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鷲田清一著『だれのための仕事 : 労働vs余暇を超えて(講談社現代文庫)』(講談社)
2011.12.12発行
2017.10.3読了
1996年に刊行された本に補章を追加して2011年に文庫出版したもの。
人間の活動は絶えず価値を生産しなければならないという生産性の論理が私たちの自己理解の構造の中に組み込まれたことにより、現代人はインダストリアスな強迫観念に囚われ、仕事から遊びという間がなくなってしまった。そのため、仕事が労働(辛苦)となり、モチベーション維持のために目的の実現や自己の対象化という美徳が編み出され、労働が生きがいとなるような心性が形成されていき、一方で非労働=余暇が退行的活動へと縮減されていった。
しかし、インダストリーの精神は労働だけにとどまらず、余暇にまで浸透していき、余暇さえも真空恐怖に支配されるようになった。ここにきてインダストリーの精神がいわば一種の飽和状態となり、生活そのものの目が詰まり、人々は脱出口を見つけようとやっきになっているようにみえる。つまり、目的連鎖の労働過程の中で意味を失った人々は、自分が持っている能力や資質や財を使うことによって、じぶんがじぶんであることを自己自身の内部に見出そうとやっきになっている。
しかし、筆者は、自己の同一性は、わたしの自己理解の中にあるのではなく、特定のだれかとして他者と関わる中にしかわたしは存在しないと考えている。具体的には、わたしはだれかという問いは、わたしの自己理解の中にあるのではなく、他者がじぶんを理解するそのしかたの中にあるものでもなく、その二つが交錯し、せめぎあう現場にこそある。言い換えれば、他者との関係の中で編まれていくじぶんのストーリーこそがアイデンティティーであり、それこそが楽しさや生きがいを与えてくれる。目的地ではなく、その道の途中、つまり、他者との関係の中で編まれていくストーリーあるいは新しいじぶんの発見が、未来ではない今を時めかせる。働くことの意味は絶えず語りなおされ、掴みなおされるものである。労働/余暇の対立項で考えるのではなく、個としてのじぶんの「務め」を探る感覚が、その語りなおしをきっと後押ししてくれるだろう。
以上が、私の本書のとらえ方である。大企業や組織の中で、匿名の誰かとしてではなく、特定の誰かとして他者とかかわるというのは、とても難しいような気がする。勤め人時代をさらに超えた長い人生を俯瞰して物事をなす、個としてのじぶんの「務め」を探るということだが、システムそのものの存続のために、人が求められたり、棄てられたりする社会で、一体どうすれば、他者との関係の中にわたしのストーリーを編むことができるのか。最終的な答えは示されていなかった。おそらく私自身で見つけるしかないのだろう。
URL:https://id.ndl.go.jp/bib/023180119
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解決策が見えたわけではない。でも、そのなりクリアに労働の問題について理解ができたように思う。特に、常に未来に投資し続けて現在を疎かにするような働き方への問いかけには頷きっぱなしだった。少し時間をおいてまた読みたい
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本作の内容は、さらっと言えば「自分らしいキャリアの築き方」、敢えてそれっぽい言い方をすれば「「労働」という概念における実存的間主観性の地平」、でしょうか笑
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四章+補章の計五章の小品ですが、一章から三章は労働と余暇という二つの概念の分析で、いかにもテツガクっぽい話で、残念ながら私のサメ脳にはあまり入って来ませんでした。
おすすめは、四章と補章で、こちらはアツめで面白かったです。
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そこでは、家事という無給の仕事をとっかかりに、ボランティアという無給仕事を対比させ、さらに阪神淡路大震災以降のボランティア熱の高まりから、労働に必要とされる新たな要素を抽出します。
これからの労働に必要なもの、それは、他者からの認知、ということでしょう。
給料が高いだけで人は満足を感じるわけでもなく、交換可能な歯車的な業務に対し、自分が仕事につく必然性を見出せないわけです。
家事もそうですが、まずもって他者からの認知がなく、蔓延する「やってあたりまえ」感。さらには金銭的報酬(認知)もない。自分である必然性は家事にもあるやもしれないですが、自己決定権と周囲からの感謝がなくては、ねえ。。。
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もちろん、ボランティアであっても自分である必然性は見出せるとは限りません。が、少なくとも他者から認めてもらうという体験はきっと大きいのでしょう。
そうしたことから、終盤筆者は、他者との関わりの中から自分の立ち位置を見出す・形作るという責任を果たそう、というようなことを仰って終わりになります。
結論的には、あれですよね、先生?
ひらめきみたいに、「ああ俺の天職はこれだ」という決まり方はきっとしないんですよね。
不安や疑心の中でキャリアを恐る恐るスタートさせ、経験や人間関係のなかから何がしかの方向性を見出しなさい・作り出しなさい、ってことでいいんですよね、鷲田先生?
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ということで、分かったような分からないような理解(つまり分かっていない)でありました。ごめんなさい。
どこぞの高校の受験問題に出ていて、それをきっかけに購入しましたが、これは高校生にはちょっと難しいと思います。
小難しいのが得意な高校生以上、社会思想系好きは大学生、キャリア関連・人事関連業務のかた、教育関連の方は手にとってもらっても良いかもしれません。
キャリアのことをよりプラクティカルに考えるのならばより良い本は沢山あると思います。労働という概念やその歴史をさらっているところあたりに、きっと本作の価値は多く存すると思います。
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含蓄深い、仕事をめぐる論考。
始終、自分はこのままで良いのかの反省が出来た。
身体論、ファッション、また、家事とボランティア、クレーマーの話題が面白い。
労働と余暇をめぐる歴史的変遷も頭の整理になった。
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1 前のめりの生活
・「時は金なり」という言葉で表現されるように、現代では時間を無駄にしないことが重要だとされる。ジョンロックは、生命と財産の保全のために所有権の理論を構築し、累進的増大を徳目とする思想を提唱した。また、労働は価値ないしは富の源泉とした。資本主義を支えるこの勤勉・勤労というエートスが、人間の活動はたえず価値を生産しなければならない、それもつねにより多く、より速やかに、つまりはより効率的に、という強迫観念を生み出してくる。結果として、現代人は、未来をよりよくするために、今を効率的に生きなくてはならないという思想に縛られるようになった。
2 インダストリアルな人間
・現代では、労働は人生を意味づけるもの、生きがいとして受け止められるようになっている。さらに労働のみならず、余暇や消費、さらにはじぶんの身体といったものにも勤勉・勤労のエートスが浸透するようになる。
・たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、惰性的に反復されてきたのが20世紀社会であった。
3.深い遊び
・仕事と遊びが、労働と余暇という関係へと二極化され、労苦とそれからの解放というふうに、両者が対立物として規定され、その差異が強調されることで、皮肉にもそれぞれが空疎なものになってしまった。
4.労働 VS 余暇 のかなたへ
・仕事の「内的な満足」は、未来の目的とではなく、現在の他者との関係と編みあわされている。すなわち自己のアイデンティティとの関連で与えられるものであり、「生きがい」とよばれるものである。
・なにかに向かっているという感触が充実感やときめきを与える。そしてそういう感覚のなかでは目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが、回り道や道草もが意味をもつこととなる。
・現在を不在の未来の犠牲にするのでなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだでときめかせたいものだ。