観を共有しない者を排除するのではなく、どう対話(交渉)するかが重要で、ムスリムにおいては対立する相手でも対話や交渉は可能であると考えている、というのは面白いポイントでした。その点、思想の異なる者を「テロとの戦い」と断じて拒絶し、滅ぼすことしか考えなかったイラク戦争当時のアメリカをはじめとするキリスト教諸国のほか、それに対抗したアルカイダなどのムスリムを信奉する(ということになっている)テロ集団、いずれもがムスリムの考え方には基づいていなかった、ということになります。
イスラム教の本は、読めば読むほどこの宗教の奥深さが分かってきます。それと同時に、いかにこの宗教が誤解されているかも。
これまでの経緯が複雑なため、シンプルに誰かに説明するのはいまだに難しいですが、漠然と間違った知識を持ち続けるよりは、混乱してでも正しい情報を身に着けようと努めるほうがいい。日本人が知らないムスリムの考え方をいくつか、提供してくれる良い本です。
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初めはこの本は、中田考さんの生い立ちから改宗までの半生を綴った自伝のようなものかと思っていたけれど、(もちろんそういう内容も含まれているけれど)それだけではなくて、イスラームの信仰や生活・文化と思想の精髄が非常にわかりやすく端的に紹介されている。
イスラムのことをよく知らなくても面白く読める本だと思う。
「残念なことに、日本人に伝えられているイスラームは、解放の教えとしての真のイスラームではなく、イスラームを覆い隠すノイズ にすぎない堕落したムスリム社会の因習、スキャンダルばかりです。そこでは本来イスラームでないものがイスラームとされ、イスラームが人間をさらに束縛するというイメージが再生産され続けています。そのような根本的誤解を解くことこそ、私がこの本を書いた理由です。なぜ私はイスラーム教徒になったのか。この本の中で、私は自らの人生を振り返りつつ、イスラームとはなんであり、ムスリムであるとはどういうことなのか、そしてイスラームを通して見た世界がどのようなものであるかを述べていきたいと思います」。(序文より)
本を読んで、これまで持っていた中田考さんに対するイメージがガラッと変わった。思っていたよりも全然普通で、とても実直な方。
そしてこの本を読んで、中田考さんについて私が思ったことは、
「中田考さんは、学者であると同時に、世界平和の実現を強く願うひとりのイスラム教徒・ひとりの人間である」ということ。
著書の冒頭で、イスラム学者としての自らの役割について、以下のように述べられています。
私の中にはイスラーム世界と日本人に向けて、二つの異なった目標が生まれました。イスラーム世界に対しては、アッラーへの絶対服従を目指して精進する求道者たちと共に、イスラームの理想を裏切る現状を改革する道を学問的に明らかにする。日本人に向けては、ムスリム世界では善人も悪人も賢者も愚者もだれもがムスリムであること、つまりムスリムであることは限りなくやさしい、ということを伝える。この二つが、ムスリムの親を持たず、みずからの意志でムスリムになり、イスラームについて学んできた私の役割だと思っています。
難しい表現もなくとても読みやすい本なのだけれど、内容はとっても濃い。
私が持っていたイスラームに関する様々な疑問に対する答えが短い文章の中にたくさん詰まっていた。
具体的には、
・「ハラール認証」について。何がハラールで何がハラームなのか。
・サラフィー・ジハード主義(超厳格・保守主義)の人々についてとその論理
・スーフィズム(イスラム神秘主義)についてとその論理
・シーア派とスンナ派の共存は可能か
・イスラーム世界の混乱をおさめ、さまざまな問題を根本から解決するための「カリフ制再興」の必要性・「アラブの春」がもたらしたもの
・湾岸戦争から始まった負の連鎖。9.11、アラブの春、イスラム国台頭まで。アメリカがしてきたこと。
・ムスリムが安心して生きることができる環境が実現されない限り、世界の中に居場所がないムスリムを引き寄せるイスラム国��ような運動は無くならない、ということ。
・イスラームと、他の宗教との共存の可能性ついて。
・日本人がイスラームを学ぶ意味etc...
