投稿元:
レビューを見る
以下引用
じぶんで意味を与えないことには意味が見いだせないというのは、ひとつには、じぶんの存在が他人にとってじゅうぶんに意味のあるものになっていないということを意味する。そのように問わないでいられないというのは、いまのじぶんの生活のどこかに、そのような問を発生させてしまうような空白がある
もっともやりがいのある仕事に身をゆだねている人びとには、レジャーがきわめて少なく、退屈な仕事に従事している人々、はもてあますほどのレジャーに身をゆだねている
まじめかふまじめか、仕事か遊びか、労働か余暇か、清算か消費か、紋切り型の二者択一の中で、遊びからしだいにまじめさが欠落していった
余暇という大きな枠組みがつくられたことによって、休息や気晴らしさから自己啓発まで、昼寝や飲食からスポーツ、芸術まで、一つの同じ種類の活動としてひとくくりにされた。
スポーツは健康を害さない程度のほどよい楽しみに変質し、学問や芸術もまた、人生の適当な時間におさまる程度の安楽な活動に薄められる
遊戯としての遊には同時に、遊隙、つまりゆるんだ空間の遊び。
遊びとしての身体が、いつか【わたし】による身体の専制支配という幻想(あるいはわたしの存在の幽閉プロセス)を解除して、いつも自他の境にばかり目をやっているわたしたちを、私が生まれたよりももっと遠いところへ、そこではまだ可能が可能のままであったとことにまで連れ出してくれる。そのときに、はじめてわたしたちは、ただぶらぶらと手をつないで歩くという、ひとのあいだの遊びをじぶんたちの身体に呼び戻すことができる
遊びは、歯車のそれがそうであるように、構造体の隙間であり、それを内臓してこそ構造体が作動し始めるのであるから、その活動は「遊び」がいかに設置されているかにかかっているといってよい。人間の活動についていえば、「遊び」にこそ、アイデンティティを揺さぶるような、あるいは根拠をかけるような真剣さがある。ときに厳粛さすらある。こわばりつつある自分の存在、それをほどく力こそ「遊び」というものなのではないか
⇒自分のやりたい「遊び」もこれだな。労働外なのだけれど、だからゆえに、真剣に時を過ごす意味での「遊び」を創造したい。
遊びという間を欠いた仕事が、労働、労苦としての近代的労働なのではないか。先ほども確認したように、「手ごたえ」とか「真剣さ」は、仕事にだけでなく、遊びにも同じように要求される。それを欠いた遊びは退屈である。だから仕事と遊びは内容的に区別されるものではなく、労働にもなれば、愉しみにもなる。遊びはかならずしも、快楽主義的であるわけではないし、スポーツや勝負事のように、あるいは研究やゲーム制作のように、集中した作業と愉しみにとがごとんど区別のつかない仕事=遊びも数多くある。
仕事か遊びか、労働か余暇かという二者択一が問題ではなく、同じ行為がどういうきっかけで楽しみになり、どういうきっかけで労苦になるのか、その転回軸を見定める必要がある
遊びは厳密な意味ではリクリエーションでは��い。労働のための手段ではない。それは仕事がつねに内蔵しているはずのものである
時間の空白をたえず埋めておかないと落ち着かない。そういう息しききった余裕のない生活態度のことを、前章では、時間感覚という視点から「前のめり」の姿勢として規定した。目的を未来に設定し、その未来のほうから現在を逆規定する未来の目的の実現のためにいま何をなすべきかを意識するもの。これは、仕事が何かをめざしておこなう目的論的な過程としてとらえられているということ。
★何もめざさない仕事のほうが、想像するのがむずかしい。ただ、何かをめざしてということと、そのための行動がすべて特定の目的-手段の連関のなかに閉じ込められているということとは異なる。
有用性-ある目的のために
有意味性-それ自体意味のある理由のために
余暇の思想は、行動のディスシプリンを軽視。スポーツも芸術も、本来労働以上に厳格な規律を持ち、その過酷さに備えた営み。しかしそれが、ほどほどになってしまうことで、明日の労働という目的のための余暇になった
逆にぴちっと隙間のない同一性というのも、ひとがその中では息苦しくて生きられないもの。ちょうどふたりの会話を録音してきくと、その場では、とても緊密に絡み合い、交感されていたとおもわれるのに、ほとんどばらばらで、ころころテーマもかわっている、一貫した対話になっていない。それを深いコミュニケーションとしている。遊びは、そういうもの。
遊びの存在とは、ふたつの違う考え方のスタイル、ふたつのちがう感じ方のスタイル、それらがふれあい、混じり合う経験のこと。同じ作業をしていても、それが感じられるときに、共通のものをめざしてともに働いているというよろこびが、他人といっしょにいるというよろこびがある。
じぶんをじぶんとして編み上げているストーリーを、他者の「だれ」に応じて、あるいはその都度の他者のありように応じて刻々と変化する。
自分が自己というものをもちうるのは、特定の他者でありえていると感じられるときであった。この他者はいうまでもなく、未知のひと
