紙の本
刺激と知的興奮に満ちた中国の通史
2007/03/10 01:23
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投稿者:Skywriter - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の語る中国像は、いつもこちらの先入観を打ち破ってくれて面白い。
本書はタイトルの通り、中国文明の歴史についての通史である。まず中国文明とは何かということから説き始めるのだが、これが洛陽中心にした都市の文化を指しているのであって特定の民族の文化を指しているわけではない、というのがまず面白い。次いで本書の中心を為す中国文明について、神話・伝説の時代から現代までの変遷を語っているのであるが、これがまた他の中国ものでは味わえない意外性に満ちている。
とはいえ、始皇帝による統一から現代まで2200年余り。その通史をわずか250ページ程度で紹介しきるのは不可能だろう。なにせ、平均すると1ページでおよそ9年分を扱わなければならないのだ。24史というのであれば、一つの王朝についてわずか10ページ。これでは相当の駆け足にならなければとてもではないが収めることはできない。
しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、だからこそ本書は成功した、とも言える。王朝ごとに語ろうと思えば語れることは大量にある。しかし、大胆に贅肉を切り落とし、本質だけを真摯に追求した結果としてダイナミズムに溢れた通史が可能になっている。
本書から見えてくる中国の世界は、漢民族という単一民族が中原を狙う異民族と抗争を繰り返す中で発達してきたというイメージからはかけ離れている。むしろ、漢民族こそ圧倒的少数民族で、中国はその成立当初から四方の夷狄によって形作られ、異民族が都市化することによって占領した(元は異民族の)旧い文明と自分たちの文化を組み合わせた新たな文明を作り上げてきたという動的な歴史が浮かび上がる。
また、丁寧に言うべきだと判断すれば地理的な条件についても詳しく触れられており、地勢的な条件がどのように文明の発展に寄与してきたのかも分かって興味深い。
中でもとりわけ面白いのは、やはり北方系の異民族が絡むところだろう。つとに都市化された中国文明を中心にすえて中国史を語る他の研究者と違い、モンゴル史を研究する著者の面目躍如たるものがある。北方からどれほど多くの文化が持ち込まれたかは驚くほど。中でも、漢字の変遷について異民族からの影響が大きいというのは興味深い。
中国文明の最後の変遷は、日本との関わりで生まれた、と著者は指摘する。今の中国は日本型の文明によって形成されているとはなんとも意外である。そこには良い面もあれば悪い面もあるだろうが、それにしても今の冷え切った両国の関係を見るとなんとも皮肉であろう。
と、大変に面白い本なのだが、やはり五胡十六国や五代十国時代、北方での異民族同士の争いなどは余りに駆け足過ぎて重大事件ですらあっさり通り過ぎてしまうのでなかなか頭に入ってこない。贅肉を削りに削ったため避けられないことではあるだろうが。なので、細かい事件や細部に立ち入るのではなく、2200年余りの歴史の大雑把な流れに見られるダイナミックな変遷を見るのが適した読み方だろう。とにかく、他の中国本とは一線を画した刺激的な本であるのは間違いなく、中国史に興味を持つあらゆる方にお勧めできる一冊である。
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[ 内容 ]
序章 民族の成立と中国の歴史
第1章 中国以前の時代―諸種族の接触と商業都市文明の成立
第2章 中国人の誕生
第3章 中国世界の拡大と文化変容
第4章 新しい漢族の時代―中国史の第二期
第5章 華夷統合の時代
第6章 世界帝国―中国史の第三期前期
第7章 大清帝国―中国史の第三期後期
第8章 中国以後の時代―日本の影響
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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民族の成立と中国の歴史◆中国以前の時代◆中国人の誕生◆新しい漢族の時代◆華夷統合の時代◆世界帝国◆大清帝国◆中国以後の時代