そういったさまざま問題に対する考察や、現実的で具体的な解決策がたくさん述べられている。
これまでどの本を読んでもニュースを聞いてもわからなかったり、納得できなかったことがここにこんなにわかりやすく書かれていただなんて。
目から鱗。なんだか感動して、目頭がじーんと熱くなってしまった。
著書の中で述べられている、
“人と文化、お金や物が国境や関税なしに自由に行き来することができる夢の世界”
不可能ではない。
生きているうちに、そんな世界を見て見たい。
心からそう思う。
今、中東の国々やそれ以外の国も含めたイスラーム世界は、大変混乱した状況にある。
世界中から流れてくる物騒なニュースや悲しい事件は、何かしらイスラムに絡んで報道されているものが多い。
シリアやイエメン、アフガニスタンなど、世界中で起きている紛争やテロ。ロヒンギャ問題も、ウイグル人弾圧も、チェチェンのことも・・・みんなイスラムが絡んでいる。
けれど誤解してはならないと思うのが、どれも根本まで辿って行けばその問題の原因の多くはイスラーム以外のところにある、ということ。
「過激派」と呼ばれる人たちの振る舞いも含めて、いまイスラーム世界で起きていることのほとんどは、じつはイスラームではないということです。いまこの地上にイスラームが実現されている国は一つもありません。私はイスラーム学を専門としており、みずからもムスリムですが、私も含めて、いまムスリムがやっていることはすべてイスラームに反しています。
今日のイスラーム諸国は国家という枠にとらわれ、政府をはじめアッラー以外の無数の権威やイデオロギーに従属させられています。
そしてイスラームの問題という表面的なものの裏側に、もっと大きな別の問題が隠れているということ。私たちがニュースで聞く「イスラーム」は、西洋の価値観を通して見た、イスラームを外側から見た一部分にすぎない場合が多いということを知っていなければならないと思う。
***
先生は、この他にもイスラームに関する本をたくさん書かれている。
「イスラーム入門 文明の共存を考えるための99の扉」「日本一わかりやすいイスラーム講座」といったイスラーム入門本から、「一神教と戦争」「イスラームの論理」「カリフ制再興」「イスラーム法とは何か」といったイスラームに深く踏み込んだ本まで。
この人の書いた本なら、なんでも読みたい。
そう思った。
それと同時に、先生以外にも、他のイスラム学者やジャーナリストが書いた本も読んでみたい。学者によって主張が異なるのは当たり前。
ひとつの意見だけではなく、批判的な側面から書かれたものも含めて、様々な角度からイスラームを考えたいし、そうすることでイスラームを多角的に深く理解して行ければ良いと思う。
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「みんな違ってみんなダメ」が面白かったので、
よりイスラムに突っ込んだ話が読めると思い購入。
相変わらずラディカルで面白い。
筆者の方はイスラームになったということだが、
客観的な目線を常に忘れておらず、イスラムの考え方と、
キリスト教や欧米資本主義の考え方との違いや、何が正しいのかについて、哲学的アプローチで極めて論理的に解釈をしようとしている。
自分に染み付いた西洋的な価値観や教育によってはめ込まれた思考の枠組みを、我々はどれだけいったん外して考えられるのか。
筆者は極めて挑戦的に我々に挑んでくる。
自由とは?
国家とは?
自己実現とは?
宗教による救いとは?
イスラム教を通じて、考えさせられる非常に面白い本だった。
エジプト、サウジアラビアあたりを旅行してみたくなった。
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国とは? 西洋から来た領域国民国家システム
自由とは?
