紙の本
得るものよりも失うものに人は敏感に反応する。
2015/10/26 15:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:朝に道を聞かば夕に死すとも。かなり。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「反知性主義」という言葉が気に入らない毎日です。
知性の対義語って何だろう?反知性?いや、それだと「スマホの反対は非スマホ」って言ってるようなもんだ。
反知性主義の選民思想の香りが漂い、うざいワードだなって思ってこの本を手にしました。
内山さんはベルクソンを引き、知性の対義語は「直観」とします。
「それは、知性を介さずに「わかる」ものの現われ方のひとつだといってもよい。私たちは直観というかたちでものごとを「つかん」だり、判断したりすることがあるけれど、身体や生命による認識や判断は知性を介さないがゆえに、私たちには直観というかたちで現われる。ベルクソンが述べるように、知性からは直観は生まれないし、直感は生命そのものから生まれてくる。」
知性によってとらえられた歴史が肥大化し、キツネを信じなくなった私たち。とはいえ、近代化って生活に必要なインフラを他人にまかせたり、自活可能性を奪われるプロセス(@鷲田清一さん)であり、私もコンビニがないと困っちゃう部分があります。
そんな歴史の流れを辿っていく本なんです。
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昔の人々の中には当たり前のようにキツネがいた。
自然と共に歩んでいた。
正確に言えば、人と自然は存在として平等であり、素直にあがめ、恐れることができた。
是非どうぞ。
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ひどい。ぜんぜん深くならない。なのに著者はこの本に4年かけたという。取材のかけらも感じない、ただの印象論に無駄な時間をかけただけの本だ。
1960年代に日本人はキツネにだまされなくなった。それは認めよう。そうだろう。様々な原因についてもそうだろうと思う。
しかし議論はそれ以上に深くならない。ぜんぜんならない。タイトルは間違いなく「さおだけ屋…」のパクリだ。
少なくとも江戸時代の終りから明治にかけてならばいくらでもキツネに関する資料は思いつく。そういうものも登場しない。
京都の伏見稲荷、東京の王子神社、全国のお稲荷さん、狐の嫁入り、「ごんぎつね」や「手袋を買いに」、葛の葉からしのだ寿司や信太うどん…。もっときちんと調べて書けば面白い題材なのに、1965年に人はキツネからだまされなくなった、と断言するだけの本。誰か、このテーマで書き直してくれないものだろうか。
私なんてこのタイトルにだまされた。
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哲学的な考察があるわけでも、民族学的な調査があるわけでも、歴史学への鋭い批判があるわけでもなく、ただ、歴史には主観性が欠けてる云々と嘆くだけの本。キツネにだまされる云々は歴史学では確かに考察されないかもしれないけど、民俗学ではそれなりに研究はされているんじゃないの?民俗学が歴史学と融合していないから、歴史学をベースとした民俗研究のあり方といった方向に話がすすむのなら、まだ読む価値はあったろうに、最後まで愚痴のみ。ここまで読むに値しない本も久しぶり。
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キツネにだまされたかどうかというより、歴史と主観についての論考を主に論じている。それと絡めて日本の社会と思考の変化を追うが、著者の他の森林に関しての本と読めばつながりが良いかと。
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2008年1月読了。
このやけに長ったらしい題名にだまされて買う人が多いだろう。
筆者によると、日本人がキツネにだまされなくなったのは、1965年からだという。
いったいこの年になにがあったのか?
社会が変わったのか、人間が変わったのか?
なんと最後は「歴史哲学」にたどりつく内容だった!
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前半部分はとてもわかりやすい。
後半からの考察がわかりにくい。(ということは著者が力を入れて書いた部分が解っていないこと?!)
そう言えば彼の都市伝説論を以前読んだことがあったなあと、読んでいてだんだん思い出した。
転機が1965年という辺りは納得できた。
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作成日時 2008年01月05日 11:58
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一昔前の日本では、キツネやたぬきなど動物に人がだまされたという話がよくされていたそうです。しかし、1965年を境にそのような話がまったく聞かれなくなったというところから筆者の考察がはじまります。戦後の経済成長の中で、得たものと失ったものはいったい何だったのか・・・そんな奥の深い問いがなされている本です(2008.9.2)
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一部分だけ読んで全部を読みたくなった本。
結局、はじめに読んだ一部分が一番良かった。
「オノズカラ」について考えさせられた。
自分の内も外も一緒なのである。
「心を開放する」から、「自ずから」となるきっかけになった本。
歴史哲学の本らしいが、そこはどうでもよかった。
自分にとっては、筆者の言いたかったことはどうでもいいのである。
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Museum Theater Workshopの嵯峨さんから薦めていただいた一冊。他にも複数の方から内山節さんをオスススメされました。読まなきゃ!
