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シリーズ5作目。今回は、以下の企業が紹介されている。
北海道光生舎(北海道赤平市)、クラロン(福島県福島市)、さくら住宅(神奈川県横浜市)、天彦産業(大阪府大阪市)、日本植生(岡山県津山市)、ふくや(福岡県福岡市)。
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中小企業が中心なのが少し残念。従業員が1,000人超の会社ももっと取り上げて欲しいです。
でも、大変参考になるし、自分の会社もこういう会社にしたいと心から思います。
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マスコミが流す「ブラック●●」みたいな、大衆の興味を引きやすい情報ばかりが耳に入ってくるので、この本に紹介されているような会社が、まだまだ日本にあるということに心強さと安心を感じる。
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シリーズ5作目ですが、今回も6社の日本でいちばん大切にしたい会社が紹介されておりましたが、これまでのシリーズ作品同様どの会社も経営者の姿勢が素晴らしく感動しました。
社員とその家族、取引先、顧客、障害者、株主を大事にする経営がいかに尊く大切か!ということを改めて思い知らされました。この本を読んで自分の会社がどうかというと・・・ですね。社員間競争の愚というのは、その通りだと思います。
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2016年、35冊目です。
このシリーズも第5弾です。
いろんな素晴らしい会社が紹介されています。
人を従業員をお客様を大切にする家族的経営を実践している会社が今まで同様に紹介されています。
これらの企業の特徴は、組織風土というより、
会社リーダーたちの「人格」が反映された結果だと思います。
「北海道光生社」「株式会社クラロン」「さくら住宅」「天彦産業」「日本植生」「ふくや」の6社が紹介されてます。
利他を掲げ、障害のある人や弱者に寄り添う活動は、同じ人間として、どうしてこういった考え方と行動ができるのか?私にはわかりませんし、私はこのような生き方をできる人格も持ち合わせていません。強く生きるということは、「利他」に生きるということだと、著者は私たちに語っているのだと思います。”人に優しく寄り添って”と表現すればきれいな言葉ですが、ここで紹介されている会社リーダーたちの生き方は、”もっと苛烈”な生き方で、息を吞むような感覚にさえなります。
自分の心を揺さぶり、新たな心の脈動を得るための1冊だと思います。
おわり
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自分のスタンスが恥ずかしくなるくらい、
素晴らしい実例が沢山ある本。何度も何度も何度も読みたいバイブル。
■感動ポイント
・昼に打ち合わせがある取引先に対して、ランチを用意しておく。来る日から逆算して、漬物をつける
・営業利益の20%を寄付にまわす
・がんの社員
「もしも私が亡くなったら、棺の中に作業着を入れてください。火葬場へ行く前に、私の通勤ルートを通って、会社の前で一度停めてください」
→いい仕事・いい会社は、ひとの人生の【生きがい】になる
・社員をもっとも大切に。
お客様は当たり前のように大切にする。
社員を最も大切にしたら、社員はもっとイキイキと働くようになる。結果、お客様を大切にできる。お客様と接しているのは、社員だから。
■実践ポイント
・水・コーヒー・交通費の負担
・取引先や株主の方々が喜ぶような仕組み。初対面の方でも。
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津山市佐良山駅に日本植生の会社からある。私が常々強調しているのは、組織のトップに立つ者や経営者が1番大切にすべき事は社員とその家族の幸福だということです 株式会社天彦産業:女性が大活躍する鋼材商社はお互い様の精神で社員と家族に支えられる 私が思うに、女性が働きやすい会社は、男性にとっても働きやすい会社です 社員に優しい会社を作るには制度がある日ではありません。風土が先にあります 株式会社ふくや
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光生舎のような会社が北海道にあることが嬉しい。ぜひとも一度赤平に見学に行きたい。障がい者の息子をもつ母親の言葉が胸に刺さる。「私は息子が一生人さまの世話になって生きていくのだと思っていました。一生人に迷惑をかける存在だと思っていたのです。こうやって働いて、他の人から助かるとか、人の役に立っていると感謝されるようになるとは。まるで夢を見ているようです。」
管理職の半分以上が女性、障がい者の管理職が2名の福島県クラロン。社員第一主義、奥さんボーナスお母さんボーナスの大阪府天彦産業、特許を取らない福岡県ふく屋。どの会社も利他の精神に溢れている。
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戦争で生き残った人には使命やエネルギーに溢れる人がたくさんいるなという感想。他人への感謝を忘れてはいけないということは知識として誰でも知ってはいるが、それが持続的な行動に現れるかと言ったら難しい。自分の生は他人あってのものだということが実感として沁み渡っていないとできない。戦争で完膚なきまで叩きのめされたこと、それも本土にいる一般市民までもが攻撃を受け死線をくぐり抜けるはめになったこと、それが不幸のもたらした花として終戦後に開いたと考えると納得できる。