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意味は分からない。飲み込まれるというほどの感受性も持ち合わせていない。しかしそれでも読んでしまうのは面白くて、おれでも分かるようなことを時々挟んでくれるからである。
どつぼ超然から始まり、この世のメドレーにつながった余3部作がここに完結します。この世のメドレーが1番読みやすかったかな。
田宮(熱海?)に住んでいる余は、横浜美術館に行こうとして、特急踊り子に乗り込むが…
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「どつぼ超然」「この世のメドレー」に次ぐシリーズ第3段にして完結編。
超然と生きるはずだった主人公の「余」は、死に場所を求めて彷徨った挙句、生を肯定する境地に達し、最後に土俗神・龍神沖奈と対決します。
帯にある「町田文学の最高峰」は言い過ぎとしても(最高峰は誰が何て言っても「告白」です!)、町田ファンには待望の作品には違いない。
だって、たとえば、次のような文章なんて、今の文学界で町田さんくらいしか書けないしょ。
「オレオレ詐欺。という。そんなものはもう旧い。これから必要になってくるのは君君詐欺だ。あんた誰ですか。君だよ。俺は君だよ。え? 君って俺なの。そうだよ。君君。君だよ。I am youだよ。」
ただ、十数年来の大ファンだからこそ言わせていただくと、ややマンネリ化している感あり。
特に、今、大長編の「ホサナ」と並行読みしていますが、本書の内容とかなり重複します(たとえば、「実体化」とかね)。
正直言って、町田さんの本書のようなエッセー風の小説は少し食傷ぎみになってきたかも。
近年だと、「ギケイキ」は良かったです。
池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集に収録されている、町田康訳の「宇治拾遺物語」も絶品でした。
町田さんは、歴史に材を取った作品の方が圧倒的に面白いと思います。
それか純エッセー(なんて言葉はないですが、エッセー風小説ではないということ)ね。
そんなわけで「ギケイキ」の続編が楽しみです。
「生の肯定」のレビューになってないですね。
すみません。
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眼力とは生きる姿勢だ。誰もが余のような眼力を持つ訳ではない。しかし、それは文字と歴史を持つ人類の宿命である。
あらゆる人間は眼力を志向する。(p.124)
本物は自然に本物だから贋物を意識することなんてないのさ。本物のウィスキーしか飲んだことがない人は贋物のウィスキーが存在することすら知らない。しかし贋物はいつも本物を意識して、自分と本物の距離を測定しているから、本物を見ればすぐにわかるのさ。うっ、やべっ、本物だ、ってな。(p.198)
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「ほほ、善哉善哉」と言いながらあらゆることを超越し、超然と生きることを目指していた「余」であったが、そのようなものはまやかしだということを悟る。
余談だが、前作を読んでいた時、「善哉」の読みがわからなくて検索したところ、食べ物の「ぜんざい」が出て来たので、ずっと「ぜんざいぜんざい」と読んでいたら実は「よきかなよきかな」だったことに、この巻を読んでようやく気づいた。
自分の中の欲望、自慢したい、という気持ちを認める。それが生への肯定だ。そう思った途端、集落の方からグリーンアスパラガスを頂いた、そういう場面から物語は始まる。グリーンアスパラガスを茹でようとお湯をグラグラ沸かす。
『その湯を眺めているうちにふと気が変わってペンネを茹でようかという気になった。こういうことは人間にはよくあることだ。<中略>しかし、この距離があまりにも大きい場合は注意が必要だ。神谷町に行こうと思っていたのに、ふと気が変わってパラボラアンテナに登ってしまう。刺身定食を頼もうと思っていたのに、ふと気が変わっていきなり喉を突いて自殺する。なんて場合はどう考えても普通とは思えない。』
衣裳部屋から猿股とソックスを持ち出し、寝室で身に付け、『可愛らしく首を傾げて暫くの間思案』などいちいち笑わせてくれる。
駅の券売機で「ムーンライトながら」という表示を見ての「これはムーンライトながら・・・と言いかけてやめたのではないか?ムーンライトであるけれどもサンシャイン、とかそういう話ではないのか」という長考が飛躍して飛躍して飛躍してゆく。面白いのだけれども、よくこのテーマでこれだけの文章を書くよ、といつも思うのだけれども、町田の性格から言って、これは稿料のためにカサマシしてるだけなのでは?と思ってしまうことも正直しばしば(笑)
