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2022年のフランスでイスラム主義政党が国政を掌握するという、一見あり得ないだろうそんな事、と思いがちだけど、よく考えるとあり得なくもないのか実は、と思ってしまう、現在のフランス及びヨーロッパ諸国の激動を描いた作品でした。
著者はこの本の中で、ヨーロッパは資本主義を推し進める中でヨーロッパの良さを自ら放棄してヨーロッパを自殺に追い込んでいる、そしていまそこに残っているのは疲弊だけだ、と語っています。
そのヨーロッパの大国フランスで行われる2022年の大統領選で、移民の完全排除を掲げ内向きなフランスを目指す極右政党と、穏健派のイスラム主義政党との一騎打ちとなり、疲弊した国民がイスラム主義政党を勝たせてしまいます。
すると何が起きたか?
学校や企業から女性の姿がなくなります。女性は街を歩くときにイスラム教の伝統的な衣装を身にまとい肌の露出が一切なくなります。一夫多妻制が認められます(認められるどころか、世の中の人口構造に着目した場合、一夫多妻制により弱い雄が自然淘汰されることがイスラム教の摂理に基づく自然な結論だとされています)。
そして恐ろしいのが、既存のシステムに疲弊していたフランス国民は女性も男性もこのイスラム政権が繰り出す政策に次第に順応していき、主人公のフランソワを含め多くの人がイスラム教に改宗し、イスラム政権の下で新たな社会活動を築こうとしていく点です。著書のタイトル通りまさに「服従」です。
この本は2015年に刊行されたものですが、著者はこの本の中でEUの崩壊について言及しています。EUからの離脱を模索する国が現われたり、それとは逆にEUに取り入ろうとするイスラム系国家の台頭に触れていて、2016年のイギリスのEU離脱の決定を予言しているかのような内容で、恐ろしくも読み応えのある作品でした。
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尊敬する平野啓一郎さんがウエルベックが好きだというので『地図と領土』と本書を読んでみたが、……うーん。
女性の登場人物の描き方が酷い。童貞の脳内から飛び出してきたような、男にとって都合のいい存在としてしか描かれてない。
「現実にありえるかも」と思わせる物語の構成は巧みだと思うが、評判のとおり、イスラームの描き方にも差別的なものを感じる。
あまり愉快な読書ではなかった。
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2018/1
読了。
2022年のフランス大統領選において、国民戦線とイスラーム政党が争い、既存の右派左派政党がEU離脱を掲げる国民戦線を嫌ってイスラーム政党を支持してムスリムの大統領が誕生する。大学教授の主人公は最終的にイスラームに帰依して教授の職を得る。
現実には既にフランス大統領選は中道のマクロンの勝利で幕を閉じた。しかし、小説と同じところとしては、国民戦線が大きく標を伸ばし、従来の左派、右派は大きく崩れた。
この小説は、EU統合の失敗とヨーロッパにおけるムスリムの増加(すでにこれは現実のものとなっている)の側面から語られることが多いが、ニーチェによって確立された独立した個人を是とするヨーロッパ近代哲学によって生み出された個人主義と家庭感の限界を示しているのではなかろうか。
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原書名:Soumission
著者:ミシェル・ウエルベック(Houellebecq, Michel, 1958-、フランス、小説家)
訳者:大塚桃(翻訳家)
解説:佐藤優(1960-、東京都、作家)
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近い未来、フランスでイスラムが政権を勝ち取ったらどうなるのか、というお話し。もともとキリスト教信者だった人たちも最初は疑いつつもアッベスから発せられる口当たりの良い言葉を聞いて安心させられているうちに労働のあり方や家族のあり方、教育までいつの間にかイスラムを基とした形に変わっていってしまう。でも考えてみたら当たり前の話しだ。宗教や信仰はその人の進むべき指針や考え方に大きく影響するのだから。この本が発売された時フランスには激震が走ったというが日本だっていつ同じ状況になってもおかしくないと怖くなりました。
服従とは「あるがままを受けいれること」と述べられていて主人公もいつの間にかイスラムになっていく。紹介された妻は形ばかりの服従の姿勢を見せるかもしれないけど、主人公が望む「あるがままを受けいれてくれる」とは思えないなと感じる後味の悪い小説でした。