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序章から第2章まで感動して読んだ。特に第1章は、中国の地理と民族と古代史の関係をわかりやすく説いていると思う。第3章から第7章までは集中力を失い惰性で読み流してしまった。モンゴルのあたりが少しおもしろかったような・・・。そして第8章の中国近現代史については、ちょっとのけぞった。見方としてはおもしろいけれど、こんな風に言ってしまって良いのだろうか、と。
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そもそも中国とは何か?から、説き起こす。中国には漢民族という単一民族はいない。漢字を使う多民族の集合体。儒教国家のように思われるが、実は道教の方が根深く中国社会を規定している、朱子学は朱熹がそれを儒教の言葉で捉え直したもの。夏王朝はベトナムの方から来た東夷が作った。それ以降も西戎や北狄が入れ替わり中原を支配して王朝を作ったのが、中国の歴史。清王朝の滅亡以降は、中国文明が終わり、日本で漢字化された日本式西洋文明になるという歴史観は驚いた。
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古本で購入。
中国史復習企画第1弾。
結論から言うと、あとがきを読めばほぼ事足りる。
それプラス全8章の内の序章・第1章前半・第2章を読めば充分かと。
下に引用したテーマのせいか著者の専門のせいか、通史としては偏りまくってます。
元~清にかなりの紙幅が費やされてる割に、唐なんて5ページかそこらで滅亡しちゃうし。
ということで、中国史の入門書としてはオススメしない。
中身はと言うと、
「近代的な中華民族とか漢族とかいう観念の形成される以前の時代を中心に、現在の中国に相当する地域に生きたいろいろな種族と、彼らの生きた環境について論じる」
というのが大きなテーマ。
著者は秦の統一から日清戦争での清の敗北までの約2100年間を「中国文明」の時代と定義し、秦以前に「中国文明」はなく、日清戦争により「中国文明」は断絶、日本版西洋現代文明の時代となり現在に至るとする。
この本のおもしろいところは、実はこの「『中国文明』の定義」。
著者は「中国」を
「皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲」
「北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組みこまれた範囲」
とし、「中国文明」を
「商業文明であり、都市文明」
としている。
その文明が秦の皇帝制から始まり、日清戦争後の西洋文明の導入で放棄されたから、この期間を「『中国文明』の時代」というわけ。
「商業圏=中国」っていう見方はおもしろいな。ただ不勉強だっただけかもしれないけど。
この他、最初の「中国人」夏人と四夷から始まる「漢族」「中国人」の枠の広がり、使われる言語の変遷、なんてあたりもなかなか面白い。
それにしても、清末からの近代化は「日本を中心とする東アジア文化圏の一部に組みこまれ」るもので、1970年代に始まった現代化とは「実質的にはアメリカ化、日本化」であり、1945年に中断されて以来の「日本文明圏への復帰」という論はちょっとすごい。
中国の近代化への日本の影響の大きさについては論を待たないけど、ここまで言う人は初めて見た。
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中原に始まった中国が、北狄の侵入を受け同化していったという大きな歴史観を展開している。中国の文明史を3期に区分し、それぞれを前期・後期に分けているのはわかりやすい。
中国以前
・東夷は低地人、南蛮は焼畑農耕民、西戎は草原の遊牧民、北狄は狩猟民を指した。北は森林におおわれていたが、元代までにほとんど消滅した。
・龍はもともと東南アジアのモンスーン地帯の水神。越人は水難を避けるために龍の文様の入れ墨をした。
・王宮を囲む塀は本来、市場の囲いで、入る際に手数料を取り税の起源となった。王宮の塀が発達して都市を囲む城壁となった。中国の本質は、皇帝を頂点とする一大商業組織。
・漢字の原型が発生したのは華中の長江流域で、夏人が華北にもたらした。
第一期
