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3章末尾の
そこでこんなふうに考えられないだろうか.わたしは「なに」であるかと問うべきなのではなくて,
むしろ,わたしは「だれ」か,つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに,
問うべきなのだと.
というとこが,一番覚えてる.
自分の中をいくら見つめても,自分をそこに見つけられない経験は,
某自己分析的な行いで経験していたので.
他にも「女の子は『女装』によって女になる」とか
「じぶんがぼやけることの心地よさ」とか,
おもしろい.
でも読みやすいようで意外と読みやすくはない.たぶん
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哲学書。言葉自体は易しいものの、内容が難しい。
具体例・引用文がかなり多く、電車で化粧をする女性の話などは納得できた。人間は可能性を捨てながら生きているというのにも頷ける。
しかし、「“じぶん”は他者との関係でしか存在し得ない」というのにはいささか疑問が残る。
確かに現代の私たちは他者に影響を受けながら生きているが、元を辿ればそうでもなかった時代や人があったのではないだろうか。本書には、過去を交えての論拠が見当たらなかったので説得力に欠けていたと思う。
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言葉は易しいし、具体例もふんだんにつかってある。しかし、哲学者の言葉の引用が分かりにくい。
ただ、本書の言わんとすることは、以下に引用するエピローグに集約されている。
「さて、わたしがこの本のなかで伝えたかったことはただ一つ、〈わたしはだれ?〉という問いに答えはないということだ。とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこに何か自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、誰かある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。問題なのはつねに具体的な「だれか」としての他者、つまりわたしの他者であり、したがって〈わたしはだれ?〉という問いには一般的な解は存在しないということである。ひとはそれぞれ、自分の道で特定の他者に出会うしかない。」
このあとにも続くのだが、ここがほとんど全てあろうと思う。
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なんていうか、ちょっと良くわからない。他人を排他するって当り前のことじゃないの?私は自分には自分の世界があって、そこに他人を入れることは絶対に出来ない。
友達であっても、彼氏であっても、無理。
自分という存在に疑問なんてない。ただ私は私であってそれ以上でもそれ以下でもないでしょ。私の体は私だけのものでもあるし、私だけのものでもない。
私という存在は他の人が居てこそ成り立つけど、そこには一枚の薄い幕見たいのがある。
私は完全に他人を受け入れることは絶対に出来ないし、したくもない。
どんどん進むにつれて、??になってしまって読むの止めてしまった。
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ようこそ、不思議の世界へ!という感じです。
読めば読むほど、頭の中が混乱してきます。
自分の日本語能力に自身がなくなります。
でも、最後の章は分かりやすい。
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[ 内容 ]
わたしってだれ?
じぶんってなに?
じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る。
[ 目次 ]
1 爆弾のような問い
2 じぶんの内とじぶんの外
3 じぶんに揺さぶりをかける
4 他者の他者であるということ
5 「顔」を差しだすということ
6 死にものとしての「わたし」
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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自分のなかを掘り下げてもなにもでてこない。これがわかっただけでも、すんごく楽な気がする。他人の心のなかに存在する自分でありたい。そんな人間になれるように努力したいって思います。
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じぶんってなに?という疑問に
じぶんの中にじぶんを探しても見つからないよ
他者にとってじぶんはどんなわたしであるか
じぶんがあるとしたら他者との関係の中にあるよ
そんな感じのお話
具体例が多く分かりやすいのだけど