じぶんの内部に入り込み、あるいは浸りきるのではなく、自分の外に出るというそういう感情の中に、ふつう達成感とよばれるもの―仕事における内的なよろこび―をみるころができる。
ひとであるというのは、途上にあること。じぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚が、重要、そういう感覚の中では、目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが回り道や道草もが意味を持つ
★仕事になかに求める移行の感覚は、未来のために現在を犠牲にする「前のめり」のものではなく、むしろ同時的なもの。それは他者との関係のなかでわたしの変容、そしてわたしたちの変容を期するものであるから。「希望はつねに帰郷であるとともに、何かある新鮮な新しいものである」。「希望」は、「途上にある」という移行の感覚である。
★ともに生きてあるという感覚が仕事のなか、遊びのなかに生成するとき、あるいはわたしたちがそれぞれそれとの関係のなかで、自分をはかる、そういう軸のようなものが世界のなかで、そしてわたしたちの間で生成しつつあると感じられるとき、それをひとは「ときめく」と表現するのだろう、現在を不在の未来の犠牲にするのではなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだで「時めかせ」たいものだ。
仕事の内的な満足。何かを実現するという目的地の明確設定、パック旅行ではなく、つねに別の場所への移行の状態にある、何かに向かっているという感触が、仕事に充実感やときめきをあたえる。いまのじぶんを超えた別のじぶんへの移行の感覚。
★この仕事をおこなうこと、そのこと自体が楽しいという仕事の内的な満足は、現在の他者との関係と編みあわされている。それはじぶんが勝手な意味付けをするのではなく、ひとつの仕事のなかでひとつのことをなしとげたという感覚をあたえてくれるそういうストーリー。それはじぶんはだれかということ、自己のアイデンティティとの関連であたえられるもの。それこそが「生きているという手ごたえ」や「生きがい」と呼ばれる。
旅する人間。人間のつねにみずからを超えてある在り方。つねに何かにいたる途上にあるというありかた。
⇒仕事において「生成されつつ他者」という「現在=顔」が互いに顕現、露呈されるときに、人は仕事に内的な、それ自体の「よろこび」を見出すのだろうな
じぶんを超えたものにじぶんが開かれてあるという感情。これは自分でじぶんの存在に意味を与えられない限界のある存在であるという意識が背後にある。
⇒こうしてみると、自己の生成過程と、労働における他者との交感(=顔の現前)あるいはそれにより新たな「自己の発見=外に出ること」を一致させていくことが「生きがい」につながるのだろうな。そしてそこにこそ遊びのなかでの「共在感覚」が発生するのだと思う。
じぶんの外にでるという感情のなかにしかない「達成感」。
★「いま」の現前が、労働の過程での他者との関係性の中で立ち上がり、顔や越境する自己として顕現されること。それを積み重ねていきたい。
投稿元:
レビューを見る
鷲田清一著『だれのための仕事 : 労働vs余暇を超えて(講談社現代文庫)』(講談社)
2011.12.12発行
2017.10.3読了
1996年に刊行された本に補章を追加して2011年に文庫出版したもの。
人間の活動は絶えず価値を生産しなければならないという生産性の論理が私たちの自己理解の構造の中に組み込まれたことにより、現代人はインダストリアスな強迫観念に囚われ、仕事から遊びという間がなくなってしまった。そのため、仕事が労働(辛苦)となり、モチベーション維持のために目的の実現や自己の対象化という美徳が編み出され、労働が生きがいとなるような心性が形成されていき、一方で非労働=余暇が退行的活動へと縮減されていった。
しかし、インダストリーの精神は労働だけにとどまらず、余暇にまで浸透していき、余暇さえも真空恐怖に支配されるようになった。ここにきてインダストリーの精神がいわば一種の飽和状態となり、生活そのものの目が詰まり、人々は脱出口を見つけようとやっきになっているようにみえる。つまり、目的連鎖の労働過程の中で意味を失った人々は、自分が持っている能力や資質や財を使うことによって、じぶんがじぶんであることを自己自身の内部に見出そうとやっきになっている。
しかし、筆者は、自己の同一性は、わたしの自己理解の中にあるのではなく、特定のだれかとして他者と関わる中にしかわたしは存在しないと考えている。具体的には、わたしはだれかという問いは、わたしの自己理解の中にあるのではなく、他者がじぶんを理解するそのしかたの中にあるものでもなく、その二つが交錯し、せめぎあう現場にこそある。言い換えれば、他者との関係の中で編まれていくじぶんのストーリーこそがアイデンティティーであり、それこそが楽しさや生きがいを与えてくれる。目的地ではなく、その道の途中、つまり、他者との関係の中で編まれていくストーリーあるいは新しいじぶんの発見が、未来ではない今を時めかせる。働くことの意味は絶えず語りなおされ、掴みなおされるものである。労働/余暇の対立項で考えるのではなく、個としてのじぶんの「務め」を探る感覚が、その語りなおしをきっと後押ししてくれるだろう。