・秦の始皇帝が漢字の字体を統一して焚書をつくった。
・前漢が滅亡してから後漢によって再統一されるまでに人口が4分の1に減少し、黄巾の乱から半世紀の間に10分の1に減少した。
・三国時代の後、内地に移住させられていた遊牧民が五胡十六国の乱を起こして北魏が華北を統一し、漢人は長江の南に避難して南朝をつくった。
第二期
・隋、唐は鮮卑系王朝に由来する。隋の時代に科挙が始まり、漢字の使用能力によって人材を登用した。唐代末には木版印刷が発達した。
・モンゴル高原では、7世紀末に突厥(トルコ)第二帝国が独立し、その後ウイグル帝国、キルギズ人、タタル人(ケレイト)の支配へと変遷した。
・10世紀初頭には契丹(キタイ)がタタル部族を破り、唐の内紛を後援して滅亡に至らせた。その後成立した北宋とは銀と絹を支払わせる和議を結び、この屈辱への反動が中国人の中華思想の起源となった。
・13世紀にフビライが雲南省にあったタイ人の代理王国を征服したため、タイ人は南下してラオスと北タイに広がった。
第三期
・第三期は人口が増加し、華南が開発され、東アジアの他の地域との統合が進行した。
・14世紀に明朝は、元朝が支配していた雲南省を征服して中国の一部とした。
・1571年にスペイン人がフィリピンにマニラ市を建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れ込んだため、中国では消費ブームとなった。その結果、女直人の地域の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、ヌルハチは富を蓄積した。
・1624年にオランダが台湾南部の安平(現台南市)を占領し、後に北部を占領したスペイン人も追放して全島を支配した。オランダ人は開墾にあたらせるために福建省から中国人農民を呼び寄せて、中国人が台湾に住みつくようになった。
・中国人海賊(倭寇)の大親玉の子、鄭成功は1661年に台南に上陸してオランダ人を降伏させ、台湾を占領した。23年間の独立の後、1683年に清軍が台湾に侵攻して支配した。
・16世紀以降、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモなどのアメリカ大陸起源の農作物が渡来して盛んに栽培されたため、人口が急増した。18世紀初めには1億人を突破し、東南アジアへの大規模な華僑の移住も始まった。
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読破。
かなりの知識が教科書的にひたすら詰め込まれているため、人名、地理、民族、言語等々の固有名詞が多すぎて正直なところ、読み物としてはあまり面白いとは感じられなかった。とはいえ、所々興味深い分析等があるため、おそらくそれぞれの時代の知識がある程度ある人達にはなかなか面白い本となるのではないか?という気もした。
中国の歴史の流れを幾つかのポイントを元にまとめており、それぞれの継続性・断続性への明記が多々あり、それをベースに分けている。その分け方もわかりやすいが、断続性を持ってして本来の中国か否かというのもやや乱暴な気がする。どちらにしろ、どこかの時代により詳しくなったら、またその次代の箇所を読み直してみたい本ではある。
P.13
そもそも「国」の本字の「國」は、もとは「惑」だった。外側の「くにがまえ」の四角は、すなわち城壁をあらわし、内側の「惑」の音の「ワク」「コク」は、武器を持って城壁を守る意味をあらわす。つまり「国」は「みやこ」なのである。
ただしのちに「国」は「邦」とおなじになった。「邦」は「方」と同じで、「あの方面」「この方面」を指し、「国」よりは広くて、日本語の「くに」にあたる。これは、紀元前二〇二年に皇帝の位にのぼった漢の高祖の名が「劉邦」といったので、「邦」を発音すれば失礼に当たる。それで「邦」を避けて「国」ということになったのだ。そのために「国」が「くに」の意味になったのである。
それで「国」が「みやこ」だとして、いったい「中国」とはどこなのか。
紀元前六世紀末に哲学者・孔丘(孔子)が自ら編纂したという『詩経』の「大雅」の『生民之什』に、「この中国を恵み、もって四方を綏んず」という詩があり、そこの注釈に「中国とは、京師である」といっている。京師とは、首都のことである。まんなかの「みやこ」だから、首都の意味になるのは当然である。