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1965年を境に、日本人はキツネにだまされなくなったようだ、なぜか、という問いから始まる本。
キツネにだまされていた頃とだまされなくなった今、何が違ってしまったのか、日本人の歴史観とか宗教観、客観的事実とは何か、とか、そもそも知性とは、という話がどちらかというとメインで、もうちょっとエピソードが多かったらもっとよかったのにな〜とも思うけれど、でもとてもおもしろかった。
キツネにだまされなくなってしまった今、知性を介するととらえられないものをつかむことが苦手になってしまった、というのはとても悲しくて残念なことで、私がキツネにだまされることもたぶんもうないんだ。
途中に出てくる「山上がり」という話もとても興味深いです。
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このタイトルが今の KiKi にとってキャッチーだった理由のひとつは、5月に上橋菜穂子さんの「狐笛のかなた」を読んだときに感じた
「太古からの日本文化の中でお狐さまとはどんな存在だったのだろうか?」
という疑問、そして、
神社とかお稲荷さんで「お狐さま」を何度も見かけているくせに、日本人の文化の中で「お狐さま」はどんな存在だったのか、「お狐さま」にどんな想いを抱いてきたのかに関してはまったくと言っていいほど無知であることにあらためて気がつかされた
という想いがあったから だと思うんですよね。 で、内山さんの著作リストを見ていて、このタイトルに目が留まり、「そういえば昔語りには狐にだまされたっていう話がいっぱいあったなぁ」と今更ながら思い出し、さらに、新美南吉のお話には「ごんぎつね」といい、「てぶくろを買いに」といい、狐がたくさん出てくるなぁと。 ところが、実際のところ KiKi は野生のきつねというのを自分の目で見たことがなくて、見たことがあるのはTV番組(ネイチャー番組系)で紹介されるキツネの姿か、図鑑や本に掲載されている写真か絵だけなんだよなぁ・・・・・と今更ながら思い至ったのです。
昔語りにあれほど頻繁に出てくるキツネ。 神社やお稲荷さんでも石像や木像を数多く見かけるキツネ。 日本人とキツネの間の関係って昔はかなり近しいものがあったはずで、「だます」「だまされる」はともかくとして、その近しかったはずのものが映像か作り物の像だけになってしまったのはどうしてなんだろう? KiKi はLothlórien_山小舎付近の林や森の中でも未だに「キツネ」には遭遇していないんだけど、それはなぜなんだろう?? 環境破壊の一つの例なのかもしれないけれど、それだけではない「何か」がそこにあるような気が漠然としていました。 でもそれが「何なのか」はまったくわからない・・・・・。 ま、そんなときに出会ったこの本のタイトルだったわけです。
(全文はブログにて)
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浦野所有
「現代人はキツネにだまされない」という話を手がかりに、戦後日本の社会構造の変化をさぐる本です。人と自然との関わり方や、集落などのコミュニティの変容を分析しながら、「人がキツネに“だまされる必要のある時代”は終わった」と説きます。
ただ、正直、内容が薄い点は否めません。このテーマで新書1冊を書くほうが無理がありました。話を引き伸ばし、小ネタを挟みすぎているため、肝心の「なぜキツネにだまされなくなったのか」という疑問への回答が見えにくい。
それに文章力がそれほど高いとはいえず、単調な繰り返し表現が連続します。
具体的にいうと、。「・・・・・・というわけなのである。××××××といってもいい」というような、「文字数をかせぐためだけの不必要な繰り返し」が多すぎるのです。途中からウンザリ、飽き飽きしてしまいました。
というわけで、本当は★×1と評価したいところなのですが、一つ「これは!」と思える情報があったので、評価を上げました。
それが、群馬県多野郡に生息するオオサキという動物の話です。
ま、動物というより一種の妖怪のような存在ですが、キツネやタヌキと同じように人をだますのだそうです。主に商人の両替用の秤に悪さをして、取引きを操作するのだとか。しかも姿が見えない動物だそうです。
私の田舎は群馬県(それも多野郡の北隣の旧甘楽郡)ですが、オオサキは初耳で、非常におもしろかったです。
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戦後しばらくの間、日本の田舎には「キツネにだまされる」という伝承が残っていたが、1965年ごろを境に、その手の話をぱったりと聞かなくなったという。著者自身によるこのような経験にもとづき、「知性の歴史」からは見えない「身体性の歴史」と「生命性の歴史」について思いを馳せている本。著者は、この本の企画に「歴史哲学序説」という隠れた副題を付けているそうだが、普通なら民俗学や文化人類学として扱いそうな話題を、視点を変えた「歴史」として扱おうとしているところに、著者の強いこだわりを感じた。
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1965年を境に日本人は「キツネに騙される能力」を全国的に失くす。昔、民俗調査をしたことがあり、その村へ行きたくなった。