法律とは?いろんなことを疑い、根本や本質を問うきっかけになった。
イスラームの心の救いや、癒しを目的とはせず、それらは、不随してくることではあるが、本質的なことではない。根本的に重要なのは、生活のすべてを神に従って生きるということ、イスラームとは、人間側の態度を表している。
中田さん曰く、非ムスリムとムスリムでイスラームを勉強すること、イスラームについて知ることと、ムスリムに「なる」こととの間には途方もない違いがある。
アッラーにとって、この世が存在しようが、しまいが、たかが一被造物にすぎない人間がどうなろうと一向にかまわない。しかし、万物が存在しているというのは、アッラーが慈悲をかけてくれたからである、とイスラームでは考える。存在しているとは、それだけでアッラーに慈悲をかけられている。逆に言えば、存在するものは、動物にせよ、植物にせよ、存在することによって、アッラーを賛美している。これがイスラームの基本的世界観。(よく意味が分からない、、、、)
原理主義とはイスラームの根本であるクルアーンとハディースの根本的なところを忠実に大事にするという態度。
中田さん曰く、しょうゆの微量のアルコールや、形式にこだわるのは、個人の裁量でやればよいし、そんな厳密にこだわることは重要ではない。
自由について
現実的にみても、人間が生きる上で必ず制約は存在する。心臓は、自由に止められないし、関節をどの方向にも自由に動かせるわけではない。こうした物理的制約の上に、社会的、経済的、政治的、法的など、様々な制約がある。
自由とは、ドーナツの穴のようです。ドーナツ本体は法あるいは制約を表し、それがないところを自由と呼んでいる。存在するのはドーナツであって、穴が存在しているわけではない。
「この国には自由がある」「この国には自由がない」といういい方には意味がない。自由がある、ないの問題ではなく。国によってドーナツの形が違うというだけのこと。この国では、穴にあたる部分が、ほかの国ではドーナツで占められている。その国に自由がないのではなく、制約の範囲がちがうだけ。
西洋的な意味での、自由という穴の範囲が普遍的である、とする考え方をほかの価値観を持った人たちにも押し付けることによって、問題が生じている。
あるものはどんどん回せ!という考え方は気に入った。
人の内心に干渉しない。イスラームでは人の内心を知るのは神だけ。クルアーンにも詮索してはならないと書いてある。内心の自由は尊重される。
中田さん曰く、日本の神はイスラーム的にイラーハではない。どちらかというと、ジンに近い存在と考えたほうがいい。なのでイスラーム的には、否定の対象にはならない。
自分がどの枠組みから世界を見ているのかを、何かを学ぶ上で、しっかり認識する必要がある。イスラームを学ぶ上で、もし西洋的視点から見ていたら、先入観や偏見が混じって、イスラームの本質、核を見出すことができない。
総じて、イスラームだけでなく、すべての学問や情報を見、考えるときにおいて、自分がどの立場から、どの世界観、価値観、枠組みから、その物事を認識しているか、理解しているかを、顧みることが大切。顧みることで、それらの対象に対して先入観なしに、純粋な状態、本質的な状態から物事をを見れたら良いと思った。
中田さん曰く、イスラーム学はイスラームを知るため学問ではない。イスラームは自分を知る学問。テキストに接することで、どれだけ自分と違うものを見出しうるか、それを知るのがイスラーム学の意味。
だから、イスラームがつまらないとしたら、イスラームがつまらないのではなくて、それを書いているイスラーム学者の中身がつまらないんだそうw
自分と異なるものを学問において見出すことによって、自分の文化、価値観、認識の枠組みを認識、そして、また見方を変える、また異なるものを見出す、、、その繰り返しによって、新たな見方、世界観が、きっと自分の中に現れてくるんだと思う。その過程の中で、自分の物事の認識の仕方や、思考回路、癖、文化や価値観を深く知り、自分のことをよく知ることができるようになるんだと思う。
ハディースに「自分を知る者は神を知る」という一節がある。神を知ることと、自分を知ることは一つ。(意味がわからない、、、)
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今まで知らなかったイスラム教の世界。
今まで自分は、いつのまに(生まれた時から、だろう)西洋的価値観にどっぷり浸かって生きてきたんだな、と再確認。
優しく、寛容で、(いい意味で)ルーズな宗教。まさしく今の時代に求められるDEI(Diversity, Equity, Inclusion)を体現しているな、と。
本来のイスラム教世界(イスラム共同体、ウンマ)は、多様性を大事にする真のグローバリズムを成し遂げていた。それが近代以降の西洋的価値観(領域領民国家)が流入してきたことにより、そんなイスラム教世界のグローバリズム性は失われ現代のようなモザイク国家が乱立するカオスな世界に。
筆者は、そんな本来のイスラム教世界を取り戻すためにカリフ制再興を唱えている。
もしも、いつか、カリフ制が再興した本来的イスラム教世界が戻ってきたら、その時は是非ともそんな世界をムスリムとして歩き回ってみたい。