P.17(イタリアの宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが日本布教時に捕まった)
新井白石は、シドッティの語ったことをもととして『采覧異言』(一七一二年)、『西洋紀聞』(一七二五年)を著し、ヨーロッパ人の知識に基づいて世界の形状を描写したが、そのなかに日本人が「漢土」とか「唐土」とかいうものを、ヨーロッパ人は「チーナ」といっていることに注目し、古い漢訳仏典出「支那」と音訳されているものを探し出してこれに当てた。それから日本では、「チャイナ」などの訳語として「支那」が定着し、だれもかれもが「支那」を使うように成った。
一八五四年から翌一八九五年にかけて、日清戦争が起こった。これに破れた清国は大いに衝撃を受け、日本を手本に西洋化に乗りだし、翌一八九六年、第一陣の留学生を日本に覇権してきた。それ以降年々増加した留学生は、日本人が自分たちの故郷を「支那」と呼んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範疇を呼ぶ呼称がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を「支那」、自分たちを「支那人」と呼んだ。
しかし、「支那」は意味をあらわさず、表意文字である感じに乗せるには都合が悪い。「支」��いえば「庶子」、「那」といえば「あれ」のことになってしまう。そこで「支那」に代わって「中国」を、意味を拡張して使うように成った。これは一九世紀の末から二〇世紀はじめにかけてのことだが、ここにいたってはじめて「中国」が全国の称呼として登場したのである。
P.22
東アジアの大陸部に、「支那=中国」(China)と呼んでもいいような政治的統一体がはじめて完成したのは、いうまでもなく、前二二一年の秦の始皇帝による統一からである。ここにはじまった中国の歴史は、それぞれの時代において「中国」の観念が適用されうる地域のひろがりと、「中国人」にふくまれる人びとの範囲を基準として区分すると、三つの時期にわけられる。
前二二一年の秦の始皇帝による最初の統一から、五八九年の随の文帝による再統一までを第一期、一二七六年(本書では杭州の陥落をもって南宋の滅亡とした)の元の世祖フビライ・ハーンによる南北統一までを第二期とし、それから一八九五年の日進戦争の配線までも第三期として、ほぼ八百年、7百年、六百年の三つの時期にわけて考えるのが、考察に適している。
したがって、前二二一年より前の時代は、「中国」以前の時代ということに生る。この時代がのちの漢人の祖となったいろいろな種族が接触して商業都市文明をつくりだした時代であった。また一八九五年よりのちの時代は、「中国」以後の時代とはいえ、中国人にとっての歴史が「中国」の範疇を超え、外のできごとや影響によって左右されるようになった。
P.58
前二二一年の秦の始皇帝による中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。
中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。
P.62『周来』の「考工記」:前一世紀に儒家の古文はの手でまとめられた文献 より
市場に入るさいには、手数料として、商品の十分の一を抜き取られたが、これが「税」の起こりである。後世でも、北京の崇文門は税関の性格をもち、通行の入城社には税が課せられたが、これは城壁が本来は市場の囲いであり、城門が市場の入口であった名残りである。また手数料が、市場の入口の柱に捧げられたところから、「祖」から「租」の語が発生した。もともと「租」の意味は「阻」で、入城を阻止するものだったからである。
P.68
中国語(漢語)と普通呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない。そしてその漢字のきわめて特殊な性質が、中国の言語問題の理解を困難にしているのである。
前にいったとおり、漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ヴェトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する上海語、福建語、広東語の基層はタイ系の言語である��つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。