以上が、私の本書のとらえ方である。大企業や組織の中で、匿名の誰かとしてではなく、特定の誰かとして他者とかかわるというのは、とても難しいような気がする。勤め人時代をさらに超えた長い人生を俯瞰して物事をなす、個としてのじぶんの「務め」を探るということだが、システムそのものの存続のために、人が求められたり、棄てられたりする社会で、一体どうすれば、他者との関係の中にわたしのストーリーを編むことができるのか。最終的な答えは示されていなかった。おそらく私自身で見つけるしかないのだろう。
URL:https://id.ndl.go.jp/bib/023180119
投稿元:
レビューを見る
解決策が見えたわけではない。でも、そのなりクリアに労働の問題について理解ができたように思う。特に、常に未来に投資し続けて現在を疎かにするような働き方への問いかけには頷きっぱなしだった。少し時間をおいてまた読みたい
投稿元:
レビューを見る
本作の内容は、さらっと言えば「自分らしいキャリアの築き方」、敢えてそれっぽい言い方をすれば「「労働」という概念における実存的間主観性の地平」、でしょうか笑
・・・
四章+補章の計五章の小品ですが、一章から三章は労働と余暇という二つの概念の分析で、いかにもテツガクっぽい話で、残念ながら私のサメ脳にはあまり入って来ませんでした。
おすすめは、四章と補章で、こちらはアツめで面白かったです。
・・・
そこでは、家事という無給の仕事をとっかかりに、ボランティアという無給仕事を対比させ、さらに阪神淡路大震災以降のボランティア熱の高まりから、労働に必要とされる新たな要素を抽出します。
これからの労働に必要なもの、それは、他者からの認知、ということでしょう。
給料が高いだけで人は満足を感じるわけでもなく、交換可能な歯車的な業務に対し、自分が仕事につく必然性を見出せないわけです。
家事もそうですが、まずもって他者からの認知がなく、蔓延する「やってあたりまえ」感。さらには金銭的報酬(認知)もない。自分である必然性は家事にもあるやもしれないですが、自己決定権と周囲からの感謝がなくては、ねえ。。。
・・・
もちろん、ボランティアであっても自分である必然性は見出せるとは限りません。が、少なくとも他者から認めてもらうという体験はきっと大きいのでしょう。
そうしたことから、終盤筆者は、他者との関わりの中から自分の立ち位置を見出す・形作るという責任を果たそう、というようなことを仰って終わりになります。
結論的には、あれですよね、先生?
ひらめきみたいに、「ああ俺の天職はこれだ」という決まり方はきっとしないんですよね。
不安や疑心の中でキャリアを恐る恐るスタートさせ、経験や人間関係のなかから何がしかの方向性を見出しなさい・作り出しなさい、ってことでいいんですよね、鷲田先生?
・・・
ということで、分かったような分からないような理解(つまり分かっていない)でありました。ごめんなさい。
どこぞの高校の受験問題に出ていて、それをきっかけに購入しましたが、これは高校生にはちょっと難しいと思います。
小難しいのが得意な高校生以上、社会思想系好きは大学生、キャリア関連・人事関連業務のかた、教育関連の方は手にとってもらっても良いかもしれません。
キャリアのことをよりプラクティカルに考えるのならばより良い本は沢山あると思います。労働という概念やその歴史をさらっているところあたりに、きっと本作の価値は多く存すると思います。
投稿元:
レビューを見る
含蓄深い、仕事をめぐる論考。
始終、自分はこのままで良いのかの反省が出来た。
身体論、ファッション、また、家事とボランティア、クレーマーの話題が面白い。
労働と余暇をめぐる歴史的変遷も頭の整理になった。
投稿元:
レビューを見る
1 前のめりの生活
・「時は金なり」という言葉で表現されるように、現代では時間を無駄にしないことが重要だとされる。ジョンロックは、生命と財産の保全のために所有権の理論を構築し、累進的増大を徳目とする思想を提唱した。また、労働は価値ないしは富の源泉とした。資本主義を支えるこの勤勉・勤労というエートスが、人間の活動はたえず価値を生産しなければならない、それもつねにより多く、より速やかに、つまりはより効率的に、という強迫観念を生み出してくる。結果として、現代人は、未来をよりよくするために、今を効率的に生きなくてはならないという思想に縛られるようになった。
2 インダストリアルな人間
・現代では、労働は人生を意味づけるもの、生きがいとして受け止められるようになっている。さらに労働のみならず、余暇や消費、さらにはじぶんの身体といったものにも勤勉・勤労のエートスが浸透するようになる。