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離婚調停中に、私はこの本に出会いました。妻は、虚偽DVを主張しており、どうやら彼女の記憶ではそれが真実になっているようでした。この本は、彼女を理解する上で、大変役に立ちました。私は、自己愛性パーソナリティ障害の関連としてこの本を読みました。身近に実例があったこともあり、非常に分かりやすかったと思います。
この本で、特に面白いと思ったのは、「病気」と「邪悪性」に定義をつけ、定義をつけることの有用性を説明してくれていたことと、個人から組織に視野を拡大していたところです。考え方として、大変参考になりました。
病気『人間としてのわれわれの潜在的能力を完全に発揮することを妨げる、身体および人格の構造内に存する欠陥である』
邪悪性『自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである』
この定義に当てはめると、毒親に育てられた子は、「親の邪悪性という病気によって生じる病気」といえるのかもしれません。理解不足で、間違ってたら、申し訳ありません。
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「虚偽と邪悪の心理学」という副題がついているが、あまり心理学という感じがしない。
精神科医として著者が出会った困った連中が大勢出てくる。ただ、彼らが「病気」なのかどうかはぼくにはよくわからない。人並み外れて胸糞悪いのと病気なのはどこが境目なのだろう? 病気は当人の責任ではないが、子どもを虐待するのは病気なんだろうか? そういう連中を「治せる」のだろうか?
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心理学、と銘打っているものの、お医者さんと
数人の患者とのやり取りの体験談、といった感じで
個人的にあまり響かなかったのですが
日本では20年以上前の1996年発行だが、
米国では1983年発行。うーんなるほど。
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今さらながら読んでみた。
最初は心理学の本という印象だったのだけど、読み終えると明らかに哲学として書かれていると感じた。
邪悪(evil)とは何か、というサイエンスでは定義しきれていない存在について、過去の精神分析を元にして掘り下げていくのだが、その書きっぷりは見事。邪悪とは病なのか、という問いかけもありかなり奥深い。
うっかり「邪悪とは何か?」という問いかけをしてしまった精神科医が「うそをつくこと」と答えを導き出した、というと安っぽいが、そういう安っぽさはない。
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強い愛に貫かれた本だった。
本書の登場人物たちは、他人をコントロールし、自分の醜悪さ・誤りを認めず、それどころかスケープゴートを求めるような人たちばかりであり、胸糞が悪い。
彼らの認識や言動を分析すると悪の正体が見えてくる。
その悪は、誰の心にも存在しうるものであり戦慄を禁じえない。
悪にはいつも嘘が絡んでいるという。自覚的な嘘はまだ理解できるが、意識せずに嘘を使う者もいる(明らかに嘘なのに本人の認知においては嘘でない、など)。相談者たちの小さな嘘を見逃さず、明らかにし積み重ねることで病をさぐりあてていく様はみごとである。
精神科医である著者は、医療の現場で悪と対峙しているが、邪悪な心をもつ人を成敗したり滅ぼそうとはしていない。あくまでも目的は救済である。邪悪な魂を白日のもとにさらし、浄化し、本人の本来あるべき(そうあった)姿に導く(戻す)はたらきを行っている。まさに愛の仕事であった。
胸糞悪い登場人物が多い中、著者の愛のはたらきを通して話が進むので、読後感は爽快でした。
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草思社文庫。M、スコットペック。森英明訳。原著は83年、96年訳、文庫は11年刊。
タイトルから想像する内容とはちがった。著者が臨床医師としてあつかった何人かの患者の所感から、「邪悪な人々」の接見記録をかいたもの。邪悪な人とは、罪悪感なく虚偽を働く嘘つきのこと。罪悪感がなく、自分ではそれが自分ないしあいてにとってよいことだとおもって行っているがゆえに、自覚して虚偽を働く人間とはちがうのだという。事実著者はかれら邪悪な人たちと接見するなかで、その事実をほのめかしたり指摘したり、さまざまな方法で自覚させようとするのだが、そうすればするほど、彼らは一向に意に介さないかまたは気分を害して、より一層ウソや虚偽を働く。
邪悪な人々は統合失調症的症状をみせることがある、としたうえで、以下のようにその特徴をまとめている。P246
a定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただし隠微な形をとる。
b通常は表面にあらわれないが、批判その他の形でくわえられる自己愛の損傷に対して過剰な拒否反応を示す。