P.76
第一期の前記における歴史のハイライトは、秦の始皇帝が漢字の字体を統一して『篆書』をつくりだしたことと、いわゆる「焚書」である。(中略)紀元前六世紀末から前五世紀はじめの哲学者・孔丘(孔子)の創立した儒家をはじめとする諸教団は、それぞれ独自の経典をもち、その読み方を教徒に伝授して、それを基準として漢字の用法、文体を定めていた。つまりテキストはそれぞれ、それを奉じる人間の集団が付随しており、その読み方の知識、技術は師資相伝の閉鎖的なものであった。
前二一三年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。
P.83
一世紀から二世紀にかけての時期に、中国の文化史上に重要な時代の一つがやってくる。それは儒教の国教化と、それにともなう漢字の知識の普及である。
儒教は、先にいったように、前漢の後半期に、他の多くの学術を吸収、総合して、未来の予知を目的とする一種の科学体系に発展し、王荞によって国教化された。(中略)一七五年、新たに公定して統一した経書のテキストを、石碑に彫って大学の門外に立てた。これを「石経」という。
儒教の国教化以上に(中略)、一つの大事件がこの時代におこっている。それは新しい製紙法の発明である。(中略)このときから縦一尺の紙を横に長く貼りつないだ巻子が書物の形式に変わり、軽くてあつかいに便利で、しかも比較的安価になった。(中略)
紙の使用の普及と儒教の国教化、テキストの公定化は、これまで文字に寄るコミュニケーションに無縁であった階層にも、文字を浸透させてゆく。
P.122(一〇〇四年、契丹の聖宗が北宋の真宗と退陣、和議が成立し、真宗が契丹の皇太后を自分の叔母と認め、毎年規定の額を払うことになった:澶淵の盟に関して)
司馬遷の『史記』にはじまる「正統」の歴史観で見れば、北宋としては二人の皇帝の併存を公式に承認したことになる。言い換えれば、これでは北宋の皇帝は、天下の統治権をもつ、ただ一人の正統の皇帝ではないことを認めたことになる。これは北宋にとって、屈辱以外のなにものでもなかった。
こうした屈辱の反動で、実際は古く入植した遊牧民の子孫である北宋の人たちが、自分たちが「正統」の「中華」だ、「漢人」だと言い出して、傷ついた自尊心をなぐさめ、新しく北方におこった遊牧帝国を、成り上がりの「夷狄」とさげすんで、せめてもの腹いせにしたのが「中華思想」の起源になった。
P.198
中国のどの時代にもいえることだが、中国で一番金をもっているのは皇帝であり、戦争や外交などの臨時の費用は、皇帝のポケットマネーから出ることになっていた。朝廷の大臣たちの立場からいえば、戦争のときには、皇帝から軍事費を請求できるし、戦果があがれば、その作戦を主唱した大臣たちは恩賞にあずかれるし、前線の将軍たちもそれぞれ昇給する。戦争がつづけば、得をする者ばかりである。
P.204
明末、崇禎帝の一六二八年、陝西に第ききんがおこり、飢民は氾濫をおこして、府谷県(陝西省の神木県の府谷鎮)の王嘉胤を首領とした。やがて反乱は拡大し、(中略)王嘉胤は一六三一年、殺されたが、その部下は山西省に走り、やがて山西省、河北省、河南省、陝西省、四川省、安徽省、湖北省に及ぶ大勢力となった。(中略)一六四四年のはじめ、李自成は(中略)北京に迫った。(中略)崇禎帝は宮廷の裏の万歳山の寿皇亭に逃れて、(中略)絹をもって自ら縊れた。こうして明朝は朱元璋が南京で定位についてから、二百七十六年で滅びた。(中略)
このとき、呉三桂という明の将軍は、山海関に駐屯して、清軍に対する防衛に当たっていた。北京で皇帝がいなくなり、自分は反乱軍と清軍のあいだに孤立してしまったので、呉三桂は、清朝の都の范陽に使いを送り、いままで敵だった満州人に同盟を申し入れた。
清朝側の実験を握っていたのは、ヌルハチの一四男で、順治帝の叔父に当たるドルゴンという皇族の傑物で、まだ子供の順治帝の光景人をつとめていた。ドルゴンは、ただちに呉三桂の提案を受け入れ、清の全軍をあげて山海関に進撃した。
北京を占領していた李自成は、二十万の兵を率いて山海関に押し寄せたが、呉三桂と清軍の連合軍に大敗した。李自成は北京に逃げ帰り、紫禁城の宮殿で即位して皇帝を名乗っておいてから、宮殿に火を放ち、略奪した金銀を満載して、北京を脱出して西安にむかった。