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"2017年に行われたフランス大統領選では、中道政党であるアン・マルシェのエマニュエル・マクロン候補と、極右政党である国民戦線のマリーヌ・ル・ペン候補の決選投票となり、39歳のエマニュエル・マクロン氏が選ばれ、フランス大統領となった。
本書「服従」では、極右政党と移民系イスラーム政党の決選投票となり、イスラーム政権が誕生するシナリオ。2022年でも極右政党党首は、マリーヌ・ル・ペンさんであり、現実感あるストーリー展開。中盤のパリを離れる主人公の周りで起こっている出来事は、現在テロが頻発するフランスの様子を見事に描き出している。
一つの可能性を提起した小説で、世界中で翻訳され、話題になっているらしい。"
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2022年、フランスがイスラム政権下に置かれ、潤沢なオイルマネーに懐柔されてソルボンヌ大学が買収され、女性はブルカを被り、労働を禁止され、イスラム教国になっていく。主人公の文学部の教授は改宗しなければ、教授を続けられずついに改宗し妻を娶るのだった。
世界をリードし、どこまでも個人主義を推し進めた西洋文明が自殺をとげ、人口減少、経済衰退の中、イスラム教を取り込むことでかつてのローマ帝国を復活させようと試みる。
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え?え?と驚いているうちに、状況がどんどん変化していく。
リアリティは半端ない。
背景として人口増と共にイスラム教徒が世界で増加していることもあって、背筋が凍る思いがするディストピア小説だった。とくにジェンダーをめぐっては皮肉と真剣さがない交ぜになって、深く考えさせられる。
最後にソ連崩壊後の世界に触れた佐藤優の解説もよい。
ただ、イスラムへの偏見は感じる。
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会話の中で登場するフランス文学や哲学を織り交ぜたストーリーは、消化不良であった。
しかし、主人公のユダヤ人の彼女・愛人がイスラエルへ避難したり、徐々にパリの街並みがイスラム教色に染まっていく風景に、ただ流されるだけの主人公の小説。
そして、思慮深いがノンポリな主人公が、環境適応するために、イスラム教へ改宗し服従するという文学的な作品。
観光や仕事で、パリを観た事がある私にとって、憧れのヨーロッパ的風景であるパリが、イスラム色に染まっていく本作のストーリーは衝撃的だった近未来小説。
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ユイスマンス
カップルとは一つの世界、独立して閉じられた世界であって、もっと広い一つの世界の真ん中を、傷つけられたりすることなく移動できるのだ。
人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。
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イスラム政党が政権を奪取した数年後の近未来2022年のフランスを描いたミシェル・ウエルベックの小説。シャルリー・エブド紙が、ムハンマドを侮辱したという理由でイスラム過激派に襲撃されて12人が犠牲となった事件の当日(2015年1月7日)に発売されたことでも有名となった。小説の中では、移民排斥を訴える極右勢力であるマリーヌ=ル・ペン氏に対して、イスラム政党の元に対抗勢力が集結したことで新政権が誕生することになっているが、2017年の大統領選で国民戦線のマリーヌ=ル・ペン氏が決選投票に残り1/3以上の得票を獲得したこともあり、この小説をシニカルなユーモア小説として片づけることが難しくなっている。移民政策により西欧文化が危機にさらされていると主張した『西洋の自死』でもウエルベックのために一章を割いて取り上げられている。
イスラム政権の誕生については、そんなことは起きないだろうという向きが今は多数派であるが、極右勢力に政権を奪われるよりはどんな政党であってもましだと考えることについても反論できないことから、フランスにおいても微妙な現実感があるようだ。その前提として、多くのフランス人が極右ではない政党によって、生活に影響がある大きな変化が起きるとは考えないだろうと思っているからだ。この微妙な現実感が、この小説を成立させる肝になっている。