第四章と第五章は書下ろしらしい。ということは、ムーンライトながら(それとも結局踊り子?もうあまりにいろいろ思考が飛躍しすぎてわからなくなる)に乗り込み、眼力を効かせようとした挙句、眼が顔の中に吸い込まれ、口の中にその眼球を含んだまま、噛み砕こうかと思案していると、脳内参議院議員の狗井真一に止められてやめる、というところまでが連載で、その後の、世界が輝く吐しゃ物に飲み込まれ、自分の脳の中の不思議な食堂で死ぬほどうまい料理をくらうも、龍神沖奈というその地方を支配する贋神と対決するシーンは書下ろしというわけだ。と、まとめてみても、どこまでが連載だろうがどこからが書下ろしだろうが、めちゃくちゃであることに変わりはない。なんなんだこれは。
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「スーパービュー踊り子」号に乗ることがたいへん困難なことになっている。乗車に慣れています風の振る舞いができるようになることを目指す方がおかしい。何事にもつまずいてしまう方面に寄り添わないと、想像力は拡張しないのだと思いました。東京五輪に向けて?!トレーニングになりました。
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生きよう。余の旅が終わる。
この世は地獄。それでも、生の方へ――
町田文学の最高峰「どつぼ超然」ここに完結!
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この世の一切を超然の高みから見下ろし、実際の存在と自分に見えるものとの間の乖離を誤魔化すため思考停止を施し、欺瞞的な笑いを笑ってきた。この世の終わりと始まりを見て、ようやく自分が超然の高みにないことを自覚する。死に向かうのではなく、生の方へ向かうべく貪欲に生きようと心を変える。超然の立場に固執しない素直な気持ちを大事にしていく生きかた。人と触れ合い、いろんなことを自然に受け止め真心を大事に生きていく、そんな自らのありようを今一度見つめ直した。
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超然としたい理想と、この世でそれなりに自尊心を満たす事で生き甲斐を感じ多少の気分の良さをもって生きていく事との葛藤。途中まで構成は漱石の草枕のようにも思ったが、主人公が最終、あらゆる矛盾やギャップを受け入れ、諦観めいた自己肯定感を獲得するところに町田康なりの人生観みた気になった。
(町田康は心情描写を得意とする反面会話文はあまり展開的でなく、ぎこちなさが相まってしばしば行数稼ぎのようにも感じる。一方、織田作のテーマ性やキャラクターやストーリーのバリエーションはさて置き、戯作家として作家のキャリアをスタートさせた織田作の会話文描写はやっぱりイキイキとしていて秀逸だな〜〜と読んでいて思い出したりした。)
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町田節さらに炸裂!一体作者の脳内はどうなってしまっているのだろう。面白かった。
校閲の人大変だったろうなぁ。
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スゲエ自由に書いてる小説だけど、誤植というより著者自身の誤記というか誤入力というか、ゲラチェックをちゃんとしていないのではないか。
たとえば同音異義の漢字変換でボケてみたり、助詞を抜いたりというのはわかる。しかしそうした小説的効果を狙ったものとは違う、単なる「書き間違い」がそのまま放置されている気がしてならない。もうそういう細かいところは気にしない、という境地にまで達したのかな。
なんでも、雑誌か何かに連載していたものに加えて、最後の5章、6章を書き下ろした、とあるので、スケジュール的にチェックが甘くなったのかな。
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ますます冴えわたる町田節。
でもこの魅了を人に伝えるのはなかなか難しい。
途中、アホらしくても、「ふざけんな!」と思っても、どうか最後まで読んでほしい。
教訓も救済もないが、不思議な心の平安が訪れるから。
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ムーンライトながらでよくこれだけ語れるな~と、校正校閲の人おつかれさま…という気持ちだけが残った。愉快ではあった。