でも、でも、でも、で結論が見えなくてよくわからない
結論がないからなのですが。
ゼミで
自己あっての他者か、他者あっての自己か、
という議論で先生の予想に反して後者が多かった
だから鷲田さんの言ってることも分かるけど
なんかもやもやするよねっていう話になりました
そもそもじぶんって何?なんて考えたこともあまりないし
時代が変わってきたのかな~なんて先生は言ってましたが
私にはよくわかりません
一年前の課題図書。再読。
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101120by著者@阿武山
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『自己と他者』 志貴・笠原訳 71
『旅する人間』 山崎庸一訳 110
『ことばがひらかれるとき』 竹内敏晴 138
『だれのための仕事』 鷲田 (岩波書店) 144 :ボランティア
野田正彰 150 :ボランティア
『1995年1月・神戸』 中井久夫 150 :ボランティア
『人間の条件』 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 157
阿部公房 小説 箱男 168
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146, 156:privateについて
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「じぶん」というものの存在、考え方のストレートな答えを私は期待していた。しかし、この本を読み進める内にそのようなものは存在しないということに気が付いた。しかもそれは社会・文化、また色々な環境・条件によって変容していくもので、脆弱でもあり強固な制約でもある。
本書は私にとって「じぶん」について思いを巡らすその道しるべとなりました。
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読書レポート用に購入。
私の考えとは方向が異なっていたため、読みにくかった。
あと例えが多すぎて何について話しているのか分からなくなったりした。
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<要旨>
自らは元々複数の可能性を持っている、それが、次第に失われていく。人を模倣することで、そしてそれを自らとして吸収していくことで、自らが固まり、可能性が失われる。しかしあるときふと気付く。自らってなんだ?自らの内を探しても、自らはそう簡単には見つからず苦しい。なので、関係をリセットする?しかし、そもそもそれは繰り返しにしからない。うまく自分の納得のいく自己を獲得できるかもしれないが、しかしその自己すら他者との比較においてしか成立しない。なぜなら、明確なる自己などないからだ、少なくとも自分の内側にはない。つまり、明確なる自己などないと諦めることこそが一つの解答なのだろうか?更に言うなれば、自分は他者によって定義される以上、相対する他者によって自分自身も異なってくる。つまり、そこに同一性を求める必要はなく、同一性を求めることでむしろ自分が壊れそうになる。なので、同一性の縛りから解けることが重要。睡眠はそのための一つの手段。また、以上のことからもっとも危険な状態は他者がいない状態で自分が切り替わることと言えるだろう。
⇒このことが延々と違う言葉で繰り返されている。だが、哲学書とは元来こういうものなのかもしれない。同じことを延々と繰り返す、誤解がないように延々と。なので、本当に言いたいことは大した分量でもないはずが、なぜだか長くなる。長ければ長いほど内容を誤解しにくくなる。無論、著者がしっかりと自分の哲学を固めていなければならないけれど。
<考察>
自分と他者についてこのひとはかなり本気で迫っているように思われる。そのために、無意識的に生じる行為にまで原因を求めようとしているあたりにこのひとの努力を感じずにはいられない。反面で、このひとは合理主義者なのだとも感じる。つまり、この構図は神対人であり、現在は他者対自分である。哲学においても、実用性を求めるタイプの人と、そうでない人がいる。実用性を求める人はおそらく他者を重視する。そうでない人は自分を重視する。実用性のある哲学は間違いなく他者を重視する哲学であろう、そうでなければ、日常には還元できないからである。そして、苦痛のようなものを取り去る意味においても、他者を重視するのが間違いなく必要だろう。だが、苦痛を肯定する立場から言えば、必ずしもこうはならない。俺は苦痛肯定派なので、やはり自己を重視する。
<感想>