ドルゴンが兵を率いて北京に入城した。明の朝廷の百官は一致して、ドルゴンに皇帝になってくれと懇願した。ドルゴンは笑って、
「俺は皇帝ではない。ほんものの皇帝はあとから来る」
と言い、瀋陽から順治帝を迎えてきて紫禁城の玉座につけた。こうして清朝の建国から八年で、明朝はかってに自分でほろび、中国の支配権が清朝のふところに転がりこんできたのである。
P.226
台湾がはじめて本格的に歴史に登場するのは、一六二四年、オランダがここに根拠地をおいてからである。この年、オランダ人は台湾島の南部の、いまの台南市の安平を占領した。この地の先住民がタイオワンという部族だったので、台湾の名がそれからおこった。(中略)スペイン人は、すこしおくれて台湾の北部の基隆を占領して、ここにサン・サルバドル城を築き、つづいて淡水にサント・ドミンゴ城を築いた。しかしスペイン人は一六四二年になって、オランダ人に追い出され、オランダ人が台湾全島を支配するようになった。オランダ人は先住民にキリスト教を布教したので、その副産物として、先住民の言葉をアルファベットで書く方法が開発された。(中略)オランダ人は食料調達のため、海峡の対岸の福建省から、中国人農民を台湾に呼び寄せて、開墾に当たらせた。中国人が台湾に住み着くようになったのはこれからのことで、オランダ人について入ったのである。このころ満州人が北京に入り、中国大陸の南部では、明朝の皇族たちがこれに抵抗したが、その一人が魯王で、福建省の沖合を本拠とした。その魯王をかついだのが、有名な国性爺、鄭成功(一六二四ー一六六二)である。(中略)一六六一年、二万五千の兵を率いて海峡を渡り、台南に上陸してプロヴィンシア城とゼーとランディア城を攻め落とし、オランダ人を降伏させ、台湾から追い出した。
P.228
清朝は台南に三つの県城をおいたが、これは鄭氏三代のような海賊の再発防止が目的だったので、中国人の台湾渡航を厳重に制限した。それでも、人口過剰の福建省からは密航者が耐えなかった。鄭氏の残党のやくざ地下組織と、着のみ着のままで密航してきた羅漢脚と呼ばれる大量の浮浪者のせいで、台湾の治安は極端に悪く、三年に一度の小反乱、五年に一度の大反乱といわれるほど、騒動が頻繁におこった。なかでも、一七二一年の朱一貴の乱と、一七八六年の林爽文の乱は規模が大きく、台湾全島が反乱軍の手に落ちた。
台湾の治安の悪さは、中国人入植者どうしの仲が悪く、土地を奪い合って械闘と呼ばれるはげしい戦争をくりかえしたためである。台湾に移住した福建人には似種類があり、泉州市の一帯から渡ってきた人と、厦門市の一帯から渡ってきた人は、たがいを余所者扱いする。さらに広東省の頭部の汕頭市の一帯からの移民も、福建省の系統ではあるが、かなりちがう方言の潮州語を話す。この泉州人、厦門人、潮州人は、たがいに仲が悪かった。
このほかに、客家と呼ばれる人びとがある。客家の本拠は広東省東北の隅の梅県だが、もともとは、一三世紀のモンゴル時代から華北の山西省より南下を初めた人びとで、話す言葉は中国語の山西方言である。客家の言葉は福建人にはまったく通じないし、生活様式もちがう。
こういった複雑な事情のために、清朝は台湾をもてあまし、開発などを考えもしないまま、二百年がたったのである。
P.235
一六四四年の清朝の入関とともに、北京の内城に入居した満・蒙・漢の八旗の旗人たちは、彼らの共通語である満州語と山東方言のちゃんぽんの言語を話しつづけた。これが「官語」である。この官語のうち、一九一一年ー一九一二年の辛亥革命で清朝が倒れて満州語が廃絶したあとに残された、山東方言を基礎とする漢語の要素が、いわゆる北京方言となり、これが現在の「普通語」(「国語」}の基礎となった。
P.246(一八六二年)
陝西省で、中国語を話すイスラム教徒(回族)と、中国人(漢族)の衝突がおこった。これがきっかけになってイスラム教徒の大反乱がはじまり、それが甘粛省へ、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)へと波及し、さらにトルコ語を話すイスラム教徒(ウイグル族)が反乱に参加したので、東トルキスタンはすべて反乱軍の手に落ちた。やがて西トルキスタンのコーカランド(ウズベキスタン)からヤアクーブ・ベクという英雄がやってきて、東トルキスタンのカシュガル(喀什市)にイスラム教の神政王国を建てたので、清朝の支配は中央アジアにおよばなくなった。