小説の中では、新政権により経済的にはアラブのオイルマネーが流れ込み好調となる。イスラームの教義に即して女性を家庭にいることを優遇させたことで失業率が下がり短期的には好感される。政治的にもモロッコが欧州連合に加わり、アルジェリアとチュニジア、レバノンやエジプトがそれに続き、フランスを中心として新たなブロックが形成されという設定になっている。しかしながら、彼らの政策の中心は経済ではなく教育であった。イスラーム政党が他の勢力と手を組む際の条件が、すべての人がイスラーム教の教育を受ける可能性をもたなければならないということであった。そこでは男女共学の思想はなく、女性に開かれているのは限定された教科だけで、家政系の学科を学んだ後はできるだけ早く家庭に入ることが推奨される。さらに教師はイスラム教徒の男性でなくてはならない、という。
主人公のフランソワは、19世紀の文学者ユイスマンスの研究をし、ソルボンヌ大学文学部で教鞭を取る教育者だが、カトリック系の学校ではすでにそうなっているのだし、新たな多様性を受け入れることだと気持ちの上でも受け入れる。彼の所属するソルボンヌ大学がサウジアラビアからの資金援助を受けてイスラム教の施策に従い、女性やイスラム教徒以外の教師を排除しておくことになっても、多額の年金と父親からの遺産を受けてあっさりとその境遇を受け入れる。
さらに面白くなるのはここから。政権交代後にソルボンヌ大学の学長となったルディジェがフランソワを復職へ誘う。それはイスラーム教への改宗を伴う。ルディジェは、イスラーム式の教育と男女性差の正当化と、そこからフランソワが「正当に」得られるであろうメリットをもって説得にかかる。それは、教授の職と名誉と報酬そして、一夫多妻制による若い女性である。
「あなたは特に問題なく三人の妻をめとることができると思いますよ」
主人公のフランソワは、虚無主義で、無神論者ではあるが、どちらかといえばヒューマニズムに対して若干の嫌悪とともに居心地の悪さを覚えているようなタイプである。それはある種の知識人の態度でもあるかもしれない。そのような個人にとって、正当性と欲望がそろえば転回は容易だ。フランソワは、イスラム教に改宗したが、それはそもそも転回ですらないからだ。そして、著者はそのことを実は問題として提示するのでもない。
ここに至り、この小説において提示されているもののひとつが、人間中心主義への疑義ということがわかる。人権を絶対視して、安定しているものだと捉えている人にとっては気が付かないのかもしれないが、著者が人権について信用をしていないのは明かであるように思える。もちろん、おそらくは女性差別的な教育や社会に賛同すべく書いているわけではないが、小説で描写された教育制度への反論があるとすれば、それは人権を基礎とした人間中心主義によるものであるからだ。
フランス革命以来、西洋を中心に絶対視されてきた基本的人権の思想とそれに基づいた「人間中心主義」。構造主義やポスト構造主義などを通して哲学的な観点での批判をされることはあったが、世俗的な世界においてその規範の支配力は強化されてきた。
現在、人間中心主義の基盤には、すべての人が平等であるという原則がある。しかし、実際にはしばらく前はそうではなかった。人種は、異なる扱いをされて問題ないどころか、そうであるべきだと多くの人に考えられていた。男女はまず異なるものとして捉えられ、男らしさや女らしさは異性をつかまえるためである前に、そうであるべき社会規範として受け入れられていた。西欧においてさえも女性に参政権が与えられたのは100年程度前の話でしかない。少なくとも「男の子なんだから」と怒られ、「女の子らしく」としてたしなめられることに対して違和感を抱くことがない社会はそれほど遠い昔の話ではなかった。性に関する平等は、男女だけではなくレズビアンやゲイに対しても「平等」を原理として扱うことが広く求められ、それはかなり速いスピードで社会に浸透した。かつて自分たちは彼らを「オカマ」と呼んでそれを笑い、「キモっ」と言って、憚ることはなかったのではなかったか。そのことを思い出すと、逆に平等思想の脆さを意識させられるのだ。
イスラーム教は、少なくとも性に関しては両性の「違い」をその原理とする。男女は同じではなく、それが違うことを基礎とする。両性が違うものであるから、そこには中間であるLGBTが存在する余地もない。一方、平等の原理の基礎となっているのは人権思想であるが、これもまたある意味で宗教的であり、それは絶対の真理などではなく、容易に躓くことができるものであると考えるべきなのだ。ウエルベックが小説の形で示すことのひとつはこのことである。