正直なところ、このひとの言っていることは正しいのかもしれない。真理なんてものはないのだろうけれど、しかし、真理により近しいと言える。けれど、言っていることは酷くつまらない。ある人には革命的な変化やらをもたらしうる一冊ではあるものの、反面で、芸術を否定してしまいかねない一冊である。つまり、芸術は評価されてこそ芸術であるとばかりに……。良くも悪くもそういう意味で非情に現実的な哲学であるとも言える。その分、日常に還元できる力は大きいが、自己を追及する人を馬鹿にしているような気もしてくる。現象学にしてもそうなのだけれど、なんだかすっきりしないのだなぁ。個人的に哲学は最終的に好き嫌いだと考えているので、これはあんまり好きになれない考え方で���る。ただ、<他者>自己<自我>とまぁ、こういうふうな仕組みになっているということなのだが、自我の中に自分はいないのかな?とは思うのだけれど。自我の中に。確かに、自己を自己足らしめるには他者が必要だけれど、その素養は間違いなく自我の中に含まれている。さもなければ、みんながみんな同じ人になってしまいはしないか?同じ人に。
<追記>
実は、途中までしか読んでいない状態で、上記の要旨、考察、感想を書いているので、いくらか解釈に誤謬があったかもしれないが、あまりずれてはいないのではないか?だが、著者が言おうとしていることは徐々にぶれてくる。それを著者も自覚していると思う。だから、著者ができるのは精々が問題提起くらいのものになってしまっていって、根本解決とはなりえない。つまり、最初に戻ってくる。ぐるぐる、ぐるぐる、ここまで読むと、ああ、この人は哲学をやっているのだなと感じる。ただ、やはりスタンスが違うのだ。確かに、他者に埋没してはいけない、他者の他者であらねばならない。そうして、自分を他者から切り離すと同時に、他者を自分に取り入れてもならず、しかし、自分はあくまで他者との線引きでしか生じないのだから、他者と接していかなければならない。他者にとって切り取られた顔こそが自分なのである。自分の内を探しても自分はいない。では、いかに他者と接するのか?しかし、俺は思うのだ。「薄っぺらい客観主義者よりは、気持ち悪い主観主義者になりたい」無論、気持ち悪がられることも他者から線引きされていることなのだから、それによって自分となりうるのだと著者は言うかもしれないけれど、俺たちは経験から、「こうあれば気持ち悪がられる」ということはうすうす感づいている以上、他者がいなくとも自分を形成できるような気もする……つまり、他者と接した経験さえ持っていればいいのではないか?難しい。けれど、こう立派な答えを書くひとよりも、考えに考え抜いてわからんと言っている人のほうが好きだし、よっぽど哲学してるなぁと感じる。ただ、文句をつけるなら言葉があまりにも平易すぎる。平易なのはいいことだけれど、平易すぎるとなんだかうすっぺらくなるというあたりは要注意なのかも……。しかし、自分が自分でなくなることの自由。拡散。なんだか、エヴァの人類補完計画みたいじゃないか……。私が私でなくなる、そこに人はそれを直感的に否定する。それが答えなんじゃないかな、この問いについては。
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今週末に参加予定のシンポジウム、演者の一人だったので予習的に買ってみた本。
うーん、哲学的な話。
じぶんとは自分の中にあるものではなく、他者との関係の中でこそ存在するものなのだ、ということか。
人間とは人と人の間で生きているもの、平たく言うとそういうことかもしれない。
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初わっしー。もちろん、入試問題その他では読んだことあるけども。彼は、とにかく、広い。彼が総長を務める大学のウェブペイジでは、2ヶ月に1度程度、動画のメッセイジが配信されるが、その中でも「たこ八郎さんが・・・」とか、「井上陽水さんが・・・」とか。この本の中でも、「「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものだということを、わたしはマドンナの『SEX』から学んだ。」(p.88)とあったので、何かと思ったら、ヌード写真集であった。何事も勉強ですね。そういう感じで、彼の話は具体例を挙げ,実生活に即して説明してくれて分かりやすいのだけど、あんまり面白くなかった。ところどころはなるほど、と思うところもあるのだけど、全体としては。別に,答えの無い問に答えを求めているわけではないのですが、なんか物足りなかった。面白い、面白くないっていう問題ではないのだけど。「だけど」ばっかりだ。若干文字が大きいので気づいたのだけど,現代新書には、「ジュネス」なんてシリーズがあったんですね。背表紙に小さなマークがある。でもカヴァーが新しくなって、外からでは全く区別がつかなくなった?
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【読了:☆3】
(要約)
「自分とは他者から見た他者である」
(感想)
小難しくなく、悲観的でなく、自分とはなにかをシンプルに語る一冊。
人に意見を言うことで、自分の考えや気持ちに気づくことがままある。
これこそ、他者を通して自分を見つめることなのだろう。
「人は自分を映す鏡」という概念を思い出した。