これに対して清朝側では、太平天国の乱の鎮圧に功績を立てた左宗棠が、「東トルキスタンを取り返せなければ、モンゴルをつなぎとめられない。モンゴルをつなぎとめられなければ、清朝はもうおしまいだ」と主張して、自分の湘勇���率いて東トルキスタンの平定にむかい、一八七七年にカシュガルを陥れて、イスラム教徒の反乱を一六年ぶりに鎮圧した。(中略)
一八八四年(中略)、清朝とフランスのあいだに清仏戦争がおこった。この戦争で、フランス艦隊は清の福州港の艦隊を撃滅し、台湾を封鎖した。これに衝撃を受けて、清朝は翌一八八五年、中国式の台湾省を設置した。台湾はそれまで中国の一部ではなく、東トルキスタンと同じような辺境として扱われてきたのである。
この新疆省と台湾省の設置で、清帝国の性格は根本から変わった。漢族が辺境の統治に関与するのは、清朝ではこれがはじめてである。それまでは、満州族がモンゴル族と連合して、漢族を統治し、チベット族とイスラム教徒を保護するたてまえだったのが、それからの満州族は、連合の相手を漢族に切り替えて、「満蒙一家」の国民国家への道に一歩を踏み出すことになる。それまで多種族のレン号帝国だった清朝は、これで決定的に変質したわけで、モンゴル族やチベット族は、満州族に裏切られたと感じた。
P.250
中国人にとって、歴史が中国の範囲だけに限られた減少でなくなり、国境を超えた外のできごとによって中国の運命が決定されるようになった時代が、中国以後の時代である。そのわけめとなったのが、一八九五年の日進戦争(一八九四ー一八九五)の配線であった。(中略)この日清戦争を契機として、中国の社会と文化は急激な変質をとげ、秦の始皇帝の統一以来、二千百年を超す伝統のシステムを放棄して、そのかわりに欧米のシステムを採用した。しかもその欧米システムは、日本においてすでに感じ文化になじむように消化されたシステムであった。そのために、これまで蓄積されてきた漢字語の体系は全面的に放棄され、新たに日本製漢語を基礎とした共通のコミュニケーション・システムが生まれることになった。(中略)千六百八十九年に清の康熙帝がロシアのピョートル大帝と結んだネルチンスク条約において、はじめてはっきりとした国境をもつ領土国家の概念がめばえた。それまで中国人には、「王化」、すなわち皇帝の権威のおよぶ範囲が中国だという概念はあっても、中国が四方を国境線に囲まれる一定のひろがりをもつ地域だという概念はなかったのである。
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ずいぶん前に買って本棚に眠っていた(積ん読になっていた)こちらを読了。
久しぶりの故・岡田英弘先生節を堪能しました。岡田史観がとてもコンパクトにまとまっており良書かと。専門が満州・モンゴル史だけありその部分が相対的に詳しく叙述されているところが他の中国史概説書との大きな違い。
「中国」とは何か?を知る入門書かと。
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後半は歴史的事実を事細かに書き並べるだけで味気ないが、前半(古代~南宋・五代十国時代)は面白い。
古代から洛陽盆地は、黄河の性質とあいまって、水陸両方において交通の要衝として栄えていた。それより上流になると流れが急すぎ、下流だと氾濫に悩まされる。
夏は東夷の王朝で、龍(水神)を祀るのは東南アジアとの繋がりもある(続く殷、周ではこの風習は見られない)
殷は東北の狩猟民の王朝。
周、秦は西方の遊牧民の王朝。
また、漢字はもともと商人が使っていたする点も興味深い。
各民族それぞれの読みで読んでいたのを次第に一つの漢字に一つの読みへと整理された人工的な言語だった。
孔子などの各教団のそれぞれ独自のテキスト、読み方、文法が子弟相伝の閉鎖的なものだったのを、国家が文字の使い方を教えるというオープンな形にしたという点で、始皇帝の焚書坑儒は評価できる。
(後漢末の黄巾の乱で漢人は激減、北方異民族が大量に流入し、発音も北方由来のアルタイ語化する)
表音文字を使用する種族は情緒を表現する語彙が大量にあるが、表意文字である漢字はそもそも抽象的表現に向いていないので、『紅楼夢』のような小説でさえ感情を表現する文字はほとんど見られず、具体的な事実と行動の描写に終始している。