ルディジェがフランソワに渡した著作の中で次のように性的位置づけを説明している。
「哺乳類の場合には、雌が懐胎している時間、そして、雄のほとんど無限の繁殖能力を考慮すると、選択への圧力はまず雄の方に掛かってくる。雄の間での不公平 - ある者は複数の雌を得る喜びを持ち、他の雄は必���的にその機会を奪われる - は一夫多妻の倒錯的な結果ではなく、まさにそれこそが本来達するべき目標だというのだ。そのようにして種の運命は完結する」
ほぼ同じ理屈を、今から25年ほど前にかつて大学院の研究室で席を同じくしたシリアからの留学生から聞いた。彼は、婚姻関係のない男女での性交渉を神への冒涜であるがごとく厳しく非難する一方で、女性に生理の期間があることも含めて一夫多妻制の正当性を説いていた。国に戻ると結婚すると言っていたので、誰か決まった人がいるのか聞くと、それは親族間で決められるのだと言った。それは、彼の中では一本の筋が通った論理でもあるのだ。
ウエルベックは「平等」に加えて、人間中心主義のもうひとつの絶対的な信条である「自由」についても、この小説を通して相対化している。「自由」に対峙しておかれるものは、タイトルにもなった「服従」であると言ってよいかもしれない。「服従」という言葉が出てくるのは小説の最後の方にかかってからである。先に出たソルボンヌ大学の新学長であるルディジェは、『O嬢の物語』を引用しながら、フランソワを大学への復職に誘って次のように話す。そこに出てくるのは女性の男性への「服従」と、人間の神への「服従」である。
「『O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。...(略)とにかくわたしにとっては、『O嬢の物語』に書かれているように、女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することとの間には関係があるのです。お分かりですか。イスラームは世界を受けいれた。そして、世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです」
この文脈において、小説では明らかに「服従」を否定的に評価していないし、避けるべき屈辱的なことであるとも考えていない。主人公のフランソワもキリスト教を強く批判したニーチェを引いているが、同じ宗教としてキリスト教とイスラーム教の違いについて次のように述べる。
「イスラームにとっては、反対に神による創世は完全であり、それは完全な傑作なのです。コーランは、神を称える神秘主義的で偉大な詩そのものなのです、創造主への称賛と、その法への服従です」
主人公があっさりと変化を受け入れるのは、キリスト教の神を信じていないのと同様に神を信じていないながらも、イスラームの協議に論理的矛盾性をあえて見いださないことで、自ら得られる特典を受け入れることに対して罪悪を覚えることがないからでもある。女性からすると、とんでもないことであるのは間違いなく、嫌悪感とともに空恐ろしさを覚える近未来のフィクションであるだろう。ただ、そのことが、よって立つところの世界の見方の違いであると主張されることに対して、人権思想(これもある意味では宗教的だ)以外に反論する根拠は何なのだろうか。何せ彼らは進化論を信じており、キリスト教原理主義者よりもよほど論理的だと言えるかもしれないのだ。
悪い冗談であり、シニカルなエンタテインメントと捉えて、単純に知的な楽しみとともに受け流すことは簡単で、ある意味では正しい姿勢だ。しかしながら、ウエルベックが小説の形で込めた問いかけの気味の悪さを正面から受け止めることは、この本を読んだ後では必要なものであるように思える。人間中心主義の後に来るのが、イスラーム教的世界観であるとは到底思えないのだが、それが、人間至上主義が意外に脆いものであることがこの小説から伝えられるメッセージのひとつでもある。
ルディジェはこうも言っていた。
「文明は暗殺されるのではなく、自殺するのだ」
自殺をした文明の後に、どういう文明が生まれてくるのかが問われていることなのだ。
当然、著者ウエルベックと小説の主人公の考えは違う。小説内のディストピア的イスラーム化社会を男性観点でよしとしているのではない。ただ、そのように思わせて男女問わず嫌悪感を生じさせた上で、その中から嫌悪感だけではなく世界の常識へのある種の違和感を感じさせることがウエルベックの狙いのひとつではないのだろうか。
一定の人に強い嫌悪感を催すであろうが、それだけで終わってしまうにはもったいない。
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『西洋の自死』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4492444505