c立派な対面や自己像につよい関心を抱く(憎しみや執念深い報復に貢献)
d知的偏屈性(ストレス時混乱を伴う)
著者がフロイト精神分析に理解をしめしているのに時代を感じる。彼の心理分析には頷けるところも多いのだが、そのうえでこの施療方法が役に立つかは微妙に感じるところもなどもある。
ほかにも、心理学界の言葉が散見される。珍しいのでメモしておくと、特定の考えや行動に固執する「呪術的思考」(自分の考えがそのまま物事を引き起こす原因になると信じること)や、エリッヒフロムのとなえた悪の性格(「屍姦症」の定義を拡大したアイディア。他人を支配可能なものにし、その人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、制御可能な状態に抑え込んでおきたいという欲望)。
接見した患者の例には以下のような人々がいる。ちなみに彼らはすべて邪悪な人々の被害者であり、著者は彼らに接することで間接的に邪悪な人々の存在を分析しているわけ。
自殺した兄の使用した銃をクリスマスプレゼントとして親からもらった抑うつ状態の14歳男児、中流家庭の息子で抑うつ状態の15歳男児、妻に完全に抑圧されている中年夫、身持ちの悪い母親に似ていく娘。
第四章「悲しい人間」では一章まるごと邪悪な人そのひととの接見にあてている。そこでの被害者は結局著者自身であるようだ。
シャーリーンは35歳の時恋人と別れて鬱状態をうったえて自ら施療をのぞんだ。小柄で魅力的な外見、ユーモアと知性をもっているが、能力以下の成功しかおさめていないようだった。彼女の両親は育児に興味がなかった。父は財産管理にかまけ、母はたえずイエスの名前を口にする狂信的な聖公会教会教徒、人前はばからず夫への憎しみを公言していた。シャーリーンは両性愛を自認し、妹はレズビアン。大学試験に落第しつづけ、ボランティアとして1年働いた経験から聖公会教会に宗教教育の責任者として雇われたが6ヶ月後に解雇され、その後7回失職し、接見に訪れた時には電話交換手として働いていた。接見した内容から著者はふつう数時間で患者の問題を見抜くものだが、彼女に関しては何十回接見を重ねてもそれができなかった。数ヶ月経って報酬の小切手をうけとるとき、毎回デザインを(そのため銀行も)変えていたことに気づかされる。それは愛する先生へのシャーリーンからの霊感おびた贈り物だった。彼女はその事由については問われない限り自分からは答えず、ほかにも呪術的行動をくりかえしていた。入信しているカルトの食事規定や、転職先の業務についてあらかじめ自分のやりかたを決めておく、など。このあたりから著者は彼女が「虚偽の人」であると感じ始める。彼女は著者の自宅の前でカーラジオを聞くのを楽しんだり、敷地内に「待合室とまちがえて」はいったり、夜中に宅前でガス欠おこして著者の車からガソリンをせびり、あるいは診療のおわりに彼に抱きついて突き放すまで離れなかったこともある。著者の接見所感は、4歳以前親からの愛情を十分にうけられなかったエディプスコンプレックスだと考える。ところが治療に必要な「退行」をうけいれずにセックスをねだる。
また自閉症とも結び付けて考えているあたりは疑問符付きで読んだ。著者は、自分を現実に従わせることが全くできない精神障害を「自閉症」と呼んで(p321)、また自閉症の最高の姿がナルシシズムである、とも。
シャーリーンは著者を愛している、よくなりたい、としきりに語っていたが、それがみせかけだけだといぶかるようになり、それは夢について話した時に決定的になる。惑星間戦争のさなか、彼女は機械を発明する。それは魚雷、ロケット、化学兵器など発射できるのだが、同時にその発明を壊そうと敵国からスパイがやってくることも予見していた。男がやってきて彼女を誘惑すると、彼女はそれを受け入れるのだがその瞬間男は機械にかけよって壊そうとする。あわててそれをとめようとするのだが、そこで目が覚める。著者と話をするなかで、その機械とはなにかと問われて彼女は「知性」だと答え、著者がそれは「きみの神経症」だと指摘するとかたくなにそれを否定して、それがいかに素晴らしい機械だったか説こうとする(途中で著者がふきだして、彼女は不機嫌になり話は中断、帰宅してしまう)。彼女は3年を過ぎた421回目の診療日、50分かけて自分の病気を驚くほど整然と語り、もう治療は必要ないと言ってでていきその後音沙汰もない。著者は治療に失敗したと結論付けている。
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悪には醜悪性があるという。
そのさもしさ、安っぽさ、下卑た寂しさのこと。
文字にすると恐ろしい言葉たち。
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この本は2年ほど前に購入して、少し読みかけたのですが、その後放置状態となっていたのを3日ほど前になんとなく手に取って読み始めたら面白いので、先程読み終えました。要は最初の100頁くらいをきちんと読まないと中に入っていけない本だと思います。
