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まぁ相変らずよく分からない。
でも、着物は人の体に合わせて着れるけど、洋服は完全に人の体に合わせて作られるってコトにはハッとさせられたかなー。
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自分の身体はどの部分までが自分なのか。自分は身体を所有しているのか、それとも身体そのものが自分の存在なのか。興味深い問いかけがなされていると思うのですが、なんとなくとりとめがないなあと思いました。その分気軽に読めていいかも。
ボードレールの「Any where out of the world」を引いて「自分は自分という檻の中からは逃れられない」という一節が印象に残りました。ここが好き。
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日本における身体論といえば、はじめは中村雄二郎『共通感覚論』、次いで市川浩『精神としての身体』、そして現在は鷲田の独擅場。(石原千秋『教養としての大学受験国語』146頁推薦して)
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この本を読んでいると、身体が悲鳴をあげているかも、と思わずにはいられない。
もう一度、繰り返し何度も読むべきだ。
日本中の人達にこの本を読んでほしいと思った。
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鷲田氏の著作は大学受験によく出題されるので、目にしたことがある人も多いかと思います。
メディアに踊らされる理想体型、拒食、過食を論じたものは割りとたくさんありますが、鷲田氏はピアスについても論じています。
自分の身体を一番よく分かってないのは実は自分自身かもしれません。
自由がある分責任も今まで以上にかかってくる大学生活を送る中で、これから自分をプロデュースするためにも新入生には一読して欲しい本です。
(福岡教育大学 院生)
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私が普段疑問に思って考えていることを整理して補足してもらったという感想。傲慢か。
私は特に化学の授業でずっと、「私=物」のイメージを押し付けられていると感じ続けていた。私は物を大切に扱えない性質なので、余計に悲しかった。この事実が前提の世界なら私はこの現実では生きていかれないと思った。たぶんそういうところから悲鳴は始まっていたのだと思う。
ただ著者が男性なので、やっぱり女の感覚は想像を超えないみたい。
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[ 内容 ]
ピアシング、拒食・過食、あるいは性。
本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。
わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。
医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。
引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。
[ 目次 ]
第1章 パニック・ボディ―身体がアブない。
第2章 からだの経験―身体はいつもアブない。第3章 からだの幸福(間奏1)―身体には想像力がある。
第4章 生の交換、死の交換―もはやだれのものでもない身体は、もう少しアブない。
第5章 からだのコモンセンス(間奏2)―身体には智恵がある。
第6章 「ゆるみ」と「すきま」―ひたすら(わたし)であろうとする身体が、いちばんアブない。
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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これまで私が読んできた本とは相当に傾向の違うものです。 とても参考になりました。
身体には、遊び、ゆるみ。すきまが必要という主張には共感しました。
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読み始めました。
(2012年10月29日)
痛快。
(2012年11月1日)
これは、よい本です。
お薦めします。
(2013年1月23日)
読み終えました。
まだ読んでない人は、ぜひどうぞ。
体をデザインできるという錯覚に陥っている人は、必読。
(2013年2月1日)
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身体は誰のものか?
わたしのもので、わたしが自由にしていいのか?
答えはノーである。
いのちが宿る身体。
いのちはいのち相互のやり取りによって生きられている。
そのことからいのちが私個人のものなどではあり得ないことが導かれる。
わたしの身体がガチガチで悲鳴をあげているのは、わたしがあまりに観念的であるからのようだ。わたしの未熟な観念で私の身体を縛り付けているということのようである。
そうであれば無私を目指すべきなのだろう。いやまったくの無私というのではなく程々の欲望ということだろうか?
Mahalo
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健康であることを強迫されているという感覚にははっとした。特に日本人は真面目で、集団心理が働きやすいためか。
患者さんを看ていくうえで、自分の健康主義を押し付けないようにしたいと思った。
人間の身体はその個人自身のものでありながら、社会的存在であるがゆえに社会のものでもある。
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タイトルと目次から期待して手に取ったのだけども、苦痛になるくらい読みにくい本だった。
僕のオツムではなかなかついていけない内容だった (l´Д`)。
けども、時折ひびく言葉や解説に宝物を感じた部分もあり、読んでみて、まぁ良かったかな。
身体とはなにか、ますます分からなくなってきた。
もうすこし、メルロ・ポンティの話をてんかいしてくれると思ったのだけども、そうもいかず、なかなか喰えぬ内容だった。
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【内容(中央公論新社より)】
ピアシング、拒食・過食、あるいは性。本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。
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【著者略歴 (amazonより)】
鷲田/清一
1949年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。関西大学文学部教授、大阪大学大学院文学研究科教授、同研究科長・文学部長等をへて、現在、大阪大学理事・副学長。専攻は臨床哲学。著書に『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)など、多数
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【目次】
第1章 パニック・ボディ―身体がアブない。
第2章 からだの経験―身体はいつもアブない。第3章 からだの幸福(間奏1)―身体には想像力がある。
第4章 生の交換、死の交換―もはやだれのものでもない身体は、もう少しアブない。
第5章 からだのコモンセンス(間奏2)―身体には智恵がある。
第6章 「ゆるみ」と「すきま」―ひたすら(わたし)であろうとする身体が、いちばんアブない。
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著者は、人間においての「自然」である身体が、過剰に観念化され硬直してしまっている現代の危機を「パニック・ボディ」と名づけています。
「幸福とはなにか」という問いに対し、著者は「幸福について考えずにすんでいること」と答えます。同様に、身体もそれが機能しなくなってはじめて、その存在が意識されるようになります。ところが現代人は、健康や美容の観念にとりつかれ、身体をみずからの意識の支配のもとに置こうと努めています。これは、「身体」が自然にもっていたはずの適度な「ゆるみ」が失われてしまっていることを意味していると著者は考えます。
さらに、身体はその振る舞いを通じて、われわれが世界とつながることのできる厚みをもった媒体だと考えることができます。われわれは出産から死に至るまで、家族の中で身体的な相互交渉を通じて、ある原初的な「親密さ」を獲得しており、これが人間社会における「信頼」の根底をかたちづくっていると著者は考えます。こうした「親密さ」が喪失すると、社会の「信頼」は単なる観念となってしまい、脆さを露呈することになります。
また著者は、マルセルの『存在と所有』の議論を参照しつつ、近代的な所有権の観点から身体を把握することの抽象性を指摘し、逆に有機的な媒体としての身体が、自己を世界へと「劈く」可能性を示唆しています。このように自己が「劈かれ」ていくところを、著者は「いのち」と呼び、その豊穣さを、「飢えて死にかけている息子に「おい、俺を食え」と呼びかける父親、誰かの死に際して死路の道連れになれたらと自害する人、あるいはおのれを献身という行為のなかに置く殉教者」などの印象的な例を通じて示そうとしています。
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興味深いテーマなんだけどこの著者の言葉づかいは難しく読み勧めるのが結構大変。
依然読んだ「『待つ』ということ」もそうだったがこの著者の文章は自分には合わないのかもしれない。
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現代において、身体を自分のものとして、コントロールしようとする行き過ぎたダイエットや整形といった問題の構造を分析したり、身体に対しての考え方、命に対しての考え方の変化がなぜ起きてきたのかといったことに関して筆者なりの分析で記されている。全てが納得いくものではなかったが、これを元に、自分で考えてみるのもよいと思う。