『服従』は新たな視点で読み直されるのを待っている
[レビュアー] 関口涼子(詩人・翻訳家)
https://www.bookbang.jp/review/article/531512
「服従」(ミシェル・ウエルベック著)が描くのは男性にとっては実はユートピアで、女性にとっては絶望のディストピアであるということ
https://souheki1009.hatenablog.jp/entry/20151030/p1
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イスラム社会への逆説的な批判、または賞賛や支持として揶揄されるこの作品には、もっと別の大きな主題、時やイデオロギーを超えたところの「理解」というテーマがあるように思えた。ほぼ1世紀半の時を隔ててフランソワに研究されているユイスマンス。彼は作家の著作を援用し、日常的な現実を理解しようとする。しかし作家の信仰による隠遁生活には共感することができず、最終的にはイスラムへの改宗が語られる。プレイアード叢書序文の執筆によってユイスマンスとの関係を終えた主人公。また、確かに女性蔑視的表現は見られるものの、宗教という服従状態における幸福は一種のあり得る存在容態なのであり、この作品をそこに一元化して批評してしまうのはもったいない。フェミニズム的側面だけでなく、文学的普遍性を背景とした考察対象として了解したいと思う。
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イスラム同胞党がフランスで勢力を伸ばすという架空近未来を背景に、文学者の訳のわからない生活を描く。自由な個人という概念は、中間的な社会構造を解体するには有効だが、家庭という基本的な社会構造を破壊するに至って、否定するべき概念であるという理論、自然淘汰圧によって一夫多妻とそれに伴う少数のエリート男性による女性の独占の肯定などが目新しい。
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『セロトニン』からの『服従』。2019年の末から、パリにて先の見えない公共交通機関のストライキが続いている。偶然ながらそんな中でこれを読んだ。
ファシズム政党を阻止するために、究極の選択として社会党はイスラム同胞等と連結しフランス初のイスラム政権が誕生する。
じわじわと伝わってきたのはイスラムが政権を取ってからの大学の状況の変化。女性職員が解雇され、イスラム教徒ではない職員は出世やポストの維持の可能性が閉ざされ、義務教育期間が短縮化され、大学関連のパーティでは女性の姿が消える。一方、サウジアラビアからの巨額の金銭的支援を受け大学は潤い、これまで大学運営の採算を取るためにショーやイベントに高値でレンタルされていた大学の施設はその必要はなくなり(そして禁止され)アカデミックな尊厳を取り戻し、女性と縁のなかったような元同僚がいつの間にか(アレンジされて)結婚していたり。主人公の淡々とした語り口から、それが現実に起きることとをリアルに自然に想像できた。
主人公のライフワークとする研究対象のユイスマンの人生、主人公の父の死後に知った主人公の知らない別の顔、それらが伏線となり主人公自身も淡々と改宗に向かっていく。
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ウェルベックの作品は和訳も多く出版されていて、かねてより興味を持っていました。フィクションですが、フランスの政治や社会情勢については、かなり現実を反映しており、実在の政治家も登場します。ここに描かれるのは、イスラム政党のフランスでの台頭ですが、ウェルベックが描きたかったのは、「ヨーロッパの自死」ではなかったかと思います。
西欧文明が、キリスト教支配の頚城から逃れ、理性・啓蒙主義を軸に文明の発展を図ってきたものの、アナーキズムとニヒリズムが社会と精神の停滞を招き、この小説の舞台である近未来のフランスで、イスラームの信じる神とその世界観に「服従」していく。ウェルベックは、フランスが精神のバックボーンを喪失し、方向性を見失っていると考えているのでしょうか?
作中には、大学教授である主人公にウェルベックがこう語らせています。「希望が無くなったとき人々に残されているのは、読書だと信じるべきなのだろう」
フランス経済の低迷の中で、出版業界は比較的業容が良い状態を踏まえての言葉ではあるものの、読書が人にとって救いとなることがあることは事実ではないでしょうか。