内容的にはとても参考になる本です。特にクライアントとの実際のやりとりというのは、推理小説以上に面白い。また悪に支配された実際のケースとしてベトナム戦争時のソンミ村虐殺事件を取り上げているのもとても興味深い。この本の作者ですが、1978年に発刊した「The Rosd Less Traveled 」という本はアメリカで300万部も売れ、聖書に次ぐベストセラーとなったようです。この本も心理学上の問題を実際のケースから語っているので、専門知識のない私にも興味深く読めました。
自分の普段の言動の中にも「邪悪な心」によって自分が苦しむ代わりに他人を苦しめている場合があると思いました。これからより良い人生を送るために、より良い自分をつくることに役立つ本です。
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前半部分は面白かったが、事例に出てくる患者のほとんどは救えていないので、尻切れトンボ感がある。ただ、参考になる部分もあった。
終盤の「集団の悪」の部分は、精神科学や心理学というよりも、根拠の明示されない論文をただ読まされているような、そんな印象だった。
全体を通して作者の思想や考えに偏りがあるように見受けられる。
また所々で、作者が人種差別的な意識を持っているように感じた。アジア人や黒人に対して。
総じて、作者の考える邪悪性というものに対して、作者の決めつけ感が拭えず、腑に落ちない部分が多々あった。
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読んでみて、
邪悪な人とは?
自分の悪いところを認識できず、他人が悪いと判断してしまう。だから平気で人を傷つけてしまう。このような人たちは正しい道徳的判断ができない。
鬱になる人はその人自身より周りの人の影響が大きい
特に両親や奥さん
正しい道徳的判断とは何なのか?
自分自身は大丈夫だと思っていても、邪悪な人であった場合正しい道徳的な判断ができない
またそれに気づかない
科学的に正しい道徳的な判断ができるのでは?
科学とは完璧なものではなく、その時の時勢に流されるものが多いので、科学が常に正しいとは限らない
道徳的な判断をしないのはどうか?
生活していくために楽は楽だが、ヒトラーのような指導者にあった時どうするかのか
結論
我々は道徳的判断なしに生活することはできない。
何かに頼るのではなく、自分自主が科学者になるつもりで悪の勉強をしなければならないし、自分の意見を持たなければならない。他の人と議論することも必要。また、判断するときの善悪の基準として本断する目的を明確にすることが重要。そう判断することが他の人を助けるなど、愛があるのかどうか、はたまた自尊心を守るためなのか、前者は善、後者は悪である
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なんだかわからないけれど付き合いにくい人、モヤモヤとした印象が残る人、話しても理解しあえない人、、、。誰にでも、身近にいると思う。嫌な人間関係というものも、あるのだ。腑に落ちる。
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邪悪=怠惰とナルシシズム。他者を思う努力ができず、その理由を自分の置かれた何らかの境遇を盾にすることで自分の立ち位置を必死に守る傾向。
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原題は「Peaple of the lie 」
怠惰とナルシシズムにより「邪悪な人間」が形作られるという。
現実を直視しないという怠惰、そしてまた、直視しないことも隠し通す。ある意味怠惰を堅持するためならどんな努力も怠らない清廉さ。
また、自己批判を恐れどのような事実も自らの論理によって正当化し、その正当化論理に酔いしれる。
そして恐ろしいことに国家レベルでもそのようなことが起きる。
と言っている。
悪を科学的に客観視できる客体とみなし、分析し、そして悪を根絶したいという。
ここまではまだわかる。
だがその方法が「愛」という部分がちょっとわかりにくかったというより、意図的に飛躍してるのかと思うくらい。
「愛」も客観的に分析しないと「悪」だけで悪者にされて不公平やんけぇ。別の文献にはあるのかも。
結局、キリスト教的やったかなぁ〜。
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ダヴィンチで林原めぐみさんが紹介していて気になった本。
自分の内省を怠ることと、自分を過信しすぎることで他者への関心よりも自己の利益しか追及しない人になってしまうのか。自分の行動には意味があって、ある程度責任を持ちつつ生きていきたい
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平気でうそをつく人間は、それを倫理的に悖るとは露たりとも考えない。
ただただ利己的であり、他人の痛みや共感性がどこか欠如している。本書はそういった人達を相手取ることになった精神科医の記録。